テラーノベル
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密やかな深夜、赤い断片と静寂
深夜、静まり返った室内。
不意に聞こえた小さな、しかし硬い何かが床に落ちるような物音で、俺は意識を浮上させた。
最初は、壁の薄いアパートゆえのお隣さんの生活音か、あるいは風で窓が鳴っただけだと思った。再び重い布団を被り、熱を持った身体を丸めて眠りの淵へ戻ろうとする。
だが、一度覚醒した意識は、奇妙な胸騒ぎを捉えて離さなかった。
焼けるように喉が渇いている。狐に血を捧げた代償か、あるいは熱のせいか。身体は鉛のように重く、節々が軋むような痛みを発していたが、俺は喉を潤すために無理やり上体を起こした。
寝室のドアを開けると、廊下には冷ややかな空気が漂っていた。
リビングへ向かう足取りは覚束ず、壁を支えにして一歩ずつ進む。暗闇に目が慣れてくるにつれ、キッチンの向こう側、カーテンが夜風に揺れるリビングに「誰か」がいる気配を感じ取った。
「…………デンジ、……?」
声にならない掠れた吐息が、わずかに漏れる。
開いた窓から差し込む月光が、少年の金髪を白く、冷たく照らし出していた。
ふと振り返ったデンジの、本来なら温かみのあるはずの「はちみつ色」の瞳。それが今は、底の見えない漆黒の淵のように、重く、暗く、澱んでいることに気づき、俺の心臓はドクドクと警鐘を鳴らし始めた。
現実として受け止めたくない。
今すぐ引き返して、これは熱が見せた幻覚だと思い込めば、明日もまた「普通」の朝が来るのではないか。
信じたくなかった。あの、何も考えていないように笑い、食欲と性欲だけに忠実なはずのデンジが、こんな静かな絶望を抱えているなんて。
「……っ……、……」
脳内に「ありえない」という否定の言葉が、何度も、何度も、濁流のように押し寄せる。
だが、俺の足は吸い寄せられるように、彼へと向かって一歩、踏み出していた。
まだ俺の存在に気づいていない彼の横顔を確認しようとして——俺は、その「真実」を直視することになった。
月明かりの下、露出した彼の手首。
そこには、まるでバーコードのように規則正しく、そして無数に刻まれたリストカット痕があった。
古い傷跡の上に重なるようにして刻まれた、新しく生々しい赤。いつも彼が手首に巻いている包帯は、ただのファッションや怪我の保護などではなかったのだ。その下に隠されていたのは、想像を絶するほど酷い有様だった。
視線を落とせば、足元には血を吸って赤黒く変色したティッシュが、まるで死んだ花弁のように大量に散乱している。
そして、彼の手元には——。
使い古され、刃の至る所が欠け、どす黒く汚れた一本のカッターナイフが握られていた。
「あ、…………、……」
喉の奥で、悲鳴にも似た嗚咽が詰まる。
その微かな音に反応して、映画のフィルムがスローモーションになるように、ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼はこちらへ顔を向けた。
焦点の合わない、虚ろな瞳。
血に濡れたカッターを握ったまま、デンジは俺を見た。
その瞬間、俺たちの間に流れる時間は凍りつき、静寂だけがリビングに満ちていく。
俺が知っていた「デンジ」という少年の皮を剥いだ、その中身にあるドロドロとしたナニカが、俺を真っ向から見つめ返していた。
深夜の邂逅、そして支配と依存の始まり
割れそうなほどの頭痛と、肋骨を内側から叩き壊さんばかりに激しく打ち鳴らされる心臓の鼓動。俺は、その騒がしい心音を鎮めるように、衣服の上から必死に胸元を掴み上げた。指先に伝わる心臓の震えは、そのまま俺の動揺そのものだった。
月明かりの下、血に濡れたカッターを握るデンジと視線がぶつかる。
肺に溜まった冷たい空気を一度吐き出し、俺は掠れた、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい声で問いかけた。
「ど……ういう……事だ……、、」
その一言を絞り出すだけで精一杯だった。
認めたくなかった。信じたくなかった。
俺の知っているデンジは、いつだって下品に笑い、飯と女のことくらいしか考えていない、単純で、図太くて、底抜けに明るい「ガキ」だったはずだ。
だが、眼前に広がる光景は、その認識がいかに独りよがりで浅はかなものだったかを残酷に突きつけてくる。
彼の心の奥深くには、どんなに月日が流れても、どんなに美味い飯を食わせても決して治ることのない、悍ましく深い傷が幾重にも重なっていたのだ。
「……ぁ、あ……早、輩……、」
時が止まったかのような、永劫にも感じられる十数秒の沈黙。
