THE ROOMの店内には、季節を感じさせるような装飾はほとんどない。
けれど、異様なほど効きすぎた冷房の風が、夏の訪れをひそかに告げていた。
営業終了後の夜。
チカはミサキにカラーをしてもらっている。
「夏休み、いつ取ろうかな?」
カラー剤を塗ってもらいながら、チカはケータイのカレンダーを眺めてつぶやいた。
が、いつもの調子で返ってくるはずのミサキの嫌味が、なぜか返ってこない。
不思議に思い、鏡越しにミサキの様子を伺う。
一点を見つめるようにして黙々と手を動かす彼女の横顔は、どこか浮かない。
何かを考え込んでいるようで、その横顔にはいつもの冴えや鋭さがなかった。
「ねぇ、ミサキ。このあと飲みに行こうよ!」
そう声をかけると、ようやくミサキが少しだけ表情を動かす。
いつも助けてもらってばかりだった。
今日はその恩を、少しでも返したい。
今度は私の番だ。
カラーが終わり、居酒屋へ向かうために二人がエントランスを通り抜けようとしたその時――
外には、通話中のジュンが立っていた。
彼の声に気付かれないよう、チカとミサキはそっと目礼をする。
するとジュンは耳から少しケータイを外し、「お疲れ」と軽く会釈して、また通話に戻った。
その瞬間、ふと聞こえてきた名前。
“メグミ”
何気ないその一言に、ミサキの表情がかすかに翳った。
――誰だろう、“メグミ”って。
ジュンに彼女がいないことは、チカも知っている。
けれど今は、あえて口に出さなかった。
ミサキの隣で、何も言わず歩く。
やがて、以前ケンやジュンに連れて行ってもらった居酒屋、麗へ到着した。
今ではチカのお気に入りの場所でもある。
席に着くやいなや、待ちきれなかったようにチカが口を開く。
「ねぇ、やっぱり何か悩んでるよね?」
「ないない! 悩みなんてないし」
そう笑うミサキだったが、その笑顔はどこか無理をしているように見える。
目が笑っていなかった。
「じゃあ、質問にちゃんと答えて」
チカが真剣な眼差しで言うと、ミサキの作り笑いがふっと消えた。
「ジュンさんのこと、どう思ってる?」
「えっ……?」
一瞬でミサキの顔から色が引いた。
焦りと動揺が、そのまま言葉になって表れる。
「ずっと気になってるでしょ?」
その核心を突く問いに、ミサキはついに観念したように、小さく頷いた。
普段はどこか余裕のあるミサキが、その瞬間だけ、年相応の恋する女の子の顔になった気がした。
いつもは芯が強くて、姉御肌で、頼れる存在だったミサキ。
だけど今夜の彼女は、小さくて、繊細で、可愛らしく見える。
それは、きっと――
ずっと言えずに抱え込んできた想いがあったから。
そして、止まっていた口が、ようやく動き出す。
心に積もらせていた言葉たちが、堰を切ったようにあふれ出した。
「前にジュンさんが言ってたんだ。社内恋愛だけはしたくないって。確かに、社内恋愛っていい話をあまり聞かないし……。それに、ジュンさんからしたら私なんて、ただの後輩だし。だから、恋愛対象にすら入ってない気がするんだよね」
ミサキはグラスを軽く揺らしながら、切なげに視線を落とした。
「……でも、好きなんだよね。どうしたらいい?」
チカはレモンサワーをひと口飲んでから、腕を組み、しばらく黙り込む。そして、何かを決意したように顔を上げた。
「夏休みさ、またみんなで旅行に行かない?」
「えっ? なんでそうなるの?」
思いもよらない提案に、ミサキはあきれたようにため息をついた。
「思い返してみて? ケンと私だって、あの旅行がきっかけだったんだよ? 旅行なら職場とは違うジュンさんの一面も見られるし、自然に二人きりになる時間だって作れるかもしれない。それに、逆に言えば、ミサキが職場とは違う自分を見せられるチャンスでもあるんじゃないかな?」
チカは、自分の言葉が余計なお世話かもしれないと感じながらも、どうにかしてミサキの力になりたかった。その一心でまっすぐに思いをぶつけた。
「……たしかに。楽しそうだし、それもアリかもね」
ほんの少しだけれど、ミサキがいつもの明るさを取り戻したような気がした。
その様子を見て、チカは勢いよくとどめの一言を放つ。
「“メグミさん”については、私も気になるからケンに聞いてみる!」
「チカ……ありがとう。おかげで、少し元気出たよ」
ミサキはそう言って微笑んだが、その瞳はほんのりと潤んでいた。
――ねえ、ミサキ。
