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最近はお互い任務ばかりで、休日がかぶるなんて一体何か月ぶりだろう。昨日の夜から柄にもなく楽しみで、なかなか眠れなかったなんてことは五条には口が裂けても言えない。けれど沙穂は前の晩から、明日はここに行って、あれして、これして、と一人でうきうき考えていた。
二人の好きな映画のリメイク版がミニシアター上映最終日。このまま終わって配信を待つしかないかなぁと残念だったけど、何とか劇場で見れそうだ。嬉しい。
五条は遅くまで任務だったようだから、合鍵で勝手知ったる彼の部屋に午前中からやってきた。起きたら朝ごはんを作ってあげよう、と卵やベーコンも途中で買って冷蔵庫に入れている。
そして今は昼を過ぎて時計は三時を指そうとしているところだ。
まだ五条は起きてこない。
疲れているだろうから起こしたくない。でも早く起きてほしい。自分の中で矛盾している気持ちがぶつかりあって、苛々ばかりが膨らんでいく。
ちなみに、見たかった映画は十四時からの一日一回上映だからもうどう頑張っても見られない。
え?まだ起きないの?まじ?
久々のデート前から楽しみだって言ってたのに?そりゃ時間を決めてたわけじゃないけど、普通せめて昼前にはアラームかけたりしない?楽しみにしてたの、私だけじゃん。
もやもやしながらもすることがなくて掃除をしていると、洗面所の隅に沙穂のではない黒くて長い髪の毛が落ちていた。いつのか知らないけど、殺す。
「あー、沙穂、来てたの。おはよ」
家じゅうをぴかぴかに磨き上げたあと微動だにせずソファに座っていると、リビングのドアが開く音が聞こえて、のんびりとした声が掛けられた。沙穂は一応振り向いて、けれど五条と目を合わせずに低い声で、おはよう、と言った。五条もすぐに沙穂の異変を感じ取って、空気がぴりついた。一度目。
沙穂はすぐに前を向いて、手元でリモコンを操作する。あてつけのように映画を選ぶ。一緒に見ようと口約束をしていた、リメイク元のオリジナル版。沙穂がそれを選んだのを見て、五条も沙穂の怒りの根源に思い至ったようだ。
「あ、映画行く?今日行こうかって言ってたよね」
すぐ準備してくるよ、と多少なりとも気が咎めたのか五条は珍しく下手に出てきた。ただそれが何だか妙に怒りを煽って、沙穂は一言切って捨てる。
「え、二時からだから。もう間に合わないけど」
「……ふーん」
にべもない沙穂の物言いに五条も苛ついたのか、空気がまたぴりっとする。二度目。空気に電気が走るたびに険悪さはどんどん深く重くなっていく。ふー、と五条が鼻から息を深く吐いたのが聞こえた。沙穂は無視して熱心に映画を見ているふりをする。
歯磨きしてこよ、と五条は独り言を言って部屋を出て行った。
むかむかしながら沙穂は指でソファの革をとんとんとんとんと叩いている。何なのその気付かない振り。怒ってる?とか、寝坊したねごめん、とか、一言触れて来れば正面切って喧嘩して仲直りできるのに。
こういう風にお互いそこには触れないでいると、決定的な喧嘩はないが険悪な空気は長引いてかえって嫌な感じになる、ということは経験則で知っていた。けれど沙穂も五条も喧嘩が下手で、こういうことばかり繰り返している。
無言で洗面所から戻ってきた五条は冷蔵庫から炭酸水を取り、沙穂が座っているソファを避け、ダイニングチェアに腰を下ろした。口を開かず、スマホを弄っている。
こうなれば意地の張り合いで、謝ったら負け、を通り越して、口を先に開いた方が負けだ。
映画はきっかり九十分で終わり、ハッピーエンドを見届けて沙穂は無言でテレビを消した。外はもう夕方だった。本当なら二人で出かけて、晩ご飯何食べよう?と楽しく相談している頃だったろうに。
五条が起きてきた時に、もー遅いよ、と可愛らしく怒りを伝えられなかった自分も嫌だったし、核心に触れてこず近寄ってもこない五条も嫌だった。見れなかった映画と、無為に潰してしまった休日の午後。
何もかもが嫌になって、沙穂は立ち上がって無言で鞄とコートを取った。憤りと虚しさ、ほんの少しの悲しみと後悔で目の奥がしばしばする。五条の方を見なくても、彼が沙穂を冷ややかに窺っているのは分かる。
「もういい」
「何が」
「帰る」
「あそう」
引き留めてもくれない。少し話そうよ、とか、今からでも遊びに行こうよ、とか。あーあ。
少しでも乱暴にドアを開け閉めすると、子供っぽい、と思われそうだから、いつもより慎重にリビングのドアを開けて、閉めた。
玄関に座り込んで靴のストラップを足首で留める。ベージュのエナメルのピンヒール。履いて歩くと百メートルくらいですぐ後悔するのだが、自分の持っている靴の中で一番可愛いから、今日は気合を入れてそれを履いてきた。バッグもそう。可愛いだけで物は全然入らないし、コートも最高におしゃれだけど襟が大きく開いているから防寒には向いていない。
持っているもので一番可愛いもの達をあわせてきたのに、本当に馬鹿みたいだ。
自分が哀れで、目の奥がじわっと熱くなったけれど、泣いてなんてやるもんか。
玄関のドアに手を開けて、ドアノブを引く。
がちゃ、と固い音を立てて、それは開かない。
え?