やがて、彼の震える唇から漏れ出たのは、嗚咽にも似た掠れ声だった。
「早輩」という、彼が俺を呼ぶいつもの呼び名。それが今の俺には、救いを求める子供の悲鳴のように聞こえて、ようやく自分が直面している現実を理解した。
悲しみ、怒り、恐怖、そして得体の知れない絶望。
溢れ出しそうな感情の濁流に飲み込まれ、いっそこのまま壊れてしまいたいという衝動を必死に抑え込む。
何を言うべきか、どう接するべきか。思考がまとまるよりも先に、身体が勝手に動いていた。
俺は、血の匂いが漂う彼を、その細い身体を、壊れ物を扱うように強く抱きしめていた。
「……っ」
腕の中に伝わってくる、デンジの生温かい体温。そして、彼が流している涙の熱。
気づけば、俺の目からも熱いものが溢れ、頬を伝っていた。
言葉は必要なかった。ただ、互いの存在を確かめ合うように、深夜の静寂の中で俺たちはしばらくの間、固く抱擁を交わし続けた。
しばらくして、彼の身体の震えがわずかに収まったのを見計らい、俺は声をかけた。
「落ち着いたか……」
俺のTシャツの背中は、おそらく彼の返り血で酷く汚れているだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
俺の問いかけに、デンジは顔を上げた。その表情は、雨に濡れて捨てられた子犬のように怯え、同時に、縋るような期待を込めた、ひどく危うい色を帯びていた。
「早輩、は……俺のこと捨てねぇよな……?」
震える声。リストカットの傷跡が無数に走るその腕が、俺のTシャツの裾をギュッと掴む。
離したら消えてしまうとでも言いたげな、切実な力だった。
その瞬間、俺の胸の中に、これまでに味わったことのない不可解な感情が芽生えた。
昂揚感、そして、昏い支配欲。
目の前で涙を流す、この生意気で手に負えないはずの少年が、今、全霊をもって俺を求めている。俺に捨てられることを、死ぬことよりも恐れている。
その事実が、俺の理性を狂わせ、深く、激しく突き動かした。
「……嗚呼。勿論だ」
俺は、自分でも驚くほど淀みのない、意気揚々とした声で答えた。
嘘ではない。俺は彼を捨てるつもりなど毛頭ないし、既に彼は俺にとってかけがえのない「家族」だ。
だが、その誓いを口にした瞬間、妙な感覚に陥った。
俺は彼を完全に支配できるはずの立場にいながら、同時に、彼という存在に永遠に縛り付けられ、支配されたような——。
「そっかぁ……。早輩、優しぃな……」
デンジは、安堵したように口角を緩めた。
涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、彼は俺の胸に再び額を預ける。
静まり返ったリビングで、二人の狂った鼓動が重なり合う。
血と涙の混じったこの夜を境に、俺たちの関係は、もう二度と「ただの同居人」には戻れない不可逆な場所へと踏み出してしまったのだ。
闇をなぞる指先、暴かれる欠落
静まり返ったリビング、月光だけが二人を青白く縁取っている。
俺は自分の心臓を宥めるように一つ深く息を吐き、腕の中にいる不安定な彼をこれ以上傷つけないよう、最大限の配慮を込めて声を絞り出した。
「……なんで、こんなことしたか……聞いていいか? 無理にとは言わないが……」
その問いは、湖の氷をそっと叩くような危うい響きを持っていた。
すると、彼は俺の胸元からスルリと手を滑らせ、俺が着ているセーターの生地を指先で弄びながら、遠くを見るような目で口を開いた。
「ポチタに血ぃやる時によぉ……。ストレス発散の為に腕切って、その血をポチタにやってたんだよ。癖なんだな……今は幸せな筈なのになぁ」
デンジは、手に持ったカッターの冷たい刃を愛おしそうに撫でながら、ヘラヘラと笑ってみせた。
まるでお菓子を分け合った幼少期の思い出でも語るかのような、あまりに軽い口調。しかしその無邪気な笑顔の裏には、生きるために自らを削り、痛みを対価に孤独を埋めてきた壮絶な過去が透けて見えた。
今、目の前にいる彼は、触れればそのまま霧のように消えてしまいそうなほど、儚く、危うい。
俺は再び「ふぅ……」と小さく息をつき、逃げ出したい衝動を抑え込んで彼の手を取った。
バーコードのように規則正しく、しかし乱暴に刻まれたそのリストカット痕。
「痛そうだから……消毒してもいいか?」
努めて冷静に、けれど慈しみを込めて尋ねた。正直、彼の手首は直視し続けるのが困難なほどに荒れ果てていた。
俺の言葉を聞き、デンジは視線を泳がせ、何かを量るように少し考え込んだ後、上目遣いに俺を見た。
「アキって……呼んでもいいなら、いい……」
予想だにしない交換条件。
いつもの「早輩」という呼び名を捨て、一歩踏み込もうとする彼の決意。