“偶然”っていうのはね、神様がくれる“運命”のヒントなんだよ。
その“偶然”を“ただの出来事”で終わらせるのか、“運命”に変えていけるのか――
それは、自分次第なんだ。
私は、ほんの小さな“きっかけ”を作ってあげたかっただけ。
だって、あなたがかつて私にそうしてくれたから。
家に着き、合鍵でドアを開ける。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって、自然と声が出た。
ケンは相変わらず仕事が忙しい。
明日が休みの日は、決まってチカがケンの家に泊まりに来る。
夕食を作り、帰りを待つのが、いつの間にかふたりの日常になっていた。
帰ってくるのはいつも、日付けが変わる頃。
ときには眠ってしまうこともあるけれど、目が覚めると、隣にはケンがいて。
「おかえり」と「おはよう」を、いちばんに届けられる――
そんなささやかな幸せを、チカは大切にしていた。
気づけば、うたた寝をしていた。
カチャッという鍵の音で目を覚まし、急いで玄関に駆け寄る。
「ただいま」
「おかえり!」
「寝ててよかったのに。……でも、いつもありがとう」
ケンがチカの頭をやさしく撫でる。
その一瞬で、眠気なんてどこかへ吹き飛んでしまう。
「ご飯、食べる?」
「うん」
缶ビールのプルタブを引いたケンが笑顔で頷いた。
作り置いておいた肉じゃがを温めて、ケンの前に出すと、彼は嬉しそうに箸を進める。
その隣に座ったチカは、気になっていたことを切り出した。
「ねえ、ジュンさんって……好きな人いるのかな?」
箸を持っていたケンの手が、ふと止まる。
「どうして?」
――一瞬、ケンの表情に何かが過った。
そのわずかな“間”が、チカの胸にざわつきを生む。
「ミサキが気になってるみたいで……ケン、“メグミさん”って人、知ってる?」
その名を口にした瞬間だった。
ケンは突然むせて咳き込み、慌ててビールを口に含んだ。
「……どうしてチカが、メグミのことを?」
咳が収まりきらないまま、ケンは少し驚いた表情でチカを見た。
「今日、ジュンさんが電話でその名前を呼んでたの。私とミサキがいる前で。偶然だったけど、ミサキ……ちょっと気にしてるみたい」
チカがそう言うと、ケンは少し黙って箸を置いた。そして、目線を少し泳がせたあと、小さく頷いた。
「ああ……メグミは、ジュンが美容学生だった頃に好きだった人だよ」
「やっぱり……。でも“好きだった”って、今はもう違うってこと?」
ケンは少しだけ眉をひそめ、言葉を選ぶように息を整える。
「話すと長くなるんだけど――」
そう前置きしながらも、ケンはゆっくりと語り出した。
* * * * * *
ジュンとメグミが出会ったのは、偶然でありながらも、どこか運命めいていた。
それは、美容専門学校の卒業間際に行われた、学校主催のヘアショーの当日。
ジュンはそのステージに出演することになっていたが、モデルを頼んでいた女性が、時間になっても現れなかった。
焦りに焦ったジュンは、来場していた観客の中からモデルになってくれる人を必死で探し回った。
そのとき、彼の目に飛び込んできたのが“メグミ”だった。
色白で透き通るような肌、凛とした目元、整った顔立ち。
彼女は一瞬でジュンの目を奪った。
「お願いです、モデルを引き受けてもらえませんか!」
ジュンの切実な願いに、戸惑いながらもメグミは頷いた。
その瞬間から、二人の物語が始まった。
言葉は少なくても、互いに惹かれ合っていることは明らかだった。
まるで初めから決まっていたように、二人は自然と恋に落ちていった。
けれど――その時から、二人はうっすらと気づいていたのかもしれない。
これは、淡く儚い恋なのだと。
ジュンは卒業後すぐに美容室へ就職し、技術を磨く毎日に追われた。
メグミもまた、外国語専門学校を卒業し、通訳としての道を歩み始めた。
互いに仕事に没頭し、会う時間はどんどん減っていった。
それでも、週に二度だけは必ず電話をかけ合った。
頼りない電波が、ふたりの心をなんとか繋ぎ止めていた。
そんなある夜の電話。
メグミは、静かに告げた。
「仕事で、ニューヨークに行くことになったの」
それは、彼女の長年の夢だった。
ジュンの胸に浮かんだのは、二つの想いだった。
――行かないでくれ。
――でも、行っておいで。
何度も心の中でその狭間を行き来し、ジュンはついに言葉を選んだ。
