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江戸×日帝
夜の庭園は静まり返っていた。
風に揺れる竹の音だけが、かすかに響く。
「……こんなところに呼び出すとは、趣味がいいな」
縁側に腰掛けていた「江戸」は、ゆっくりと顔を上げた。いつもの飄々とした笑みを浮かべながら、現れた人物を見つめる。
月明かりの中に立っていたのは「日帝」だった。
軍服に身を包み、背筋を伸ばし、まるで刃物のような緊張感をまとっている。
「無駄口はいい。用があるから来た」
「相変わらずつれないねぇ」
江戸はくすりと笑う。
「昔はもっと、柔らかい顔してた気がするんだが」
その言葉に、日帝の眉がわずかに動いた。
「……昔の話をするな」
「どうして?」
江戸は立ち上がり、ゆっくりと距離を詰める。
「お前が“それ”を捨てたつもりでも、俺は覚えてる」
足音が、やけに大きく響く。
日帝は一歩も動かない。
だが、視線だけがわずかに揺れた。
「——俺は、変わった」
「知ってるよ」
江戸は目の前まで来て、ふっと笑う。
「でもさ、“変わった”のと“消えた”のは違うだろ?」
静寂。
日帝の手が、わずかに握りしめられる。
「……触るな」
低く、押し殺した声。
だがその直後——
江戸の手が、彼の頬にそっと触れた。
「やっぱりな」
その声は、どこか優しかった。
日帝の呼吸が、一瞬だけ乱れる。
「……やめろ」
「やめない」
迷いのない返答だった。
「お前がどんな格好して、どんな名前名乗っててもさ」
江戸は少しだけ顔を近づける。
「“中身”までは消せねえよ」
日帝は、目を逸らそうとした。
けれど——できなかった。
月明かりの下、ふたりの距離はもうほとんどない。
「……っ」
わずかに震える息。
江戸はそれを見逃さない。
「なあ」
囁くように言う。
「そんな顔、他のやつにも見せてんの?」
日帝は、何も答えない。
ただ——
その代わりに、ぐっと江戸の胸元を掴んだ。
「……見せるわけがない」
低く、確かな声。
その言葉に、江戸は一瞬だけ目を見開き——
すぐに、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、俺だけか」
「……調子に乗るな」
そう言いながらも、手は離れない。
夜風が、静かに通り過ぎる。
過去も、立場も、名前も。
全部を飲み込むように——
ふたりは、ただそこに立っていた。
掴まれた胸元の布が、わずかにしわになる。
江戸はその手を見下ろして、ふっと息を漏らした。
「……離す気、なさそうだな」
「……黙れ」
日帝は顔を背けたまま言う。だが、その指先には力がこもったままだった。
強くもなく、弱くもない——ただ、逃がさないという意思だけが残る握り方。
江戸は少しだけ首を傾ける。
「そうやってるとさ」
「……何だ」
「昔と同じ顔してる」
その一言に、空気がぴんと張り詰めた。
日帝の手が、ぴくりと動く。
「……違う」
「どこが?」
即座に返されて、言葉が詰まる。
江戸はわざと逃がさないように、ゆっくりと問いを重ねる。
「強くなったのは認めるよ。冷たくもなった」
一歩、さらに近づく。
「でもさ」
声が低くなる。
「そうやって、誰かを離さない時の顔——変わってねえよ」
日帝は、何も言えなかった。
代わりに、ぐっと唇を噛む。
図星だった。
認めたくない部分ほど、的確に突かれている。
「……お前は」
やっと絞り出すように言う。
「なぜ、そんなに——」
言葉が続かない。
だが、江戸は察したように笑った。
「しつこい? それとも——怖い?」
「……」
沈黙。
それが答えだった。
江戸は少しだけ目を細める。
「安心しろよ」
掴まれていない方の手で、そっと日帝の手首に触れる。
逃がすためじゃない。
むしろ、その逆だった。
「逃げる気なんかねえから」
その言葉に、日帝の視線が揺れる。
「……なぜ」
「決まってんだろ」