俺は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに口角を緩め、柔らかな笑みを返した。
「……嗚呼。勿論だ、デンジ」
そう言い残し、俺は立ち上がる。棚の奥から救急箱を取り出し、消毒液と包帯、清潔な脱脂綿を手にして戻ってきた。
再び彼の横に腰を下ろし、その細い手首を壊さないように優しく掴む。
脱脂綿に染み込ませた消毒液を、まだ生々しい赤色をした傷口にそっとあてた。
「っ……」
短く、痛みに耐えるような吐息が漏れる。
「すまん、痛かったか?」
「……普段は痛みなんて感じねーのによ。おかしいよな」
自嘲気味に笑うその言葉に、俺は思わず動きを止めた。
「……は? お前……どこまで俺に頼らないんだよ」
『家族だろ』という言葉が喉元まで出かかったが、今はそれを言う時ではないと飲み込んだ。ただ黙々と、彼の傷を一つ一つ、丁寧に清めていく。
すると、デンジは独り言のように、さらに衝撃的な事実を零した。
「実はよ……味覚も嗅覚も、結構衰退してんだぜ?」
心臓を直に握りつぶされたような衝撃が走る。
彼が今までどんな地獄を歩んできたのか、断片的には知っていた。だが、生きるための基本である「味わうこと」や「嗅ぐこと」さえも摩耗させてしまうほどの過酷な環境。それを今更ながらに突きつけられ、俺は言葉を失う。
「……次からは、そういうことがあったら言えよ」
溜息を一つ吐き、自分に言い聞かせるように呟く。消毒を終え、白い包帯を彼の傷跡が見えなくなるまで、幾重にも、守るように巻き付けていった。
「はーい」
返ってきたのは、いつものような気の抜けた返事。
もう何事もなかったかのように振る舞い始めた彼を見て、俺はどこか物足りなさを感じている自分に気づき、密かに苦笑した。
包帯を巻き終えた彼の手を、最後に一度だけ優しく摩る。
「出来たぞ。キツくないか?」
「……ん」
短い返事。夜も更け、張り詰めていた緊張が解けたせいか、彼の瞳には深い眠気が滲んでいた。
俺は彼を促し、寝室へと向かわせる。
「後の片付けは俺がやる。デンジはもう寝ろ」
彼がリビングを去り、静寂が戻ってくる。
俺は独り、血のついたティッシュや使い古されたカッター、そして救急箱を眺めながら、先程まで感じていた彼の体温の余韻に浸っていた。
『アキ』
初めて呼ばれたその響きが、耳の奥で何度もリフレインする。
彼を救ったつもりでいて、実は俺自身が、彼という深い欠落に、どうしようもなく依存し始めていることを自覚しながら
「あ……おはよ〜、早輩」
まだ眠気が抜けきっていないのか、デンジは盛大な寝癖を頭に乗せたまま、気の抜けた挨拶を寄越してきた。無視をされるわけでも、機嫌が悪いわけでもない。至って「いつも通り」の朝だ。
俺はキッチンで手を動かしながら、短く言葉を返す。
「おはよう。まだ朝飯は出来てないから、先にパワーを起こしてきてくれ」
「えー、あいつ起こすのめんどくせぇんだよな……」
とぼやきながらも、デンジはのろのろと廊下の奥へ消えていった。その背中を見送りながら、俺は手際よく人数分のパンを焼き、朝食の準備を進めていく。
「「いただきま〜〜す!!」」
案の定、一悶着あったのだろう。ひと暴れして不機嫌そうなパワーを無理やり連れて、ようやく賑やかな食卓が始まった。
しかし、食べ進めているうちに違和感を覚える。
いつもなら、皿の上のものを掃除機のように胃袋へ収めていくはずのデンジの様子がおかしい。今日はどこか上の空で、一切れ一切れを確かめるように、ゆっくりと胃に詰め込んでいる。
不審に思ってしばらく観察していると、視線に気づいたのかデンジがこちらを向いた。
「……アキ、これ要る? 俺、なんか腹減らねぇみてぇで……」
そう言って、自分の皿に残っていた分をこちらの皿へ移そうとする。俺はその分をそのままパワーの皿に放り込んでやった。パワーは
「おお! 殊勝な心がけじゃな!」
と露骨に機嫌を良くして食らいついている。
俺は箸を置き、デンジの顔を真っ直ぐに見据えた。
「……体調でも悪いのか?」
昨日の任務や、最近の激務を思い返す。何か予兆があったのかもしれない。
俺の問いに、デンジは後頭部を掻きながら、自分でもよく分かっていないような顔で答えた。
「わかんねぇ……。胃がちっちゃくなってんのかもな」
……そういえば、ここに来たばかりの頃のデンジは、よく腹を下したり体調を崩したりしていた気がする。劣悪な環境から急にまともな食生活に変わった反動か、それともデビルハンターとしての生活が想像以上にこいつの心身を削っているのか。
「いいか、少しでも変だと思ったらすぐに言え。無理して出動して死なれても困るからな」
