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光街 葵
232
#ヒュース・クローニン
さんま
14
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肌を刺すような視線。
ねっとりとまとわりつく悪意。
あるいは、無遠慮に向けられる哀れみや好奇心。
それらすべてが、目に見えない無数の針となって影浦雅人の全身に突き刺さっていた。
「チッ……」
舌打ちひとつでそれらを振り払えるなら、どれほど楽だっただろう。影浦の持つ副作用_感情受信体質は、周囲の人間が自分に向ける感情を、文字通り肌の感覚として受け取ってしまう。特にトゲのある感情は、鋭い痛みとなって彼の肉体と精神を削り取っていく。
今日の昼間は最悪だった。遠征選抜試験を控えた警戒区域外の街は、いつも以上にピリピリとした空気で満ちていた。さらに、すれ違うボーダー隊員たちの焦り、嫉妬、品定めするような視線が、容赦なく影浦の肌を切り裂いた。実家のお好み焼き屋を手伝っているときも、客たちの雑多な感情の渦に当てられ、生きた心地がしなかった。
限界だった。
限界を迎えた影浦が、足の向くままにたどり着いたのは、自分の部屋ではなく、見慣れたマンションの一室の前だった。インターホンを押す気力すら湧かない。影浦は、あらかじめ渡されている合鍵をポケットから引っ張り出し、震える指先で鍵穴に差し込んだ。
ガ チャリ、と重い金属音が響き、ドアを開ける。
玄関に入り、すぐに内側から鍵を閉め、ドアチェーンをかけた。まるで、外の世界に溢れる無数の感情の針から、必死に逃げ隠れるように。
「お、カゲ。いらっしゃい。連絡ないからびっくりしたよ」
廊下の奥、リビングの扉が開いて、のっそりとした大柄な人影が現れた。影浦隊のガンナーであり、影浦がもっとも信頼を寄せる男_北添尋だ。北添は、よれよれの Tシャツにスウェットパンツという、いかにも部屋着といった格好で佇んでいた。その顔には、突然の来訪者に対する怒りも、面倒くさがる気配も一切ない。ただ、影浦の青白い顔と、異常なほどに強張った肩を見て、すべてを察したように細い目をさらに和らげた。
「……わりぃ。勝手に入った」
「いいって。カゲの鍵なんだから、いつ使ってもいいよ。……今日もキツかったんだね」
北添の体から発せられる感情は、いつだって驚くほどに穏やかだ。広くて、深くて、温かい。波ひとつ立たない春の海のような感情。それは、影浦の副作用の網に引っかかっても、一切の痛みを伴わない。それどころか、傷ついた肌を優しく包み込んでくれる、唯一の救いだった。
「ゾエ……、全部閉めろ」
「うん、わかった。ちょっと待っててね」
影浦が吐き出すような声で呟くと、北添はすぐに動き出した。リビングに入り、ベランダへと続く大きな窓の鍵が閉まっていることを確認する。さらに、遮光性の高い厚手のカーテンを、隙間なくきっちりと閉めた。
外の街灯の光も、遠くを通る車の音も、そして壁の向こうにいるかもしれない他人の気配も、すべてを遮断するように。北添は、この部屋という空間に蓋をしていった。
その間に、影浦はリビングのソファに泥のように崩れ落ちた。靴を脱ぎ捨て、上着も剥ぎ取るようにして床に落とす。頭を抱え込み、ソファのクッションに顔を埋めた。
まだ痛い。
昼間に浴びた感情の残滓が、肌の奥でチクチクと燻っている。呼吸が浅くなる影浦の隣に、ずしりと重い気配が近づいてきた。ソファが大きく沈み込む。
「カゲ、おいで」
北添が大きな手を伸ばし、影浦の頭を優しく引き寄せた。影浦は抵抗しなかった。むしろ、自ら進んで北添の広い胸の中に顔を埋めた。北添の大きな体が、影浦を包み込む。彼の Tシャツからは、いつも使っている柔軟剤の、少し甘くて落ち着く匂いがした。
「大丈夫、大丈夫。ここには誰もいないよ」