江戸は、今度こそはっきりと距離を詰めた。
額が触れそうなほど近くで、静かに言う。
「お前が逃げられないなら、隣にいるしかねえじゃん」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
日帝の呼吸が、また浅くなる。
強さで塗り固めたはずの心に、ひびが入る。
「……私は」
かすれる声。
「お前の知っている“それ”ではない」
「いいや」
即答だった。
「どんな名前でも、どんな立場でも——」
江戸は、軽く額を寄せる。
逃げ場をなくすように。
「俺が見てるのは、お前だよ」
その瞬間。
日帝の手から、ふっと力が抜けた。
けれど——離れない。
むしろ、今度は自分から布を掴み直す。
「……勝手なことを言うな」
弱い否定。
けれど、拒絶ではなかった。
江戸は小さく笑う。
「今さらだろ?」
夜は、まだ終わらない。
過去も、名前も、すべて曖昧なまま。
それでもふたりは、少しだけ距離を縮めていた。
庭園を離れたあとも、日帝の足は止まらなかった。
夜の闇を切り裂くように、ただ前へ進む。
胸の奥が、ざわついていた。
江戸の言葉が、離れない。
——「俺が見てるのは、お前だよ」
「……くだらない」
吐き捨てるように呟く。
だが、その声はわずかに揺れていた。
感情は不要だ。
迷いは、弱さだ。
そう割り切ってきたはずなのに——
「……ならば」
足を止める。
冷たい風が吹き抜ける中、日帝はゆっくりと目を伏せた。
「別の“力”に頼るしかない」
その選択が何を意味するのか、理解していた。
それでも。
——揺らぐくらいなら、切り捨てる。
やがて、彼はひとつの扉の前に立つ。
重く、閉ざされた場所。
静かに、扉が開いた。
中にいたのは——鋭い視線を持つ男。
「……珍しい客だな」
低く、冷たい声。
「お前がここに来るとは思わなかった」
日帝は一歩、踏み込む。
「用がある」
「見ればわかる」
男はわずかに口元を歪めた。
「だが——“頼み事”の顔じゃないな」
沈黙。
日帝は数秒だけ迷い、そして言い切る。
「……力を借りたい」
空気が変わった。
その一言で、場の温度がさらに下がる。
男はゆっくりと立ち上がる。
「ほう」
興味を持ったように近づく。
「お前が、他者に頼るとはな」
日帝は目を逸らさない。
「必要だからだ」
「理由は?」
「……感情の排除だ」
その答えに、男は一瞬だけ沈黙し——
そして、くくっと低く笑った。
「なるほどな」
顔を覗き込むようにして、距離を詰める。
「“弱さ”を消したい、か」
日帝の眉がわずかに動く。
否定はしない。
できない。
「いいだろう」
あまりにもあっさりとした承諾。
「ただし——」
その声が、さらに低くなる。
「代償は払ってもらう」
日帝は一瞬だけ目を細める。
「……何を望む」
男はすぐには答えない。
ただ、意味深に笑うだけだった。
「その時が来たら、教えてやる」
逃げ場のない契約。
それでも、日帝は頷いた。
「構わない」
その選択が何を壊すのか——
まだ、知らないまま。
遠くで、風が鳴る。
まるで何かを警告するように。
そしてその頃。
庭園には、まだ一人の影が残っていた。
「……嫌な予感がするな」
江戸は空を見上げる。
月は、雲に隠れかけていた。
夜が、さらに深く沈んでいた。
重い扉が閉まる音が、静寂を切り裂く。
外に出た日帝は、わずかに息を吐いた。
胸のざわつきは——消えていない。
それどころか、別の“重さ”が加わったようだった。
「……これでいい」
自分に言い聞かせるように呟く。
迷いを断つための選択だ。
間違いのはずがない。
そう思った、その時——
「——その顔で、そう言うかよ」
背後から声がした。
振り返るより早く、日帝の目が細くなる。
「……来ると思っていた」
ゆっくりと振り向く。
そこにいたのは、やはり江戸だった。
さっきと同じ軽い格好のまま。けれど、表情はまるで違う。
笑っていない。
「隠し事、下手すぎ」
