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夕食時に今度美術館へ行くことを明さんに話した。
「君が美術館へ?そういうの興味あったの?アートスクールも付き合いだからと言ってたからてっきり」
「最初はそうだったんだけどだんだん面白くなって。それに一華が自分の個展に生徒の作品も一緒に出すっていうから」
「じゃあ君の作品も展覧されるの?」
「そうなの。いまそれで私も作品を作ってるのだけど、だったら他の絵画とかを見に行った方が良いって一華がチケットくれたの。だから平日の空いている時間に行こうかなって」
「小川さんが」
「どうかした?」
「いや」
「それにしても君の作品が個展に置かれるなんて凄いな」
「でしょう。私もびっくりしちゃった。でも人目に触れる以上はちゃんとした作品にしたいし」
「頑張りなよ!小川さんの個展、二人で一緒に行こう。君の作品楽しみにしているよ」
「ありがとう!明さん」
私は、明さんに浩平と一緒に行くことを言わなかった。
美術館に行く当日。
村重先生との待ち合わせは美術館の正面。
待ち合わせ時間に10分も遅刻してしまった。
LINEで少し遅れることは伝えてあるけど気が急くのは止まらない。
私が美術館というものに行くのはこれで二度目だ。
一度目は中学時代。一華の作品が展覧されているのを見に行ったとき。
それ以来になる。
美術館に着くと、その外観に感嘆した。
ガラス張りの壁面が太陽に光を反射して、建物全体が煌めくように見える。
正面玄関は幾何学模様に飾られた洗練された印象。
周囲は緑に囲まれていて、都会の喧騒とは切り離されたような空間は静寂に包まれているようだ。
その幾何学模様で飾られた正面玄関の脇に村重先生の姿を認めた私は駆け出した。
「ごめんなさい!遅くなりました!」
「いいんですよ。僕も今さっき来たところですから」
先生は笑いながら言うが、待たせてしまったことに変わりはない。
「村重先生、本当にすみません。早めには出たんですけど迷っちゃって……」
「本当に待ってませんから気にしないでください橋本さん」
「でも」
「さあ、行きましょう。それから今日はスクールでないし、先生も敬語も使わないでください」
「でも、そういうわけには」
「僕もその方が気分的に楽なんです」
村重先生がそう言って笑顔を向けたとき、私の中でなにか弾けたように感じた。
「ほんと?実は私も。ほんとはこういう方が楽」
村重先生は私のくだけた口調に少しばかり驚いたみたいだった。
「でも先生って呼ばないならなんて呼ぼうか……村重さん…村重君……」
「そこまで気にしないでください。名前でもなんでも呼びやすいのでいいですから」
「じゃあ浩平君だ!いこっ!浩平君!」
笑顔を向けると、私は浩平君の前を歩き出した。
「美術館に来るのは二回目だけど、こうして観ていると私でも見覚えのある絵があるのね」
「有名な絵は学校の教科書から、週刊誌にも載ることがありますからね」
「あっ。種まき」
「えっ」
「素敵な絵。私、この絵は知ってるの……前に本で見て以来、気に入ってて……なんていうか生きる力強さを感じる……」
「これはミレーの「種をまく人」です。橋本さんはミレーの絵が好きなんですか?」
「というより、この絵が好きの。私も種をまいて育てるのが好きなので……まあ、家庭菜園だけど」
「橋本さんは家庭菜園をされているのですか?」
「ええ。中学の時から。なんか没頭できて、余計なものを遮断できるの」
「そうなんですか……凄いな」
「浩平君や一華も絵や彫刻をやっているときはそんなんじゃない?」
「僕は雑念ばかりですよ。描きながらも、ふと些細なことを気にしたり」
「そう……」
創作上の悩みは私にはなんともできない。
力になれないことを残念に思った。
労わるような目を向けたときに見つめ合うような形になった。
浩平君は若干慌てたように視線を逸らす。
そんな様子を見て自然と笑みがこぼれた。
半分ほど回ると館内の喫茶室で休憩した。
窓際の席に座った私たちは絵について話していた。
まあ、話すと言うよりは、私の方が一方的に質問して浩平君が教えてくれるという形だけど。
丁寧に教えてくれる浩平君を見て、純粋に美術が好きなんだと感じた。
そして彼に内包されている、純粋故の危うさも
「そうだ。ミレーで思い出したんですけど、一華先生もミレーの絵が好きと言ってました」
「一華が?私と同じ?」
「いえ。千尋さんが好きな絵を描いたのはジャン・フランソワ・ミレーです。一華先生が好きなのはジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアという絵です」
「一華の好きな絵はどんな絵?」
「これです」
浩平君がスマホの画面を見せる。
私はスマホを手に取りまじまじと見た。
この絵がどういうものなのか浩平君は教えてくれた。
水に浮かぶ女性の静謐で、どこか悲しみをたたえた顔。
背景の色鮮やかな花。
花の色彩が鮮やかな分、女性の悲しみが強く伝わってくる。
「とっても美しくて儚くて悲しい絵……一華らしい」
感嘆したように息を漏らすと、浩平君にスマホを返した。
美術館を出てから浩平君は私を最寄りの駅まで送ってくれた。
私たちは駅までの道を話しながら歩いた。
駅に着き、別れるというときに浩平君が「橋本さんはどんな映画が好きですか?」と、聞いてきた。
「私はアクション系かな。ほら、ああいうのって退屈しないじゃない」
「ああ、それなら今ちょうどいいのがやってるんですよ。良かったら今度一緒に観に行きませんか?」
「えっ、私と?」
「はい。迷惑でなければですけど」
「迷惑なんて…… 迷惑ではないけれど」
わたしはどうしようか迷った。そして迷った挙句に――
「LINEします。予定とかいろいろ考えないといけないし、今ここではわからないから」と、返した。
連絡先はこの前ファミレスに行ったときに交換したけど、今回はスクールの作品制作の延長だから良かったけど、全く個人的なデートとなるとどうしよう?
私の口調からどこか迷いを感じたのか、浩平君は「じゃあLINE待ってます」と、笑顔で言った。
私は改札に入ってから電車に乗っている間、一人でいろいろ考えた。
浩平君は良い人だし、会っていて苦になるものはない。
それは今日もそうだった。
でもこれ以上というのはどうしたらいいのか。
スクールでも顔を合わせるし、変に気まずくなるのも嫌だし、かといって誰かに相談できるようなものでもない。
果歩になら普通は相談できそうだが、今は愛のことがあるし、彼女にそんなお気楽な話をする気にはならない。
下島さんと斉藤さんは良いお友達だけど、スクールの生徒というのが今回のことを相談するに憚られた。
なんといっても浩平君は、そのスクールの講師なのだから、二人は近すぎる。
そうだ。一華になら相談できる。
一華はスクールの責任者で、下島さんたちと同様にスクールに近い存在だけど、私と浩平をよく知る唯一の人間だ。
それに浩平と美術館に行くように勧めたのも一華だし。
どうも一華しかいないという結論になった。