続き
タクシーの外の景色が止まり、運転手さんにバックミラー越しに声をかけられる。
「はい、到着しましたよ」
「ありがとうございます…!」
支払いをスマホ決済で済ませると、未だ眠ったままのわっちさんを起こさないように慎重に抱きかかえてゆっくりと車を降りる。途中のコンビニで買った、対風邪用の諸々が入ったビニール袋も一緒に。
ふぅ、と一息ついて上を見上げると、目の前には、思わずアホ面を晒してしまいそうになる程の高層マンションが聳え立っている。話には聞いてたけど、実際に見るとやっぱすげぇ……。
恐れ多いほど足音が響いてしまう、ピカピカの床のエントランスに足を踏み入れ、オートロックに鍵を差し込んだ。この鍵は先ほどタクシーの中で、寝ているわっちさんのポケットから拝借させてもらったものだ。わっちさんはバンド練習の時はいつも身軽な状態で来るから、探し場所の手間が省けてラッキーだった。いくら怪盗といえど、寝ている先輩の懐を不躾に探りたくはないからね。
実際のところは、俺の隣で安心して眠ってくれているこの顔をもう少しだけ見ていたい、という優越感に負けただけであることは、ここだけの秘密にしておこう。
こんなわっちさんは珍しいから。起きてしまったら、この温もりが腕の中から逃げていってしまうから。
最上階へ向かうエレベーターの中で、もう一度抱き直してから顔を覗き込んだ。
(それにしてもわっちさん、ちょっと軽すぎじゃね…?大丈夫かぁこれ、普段ちゃんと食べてんのかなぁ……)
全身があったかいなにかで包まれてる感覚がする。鼻腔には、嗅いだことのない、でもどこか懐かしいような香水の匂いがふんわりと満ちていた。
その匂いは、夢の中でひとりぼっちみたいな、どうしようもなく寂しかった気持ちを、少しだけかき消してくれる。
ああ、俺この匂い好きだなぁ。
ふわふわした意識の中で縋るようにあったかいそれに顔を擦り寄せると、ぎゅっ、と包まれる感覚が一層強まって、ぬるい体温になんだか安心して、ゆったりとした小さな心音に耳を澄ませながら、俺は再び瞼を落とした。
「……ん、」
鼻先をくすぐる柔らかいものに気づいて、重い瞼を持ち上げる。視界は真っ白なふわふわに埋められている。まだ微睡から抜け出せずにいる意識の中で、手触りを確かめようとそっと触れると、ゴロゴロと聞き慣れた音を鳴らし始めたので、そこで、それが俺の愛猫であることに気がついた。少し頭を動かすと、首の方にももう片方の子も丸くなってぴったりとくっついている。
いつもは寝る時にはあんまり寝室には来ないのに。今日は珍しく二匹とも俺のベッドにいるなんて、どうしたんだろ。つーか、俺今日バンド練じゃなかったっけ…今何時……。ああ、そうや、俺風邪ひいてて…そんでロレが……あ、あれ、どうやって家に……?
その瞬間、一気に体にのしかかってくる倦怠感。同時に、全身まとわりつく茹るような高熱。それを自覚した途端、起き上がらずにはいられなかった。
「あっっちぃ……なんやこれ……」
四肢を動かすのも気だるい。こんなの久しぶりだ。学生以来かも。にゃんちゃんには悪いけど、今はくっついてられんわ。
しかし、自分の服装を見ると、やはり外出着のままだった。この服、家出る前に選んだ記憶ある。じゃあ、やっぱ……。
胸元のボタンがいくつか開いているのは苦しくならないようにだろうか、いったい誰が…?布団の上には、見覚えのない上着がかけられていた。……いや、よくよく思い出してみると、どこかで見たことがあるような。誰だろう、ちょっとでかいな……。
ガチャ、
その時、突然ドアが開く音がして、びっくりして思わず身を縮めた。廊下の明るい光が部屋に差し込んできて、眩しさに目を細める。
あ、れ…?
「んわ、わっちさん!起きてたんすね…!」
驚いたように駆け寄ってくるのは、忘れるはずもない、俺のかわいい後輩で。そこでようやっと、抜け落ちていた記憶が蘇った。
あれは、俺を送ってくれたのは雲雀だったのか。
「ひ、ば……うそ、ごめん、俺……マジか…」
「ちょちょ、落ち着いて!?えと、いったん横んなろっか、顔真っ赤よ?」
雲雀は慌てて、俺の背中に手を添えながら、もう一度ゆっくりと寝かせてくれた。
「ひばぁ、なんで俺ん家おるん…?」
「あ”ーー……すんません、鍵、勝手に使っちゃった。起こすのも悪いかなって…」
「ってことは……ひばがここまで運んできてくれたん…!?うっわマジか、重かったやろ、ごめんなぁ…」
「いやいや!全然!マジのガチで空気より軽かったっす!!」
「…っふは、なんやそれ」
まるで女の子への配慮かのような言い方をしてくる雲雀に、思わず笑みが溢れる。重いって言ってもいいのに。
そんな俺の様子に、雲雀は「マジっすよ!?」なんて言いながら、なんだか照れくさそうに微笑み返した。
見慣れた部屋の中の見慣れない笑顔が、なんだか変に可笑しかった。
to be continued…