コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
7月に入り、アートプラネッツの夏のミュージアムも、いよいよオープン間近となった。
世間の注目度も高く、前売り券も飛ぶように売れる。
休日やお盆期間は混み合うことが予想され、インターネットからの事前予約制にしたが、あっという間に満席になった。
プレオープンまであと1週間と迫ったある日。
透は思い立って、由良にメールを送った。
『由良ちゃん、お久しぶりです。元気にしてますか?
実はアートプラネッツが手掛ける夏のミュージアムが、もうすぐオープンします。
そこで由良ちゃんにお願いがあるんだけど。
ひと足先にミュージアムを体験してもらって、感想を聞かせてもらえないかな?
ゲストの目線で意見を聞かせて欲しくて。
お仕事が忙しいと思うけど、もしご都合が合えばぜひお願いしたいです』
そう書きつつも、本当は由良の心を少しでも癒やしたかった。
一日一緒に過ごしたあの日の、別れ際の由良の言葉が忘れられず、透はずっと気になっていた。
(言葉で慰めるのではなく、彼女の心に寄り添いたい。俺が出来るのは、やっぱりこれしかない)
そう思い、由良がミュージアムに来てくれるようにと願った。
するとしばらくして、相変わらず丁寧な文面の返信があった。
『透さん、先日は何から何まで、本当にありがとうございました。とても楽しい一日でした。
アートプラネッツのミュージアム、私も以前からとても気になっていたんです。
瞳子さんも千秋さんも、すごく楽しいってお話してくれたので。
実は密かに、夏のミュージアムがオープンしたら、お邪魔するつもりでした。
せっかく透さんにお声掛けいただいたので、お言葉に甘えて、ひと足早く伺ってもいいでしょうか?』
読み終えると、透は頬を緩めてすぐに返事をした。
『もちろん!俺がVIP待遇でご案内します。いつがいいかな?』
『ふふっ、VIPなんて嬉しいです。明後日は仕事が夕方に終わるので、そのあとはどうでしょうか?』
『うん、大丈夫だよ。じゃあお仕事終わったら連絡くれる?迎えに行くから』
『はい、よろしくお願いします。わあ、楽しみ!』
俺も、と書いてから慌てて消して打ち直す。
(なんか下心あるみたいだもんな)
下心ある人にしか優しくされたことがない、と言っていた由良の言葉を思い出す。
(もちろん俺は下心なんてないぞ。ある訳がない。由良ちゃんに、ミュージアムの感想を聞きたいだけだ。そう、あくまで仕事の一環なんだ)
己にそう言い聞かせ、
『それじゃあ、明後日ね。よろしくお願いします』
とだけ書いて送信した。
「由良ちゃん、お待たせ」
「透さん!今日は車なの?」
「うん。今日の君はVIP待遇だからさ。なーんて、リムジンじゃなくて会社の車だけどね」
「あはは!嬉しいです」
2日後。
仕事を終えた由良から連絡をもらい、透は最寄り駅まで迎えに来た。
助手席のドアを開けて由良を促すと、早速ミュージアムへと車を走らせる。
「わあ、運転してる透さん、かっこいい!」
「え、そうかな?」
「うん。免許取りたてって感じがしないし、なんだか10年くらい運転してるベテランみたいに見える」
「ゆ、由良ちゃん。俺、免許取りたての18歳じゃないよ?もう12年運転してる」
「ええー?!そんなに?」
「ちょっと、また年の話?もう、何回言えば覚えるの?俺、透じゃなくて『みそじ』って名乗ろうか?」
「あははは!みそじ!面白い!31になったらどうするの?」
「みそいちって名乗る」
「みそいちー?!」
由良はお腹を抱え、目に涙まで浮かべて笑っている。
「あー、おかしい!透さんといると、会って5秒で笑っちゃう」
「マジで笑える5秒前ってやつ?」
「違ーう!」
くだらない話で盛り上がっているうちに、あっという間にミュージアムに到着した。
「どうぞ、入って」
「はい、お邪魔します」
透が鍵を開けて誰もいない館内に案内すると、後ろをついてくる由良が感心したように話し出す。