熱い珈琲を啜りながら釘を刺すと、デンジは「おーよ」と気の抜けた返事をした。
本当に分かっているのか怪しいものだが、これ以上問い詰めても答えは出ないだろう。
二人が食事を終えたのを確認し、俺は立ち上がる。
食器をシンクに運び、溜まった水の中に沈めた。洗うのは帰ってからでいい。今は、次の仕事に意識を切り替える時間だ。
寝室へ戻り、ネクタイを締め、公安の制服に袖を通す。
今日は少し規模の大きい悪魔の討伐任務がある。4課の戦力の半分近くが投入される大規模な作戦だ。当然、俺たち3人もその中に含まれている。
準備を終えて玄関へ向かい、ドアの前で二人を待つ。
ガチャリと音がして、まず姿を現したのはオレンジ色の髪を乱暴にセットした少年だった。
「パワーの奴はまだか?」
「あー、今角の掃除してんじゃねぇの」
二人で数分、居間の騒がしい物音を待つ。
ようやく揃った「いつも通り」の顔ぶれを確認し、俺は重い玄関のドアを押し開けた。
「……行くぞ」
外の冷たい空気が、少しだけ重い胸の内を急かした
「ぶっ殺してやらぁ!!」
蛆の悪魔の醜悪な肉体に、デンジのチェンソーが深く、重く食い込む。飛び散る汚液と血の雨を全身に浴びながら、泥沼のような死闘の末に、俺たちは辛うじて勝利を収めた。
「お疲れ様。今日はもう帰って大丈夫だよ」
現場に現れたマキマさんの穏やかな労いの言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。俺とデンジは、重い足取りで帰路に就いた。
いつもなら、戦い終えた高揚感で「腹減った」だの「胸揉みてぇ」だの騒がしいはずのデンジが、今日は珍しく黙り込んでいる。パワーはマキマさんに話があるらしく、蛇に睨まれた蛙のような怯えた顔で連れて行かれたため、道中は俺とデンジの二人きりだった。
「帰るぞ」
短く促し、夕暮れの街を歩き出す。
信号が赤に変わり、足を止める。ふと隣を見ると、デンジの横顔が異様に白い。口数も少なく、視線が定まっていない。やはり今朝の違和感は気のせいではなかったのだ。今日はそこまで血を使っていないはずだが、内臓の調子が悪いのか?
いつもなら「今日の晩飯は何だ」と食い下がってくるはずの彼奴に、声をかけようと向き直った、その時だった。
「アキィ……、……きもちわりぃ……」
掠れた声と共に、ガシリと肩を掴まれる。そのまま、デンジは糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
視覚障害者用の信号機が鳴らす、規則正しい電子音だけが、永遠に続くかのように辺りに響き渡っていた。
「おい! 大丈夫か!?」
慌てて声をかけるが、返事はない。貧血か、あるいは激しい眩暈か。俺は意を決して、驚くほど軽いその身体を抱え上げ、人目を避けるように裏路地へと駆け込んだ。
冷んやりとした、湿り気の残る人気の無い路地。デンジを壁に預けるように座らせる。しばらく寝かせた方がいいと判断し、俺はその傍らで煙草を取り出した。ライターの火が、薄暗い路地を小さく照らす。
昨日から、これまでの日常が音を立てて壊れていくような感覚がある。
散々迷惑をかけられているはずなのに、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、こうして俺を頼り、俺の管理下に置かれているという事実が、支配感にも似た苦しさとなって胸を締め付ける。
ふと視線を落とすと、デンジが薄らと目を開けていた。
「……起きたか。大丈夫……ではなさそうだな」
目覚めたデンジの肌には血の気がなく、その瞳には生気がない。まるで魂の抜けた死人のようだ。
「……他の、奴らは……?」
掠れた声で聞かれる。無様な姿を他人に見られたくないのだろう。
「帰り道だったから誰もいない。安心しろ」
そう述べると、彼は小さく「ん」とだけ返し、俺が膝にかけておいたスーツのジャケットを、縋るように引き寄せた。鼻先を布地に埋め、すん、と深く匂いを嗅ぐ。
「これ……落ち着く……な」
「……煙草臭くないか? 消臭はしているが」
「……いい匂い、だぜ……」
少しだけ表情が和らいだのを見て、ひとまず安堵する。
「歩けそうか? 家まであと10分くらいだが……」
問いかけると、彼はふらつきながらも、壁を伝って自力で立ち上がった。
「近いなら……大丈夫……」
青白い顔で無理に身体を動かそうとする。正直、もっと休ませていたかったが、こんな路地裏で夜を迎えるよりは、一刻も早く家に帰すべきだと判断した。
「……何かあったらすぐ言えよ」
再び二人で歩き始める。