「尾けたのか」
「当たり前だろ」
江戸は数歩、距離を詰める。
「お前が“誰かに頼る”顔してた時点で、ろくなことじゃねえってわかる」
その言葉に、日帝の表情がわずかに硬くなる。
「……関係ない」
「あるね」
即答だった。
「俺にとってはな」
空気が、ぴりつく。
日帝は視線を逸らさないまま、冷たく言い放つ。
「これは私の問題だ。お前が口を出す筋合いはない」
「へえ」
江戸は一歩踏み込む。
「じゃあ聞くけど——今のそれ、“お前ひとりの問題”か?」
「……何が言いたい」
「その中、もう“他人の手”入ってんだろ」
鋭い指摘だった。
日帝の指先が、わずかに動く。
「契約したんだろ?」
沈黙。
それが答えだった。
江戸は小さく舌打ちする。
「やっぱりな」
そのまま、ぐっと距離を詰める。
今度は、逃がす気がない動きだった。
「取り消せ」
低く、強い声。
「今ならまだ間に合う」
日帝の目が、冷たく光る。
「……命令するな」
「命令じゃねえ」
江戸は睨み返す。
「止めてるんだよ」
「同じことだ」
「違う」
言葉がぶつかる。
互いに一歩も引かない。
風が強く吹き抜けた。
「お前さ」
江戸の声が、少しだけ低くなる。
「それで何捨てる気だ?」
「……」
「感情? 過去? それとも——」
一瞬、間を置く。
「“俺”か?」
その言葉で、時間が止まった。
日帝の呼吸が、わずかに乱れる。
ほんの一瞬だけ。
だが、それを江戸は見逃さない。
「図星かよ」
「……黙れ」
「黙らねえよ」
さらに一歩。
もう、目の前だった。
「逃げんな」
日帝の手が、反射的に江戸の胸を押す。
距離を取ろうとする——が。
江戸はびくともしない。
むしろ、その手首を掴んだ。
「——っ」
「そんな中途半端な覚悟で、全部切れると思うなよ」
低く、鋭い声。
日帝の目が揺れる。
「……私は」
言葉が詰まる。
だが、それでも絞り出す。
「弱くなるわけにはいかない」
その声は、必死だった。
江戸は一瞬だけ目を細める。
そして、少しだけ力を緩める。
「誰が弱いって言った」
「……」
「それ、“弱さ”じゃねえだろ」
静かな声。
けれど、重かった。
「お前が捨てようとしてんのは——ただの“お前”だ」
その言葉が、深く刺さる。
日帝の手から、力が抜けかける。
だが——
「……それでも」
かすれる声。
「私は、進まなければならない」
再び、意志が固まる。
「そのためなら、何でも使う」
冷たい決意。
さっきよりも、ずっと硬い。
江戸は、それを見て——
静かに息を吐いた。
「……そっか」
一歩、引く。
初めての後退だった。
「じゃあ、仕方ねえな」
そう言いながらも、目は笑っていない。
「力ずくでも止める」
空気が、一気に張り詰める。
日帝もまた、構えを崩さない。
「……できると思うか」
「やってみりゃわかる」
夜の静寂の中。
ふたりの間に、明確な“対立”が生まれる。
かつて繋いだ距離は——
今、刃のように鋭く変わっていた。
風が、鋭く吹き抜ける。
睨み合ったまま、どちらも動かない。
だが次の瞬間——
先に動いたのは江戸だった。
「っ!」
一気に踏み込み、日帝の腕を掴む。
「離せ——!」
日帝は振り払おうとするが、江戸は引かない。
そのまま強引に距離を詰める。
「逃げんなって言ってんだろ!」
「……っ!」
もつれ合うように体勢が崩れる。
足元が乱れ、日帝の身体がぐらりと傾いた。
その拍子に——
バサッ、と。
何かがほどける音がした。
「……?」
江戸の動きが、一瞬止まる。
視線が、無意識にそこへ落ちる。
乱れた襟元。崩れた装い。
そして——
これまで徹底的に隠されていた“違和感”。
「……お前」
低く、信じられないものを見るような声。
日帝の表情が、凍りつく。
「見るな!」
咄嗟に身を引こうとする。
だが、もう遅かった。
江戸の手が、無意識に強くなる。
「……嘘だろ」
息が、わずかに乱れる。
いつもの余裕は、完全に消えていた。
「……離せ」
