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37
桃水
「——見て、こさめ。こさめに似合いそうな花を見つけたんだ」
俺は、腕いっぱいに抱えた白い百合の花束をベッドに広げた。その中心で、こさめは眩しそうに目を細め、透き通った羽を小さく震わせる。俺はその光景に、神に祈るような心地で跪いた。
「綺麗だねっ、らんくん。でも、こんなにたくさん……」
「足りないくらいだよ。こさめの美しさに比べれば、地上の花なんてどれも霞んじゃうよ」
俺はこさめの細い指先をとり、壊れ物を扱うように唇を寄せる。
生まれつき、俺の周りには常に、死の匂いが漂っていた。他人の終わりが見えてしまう呪われた俺の人生に、ある日、空から光が降ってきた。それがこさめだった。
彼が俺の隣にいてくれるだけで、どろりとした死の気配は霧散し、俺は初めて、生きているという実感を噛み締めることができた。だからこそ、俺は彼を崇拝した。俺の財産も、時間も、心も、すべてをこの美しい天使の足元に捧げることが、俺の唯一の生きる意味になっていた。
それからの毎日は、蜜のように甘く、穏やかだった。
俺は朝、彼が目を覚ます前にキッチンに立ち、彼が好む甘い香りの紅茶を淹れる。彼が羽を休めるための特注のシルクのソファを買い、夜は彼が寒くないよう、俺の体温ですべてを包み込んだ。
「ねぇ、こさめ。君が望むなら、俺はどこへだって行くし、何だって差し出すよ」
「ふふっ、こさめはただ、こうしてらんくんの隣にいたいだけだよ。らんくんの魂は、本当に温かくて心地いいから」
こさめが俺の首筋に腕を回し、甘えたように喉を鳴らす。その重みが、俺にとっては最高の幸福だった。
彼は時折、俺の心臓の音を確かめるように胸に耳を当てる。俺はそれを、俺の命を慈しんでくれているのだと思い込み、狂おしいほどの愛しさを募らせた。
「ずっと、こうしていようね」
「うん、もちろん。最高の時が来るまで、ずーっと一緒だよ? 」
彼のその言葉に、俺は永遠の愛を幻視していた。
交際一周年を祝う、特別な夕暮れ。
俺は彼のために、街で一番高い場所にあるレストランを予約した。そこから見える夜景も、きっと彼という光の前では脇役に過ぎないだろう。
「行こう、こさめ。今日はこさめを、世界で一番幸せにするから」
「楽しみ、ありがとう 、らんくん」
幸せの絶頂にいた俺は、繋いだ手の温もりに溺れ、背後に迫る真実に全く気づいていなかった。
横断歩道を渡る途中、けたたましいタイヤの悲鳴が静寂を切り裂いた。制御を失ったトラックが、夕闇を切り裂いて俺たちの方へ突っ込んでくる。
その瞬間、俺の脳裏をよぎったのは、自分の命ではなく、こさめのことを汚したくないという一途な願いだった。
「逃げて、こさめっ…!」
俺は渾身の力で彼を突き飛ばした。自分の身体が鉄の塊に弾かれる衝撃さえ、彼を救えたという歓喜でかき消せる気がしていた。
鈍い音。視界が急速に反転し、アスファルトの冷たさが全身を襲う。
肺から空気が漏れ、口内には鉄の味が広がった。死の匂い——俺がずっと忌み嫌ってきたその匂いが、今、自分自身の身体から猛烈に立ち上っている。
(あぁ……こさめ、無事でよかった……)
霞む視界の中で、俺は愛しい彼の姿を探した。泣き崩れているだろうか。俺の名を叫んでいるだろうか。
だが、そこにいたのは、俺が溺愛した天使ではなかった。
こさめは、立っていた。
突き飛ばされた場所から一歩も動かず、埃ひとつついていない完璧な姿で、ただ血に濡れた俺をただずっと見ていた。
その背中の白い羽が、毛先からじわりと黒く染まっていく。まるで美しい偽装を剥ぎ取るように、それは一瞬にして、夜の闇よりも深い漆黒の翼へと変貌した。
「……ぁ゛?、……こさ、…め……?」
俺の喉から漏れたのは、言葉にならない震えだった。
こさめが、一歩、また一歩と俺に歩み寄る。その手にはいつの間にか、身の丈ほどもある巨大な、禍々しい鎌が握られていた。
「——あはっ。ほんと馬鹿だね、らんくん。最後までこさめのために死のうとするなんて。おかげで最高に芳醇な絶望が抽出できたよ」
その声には、一年間俺が愛した温もりなど欠片もなかった。
彼は跪き、俺の頬を指先で冷淡に弾いた。それは愛した人を悼む手つきではなく、市場で肉の鮮度を確かめるような、無機質な品定めだった。
「勘違いしないでよね。こさめはらんくんを守ってたんじゃない。他の死神に、この特級品を横取りされないよーに、大切に管理してただけだもん」
こさめの瞳には、慈しみなど最初から存在しなかった。
俺を抱きしめた腕も、俺に注がれた微笑みも。すべては俺の魂を最も美しく、最も深く絶望させるために必要な、下ごしらえに過ぎなかったのだ。
「愛してた? そんなわけないよ。らんくんとの時間は、こさめにとってはただの餌付け作業だよ。でも、その甲斐あって、今、らんくんの魂は最高の香りがする。ね? らんくん」
こさめは恍惚とした表情を浮かべ、俺が捧げたすべての献身を嘲笑うように、巨大な鎌を振り上げた。
俺は、裏切られたという怒りさえ湧かないほどの虚無の中で、ただ、漆黒の羽を背負った「死神」の、冷徹なまでに美しい瞳を見つめていた。
一閃。
鎌が俺の胸を貫いた瞬間、俺は見た。
俺の魂を刈り取ったこさめが、俺の血で汚れた鎌を、美しい宝石でも眺めるような無関心さで磨き、そのまま次の獲物を探して、一度も振り返ることなく雑踏の中へ消えていく後ろ姿を。
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