吹き抜ける風が少しずつ冷たさを増していく。隣を歩くデンジは、相変わらず苦しげではあるが、先ほどよりは幾分か顔色が戻ってきたように見えた。これなら家までは保つだろうか。
ようやく自宅の前に辿り着き、鞄から鍵を取り出してドアを開けた、その瞬間。
デンジは口元を強く押さえ、俺を追い抜くようにしてトイレへ駆け込んだ。
「ちょっ……! 大丈夫か!?」
大丈夫ではないことなど分かっている。だが、咄嗟に出るのはそんな無意味な言葉だ。慌てて後を追う。
半開きになったトイレのドアを押し開けると、そこには便器に突っ伏したデンジの姿があった。
「ウ”ぉ、えっ……! げほっ、はぁ、はぁっ……!」
繰り返し、喉を引き裂くような音が響く。昼に食べたものが、消化されないまま無残に吐き出されていた。
「っ、ぇ……! ぅ、ぇ……げほっ……!」
涙を流し、肩を激しく震わせながら嘔吐を繰り返す。俺は無言で彼の隣に跪き、細い背中をゆっくりと摩り続けた。もう片方の手で冷たい水を用意し、彼が落ち着くのを待つ。
ようやく吐き気が収まったのか、デンジが涙で濡れた顔をこちらに向けた。
「い、言えなくて、ご、めん……」
か細い、消え入りそうな謝罪。
その瞬間、脳内で何かが歪むような感覚があった。この脆く、壊れそうな少年を守らねばならないという義務感が、歪な形を成していく。
俺は持っていたハンカチで、汚れた彼の口元を丁寧に拭った。
「……そういう日もある。気にするな」
努めて冷静にフォローし、水を飲ませる。彼がリビングのソファーで横たわっている間に、俺は手早くトイレの片付けを済ませた。
「体調はどうだ」
「……さっきより、マシ……」
少しだけ軽くなった口調に、ようやく胸を撫で下ろす。
俺は吸い寄せられるように、彼が横たわるソファーの足元に座り込んだ。デンジはそれを拒むことも驚くこともせず、ただ静かに俺の気配を感じているようだった。
数十秒の沈黙の後、デンジがポツリと、独り言のような声を出した。
「な、なぁアキ……昨日も言ったけどさ。アキは俺のこと、捨てねぇ……よな?」
まるで自分を繋ぎ止めてほしいと願うような、危うい問いかけ。
「……ああ。お前が死ぬまで、二人でいよう」
俺は、彼の冷え切った掌を、自分の掌で包み込んだ。指を絡め、逃がさないように強く握り締める。
すると、デンジは今日初めて、彼らしい「にへへ」とした締まりのない笑みを浮かべた。
「そっかぁ。……約束だぜ、アキ」
満足したのか、彼はふらつく足取りで自分の部屋へと戻っていった。
入れ替わるようにして、玄関からパワーの騒がしい帰宅の音が聞こえてくる。
「ただいまじゃ! 腹が減って死にそうじゃぞ!」
日常が戻ってくる。俺は重い腰を上げ、夕食の買い出しに行くために財布を手に取った。繋いだ手の感触が、まだ掌に残っていた。
また、深夜に目が覚めてしまった。
最近は決まって悪夢を見る。喉の奥にこびりつく鉄の味と、拭いきれない喪失の予感。安眠などという贅沢は、今の俺には許されていないのかもしれない。
焼けるような喉の渇きを癒そうと、寝室のドアノブに手をかけようとしたその瞬間、あの時の光景が脳裏に鮮烈にフラッシュバックした。雪の冷たさ、銃声、そして——。
「っ……はぁっ……、はぁっ……!」
心臓が早鐘を打ち、膝の力が抜けてその場に崩れ落ちる。トラウマが鎖のように身体を縛り付け、指一本動かせない。死の恐怖などとうに越えている。ただ、俺はどうなってもいいから、デンジやパワーには、日向のような場所で幸せになってほしい。それだけが、今の俺を繋ぎ止める唯一の楔だった。
しばらく荒い呼吸を繰り返し、ようやく過呼吸が収まると、俺は震える手でドアを開けた。
静まり返った廊下の冷気が、火照った肌に突き刺さる。リビングに彼の気配がないことに安堵しつつ、キッチンでコップに水を注いでいると、背後からおぼつかない足音が聞こえた。
「……デンジか」
水を止め、振り返りながら声をかける。そこに立っていたのは、今にも消えてしまいそうなほど頼りない、俺の同居人だった。
「ご、めんアキ……また不安で、薬……いっぱい飲んじゃった……」
ぐずぐずと鼻をすすり、濡れた瞳で俺を見上げる。薬の影響だろうか、焦点が定まらず、感情の起伏が激しくなっている。
最近分かったことだが、デンジは抱えきれないストレスを薬で無理やり塗りつぶす癖がついていた。リストカットと同じで、すぐに辞められるものではない。だから「飲んだら隠さず言う」という約束を交わしていた。
言えただけ偉い、そう自分に言い聞かせ、俺はふらつく彼の身体を優しく抱きしめた。
「……しばらく、俺と話していよう」
「ん……」
小さな肯定の声。一人で闇に飲まれるよりは、俺が隣にいた方がいい。彼をリビングのソファに座らせ、隣に腰を下ろした。
「何かあったのか?」