日帝の声は、今までにないほど低く、切羽詰まっている。
「今すぐ忘れろ」
「無理に決まってんだろ!」
思わず声が荒くなる。
「なんだよそれ……なんで今まで——」
「関係ない!!」
鋭く遮る声。
空気が震える。
日帝の目が、はっきりとした怒りと——
恐れを帯びていた。
「これは“不要な情報”だ」
「は?」
「知る必要はない。知られる必要もない」
言い切る。
まるで、自分に言い聞かせるように。
江戸は、その顔を見て言葉を失う。
「……お前」
少しだけ、声が落ちる。
「それ、本気で言ってんのか」
「本気だ」
即答だった。
「私は“役割”だ。それ以上でも、それ以下でもない」
冷たい言葉。
だが、その奥にあるものは——明らかに揺れていた。
江戸はゆっくりと手を緩める。
今度は、無理に押さえつけない。
ただ、真正面から見る。
「……だから隠してたのか」
「……」
「全部?」
沈黙。
否定しない。
それが答えだった。
江戸は小さく息を吐く。
「バカじゃねえの」
その一言に、日帝の目が鋭くなる。
「……何だと」
「そんなもんで、お前が変わるかよ」
まっすぐな視線。
逃がさない。
「中身はずっと同じだったろ」
「違う」
「違わねえよ」
即座に返す。
「俺はずっと見てた」
その言葉に、日帝の呼吸が止まる。
「気づかなかっただけだ」
江戸は苦く笑う。
「でもな、今わかった」
一歩、近づく。
さっきとは違う距離の詰め方だった。
「だから何が変わる?」
静かな問い。
日帝は答えられない。
答えが、ない。
「……軽蔑するなら、すればいい」
やっと絞り出した言葉。
震えを押し殺した声。
「それで済む話だ」
江戸は、しばらく黙っていた。
そして——
「は?」
心底呆れたように言う。
「なんでそうなる」
「……」
「軽蔑?」
鼻で笑う。
「するわけねえだろ」
日帝の目が、はっきりと揺れる。
「むしろ——」
言いかけて、少しだけ言葉を止める。
だが、逃げない。
「やっとちゃんと見えた気がする」
その言葉は、予想外だった。
日帝は、何も言えない。
ただ、固まる。
「だから余計に」
江戸の声が低くなる。
「その契約、やめろ」
さっきよりも、ずっと強い言葉。
「それ全部ごと壊す気か?」
日帝の手が、わずかに震える。
「……関係ない」
弱い否定。
もう、さっきのような硬さはない。
「大ありだ」
江戸ははっきり言い切る。
「お前が何隠してようが、何背負ってようが——」
一歩、さらに近づく。
「消えていい理由にはならねえ」
その言葉が、深く突き刺さる。
日帝の視界が、わずかに揺れる。
強くあろうとしていたものが、崩れかける。
「……っ」
言葉が出ない。
代わりに、ただ江戸の服を掴む。
さっきと同じように。
けれど今度は——
明らかに、縋るような力だった。
江戸は、それを振り払わない。
ただ静かに受け止める。
夜は、張り詰めたまま続いていく。
けれどその中心で——
ふたりの距離だけが、大きく揺れていた。
掴んだままの布越しに、鼓動が伝わる気がした。
日帝の手は、わずかに震えている。
「……離せ」
かすれた声。
だがその指は、まったく離れる気配がない。
江戸は何も言わず、そのまま見下ろす。
「離せって言ってるだろ……」
もう一度。
さっきよりも弱い声。
矛盾していた。
言葉と、身体が。
江戸はゆっくりと口を開く。
「無理だな」
「……っ」
「その手で掴んでるの、お前だろ」
逃げ道を塞ぐような言い方だった。
日帝の肩が、びくりと揺れる。
沈黙。
風の音だけが通り過ぎる。
やがて——
「……わからない」
ぽつり、と。
落ちた言葉は、あまりにも小さかった。
江戸の目が、わずかに細くなる。
「何が」
返事は、すぐには来ない。
日帝は俯いたまま、言葉を探すように息を吐く。
「何を捨てればいいのか……」
指先に、さらに力がこもる。
「何を残せばいいのかも……わからない」
その声は、完全に崩れていた。