「すごいじゃん! 海外に行くの、メグミの夢だったもんな。行っておいで!」
精一杯の笑顔を声に乗せた。
強がりだった。でも、それがメグミのためだと思った。
声を聞けば聞くほど寂しくて、
“会いたい”と願えば願うほど切なくて。
想えば想うほど、胸が締めつけられた。
互いに心を通わせていた二人だったが、想いを告げることもないまま、“友達”として別れを迎えた。
運命は残酷に、ふたりの愛を静かに引き裂いていった――。
* * * * * *
「想い合っているのに一緒になれないなんて、何だか切ないね……」
「――ああ。大切な人が隣にいるだけで幸せなんだってこと、忘れないようにしよう。それは決して当たり前なんかじゃなくて、すごく特別なことだから」
その言葉を聞いた瞬間、チカはたまらずケンの背中にぎゅっと抱きついた。
ケンはチカの手を包み込み、静かに、諭すように呟く。
「どこにも行かないよ。大丈夫」
チカの心に、そっと温かな灯りがともる。
でも、ジュンとメグミの話を今の自分たちに重ねてしまいそうになって――
チカはその気持ちを振り払うように、話題を変えた。
「ねえ、8月って連休取れそう?」
「どこか行きたいの?」
「うん、キャンプ旅行に行きたくて! ジュンさんとミサキと……ユウカちゃんも誘って、みんなで!」
「わかった。何とかしてみるよ」
そう言ってケンは、いつものように優しくチカの頭を撫でた。
それぞれが忙しい中、休みを合わせるのは簡単ではなかったけれど――
それでも何とか調整し、8月の上旬に、奥多摩のキャンプ場へ行くことが決まった。
【キャンプ旅行当日】
午前中、五人は集合し、キャンプ場のある奥多摩へと車で向かった。
奥多摩――東京と山梨の県境に広がる大自然。車でわずか2時間ほどの距離とは思えないほど、喧騒から切り離された静けさがあった。
「着いたーっ!」
チカは雲ひとつない青空に両手をかざし、大きく深呼吸した。
胸いっぱいに吸い込んだのは、澄みきった空気と、緑の匂い。
目の前に広がるのは、東京とは思えないほど鮮やかな緑の世界だった。
ふと、故郷・福島の会津若松を思い出す。
あの頃感じていた風のにおいや、遠くから聞こえる蝉の声――そんな断片的な記憶が、今の風景とどこか重なっていた。
ケンは幼い頃、おばあちゃんとよくキャンプをしていたという。
テントサイトに到着すると、迷いのない手つきで石を組み、あっという間にかまどを作り上げて火を起こす。
炎がぱちぱちと音を立てて揺れるたび、どこか懐かしい空気が漂ってくる。
チカが手作りした“旅のしおり”には、役割分担がきっちり記されていた。
調理係の欄には、ミサキとジュンの名前。
二人はテーブルを囲みながら、笑い声を弾ませ、楽しそうにカレーの下ごしらえをしていた。
まるで、ほんの少しだけ恋人同士のようにも見える。
その一方で、ユウカはというと――
川の浅瀬に腰を下ろし、飲み物とスイカを冷やすための囲いを作っている……はずが、どう見ても遊んでいるだけだ。
「ユウカー!」
テントを組み立てながら、ケンが少し大きめの声で呼ぶ。
「なにー?」
「ちゃんと着替えてから遊びなさい! あと麦わら帽子とサングラスしなきゃだめって言ったろ!」
ユウカの左目は、直射日光に極力当ててはいけない。
日中の外出には帽子とサングラスが必須条件だ。
「はーい、ごめんなさーい」
チカは、まるで父娘のようなやり取りに目を細める。
微笑ましくて、思わず頬がゆるむ。
気づけば自分でも気付かぬうちに――未来の妄想へと思考が飛んでいた。
もし、あの二人が本当に親子だったら……。
もし、自分もその輪の中にいたなら……。
「ぼんやりしちゃって、どうしたの?」
ユウカの声が、ふわりと現実へ引き戻す。
「……ちょっとね」
曖昧に笑いながら視線を戻すと、ユウカが何かを差し出してきた。
「これ持ってきたの。夜になったら、みんなでやろうよ!」
それは、小さな箱に入った線香花火だった。
「夢だったんだ。線香花火、みんなとやるの」
「うん、やろう。きっときれいだよ」
チカはユウカの頭を撫でながら、胸の奥にふと浮かんだ疑問に思いを馳せた。
“夢”――
ケンの夢は、“メイクでたくさんの人を笑顔にすること”。
それはよく聞いていた。
でも、“その先”の夢って、なんだろう?
私は……ちゃんと、聞いたことがあったかな?