鍵、かかってないよな。ドアガードだって解除されている。
それを確認して沙穂はもう一度ドアを開けようとしたが、それはびくともしない。
あれ?
少しパニックになってがちゃがちゃやっていると、後ろから五条の気配が近付いてきた。
よくよく確認すると、ドアノブと沙穂の掌の間には薄い空間が存在しているようにも見える。ああもう、信じられない。あいつ部屋全体に無下限張ってやがる。ちくしょう。ばーか。
後ろを振り返って、廊下にもたれるようにして立っている五条の目を見ず、静かにゆっくり言った。
「ちょっと」
「何」
「ドア、開けてよ」
「嫌だね」
正面で向かい合っているのにいつまでも目線を合わせないのは変だし、彼はこうやって慌てる自分を馬鹿にして悦に入っているのだ、と思って沙穂はようよう五条の顔を正面きって見据えた。
うすら笑いを浮かべているに決まっていると思ったのに、意外にも彼は子供のような顔をして唇を尖らせている。
五条の真意を測りかねて沙穂が顔を見つめていると、先に居心地悪げに視線を外したのは彼だった。
「開けたら沙穂、帰っちゃうじゃん」
沙穂が言葉を返せないでいると、五条は大股で近付いて、玄関に裸足で降りてきて、ふう、と小さく息をついた。
彼女に覆い被さるようにして、五条は開かないドアに腕をつく。寄り掛かってくるように顔が近付いて、沙穂は思わず俯いた。さらさらとした銀髪が沙穂の額をくすぐる。
「…悪かったよ。起きるの遅くなった」
ごめんね。と溜息に紛れた謝罪が降ってくる。その声は小さいのに頑なになっていた沙穂の心にぽつんと落ちて、強張っていたところがじわじわと溶けてくる。けれどまだ笑顔を見せる気にはならなくて、沙穂は下を向いたままぼそぼそと口を開く。
「私も……意地張りすぎた、かも」
うんまぁ何か勝手に怒ってたから何だこいつとは思ったけどね、と五条が半笑いでかぶせてくるので、尖ったピンヒールの爪先で思い切り五条の脛を蹴り上げる。硬質な感触。あ、まだ無下限張ってるな。ちぇ。
ふぅ、と気持ちを切り替えるように一度息をついて顔を上げた。ぐいと唇の端を引き上げて笑みらしきものを見せると、五条も小さく笑っている。
「晩ご飯、どっか行こっか」
「うん。着替えてきて」
「オッケ。じゃあ食べたいもの考えといて」
くるりと踵を返しかけた五条が、あぁ、と声を上げてまた沙穂に向き直る。
「何」
「仲直り」
ちゅ、と音を立てて柔らかな感触が唇を掠めていく。
今度こそ五条は上機嫌に寝室のクローゼットへ向かっていった。
仲直りをすれば、意地を張っていたのが馬鹿みたいだ。
沙穂はバッグからスマホを取り出した。五条が身支度を終えるまで、映画館の上映スケジュールを調べ始める。
別に見たかったあの映画じゃなくてもいい。
夕食を取ったら、指を絡ませ合って薄暗がりの中、彼と一緒にスクリーンを眺めたいなと思った。