「透さん、すごいね」
「ん?何が?」
「だって、こんなにすごいミュージアムの鍵を持ってるなんて。仕事が出来る男の人みたい」
「はいー?鍵を持ってると仕事が出来るの?かぎばあさんじゃないんだから」
「かぎばあさん!懐かしい。ね?かぎミソジイさん」
「ミソジイ?もはや30じゃなくておじいさんじゃない」
「そうだね。あはは!」
明るく笑っていた由良は、ミュージアムの入り口を入ると、途端に目を見開いた。
「わあ、すごい…」
圧倒されたように、言葉もなく立ち尽くす。
壁一面に湖が映し出され、足元にも同じように水面が広がっている。
「なんて綺麗なの…」
由良はそっと水面に足を踏み出してみた。
するとパァーッと水の輪が広がったかと思うと、美しい蓮が1輪花開いた。
もう一歩踏み出すと、次々と花が咲いていく。
「今回のミュージアムのテーマは『水面映る世界』。水面が映し出すのは、単なる鏡ではなく、夢やオアシス、理想郷なんかをイメージしてるんだ」
「そうなのね!もうまさに天国に来たみたい」
由良は両手を組み、うっとりしながら空間をぐるりと見渡した。
するとどこからともなく風が吹いてきて、由良の髪をふわりと揺らす。
水面から大きな木が天に向かって伸び、風に吹かれた葉っぱがそよぐ心地良い音がした。
水や木々の緑、そして花の香りがかすかに薫ってくる。
五感を刺激され、身体中で自然を感じ、由良はうっとりと空間に身を委ねていた。
「可愛い!泳いでる!」
隣のホールに行くと、空間いっぱいに広がる湖の映像に、由良が描いた魚の絵を投影する。
命を与えられて元気良く泳ぎ始めた魚を、由良は笑顔で追いかけた。
捕まえようと手を伸ばすと、反応した魚がパシャンと水面から飛び上がる。
「ひゃー、すごい!跳ねた!」
由良は次々と絵を書いては湖に投影し、その度にはしゃいだ声を上げていた。
「次はね、鯉のカップル!」
そう言って、ピンクと青の2匹の鯉を描く。
「仲良く泳いでねー」
泳ぎ始めた2匹の鯉は、ハートマークを挟んで見つめ合ったまま泳いでいく。
「あはは!仲良し。恋する鯉!」
「恋する鯉?上手いね」
由良はカーペットの床にペタンと座り、たくさんの生き物達が泳ぐ様子を眺める。
「素敵ね。ここにはケンカとか嫌なことは何もないの。ただ、幸せと笑顔が溢れる輝く世界。こんなに素晴らしい世界を作り出せるなんて、透さんはすごいね」
大きなホールに、由良の小さな呟きが響く。
「私ね、キラキラした世界に憧れてたの。綺麗な衣装を着て、いつも笑顔で楽しそうなテレビの向こうの芸能人に憧れてた。あんなふうに、輝く世界に入りたいなって。でも今は、そんなふうに思えない」
透はそっと由良の横顔を見つめる。
由良は顔を上げて湖の魚達を見ながら、寂しそうに微笑んでいた。
「モデルとか、イベントコンパニオンをしてると、現場で嫌な思いをすることが多くて。控え室なんて、雰囲気最悪。他のモデルさん達みんな、こーんな険しい顔してドレッサーを陣取ったり、挨拶しても無視されたり。それなのに、いざ現場に行くとコロッと態度が変わって、よろしくねえって腕組んできたりするの。おい!って感じ」
由良は大げさに顔の表情や声色を変えながら、面白そうに話すが、透は笑えなかった。
「今までどんな仕事の依頼もOKにしてたけど、これからは模擬挙式のブライダルモデルを中心にしようかなって思ってて。それだと、他のモデルさん達と一緒にはならないから。まあ、相手役の男性とキスしなきゃいけないけど」
えっ!と透は思わず声を上げる。
「そうなの?」
「うん、多分。せめてほっぺたにしてって希望は一応言ってみるけど、唇にキスした方が喜ばれるんですって。いかにカップル達をうっとりさせられるかが、ブライダルモデルの役目だから」
「そ、そんな!好きでもない相手とキスするなんて…。それにウェディングドレスだって、女の子は一生に一度って夢見るものなんでしょ?」
「透さん、夢で人生食ってけないですよ?」
淡々と答える由良に、透はますます前のめりに訴える。