そんなふうに思考が深まっていった時――
「カレーできたよーっ!」
ミサキの明るい声が、キャンプ場に響いた。
風に乗って漂ってくる、スパイスの香り。
それだけで、みんなの表情がいっせいにほころぶ。
昼食後は川遊びに夢中になり、気づけば西の空に夕陽が傾きかけていた。
空気がゆっくりと金色に染まりはじめ、自然とみんなの動きも落ち着きを帯びていく。
バーベキューの準備を始めたのは、夕陽が山影に隠れかけた頃だった。
焼けた食材の匂いと笑い声が、森の中に小さな灯りのようにぽつぽつと浮かぶ。
食べ終わる頃には、朝からはしゃいでいたユウカの瞼がだんだん重くなり、あくびが止まらなくなっていた。
その様子に気づいたチカが、ユウカの頬をそっと指でつついた。
「そろそろ、線香花火やろうか?」
「うん!」
眠気と興奮が交じった声で返事をしたユウカの瞳は、夜空の星のようにキラキラと輝いていた。
火を囲むように全員が輪になってしゃがみ、一本ずつ線香花火に火を灯していく。
じわじわと火玉が膨らみ、小さな命のような赤い光がぷっくりと芽吹いた。
やがてパチパチと細かな音を立てながら、蕾のような火の玉が小さく震え、牡丹のように力強く火花を咲かせる。
続いて松葉のような細長い火花が激しく枝垂れ、闇の中に大輪を描く。
時間がゆっくりと流れていた。
次第に音は細くなり、火花はやさしく静かに揺れはじめる。
そして散り菊となり、わずかな火の粉を残しながら、名残惜しそうに燃え尽きていった。
誰も言葉を発さなかった。
その一瞬の美しさに、誰もが見入っていた。
――線香花火。
儚くも確かな輝きを放つその姿は、どこか人の一生に似ていて、胸の奥を切なく締めつける。
ふと視線を向けると、ミサキが笑顔を浮かべていた。
けれどその瞳の奥には、ほんのわずかな寂しさが滲んでいた。
「最後にもう一本ずつあるの!」
ユウカが満面の笑みで別の袋から線香花火を取り出し、みんなに一本ずつ配っていく。
それは、彼女にとっても“夢”だった。
チカはそっと火を灯した。
お願い――
この光が、もう少しだけ続いてくれますように。
消えないで。
落ちないで。
胸の奥で祈るように願いを込めながら、静かに火花を見つめた。
その一瞬に、永遠を閉じ込めるように――。
やがて、はしゃぎ疲れたユウカは女子用テントで静かに眠りについた。
辺りはすっかり夜の帳に包まれている。
雑音ひとつない、完全な静寂。
空を見上げると、都会では見られないほど澄んだ星空が広がっていた。
その星たちは、まるでこの夜の思い出をひとつひとつ刻みつけるように、静かに瞬いていた。
ミサキとジュンをふたりきりにしてあげるため、チカとケンは夜の川辺へと静かに散歩へ出かけた。
街灯でもネオンでもない、柔らかくて澄んだ月明かりが、ふたりの肩をやさしく照らしている。
「ねえ、ケンの“この先の夢”って、何?」
並んで歩く歩幅は自然と重なり、草の上を踏む音だけが静けさに溶けていく。
少しだけ間を空けて、ケンが口を開いた。
「ユウカの左目に医療メイクを施した時や、入院患者さんたちにメンタルケアのためのリハビリメイクをさせてもらった時――心から思ったことがあったんだ」
立ち止まり、月光の下でチカの瞳をまっすぐに見つめる。
「日本にはまだ存在しないけど、いつか医療メイクとリハビリメイクに特化した店を出したいって。病院と提携して、誰でも無償でそのメイクを受けられるようにしてさ――。そこが、心の拠り所のような場所になればいいと思ってる。そして、たくさんの笑顔を作りたい。“笑顔”っていう、誰もが美しくなれるメイクがあることを、伝えたいんだ」
チカはその言葉を聞きながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「……ケンらしい夢だね」
そう言ったチカに、ケンはふと冗談めかした口調で笑った。
「その店に美容室も併設してさ。チカも一緒にやる?」
「うん! それ、いい! やろうよ、絶対!」
子どものように目を輝かせるチカを見て、ケンはまた少し、照れくさそうに微笑んだ。
ふと夜空を見上げたチカの目に飛び込んできたのは、まるで宝石を散りばめたような星の海。
「東京でも、こんなにたくさん星が見えるんだ……」
今にも星がこぼれ落ちてきそうな空を見つめていたその時、不意に一筋の光が夜空を横切った。
「あっ! 流れ星!」
チカは反射的に手を合わせ、ぎゅっと目を閉じた。
――私たちの夢が、叶いますように。
それは短くも強い願いだった。
テントサイトに戻ると、さっきまで火を囲んでいたはずのミサキとジュンの姿が見当たらなかった。
女子用テントにそっと入ると、ユウカの隣でミサキが寝転がっていた。
小さく息を整えながら、チカはミサキの耳元で囁く。
「……話せた?」
「うん……」
短く答えたミサキの顔は、どこか沈んだ影をまとっていた。
何か、あったのかな?
