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昼休みにお弁当を食べ終えた百子は、まだ休憩時間にも関わらず休憩室を出た。金曜日なので何かと処理したい仕事が多いのだ。月曜日に仕事が溜まっている方がストレスを感じるため、面倒な仕事はさっさと片付けるに限る。
(昨日は楽しかったな)
陽翔と二人でランチを食べに行ったり、百貨店で催されている絵画の展示会に立ち寄ってみたりと、楽しいデートになったのだ。そして夜には彼と愛を深め、充実した休日になった。昼の陽翔と、夜の陽翔を思い出すだけで頬が緩んでしまう。彼と過ごす時間は、燃え上がるような激しいものでは無かったのだが、穏やかで優しく、安心できるのだ。そう思えることが、百子は何よりも嬉しかった。
「あ、茨城先輩、お久しぶりです」
聞き覚えのある声がして、百子はピタリと足を止める。振り向く時に表情が強張っていないか、そればかりが気掛かりだった。先程の幸せな気分もいつの間しか消し飛んでいる。
「……え? もしかして木嶋さん? 久しぶりね。元気にしてた?」
「はい、お陰様で……あの、聞きたいことがあるのですが……」
百子はその場から逃げ出したいのをぐっと堪え、笑顔で彼女と話し始める。最初こそ彼女は仕事で分からないことを聞いていたが、段々と結婚や恋愛の話になってしまい、百子は次第に苛々してきた。
「先輩は結婚とかしないんですか?」
百子は自分の内心を告げようと思ったのだが、その一言で眉を顰めそうになった。
「……今は考えてないわね。仕事が忙しくてそれどころじゃないし」
「そうですか……茨城先輩ってモテそうな見た目してるのに、なんで彼氏いないんでしょうね? 彼氏いても先輩って、あんまり彼氏のこと構ってなくて疎遠になりそうですもんね」
百子は僅かにこめかみをピクリとさせる。他の人から言われても聞き流せるのだが、百子は木嶋にだけは言われたくなかった。
「ええ、そうね。そんなこともあったわね。私の事情を言い当ててすごいわ。まるで私のことを見ていたみたい」
打って変わって自分でも驚くほど、カミソリの刃のように酷薄な声が出てしまう。百子のそんな反応を予測していなかったのか、木嶋が息を呑む気配がした。
(図星、かしら)
「そうそう。素敵な下着だったわ。古いのを捨ててくれてありがとう。 処分する手間が省けて助かったわ」
木嶋こそ、元彼である弘樹の浮気相手だと百子は確信していたのだ。
「あの、先輩……何の話をしてますか?」
しかし木嶋はきょとんと首を傾げるのみだ。どうやら白を切るつもりらしい。百子はその様子を見て、何故かすっと心が冷えてしまい、その口元に笑みを浮かべる。
「そう。貴女じゃないのね。良かった」
木嶋はどこかホッとしたような表情になったが、その口元は僅かに歪んでいた。
「先輩、自分がモテない腹いせか何か知りませんが、勘弁して下さいよー。びっくりするじゃないですか。先輩そんな風に人をからかう人でしたっけ? でも私は先輩のこと、応援してますよ。きっと素敵な彼氏が見つかりますって!」
言葉だけを聞くとあっけらかんとしているが、百子はその言葉に隠れた棘を感じてしまう。それに刺されて言い返せば木嶋の思う壺だ。まさか後輩に会って駆け引きをする羽目になるとは思わなかった。とはいえ、本人と鉢合わせたのはある意味僥倖かもしれない。百子は今すぐ木嶋から逃げたい気持ちを抑えて、再びにっこりとして、声音もなるべく爽やかになるように努めた。
「木嶋さん、じゃあ今から独り言を言うけど、あの人をもらってくれてありがとう。本当は熨斗つけて送りつけたいくらい嬉しいの。貴女がいてくれて助かったわ。同棲して2ヶ月で浮気するような人なんだもの。貴女に靡いてくれてどれだけ嬉しかったか」
木嶋の顔がみるみる強張っていくのを見て、今度は百子が首を傾げる。百子は彼女が青ざめていく理由が本気で分からなかった。木嶋が口をわななかせているので百子は腕時計に目を落とし、昼休みが後5分ほどしか無いことに気づいて、ほんのりとムスクの香りを漂わせる彼女の側を通り過ぎてデスクに向かう。しかし言い残したことを思い出した百子は一度足を止め、木嶋を振り返る。彼女は何故か顔を真っ赤にして、心なしか握ったその拳が震えているように百子には見えた。
「そうそう、飽きられないように応援してるわ、木嶋さん。貴女なら大丈夫よ」
百子の言葉が終わるか終わらないかのうちに、木嶋は身を翻して、その背中を段々と遠ざけていった。木嶋に思っていたことをそのままぶつけた百子は、木嶋に話しかけられて鬱々としていた気持ちが、まるで霧が一斉に払われたような心地になる。
(……でもちょっと言い過ぎたかしらね)
木嶋の空とぼけた振りに反応し、言葉を選ばずに怒りを喚き散らしそうになったのも事実だ。だがそれはしてはいけないと頭の片隅で警鐘が鳴ったのである。そしてその警鐘の忠告は正しかった。あの場で憤って声音を荒らげていたら、仲裁に入る人間もいるかもしれないし、そうなったら先輩である百子に非難が集中してしまうだろう。会社では立場が上の者が怒れば負けてしまうのだ。
(そうだ、早く仕事に行かないと!)
百子が小走りでデスクの前に座ったのと同時に、卓上の時計が始業時間を告げた。