今まで必死に押し殺してきたものが、溢れ出している。
江戸は黙って聞く。
遮らない。
「強くなればいいと思った」
続く言葉は、止まらなかった。
「全部切り捨てれば、迷わないと……思った」
一瞬、言葉が詰まる。
「……なのに」
ぎゅっと、服を掴む力が強くなる。
「どうしても……消えない」
震えた声。
「お前が、邪魔をするからだ……」
責めるような言い方。
けれど、その実——
縋っているのが、はっきりわかる。
江戸は小さく息を吐いた。
「……ひでえ言いがかりだな」
わざと軽く返す。
だが、その声はどこか優しい。
日帝は顔を上げない。
「……近くにいると」
ぽつり、と続く。
「弱くなる」
「違うな」
即座に否定。
日帝の肩が、ぴくりと動く。
江戸は、ゆっくりとその手に自分の手を重ねる。
「それ、“弱い”んじゃねえよ」
低く、はっきりした声。
「我慢してただけだろ」
その一言で——
日帝の呼吸が、止まった。
「……っ」
言葉が出ない。
否定も、できない。
江戸はそのまま、少しだけ引き寄せる。
無理やりじゃない。
逃げれば逃げられる距離。
それでも、日帝は動かなかった。
「ずっと一人で背負って、勝手に削って」
静かに言う。
「それで残ったもんを“強さ”だと思ってた」
図星だった。
あまりにも。
日帝の指が、わずかに緩む。
「……違う」
弱い否定。
「違わねえよ」
重ねるように返す。
そして——
「そんなの、ただの限界だ」
その言葉で、何かが切れた。
「……っ、ぁ……」
声にならない息が漏れる。
肩が、小さく震える。
初めてだった。
ここまで崩れるのは。
「……私は……」
途切れ途切れの声。
「どうすればいい……」
完全な弱音だった。
命令でも、否定でもない。
ただの問い。
江戸は、少しだけ驚いた顔をして——
すぐに、柔らかく目を細めた。
「簡単だろ」
軽く言う。
けれど、その言葉はまっすぐだった。
「捨てんな」
「……」
「全部持ったままでいい」
日帝の目が、ゆっくりと見開かれる。
「そんなの……」
震える声。
「できるわけ……」
「できる」
被せるように言い切る。
「一人じゃ無理でもな」
そのまま、ぐっと引き寄せる。
今度は、はっきりと。
「隣にいるって言ったろ」
距離が、完全に消える。
日帝は抵抗しない。
できない。
「だから——」
耳元で、低く囁く。
「勝手に消えようとすんな」
その瞬間。
日帝の手が、完全に力を失い——
代わりに、ぎゅっと掴み直す。
さっきよりも、ずっと強く。
「……離れるな」
かすれた声。
命令の形をしているのに、中身はまるで違った。
江戸は、少しだけ笑う。
「最初からそのつもりだっての」
夜はまだ冷たい。
けれど、その中心だけは——
ほんの少し、温度が変わっていた。
「……離れるな」
その言葉が、まだ空気に残っていた。
日帝の手は、江戸の服を強く掴んだまま。
体温が、やけに近い。
「最初からそのつもりだっての」
江戸がそう返した——その直後だった。
——ぞわり、と。
空気が、歪んだ。
「……っ」
日帝の身体が、びくりと震える。
嫌な感覚だった。
さっきまでの冷たい夜とは違う、“底のない何か”が入り込んでくる。
「来たか」
低い声が、闇の奥から響く。
江戸の表情が、一瞬で変わる。
「……誰だ」
視線を向ける。
そこに、いつの間にか立っていた影。
気配すら感じさせず、ただ“現れた”存在。
「契約を交わしたはずだ」
その声は静かで——冷たかった。
日帝の指が、ぎゅっと強張る。
「……まだ早い」
「いいや」
即座に否定される。
「“兆し”は出ている」
ゆっくりと、影が近づく。
「感情の揺らぎ——それこそが対価の起点だ」
江戸が一歩、前に出る。
日帝を庇うように。
「勝手に話進めんな」
鋭く言い放つ。
「そいつに何する気だ」
影は、わずかに笑ったようだった。
「既に説明したはずだが?」
「聞いてねえよ」
「なら、今知ればいい」
足音が、やけに重く響く。