「でも由良ちゃんには、そんなふうに割り切って欲しくない。明るくて可愛くて、無邪気で素直で。そんな由良ちゃんなら、きっと寂しくなるんじゃない?本当に好きな人との結婚式に取っておきたかったなって」
「うーん…。そんなふうに夢見る時期は過ぎちゃったかな?もういいやって。大事に自分の気持ちを守っていても、報われないことが多いし」
「由良ちゃん…」
透は言葉を失う。
視線を上げると、由良は綺麗な眼差しで魚達を見つめていた。
「ダメだ」
ポツリと呟いた透に、由良が、ん?と首を傾げる。
「なあに?透さん」
「ダメだ。由良ちゃんは、ダメ」
「え?ダメって、何が?」
「由良ちゃんは、他の子達とは違う。表と裏の顔なんて使い分けてない。いつだって純粋で真っ直ぐで、優しくて明るい子なんだ。由良ちゃんには、いつも笑顔でいて欲しい。これ以上傷ついたり、寂しい思いはして欲しくない」
透さん…と、由良が呟く。
「ありがとう、透さん。その言葉だけで充分嬉しいです」
そう言って柔らかく笑う由良に、透は胸が締めつけられた。
「どうしてこんなに可愛い子が、辛い思いをしなくちゃいけないの?どうしてこんなに心の綺麗な由良ちゃんが、変な男に最低なセリフを言われなきゃいけないの?おかしいよ。納得いかない」
憮然とする透の顔を、由良が覗き込む。
「透さん?なんだか、駄々こねてる子どもみたい」
ふふっと笑う由良を、堪らず透は抱きしめた。
「え、透さん?」
由良が戸惑った声で呟くが、構わず透は更にギュッと由良を抱きしめた。
「本当は辛いことたくさんあるのに、いつも笑顔でがんばってるんでしょ?本当は夢とか憧れとか大事にしたいのに、仕方ないって押し留めてるんでしょ?君のことを何も知らない男が君を平気で傷つけても、明るく振る舞って笑い話にしようとしてるんでしょ?」
「…透さん」
「本当は泣きたいのに、泣いて誰かに受け止めて欲しいのに、我慢して笑ってるんでしょ?今も平気なフリしてるけど、本当は思い切り泣きたいんでしょ?」
由良の瞳が涙で潤む。
「由良ちゃん、俺が君を受け止める。君の寂しさや辛さ、心細さ、全部残らず受け止めるから。俺の前なら泣いていいんだよ?」
耳元で囁かれ、由良は一気に涙を溢れさせた。
「うわーん、透さん。私、私ね」
「うん」
「本当は誰かにギュッて抱きしめて欲しかったの」
「うん」
「遊びでつき合って、なんて言われて、悲しくて悔しくて…。でも、そんなふうに言われるのは、私のせいなんだろうなって自分を責めてたの」
「違うよ。由良ちゃんのことを何一つ分かってない、最低な男のセリフだ。君が気にすることなんて何もない」
「たくさん悩んで傷ついて、でも私の大切な瞳子さんや千秋さんの前では、笑ってごまかしてたの」
「心配かけたくなかったんだよね?」
「うん。誰にも相談せずに、気持ちを仕舞い込んでた。それでも私は大丈夫って思ってたの。私はそんなに弱くないからって」
「大丈夫な訳ないよ。それなのに、ずっと一人でがんばってたんだよね」
ポロポロと涙をこぼしながら話す由良の髪を、透は優しくなでる。
「由良ちゃん。これからは、遊びでつき合って、なんて酷いことを言われたら、こう答えて。本気で愛してくれる人としかつき合えないって。それから、ブライダルモデルも。由良ちゃんは、自分の本当の結婚式で、たった一度のウェディングドレスを着て、たった一人の愛する人とキスをするんだ。分かった?」
すると由良は、拗ねたような表情で透を見上げた。
「透さん、理想と現実は違うよ?そんな夢見たって、叶わなかったら余計に悲しいだけだもん」
「理想は現実になるよ。君の夢は、俺が叶えてみせるから」
…え?と、由良は真顔になる。
「どんな時も笑顔で、辛さも一人で抱えてがんばってきた由良ちゃんを、これからは俺が守りたい。泣きたい時は、俺の腕の中で思い切り泣けばいいよ。いつだって俺は君を受け止める。そしてこの先は、由良ちゃんがいつも心からの笑顔でいられるように、俺が君を幸せにする。遊びなんかじゃない。心から君を大切にする。だから由良ちゃん、俺と本気でつき合ってください。たった一度の結婚式は、俺と一緒に挙げてください。たった一度のウェディングドレスを着て、たった一人の俺とキスして欲しい」
