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『海外へ行く俺を送り出す恋人、俺だけが離れたくないと思っていた』~d×n~
side涼太
辞令の内示を受けたのは九月の最初の金曜日だった。
会議室に呼ばれて部長から一枚の紙を渡された。
シンガポール拠点新規複合施設プロジェクト設計担当。
期間は一年。
文字を目で追うあいだ自分の心臓の音がやけに大きく聞こえていた。
「おめでとう。宮舘、ずっと希望出してたもんな」
部長にそう言われて俺はようやく頭を下げた。
入社してから海外の現場に立つのがずっと目標だった。
社内公募には一度見送った年もある。
今回は応募書類を書く段階から翔太に何度も相談していた。
ポートフォリオの順番を一緒に悩んでくれたのも面接の前の晩に背中を叩いてくれたのも翔太だった。
会社を出てすぐにスマホを取り出してそれからまたポケットにしまった。
メッセージで済ませたくなかった。
こういう知らせは顔を見て言いたい。
翔太が一番に喜んでくれることを俺は知っていたから。
電車の窓に映る自分の顔は少し笑っていて少し強張っていた。
嬉しいのは本当だった。
でも同じくらいの重さで胸の奥に別のものが沈んでいた。
一年。
三百六十五日あの部屋に帰らない。
翔太の「おかえり」を画面越しにしか聞けない。
そんなことを考えている自分に気づいて俺は小さく首を振った。
決まったばかりの夢に最初に影を落とすのが自分だなんて格好がつかない。
マンションのドアを開けると出汁の匂いがした。
玄関には翔太のスニーカーがかかとを揃えて置いてある。
今日は撮影が午前で終わる日だと言っていた。
「おかえりー」
キッチンのほうから間延びした声が飛んでくる。
「ただいま」
靴を脱いでリビングに入ると翔太がエプロン姿のまま菜箸を持って振り返った。
目が合った瞬間翔太の顔から笑みがすっと消える。
俺の顔をじっと見ている。
何かを読み取ろうとしている顔だった。
「……涼太」
「うん」
「今日結果出る日だったよね」
「うん」
「どうだった?」
菜箸を持つ手がほんの少し震えていた。
俺は鞄を床に置いてひとつ息を吸った。
「決まったよ。シンガポール。一年」
言い終わるより先に翔太が菜箸を放り出していた。
カランと床に転がる音がして次の瞬間には俺の体に翔太がぶつかってきていた。
勢いに押されて一歩うしろによろける。
首に回った腕がぎゅっと締まる。
「よかったねぇ……!」
耳元で翔太の声が弾けた。
「涼太、ずっと頑張ってたもんな。よかった。本当によかったぁ」
「……うん。ありがとね」
「すごいよ。涼太、本当すごい」
何度も何度もすごいと言われた。
エプロンから醤油と生姜の匂いがした。
俺は翔太の背中に腕を回してそのまま抱きしめ返した。
誰に言われるよりもその声がいちばん嬉しかった。
部長の言葉も同期から届いたメッセージも全部この一言のための前置きだったような気がした。
しばらくそうしていた。
翔太はなかなか離れなかった。
俺の肩に顔を埋めたままときどき「よかったなぁ」と小さく繰り返していた。
それだけ喜んでくれているのだとそのときの俺は思っていた。
食卓には俺の好きなものばかりが並んでいた。
生姜焼きだし巻き卵具がごろごろ入った豚汁それから明太子のポテトサラダ。
冷蔵庫からはちょっといいビールまで出てきた。
「これ、決まってなかったらどうするつもりだったの」
「そのときは残念会だよ」
翔太はけろっと答えて缶のプルタブを開けた。
「どっちでも涼太の好きなもん食べてほしかったから」
そう言って笑う翔太の顔を見ていたら喉の奥が少し熱くなった。
誤魔化すみたいに生姜焼きを口に入れる。
いつもの味だった。
甘めのタレに生姜がしっかり効いている。
向こうに行ったらしばらくこの味は食べられない。
そう思ったら急に箸が進まなくなった。
「どしたの、涼太。おいしくない?」
「おいしいよ。めちゃくちゃおいしいよ」
「じゃあ、なんでそんな顔してんの」
「……一年これ食べられないんだよね」
