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【異世界・王都イルダ/地下・観測室】
石壁の奥に、さらに石壁がある。
その“奥”は、王都の喧騒から切り離されたように静かだった。
床に描かれた円は、魔術陣に見える。
けれど線の端々が、まるで細い文字列みたいに歪んでいる。光るたび、読み取れない“規則”が走る。
円の中心に、銀髪の男が立っていた。
カシウス。
黒ローブが三体、距離を置いて膝をつく。
顔は見えない。見せる必要がないからだ。
「報告」
カシウスの声は、低いのに乾いている。
怒っているわけではない。最初から熱を持たない声だ。
黒ローブの一体が、布の下で喉を鳴らすように言う。
「学園は、異界側へ……転移、完了。現実側の跡地は森に」
「よろしい」
別の一体が続ける。
「……代用(サロゲート)と葛原レアは、未帰還。観測の穴に――」
カシウスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
不快、というより“計算外”に触れた時の顔。
だが、すぐに戻る。
何もなかったように。
「気にするな」
黒ローブが戸惑った気配を見せる。
カシウスは淡々と続けた。
「戻ってこられないなら、それまでだ。
器も、駒も、代わりはいくらでもある」
冷たい言葉なのに、そこには“捨てる”という感情すらなかった。
ただの処理。削除。整理。
カシウスは床の円を見下ろし、指先で空をなぞった。
円周の一部が、わずかに欠けている。――穴。
「問題は、あの穴の“質”だ」
黒ローブが小さく身を震わせる。
観測室の空気が、薄く冷たくなる。
「魔術ではない。私の観測層でもない。
文字列が走った。――あれは“プログラム”に近い」
カシウスは笑わない。
代わりに、息だけ吐いた。
「対抗者がいる。どこかの層で、世界を“書き換える”癖のある誰かが」
黒ローブの一体が、遠慮がちに問う。
「では……計画を変更しますか」
カシウスは首を振った。
「いいや。むしろ加速する」
床の円が、脈を打つように淡く光る。
カシウスの影が揺れ、その影の輪郭だけが別の形に見えた。
「点で揺らせば、点で塞がれる。
なら面で混ぜる。世界全体を“濁らせる”」
黒ローブたちの背筋が、同時に伸びた。
命令が来る。それが分かる。
「現実世界。異世界。
各地で同時に小規模転移を起こせ。学校だけでは足りない」
カシウスは指を一本立てる。
「駅。病院。商業施設。役所。
人が多い場所ほどいい。観測が追いつかない」
黒ローブが低く頷く。
「実行します。魔術杭は――」
「杭だけでは弱い」
カシウスの視線が、壁際の棚へ移った。
そこに、奇妙な“煤”が瓶に詰められている。黒い影。けれど影の端に、微細な文字列がちらつく。
「観測亡霊の破片を撒け」
黒ローブたちが息を呑む。
橘靖竜
“あれ”は危うい。使えば使うほど、勝手に増える。
カシウスは構わない。
「人の形を真似たがる。体を欲しがる。
混乱を増幅し、噂を増やし、記録を汚す」
噂。記録。
人間が世界を信じるために頼るもの。
カシウスは、それを壊すのが上手かった。
「目撃者が増えれば、観測は固定される。
だが固定が“複数”になれば、世界は割れる」
黒ローブの一体が、慎重に言う。
「……カシウス様が直接、現場へ?」
「行く」
即答だった。
「現実の秩序の中に入り、秩序の顔で指示を出す。
一番効率がいい」
カシウスは棚から、制服の帽子を取った。
それを手にした瞬間、床の円が、呼吸みたいに淡く光った。
空気が一枚、薄くなる。
“膜”が降りる感覚。観測の膜――いや、社会の膜。
「〈偽装・第二級〉――『姿を借りる』」
短い詠唱のあと、変化は派手に起こらない。
煙も光もない。
ただ、そこに立つ“存在の輪郭”だけが、妙に自然になる。
誰の目にも引っかからない形。
誰の記憶にも残りやすい役割。
カシウスは帽子を戻し、黒ローブへ向き直った。
「最初の現場は、私が押さえる。
お前たちは、点を同時に開け。小さく、速く、数を」