問いかけてから、慌てて「嫌だったら言わなくていい」と付け足す。彼は袖で涙を拭いながら、途切れ途切れに言葉をこぼした。
「な、んかさ……俺って魔人だからさ……。周りの奴らに、怖いとか、気色悪いとか……言われてぇ……っ」
ポロポロと、大粒の涙が彼の頬を伝う。普段のデンジなら、そんな言葉は中指を立てて笑い飛ばすはずだ。けれど、薬で剥き出しになった彼の心は、あまりにも脆く、傷つきやすかった。
俺は彼の肩を、子供をあやすようにゆっくりと撫でる。
「大丈夫だ。俺がいるだろう。……ずっと、ここにいるからな」
繰り返し、呪文のようにその言葉を囁き続けた。しばらくそうしていると、ようやく泣き声が止んだ。デンジは俺の胸に顔を埋めたまま、掠れた声で呟いた。
「ん……アキ……。さ、変なこと言っていい……?」
改まった前置きに、胸の奥が騒ぎ出す。「ああ」と短く返すと、彼は意を決したように顔を上げ、俺の目を見据えて言った。
「俺さ……。アキのこと……、恋愛的に、……好きになっちまった」
衝撃だった。脳内を白い光が突き抜け、言葉を失う。
「え……」
思わずこぼれた間抜けな声に、デンジの顔が絶望に染まっていく。
「わ、悪ぃ! 今のは忘れろ! 気色悪いよな、分かってる、忘れてくれ……っ!」
弾かれたように立ち上がり、逃げようとする彼の手を、俺は無意識に強く掴んでいた。
「気色悪くない……っ! 待て、デンジ……!」
叫んでいた。胸の奥で燻っていた感情が、ダムが決壊したかのように溢れ出す。
「俺も……デンジが好きだ」
気づけば、その言葉を口にしていた。俺の知らないデンジ、俺の知らない感情。彼との生活のすべてが、いつの間にか俺という存在を支配していた。
「……ほんと?」
潤んだ瞳が、縋るように俺を見つめる。そのあまりの愛おしさに、俺は再び彼を強く抱き寄せた。
「ああ。……なあ、デンジ。俺と付き合ってくれるか?」
苦笑混じりの、けれど心中を誘うような、逃げ場のない誘惑。
「い、いの……? 俺なんかで……」
「ああ、お前じゃなきゃ嫌なんだ」
必死に、呪いをかけるように訴える。すると、デンジは顔を真っ赤にしながら、蚊の鳴くような声で「……よろしくお願いします」と呟いた。
そのまま不器用に唇を重ねられ、俺はあまりの幸福と目まいで、そのまま床に倒れ込みそうになるのを必死に堪えていた。
「早く帰らないと……」
重い頭を無理やり動かし、早歩きで家路を急ぐ。今日はマキマさんとの面談があると言っていたパワーも、予定より早く帰宅しているだろうか。家にはデンジもいる。あの食い意地の張った二人のことだ、飯が遅れれば何を仕でかすか分かったものではない。
ここ最近、公安の仕事は異常なまでの忙しさだった。連日の残業に加え、今日は狐の悪魔に力を借りた代償で、体内の血を随分と持っていかれている。視界が時折ぐにゃりと歪む。
「……っ、頭が割れそうだ」
こみ上げる吐き気と立ちくらみを抑え込みながら、ようやく自宅の玄関に辿り着いた。バッグから鍵を取り出そうとする指先が、自分のものじゃないみたいに震えている。
カチャリ、と鍵を開けて中へ足を踏み入れた瞬間、鼓膜を突き破らんばかりの怒号が飛んできた。
嵐のような出迎え
「アキ! 遅いぞ! ワシは腹が減って死にそうじゃ!」
「おっせーよアキ! 腹減りすぎて背中と腹がくっつくかと思ったぜ!」
ドタバタと廊下を駆けてくる足音。パワーとデンジだ。
いつもの喧騒。いつもなら「静かにしろ」と一喝するところだが、今の自分にはその気力すら残っていない。二人の声が、ズキズキと痛む脳内に直接響き渡る。
「……すまない、今すぐ作るから……」
なんとかそう答え、一歩前へ踏み出そうとした。
けれど、足に力が入らない。膝の関節が石に変わったかのように動かず、急激に視界が暗転していく。
「あ……」
重力に抗えず、アキの体は冷たいフローリングへと崩れ落ちた。
崩れる日常
ドサッ、という鈍い音が玄関に響く。
「……? おいアキ、飯はどうした。ワシの肉は……」
不満げに顔を覗き込んだパワーの声が、一瞬で強張った。
デンジも横で目を見開いている。床に倒れ伏したアキはピクリとも動かず、ただ浅い呼吸を繰り返すだけだ。
「……アキ……?」
「エッ……あ、アキ……!? 死んだのか!? 死んだのか!」
「バカ! 死んでねーよ! でも顔真っ青だぞこれ!」
遠のいていく意識の縁で、パニックに陥る二人の声が聞こえる。
いつもは傍若無人なパワーが、珍しく怯えたようにアキの肩を揺さぶっていた。
「おい! 起きろアキ! 飯ならワシが作ってやる! 作ってやるから……!」
その必死な声を最後に、アキの意識は深い闇へと沈んでいった。
「……っ、……」