由良は目を見開いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「え、えっと?あの、透さん」
「なに?」
「それって、つき合って欲しいっていう告白なの?それとも結婚しようってプロポーズ?」
「全部」
「ぜ、全部って!そんな大事なこと、まとめ売り大セールみたいに、一緒にしないで!」
由良が抗議するが、透はケロッとしている。
「だって、全部ほんとの気持ちなんだもん」
「いや、だからって。情報過多で頭が追いつかなくて…」
「じゃあ、一つ一つ返事してくれたらいいよ」
「返事?えーっと…」
「うん、なに?」
由良は少しうつむいてから、パッと顔を上げた。
「返事は、はい!」
「それって、どれの返事?」
「全部!あれもこれも、ぜーんぶまとめて、はい!」
「ええー?なんか大ざっぱだな」
「ちょっと、透さんが大ざっぱなこと言うからでしょ?」
「あはは!そうか。じゃあ改めて。由良ちゃん、今日から俺の彼女、いや、フィアンセになってくれる?」
「…はい」
「結婚式では、俺とキスしてくれる?」
「え…。そんなこと、恥ずかしいから聞かないでよ」
「ははは!分かった。思いっ切り熱くキスするから、驚かないでね」
「はあ?もう、そのセリフだけで驚くわ」
「あはは!」
透は笑いを収めると、優しく由良に微笑む。
「きっと結婚式では、君への想いが溢れてどうしても熱いキスになりそうだよ。でも今は、心から君を大切に想ってキスを贈りたい」
そう言うと由良の髪に手をくぐらせ、透はゆっくりと顔を寄せていく。
由良の潤んだ瞳に見つめられ、透の心はキュッと切なく傷む。
やがて由良がそっと目を閉じ、透はその可愛らしい顔に一瞬微笑んでから、優しく甘く唇を重ねた。
うっとりと身を委ねてくる由良を抱きしめ、透は愛を込めて長い長いキスを贈る。
ようやく身体を離すと、由良はふう、と吐息を洩らして、照れたように赤い顔でうつむいた。
「大好きだよ、由良」
もう一度抱きしめ、耳元でそう囁いた時だった。
由良が急にピタリと身体を固くして、透の顔を見上げる。
「え?どうかした?」
驚いた透が慌てて尋ねると、由良の顔からはさっきまでの可愛らしい表情が消えていた。
「透さん、なんでいきなり体育会系なの?」
「……は?」
透が間の抜けた声で聞き返す。
「せっかく胸キュンのシーンだったのに、いきなり『由良』なんて呼ぶんだもん。部活の顧問の先生思い出しちゃった」
「ええ?!君、顧問の先生とつき合ってたの?」
「は?なんでそうなるの?」
「だって、顧問の先生が下の名前を呼び捨てにするなんて。苗字を呼び捨てにするなら分かるけど」
「いや、だから。苗字を呼び捨てにされてましたよ?」
「なんて?」
「だから『由良』って」
へ?と、またもや透は間抜けな声を出す。
「由良って、君の苗字なの?」
「そうですよ。初めて会った時に、由良と申しますって挨拶したでしょ?」
「ええー?いや、俺、てっきり下の名前だとばっかり…」
「初対面の人に下の名前で挨拶なんてしないでしょ?私、そんなに軽いキャラに見えました?」
「いや、違うけど。由良って苗字の人、会ったことなかったから」
「確かに珍しいですよね。田中ですって名乗ったら、すぐに苗字だと思ってもらえるでしょうけど」
そうそう、と透は頷く。
「じゃあ、君の下の名前は?」
「亜由美です。フルネームは、由良 亜由美」
「亜由美ちゃんかー!なんか新鮮だな」
透はじっと顔を見つめながら、亜由美、亜由美と繰り返し呟く。
「うん!しっくり来た。可愛い名前だね、亜由美」
「ふふっ、ありがとう、透さん」
二人は笑顔で見つめ合うと、今度はチュッと可愛らしいキスをして微笑んだ。
二人の周りを、ハートマークを挟んだ恋する鯉が、ゆらゆらと泳いでいた。