そう思ったチカだったが、隣ではユウカが眠っていて、すぐ向かいのテントにはジュンもいる。
聞きたくても、この夜の静けさがそれを許してくれそうにない。
胸の奥に小さなひっかかりを残したまま、チカは疲れた身体を横たえた。
気づけば、夜の虫の声に包まれながら、ゆっくりと眠りに落ちていた。
【翌日】
昨夜の月明かりの下で見たミサキの沈んだ表情が嘘のように、朝の彼女は明るく、元気な様子だった。
――けれど、チカは気づいていた。
その笑顔の裏に、無理をして明るく振る舞っている影があることに。
帰りの車中。
楽しかったはずの旅の余韻に包まれながらも、チカは何度もミサキの横顔を盗み見ていた。
窓の外を眺めているミサキは、いつも通りの朗らかな笑顔を浮かべている。けれどその瞳の奥には、拭い切れない切なさが潜んでいるように見えた。
――気づかないふりは、もうできない。
チカはそっとケンの耳元に顔を寄せ、声を落として囁いた。
「今日は、ミサキの家に泊まってもいい?」
ケンは何かを察したように、小さく何度か頷いた。
車はやがてミサキの家の前に到着し、停車する。
チカは後部座席でユウカに手を振り、そして助手席にいるケンにも小さく微笑んでから車を降りた。
「ありがとうございました! 本当に、すごく楽しかったです!」
チカとミサキは並んで深くお辞儀をし、その後、静かに車のドアを閉める。
去っていく車を見送りながら、ミサキは寂しそうにテールランプを目で追っていた。
その姿に、チカは何も言わず、そっと手を伸ばしてミサキの手を握る。
「今日はミサキの家に泊まらせて。キャンプで余った酎ハイがまだあるでしょ? 家で飲もうよ!」
「うん……」
控えめな返事だったが、その瞳にほんの少しだけ光が戻ったようにも見えた。
部屋に入り、チカはソファに腰を下ろすと、迷いなく口を開いた。
「楽しかった?」
「すごく楽しかった……」
「――じゃあ、どうしてそんなに切なそうなの?」
チカの言葉に、ミサキはふと呼吸を整える。
沈黙が落ちる。
その中で、静かに――ミサキの口が開いた。
「昨日の夜、ジュンさんに聞いたんだ。メグミさんのこと」
チカは黙ったまま、静かに頷いた。
「それを聞いて……私って、まだまだなんだなって思ったの。女性らしさとか、魅力とか――」
しんみりと語るその声には、どこか寂しさが滲んでいた。
けれど次の瞬間、ミサキは不思議と微笑んでいた。
「だからね、思ったんだ。もっと自分を磨いて、自信が持てたら……そのときに、ちゃんと想いを伝えようって」
「うん! きっとその想いは伝わるよ! だって、もし私が男だったら、ミサキみたいな子と付き合いたいって思うもん!」
チカの言葉に、ミサキがクスッと笑った。
そして、いつもの調子で言い返す。
「私はチカみたいな彼女は絶対イヤだな!」
「なんでよっ!」
「当たり前でしょ? こんな甘えん坊で泣き虫な子を彼女にしたら、大変だもん!」
チカはぷくっと頬を膨らませて、子どものように抗議の顔を見せた。
「うそうそ!」
そう言って、ミサキは少し真面目な顔に戻る。
「本当はね、チカには恋人じゃなくて……ずっと親友でいてほしいから」
その言葉に、チカの目がゆっくりと潤んでいく。
「ほら、やっぱり泣いた!」
笑いながらも、ミサキの瞳にも薄く光るものが浮かんでいた。
きっと私達は、互いのために何でもしてあげたいって思ってる。
喜びは一緒に笑って倍にして、悲しみは分け合って半分にする。
そんな関係が、きっと“親友”という言葉じゃ足りないくらいに尊いんだと思う。
もし恋愛に“永遠”を願うのなら――
私は、ミサキにこの言葉を贈りたい。
私とあなたは、“永続”だよと。
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