逃げ場がないように。
「対価は単純だ」
静かな声。
だが、確実に心を締めつける。
「“最も強く残っているもの”を削ぎ落とす」
日帝の呼吸が止まる。
江戸の眉が寄る。
「……は?」
「感情の排除を望んだのは、そちらだ」
淡々とした言葉。
「ならば、それを構成する核から消していく」
一歩、さらに近づく。
「今の状態で最も強い結びつきは——」
その視線が、ゆっくりと江戸へ向く。
「明白だな」
空気が凍る。
「ふざけんな」
江戸の声が低くなる。
「それを消すってか?」
「正確には」
わずかな間。
「“最初に壊す”」
その一言で——
日帝の手が、完全に震え出す。
「……やめろ」
かすれた声。
今までとは違う、はっきりとした恐怖。
「それは、条件に——」
「含まれている」
遮るように言われる。
「お前は“何でも使う”と言った」
冷酷な事実。
逃げ道は、ない。
「……っ」
日帝の指が、さらに強く江戸を掴む。
痛いほどに。
「離れろ」
今度は、さっきと逆だった。
「関係ない……これは、私の問題だ……」
声が震えている。
それでも、必死に押し出す。
「お前を巻き込む理由はない」
江戸は、一歩も動かない。
「あるだろ」
静かに言う。
「今さら何言ってんだ」
「……離れろ!」
ほとんど叫びに近い声。
だが、その手は——離さない。
矛盾。
崩壊。
影が、さらに近づく。
「時間だ」
その言葉と同時に——
空気が、裂けた。
「——っ!!」
日帝の身体が、びくんと跳ねる。
何かを“引き剥がされる”ような感覚。
息ができない。
視界が歪む。
「やめろっ!!」
江戸が、即座に日帝を引き寄せる。
腕の中に閉じ込めるように。
「触るな」
影の声が落ちる。
次の瞬間——
見えない力が、江戸を弾き飛ばした。
「——ぐっ!」
数歩、強制的に下がらされる。
それでも踏みとどまる。
「……っざけんなよ」
歯を食いしばる。
再び踏み込もうとするが——
「無駄だ」
冷たい声。
「これは既に始まっている」
日帝の身体が、崩れ落ちる。
「……あ……」
声にならない声。
頭の中で、何かが軋む。
思考が削られていくような感覚。
「やめろ……それだけは……」
震える声。
必死に、何かを守ろうとする。
だが——
「選べ」
影が、淡々と言う。
「そのまま削られるか」
一瞬の間。
「自ら、切り離すか」
残酷な二択だった。
日帝の目が、大きく揺れる。
視線が、江戸へ向く。
そこにいる。
確かに、いる。
「……っ」
手が、伸びかけて——止まる。
「日帝!!」
江戸が叫ぶ。
「そっち行くな!!」
だが。
「……ごめん」
その一言は、小さかった。
あまりにも。
「お前を……消すくらいなら」
震える声。
「自分で、手放す」
その瞬間。
何かが、決定的に壊れた。
「ごめんなさい…江戸さん」
そう言いかけた、その瞬間——
「行くな!!」
叫びが、夜を裂いた。
びくりと、日帝の身体が止まる。
江戸だった。
さっきまで弾き飛ばされていたはずの距離を、無理やり詰めてきている。
「勝手に決めんな!!」
息を荒げながら、それでも前に出る。
見えない圧に押されながらも、止まらない。
「それで全部終わりにする気かよ!」
日帝の目が、大きく揺れる。
「……来るな」
震える声。
「これは、私が——」
「一人で背負うなって言ってんだろ!!」
言葉が、叩きつけられる。
足が、止まる。
完全に。
影が静かにそれを見ている。
「……愚かだな」
低く呟く。
「選択を誤るか」
その瞬間——
空気がさらに重くなる。
「やめろ」
日帝の声が、変わった。
さっきまでの揺らぎが、一瞬で消える。
鋭い、決断の声。
「契約は——無効だ」
沈黙。
一瞬だけ、世界が止まったような静けさ。
「ほう?」
影が、わずかに興味を示す。
「今さら取り消せると?」
「取り消す」
はっきりと言い切る。
「対価も、力も、すべて不要だ」
一歩、前に出る。
今度は日帝が、江戸を庇う位置に立つ。
「これ以上、関わるな」