声を出そうと喉を震わせるが、出てくるのは掠れた吐息だけだった。喉の奥が焼けるように熱く、まるで銀を流し込まれたかのように重い。
デンジの叫び声が、ガンガンと鐘を打ち鳴らすように頭蓋骨の内側に響く。視界がチカチカと明滅し、起き上がろうとした身体は自分のものとは思えないほど鉛のように動かなかった。
「おい、アキ……? お前、マジで声出ねーのか?」
ドタドタと騒がしい足音を立てて、パワーも奥の部屋から飛び出してきた。
「ウオ! 生き返ったか! ワシはてっきり、あまりの空腹に耐えかねてアキが憤死したのかと思うたぞ!」
「バカ、パワー。死んでねーよ……たぶん」
デンジが珍しく眉をひそめて、俺の顔を覗き込んできた。その手には、およそ似つかわしくない冷えた濡れタオルが握られている。
ぎこちない看病
デンジは乱暴な手つきで、俺の額にそのタオルを叩きつけた。
「冷てっ……」と言いたかったが、やはり声にならない。
「あー……お前、倒れた時すげー熱かったんだぜ。マキマさんに電話しようかと思ったけど、パワーが『飯が先だ』ってうるせーからよ」
「左様だ! アキが倒れている間、ワシらは自分たちで食料を調達したのだ。褒めて使わしてよいぞ!」
パワーが誇らしげに指差した先、リビングのテーブルの上には、無惨に開け放たれたカップ麺の空きカップと、中身が飛び散ったポテトチップスの袋が散乱していた。
普段の俺なら、それを見た瞬間に頭に血が上って説教を始めるところだが、今はその気力すら湧かない。ただ、彼らなりに「自分たちで何とかしようとした」形跡なのだと思うと、溜息すら熱を帯びて漏れた
それからしばらくの間、俺は泥のような眠りと、時折訪れる浅い覚醒の繰り返しの中にいた。
デンジやパワーが、慣れない手つきで濡れタオルを替えてくれたり、額を小突いて生存確認をしたりしていたのは、熱に浮かされる意識の端でぼんやりと覚えている。
ようやく熱が引き、肺に溜まっていた熱い塊が消えた頃。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、俺の寝ている布団の端を白く照らしていた。
起き上がろうとして、まだ残る身体の節々の重さに眉をひそめる。
乾ききった喉を動かし、何か言葉を発しようとしたが、出てきたのは掠れた吐息と、ヒリつくような痛みだけだった。
「……あ、……っ」
声が出ない。
静寂だけが部屋を支配し、時計の刻む音だけがやけに大きく聞こえる。
そんな中、寝室のドアが「ギィ」と遠慮がちな音を立てて開いた。
入ってきたのは、デンジだった。
いつもなら「アキー! 腹減ったぞ!」と騒ぎながら入ってくるはずの彼が、今はまるで壊れ物を扱うかのように足音を殺し、神妙な面持ちで俺の枕元に腰を下ろした。
しばらくの間、俺たちは言葉を交わさなかった。というより、交わせなかった。
デンジは、膝の上に置いた自分の拳をじっと見つめ、何か重いものを飲み込もうとしているかのように、何度も喉を動かしている。
その横顔には、あの深夜の「血の秘密」を共有してからというもの、どこか大人びたような、それでいて今にも折れてしまいそうな危うさが同居していた。
やがて、彼は意を決したように顔を上げ、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……俺……考えたんだけどよ」
ポツリ、と独り言のような低い声が落ちる。
「俺って……アキに、頼りっぱなしだなって……。飯も、服も、住むとこも。全部アキが用意してくれて。……それだけじゃなくて、俺の中身がぐちゃぐちゃなのも……全部アキに、見られちまったし」
彼はそこで一度言葉を切り、自分の腕に巻かれた新しい包帯を、無意識に愛おしそうに撫でた。俺が巻いた、あの夜の証だ。
「……だ、から。これからは……俺も、アキを支えたいんだ」
心臓の奥が、熱を帯びて脈打つのを感じた。
「支える」という言葉が、デンジの口から出たことが信じられなかった。
愛とか、忠誠とか、そんな綺麗な言葉じゃない。もっと泥臭くて、必死で、お互いの欠けた部分を補い合おうとするような、必死の懇願に近い「誓い」だった。
「アキが倒れたとき……俺、マジで怖かったんだぜ。お前がいなくなったら、俺、また独りぼっちに戻るんだって……。そんなの、もう嫌なんだ。だからよ、アキが疲れたときは、俺がその……肩でもなんでも貸してやる。お前が俺を捨てねーって言ったみたいに、俺もアキを、絶対に見捨てねーから」
彼のはちみつ色の瞳には、揺るぎない、しかしひどく純粋な光が宿っていた。
俺の喉は相変わらず機能せず、彼に掛けてやるべき言葉を紡ぎ出すことはできない。