北添の手が、影浦の背中を大きなストロークでゆっくりと撫でる。その瞬間、影浦の副作用が捉える世界が、劇的に変化した。外の世界から響いていた不協和音が消え去り、北添の持つ”ただカゲを慈しみ、守りたい”という純粋で、害のない感情だけが、部屋を満たしていく。北添の感情は、影浦にとっての絶対的なシェルターだった。彼に向けられる北添の想いには、下心も、恐れも、憐れみもない。ただ「ここにいていいよ」という、無条件の肯定だけがそこにあった。
「あいつら……どいつもこいつも、頭ん中ぐちゃぐちゃしやがって……。胸クソ悪い感情ばっか、ぶつけてきやがる……」
「うん、大変だったね。カゲはよく頑張ったよ」
「俺は、ただ普通にいたいだけなのに……、なんでアイツらのゴミみたいな気持ちまで、俺が背負わされなきゃいけねぇんだよ……」
普段は決して口にしない弱音が、北添の腕の中では、堰を切ったように溢れ出てくる。影浦は北添の Tシャツを強く握りしめた。指先が白くなるほどに力を込める。北添は、その言葉を遮ることも、安易なアドバイスで返すこともしなかった。ただ、影浦の怒りと悲しみをすべて受け止めるように、背中を撫で続けた。
「いいよ、全部ここに置いていきな。ゾエさんが全部、蓋をして隠してあげるから」
北添の声は、低くて、心地よく鼓膜を震わせる。その言葉通り、北添の感情の波が、影浦の肌にこびりついていたトゲを、ひとつ、またひとつと溶かしていくようだった。次第に、影浦の荒かった呼吸が整っていく。強張っていた体から、じわじわと力が抜けていく。
「……ゾエ、おめー、なんでいつもそんなに変な感情になんねぇの」
「ん?どうだろうねぇ。ゾエさん、のんびりしてるからさ。カゲのことが大好きだし、カゲが笑っててくれたらそれが一番だし」
さらりと、北添はとんでもなく重くて温かい言葉を口にする。副作用も通して伝わってくるその言葉には、一ミリの嘘偽りもなかった。本気で、心からそう思っていることが伝わってくるからこそ、影浦の胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……ばーか。気安く大好きとか言うな」
「あはは、照れちゃって。でも本当のことだからね」
北添の胸に顔を埋めたまま、影浦は小さく口角を上げた。昼間の地獄のような時間が、まるで遠い過去の出来事のように思えてくる。この部屋の、このソファの、北添の腕の中だけが、世界で唯一、影浦が息を吸える場所だった。
静寂が部屋を支配する。聞こえるのは、壁の時計が刻む規則正しいカチコチという音と、二人の静かな呼吸音だけ。外の世界では、まだ多くの人間が動き、様々な感情を撒き散らしているのだろう。けれど、この部屋の頑丈な蓋は、それらを一切通さない。
安心感が限界を超えた疲労を呼び起こし、影浦の瞼が急激に重くなってきた。北添の心地よい体温と、絶え間なく注がれる優しい感情の毛布に包まれて、意識が微睡みの中へと沈んでいく。
「カゲ、眠くなってきた?」
「……ん……。うるせぇ……」
「ふふ、じゃあ、ちゃんとベッドで寝ようか。それとも、このままここで寝ちゃう?」
「……動くの、めんどい……。このまま……」
影浦の声は、もうほとんど掠れていた。北添は「しょうがないなぁ」と苦笑しながらも、ソファの背もたれに立てかけてあった毛布を引き寄せ、影浦の体にそっと掛けた。そして、自分も影浦を抱きつぶすような形で、ソファに深く体重を預ける。
「カゲ」
「……あ?」
「おやすみ。明日は、きっといい日になるよ」
北添の、包み込むような「おやすみ」の言葉。それは、今日という最悪な一日に完全に蓋をし、明日という新しい時間を静かに待つための、優しい呪文のようだった。その言葉を合図にするように、影浦は完全に思考を手放した。外の世界のノイズから完全に守られた、二人だけの静かな夜の中で、影浦は深く、深い眠りへと落ちていった。
コメント
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うわ、これめっちゃ良かった……! 感情受信体質って設定がもう刺さるし、北添の「全部ここに置いていきな」って台詞に完全にやられたわ。外の世界のノイズから逃げ込む場所が、ただの部屋じゃなくて北添の感情そのものなのが尊すぎる。おやすみの一言で今日に蓋をするラスト、じんわり染みた。続きも読みたい🔥