その姿は——完全に覚悟を決めていた。
影は、数秒だけ黙り。
やがて、低く笑った。
「契約とは、そう簡単なものではない」
空気が、歪む。
「ならば」
声が落ちる。
「“別の形”で回収するまで」
その視線が、ゆっくりと江戸へ向く。
「——対象を処理する」
次の瞬間。
殺気が、爆発した。
「——っ!!」
日帝は反射的に動く。
「下がれ!!」
江戸を突き飛ばすようにして、前に出る。
同時に、見えない力が叩きつけられる。
「ぐっ……!!」
直撃。
身体が軋む。
それでも、倒れない。
「邪魔をするか」
冷たい声。
「当然だ」
息を乱しながら、それでも立つ。
「それだけは——絶対にさせない」
影が、わずかに首を傾ける。
「理解できないな」
「だろうな」
吐き捨てるように言う。
「お前には一生わからない」
その瞬間、再び圧が襲う。
「——っ!」
今度は耐えきれず、膝がつく。
「日帝!!」
江戸が叫ぶ。
駆け寄ろうとする。
「来るな!!」
鋭い制止。
顔を上げる。
その目は、真っ直ぐだった。
「来るな……絶対に」
震えている。
それでも、止める。
「……なんでだよ」
江戸の声が、わずかに揺れる。
「なんでそこまで——」
言いかけて、止まる。
違和感。
ずっと引っかかっていたもの。
今、この状況で——はっきりと形になる。
「……お前」
目を細める。
「なんでそこまで、“俺だけ”を庇う」
日帝の呼吸が、一瞬止まる。
影が、静かに観察している。
沈黙。
長い、数秒。
「……言うな」
小さく、呟く。
「言うな……」
拒絶。
けれど——
江戸は止まらない。
「答えろ」
一歩、踏み込む。
「理由があるんだろ」
日帝の手が、震える。
もう、隠しきれない。
「……違う」
弱い否定。
「違わねえよ」
確信の声。
「俺はお前を知ってる」
その言葉が、引き金だった。
「——知るな!!」
叫び。
同時に——
空気が弾ける。
日帝の感情が、一気に溢れる。
抑えていたものが、すべて崩壊する。
「……っ、ぁ……」
呼吸が乱れる。
もう、止められない。
「……お前は」
震える声。
「知らなくていいはずだった……」
影が、静かに一歩近づく。
「興味深いな」
だが、その声は遠い。
日帝の意識は、目の前だけに向いていた。
「……関わるなと、言ったのは」
言葉が、途切れながらも続く。
「巻き込みたくなかったからだ……」
江戸は、何も言わずに聞く。
「……失いたく、なかったからだ……」
その一言で、空気が変わる。
「……は?」
わずかに、声が漏れる。
日帝は、ゆっくりと顔を上げる。
目は、完全に揺れていた。
「……お前は」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも——言う。
「私の——父親だからだ」
沈黙。
完全な静止。
風の音すら、消えたような錯覚。
「……は?」
江戸の思考が、止まる。
理解が追いつかない。
「……何言って——」
「そのままの意味だ」
震えながらも、言い切る。
「血の繋がりはない」
付け足すように。
「だが……それでも」
視線が、逸れない。
「私にとっては、そういう存在だった」
江戸の呼吸が、明らかに乱れる。
記憶の奥が、軋む。
「……嘘だろ」
かすれた声。
だが。
日帝は、首を振らない。
「だから——」
最後の言葉。
「消させるわけにはいかない」
その瞬間。
影が、静かに笑った。
「なるほど」
興味深そうに。
「ならば尚更——価値がある」
空気が、再び殺気を帯びる。
「最も壊しがいのある対象だ」
次の瞬間。
攻撃が、放たれる。
「——させるか!!」
日帝が、立ち上がる。
全てを振り絞って。
江戸の前に立つ。
守るために。
すべてを敵に回しても——
いかがだったでしょうか?
好評であればシリーズ化するかもですね
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