翔太は一瞬きょとんとしてそれから吹き出した。
「なんだそれ。レシピ送ってあげるよ」
「翔太が作るからいいんだよ」
「じゃあ、帰ってきたら一番に作ってあげるよ」
当たり前みたいにそう言われて俺はうなずくしかなかった。
食事のあいだ話は自然とこれからのことになった。
出発は十一月の終わり。
向こうでは会社が用意したサービスアパートメントに住むこと。
時差は一時間しかないこと。
それから翔太のこと。
翔太には翔太の仕事がある。
翔太は行かないでとは一度も言わなかった。
だから離れて暮らすことは二人で決めたことだった。
「一年って長いよね」
ビールを半分ほど空けた頃俺はぽつりとこぼした。
言うつもりはなかった。
祝ってもらっている席で言うことじゃないのは分かっていた。
翔太は缶をテーブルに置いて俺のほうを見た。
それからいつもの顔で笑った。
「大丈夫だって。会いにも行くし、今は顔見て話せるしね」
あまりにもあっさりした声だった。
それで肩の力がふっと抜けた。
そうかと思った。
大丈夫なんだ。
翔太がそう言うならきっと大丈夫なんだろう。
「そうだよね」
「そうだよ。一年なんてあっという間だって」
「翔太が言うとほんとにそんな気がしてくるね」
「でしょ?」
得意げに胸を張る翔太につられて俺も笑った。
その夜食器を洗い終えたあとで翔太がもう一度うしろから抱きついてきた。
腰に回された腕はさっきと同じくらい強かった。
「なに、どうしたの」
「んー?おめでとうのおかわりだよ」
「なにそれ」
笑いながら俺は腕の上に自分の手を重ねた。
翔太はしばらく何も言わなかった。
背中に額を押しつけたままじっとしていた。
俺が蛇口を閉めて手を拭いてそれでもまだ離れなかった。
あとになって何度もこの夜のことを思い出した。
あのとき翔太の腕はなかなかほどけなかった。
その理由をそのときの俺は考えもしなかった。
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おまけ小説☆R-18『一年ぶりに帰ったら、恋人が俺の居場所を全部残してくれていた』
本編とはひと味違う、特別な一篇。↓
「おかえり、涼太」
一年間スマホのスピーカー越しに何百回も聞いた言葉だった。
同じ声のはずだった。
なのにまるで違った。
音が耳からじゃなく胸の真ん中に直接落ちてきた。
「……ただいま」
声が震えた。
もう一回言おうとして言葉にならなかった。
俺はスーツケースを廊下に置き去りにしたまま玄関に踏み込んで翔太を抱きしめた。
背中でドアが重たい音を立てて閉まった。
上がり框の段差のせいで翔太の顔がいつもより少しだけ高い位置にあった。
翔太は俺の頭を両腕で抱え込むようにして抱きしめ返した。
「おかえり。おかえり、涼太」
「うん、ただいま。ただいま翔太」
「おかえり……っ」
二人で同じ言葉ばかり繰り返した。
バカみたいだと思った。
それでも止められなかった。
一年分のおかえりとただいまを今日ここで全部言い合わなければ気が済まなかった。
しばらくしてようやく腕をゆるめたとき足元の靴箱が目に入った。
扉が少しだけ開いていて俺の段に見慣れたスニーカーと革靴が並んでいた。
押し入れの上の段にしまわれていたはずの靴だった。
「……これも出しといてくれたの」
「昨日な。全部」
翔太は照れくさそうに鼻をこすった。
「冬物もクローゼットに戻したし洗面所のカゴのやつも元の棚に戻した。涼太のもの、全部元の場所に帰ってきてるんだよ」
※最初から最後まで甘く、濃く、容赦なく。読み応えたっぷりのR-18作品となっております。
コメント
1件
読ませていただきました……。涼太さんの嬉しさと、翔太さんの「行かないで」を言わない優しさの、その体温差に胸がぎゅっとなりました。特に、菜箸を震わせていた手や、なかなか離れなかった抱擁の描写が繊細で。おまけの帰国シーンも含めて、伏線の回収にじんわりきました。一年分の「おかえり」と「ただいま」がこんなに重くて温かいなんて……続き、すごく気になります🌷