だが、その代わりに、俺は震える手をゆっくりと伸ばした。
そして、彼の膝の上にある、不格好に握られた拳をそっと包み込んだ。
「お前に何ができる」と笑うことなんてできなかった。
俺もまた、彼がいなくなることを恐れているのだと、その手の温もりだけで伝えたかった。
「……アキ……」
デンジが少しだけ目尻を下げて、困ったように笑う。
その笑顔は、かつての何も考えていないバカな顔ではなく、痛みを知り、それでも誰かのために立とうとする、一人の人間の顔をしていた。
静かな空気だけが部屋を包んでいたが、それはもう、寂しい沈黙ではなかった。
俺たちは、血と痛みを分け合うことで、より深く、より歪に、互いの命を繋ぎ直したのだ。
「なーんて言ってたのによ……。嘘つきだな、アキ」
乾いた風が、無数の石碑が並ぶ灰色の野を吹き抜けていく。ここは公安の殉職者が眠る墓場。一週間前まで、確かにそこにあったはずの、騒がしくて温かい「日常」の残骸が埋められている場所だ。
隣で野菜を嫌って騒いでいたパワーは、もういない。
そして、俺を支えると言って、俺が「捨てない」と誓ったアキも、もういない。
アキを殺したのは、他でもないこの俺の手だ。銃の魔人となり果て、雪合戦を夢見ながら死んでいった男の最期を、俺はこの腕で終わらせた。
アキと刻まれた文字。見覚えのある、潔癖なほどに整ったその名前の上に、俺は買ってきた花束を乱雑に置いた。丁寧な手向けなんて、俺たちの間には似合わない。花弁が冷たい石の上に散り、風にさらわれるのを見届けることもせず、俺は背を向けた。
自室に戻ると、そこには暴力的なまでの静寂が待ち構えていた。
三人で囲むには少し狭いと思っていたリビングが、今は一人では持て余すほどに広く、冷たく感じられる。
換気扇の回る音、冷蔵庫が唸る音。それらすべての生活音が、かつての怒鳴り声や笑い声をかき消し、俺の鼓動を虚しく響かせていた。
「……あーあ、腹減ったなぁ」
独り言をつぶやいてみるが、返ってくる返事はない。
「片付けろ」と叱る声も、「ワシの分もよこせ」と横取りしてくる手もない。
俺は、アキが丹念に手入れをしていた自室の隅へ視線をやった。そこには、彼が生前、命よりも重く扱っていたはずの刀が置かれていた。
主を失った鋼は、月明かりを吸い込んで冷酷なまでに美しく光っている。
俺はそれを手に取り、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
心の中の深い場所にいるポチタに向かって、俺は小さく、祈るように謝罪した。
「ごめんな、ポチタ。お前が見せてくれた普通の生活、結局俺には守れなかったわ」
あの日、アキが病室で、あるいは深夜のリビングで、俺に託そうとした想い。
俺が彼を支えると言った、あの不器用な誓い。
今思えば、俺たちの関係は最初から壊れていたのかもしれない。支え合わなければ立てないほどに、俺たちは脆く、歪んでいた。
俺は刀の切っ先を、自分の喉元に当てた。
冷たい鉄の感触が、狂ったように打ち鳴らされる心臓の鼓動を伝えてくる。
あの日、アキが俺のリストカットの傷を消毒してくれたときの、あの手の温もりを思い出す。包帯を巻いてくれた、あの優しい手つき。
「アキ……。俺、約束、守るぜ」
見捨てない。捨てない。
一人で行かせるなんて、そんな不義理は俺にはできない。
たとえ地獄であっても、そこにお前がいるのなら、俺はそこへ行くべきなんだ。
俺は全神経を指先に込め、迷うことなく、一気にその刃を首へと突き立てた。
灼熱のような痛みが走り、視界が急速に真っ赤に染まっていく。
溢れ出す血は、あの深夜にアキが見たものよりもずっと鮮やかで、ずっと温かかった。
薄れゆく意識の中で、俺は幻覚を見た。
散らかったリビングで、エプロン姿のアキが溜息をつきながらこちらを振り返る。
その横には、不機嫌そうに鼻を鳴らすパワーがいる。
「……あ……き……」
最後の一息と共に、俺の身体は冷たい床へと崩れ落ちた。
これで、ようやく、俺は彼を「支え」に行くことができる。
誰にも邪魔されない、永遠の静寂の中で。
コメント
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これほど神な小説は初めて見た、言葉選び全部天才すぎるし喋ってる時の心情とかすごい詳しく書いてあるし全部ほんとにすごすぎて、🐿🦟とか🙆♀️Dとか鬱展開ありながらもアキデンに持ち込めるのは本当にすごいと思います、最後の展開は衝撃だったけどアキに対するデンジの気持ちとか最後の展開で全部色々と伝わってきて感動所の話じゃないです😿レゼ編見た時と同じぐらいの喪失感です🙀自分の涙で日本海作れるくらい感動しました😭😭