黒ローブが三体、無言で頷く。
「駅。病院。商業施設。役所。
人が多い場所ほどいい。観測が追いつかない」
カシウスは指を一本立て、もう一本を重ねた。
「それから“煤”を撒け。破片を混ぜろ。
人の形を真似たがる、あの薄い残留物だ。
混乱を増幅し、噂を増やし、記録を汚す」
黒ローブの一体が、布の下で息を止めた気配を見せる。
危うい。増える。勝手に動く。
それでもカシウスは、ためらわない。
「目撃者が増えれば固定される。
だが固定が“複数”になれば、世界は割れる。
――濁らせろ。混ぜろ。二つの世界を、境界ごと」
床の円が、ひときわ強く脈打った。
円周の欠けた“穴”が、かすかに青白く揺れる。
「対抗者の穴は、いずれ場所が割れる。
塞がれたら、別の場所で開ければいい。
点は潰せる。面は潰せない」
黒ローブたちは、返事をしない。返事はいらない。
次の瞬間。
彼らは、最初からそこにいなかったみたいに消えた。
観測室に残ったのは、カシウスと、床の円と、
棚の奥で、瓶の中に揺れる黒い煤だけ。
煤の端で、読めない文字列みたいなものがちらつく。
虫の羽のように、薄く、しつこく。
カシウスは、世間話でもするみたいな口調で呟いた。
「……人間になりたいか」
返事はない。
でも煤は、わずかに“寄る”。
中心へ。温かいものへ。体温のあるものへ。
カシウスは帽子を指先で整え、静かに踵を返した。
「なら、見せてやる。
人間が“世界”を失う瞬間を」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/地上・城壁下の通り】
王都の朝は、いつも通りのはずだった。
荷車の軋み、露店の呼び声、石畳を叩く靴音。
――その音が、一拍だけ遅れた。
石畳の一部が、色を失う。
白い。乾いた白。影の居場所が薄い白。
誰かが足を止め、誰かが笑って誤魔化し、次の瞬間、笑いが消える。
「……今、なに?」
白は、湧くみたいに広がる。
石畳の上に、見たことのない線が走った。
魔術の紋に似ているのに、文字の列みたいに細い。
子どもが指をさして叫ぶ。
「ねえ、あれ!」
白の中心に、黒い“煤”が浮いた。
人の形をしようとして失敗した影。
肩や腕の輪郭が、途中でほどけて煙になる。
通りの空気が冷えた。
誰かが胸を押さえる。息が詰まる。
王都の警備兵が駆け寄る。
だが、煤は兵を見ない。
“体温”のあるものを探すみたいに、ゆっくり首だけ向ける。
次の瞬間、白がすっと引いた。
何もなかったように。
でも、石畳の上には、薄い“違う線”だけが残った。
誰もそれを説明できない。
説明できないものは、噂になる。
噂は、観測になる。
◆ ◆ ◆
【現実世界・地方都市/駅前ロータリー】
午前のロータリーは、いつも通り混んでいた。
バスの発車音。自転車のベル。スマホの着信。
その全部が、同時に“ノイズ”を噛んだ。
人の声が、ざらつく。
空気が一瞬だけ“白く”なる。
蛍光灯の白じゃない。乾いた白。
足元のアスファルトが、ほんの少しだけ“軋む”。
地震とは違う。揺れではなく、世界の継ぎ目が擦れる音。
「なにこれ……」
「停電? いや、違う……」
スマホの画面が、勝手に一度だけ暗転する。
復帰した画面の端に、読めない細い文字列みたいなものが一瞬走って消えた。
ロータリーの端で、黒い“煤”がふっと立ち上がる。
誰かの影が勝手に増えたみたいに見える。
でも影の端が、文字みたいにちらついている。
煤は、ふらふらと人の群れへ寄ろうとする。
その動きが、やけに“探している”みたいで、気持ち悪い。
「……やばい、あれ……」
誰かが後ずさる。
後ずさりが連鎖し、連鎖がパニックになる。
そして白が、ゆっくりと広がり始めた。
点じゃない。
駅前全体が、薄い膜で包まれそうになる。
どこかで、誰かが怒鳴った。
「下がって! 近づくな!」
指示の声は、まだ“普通”だ。
だからこそ、人は従ってしまう。
従った先で、何が起きるか分からないまま。
白が、街の中心から滲み出す。
世界が、同時にきしみ始めた。