二人はダイニングへと案内され、陽翔と百子は陽翔の母が座るまで椅子の側に控えていた。陽翔の母の隣にいるはずの陽翔の父は、彼女によるとどうやら仕事が立て込んでいて未だに到着していないらしい。時間を守れよと陽翔のつぶやく声がして、百子は陽翔の母にびしびし言われた時以上に落胆していた。
「どうぞお掛けになって」
陽翔が座り、百子は勧められるまま掛けようとしたが、持っていた紙袋を捧げるように差し出した。
「失礼します……いいえ、その前にこちらを。陽翔さんからお好きだと伺いました。本日はお招き下さり感謝致します」
陽翔の母は目を見開いてつかの間彼女を探るように見つめていたが、頭を軽く下げた百子には見えていない。百子は両手の感触が軽くなったことにホッとして、彼女に微笑みかけてから着席した。
「少しだけ待ちなさい。お茶を淹れるわ」
百子の気のせいだとは思うが、幾ばくか声の硬さが和らいだ彼女は、そう言い残すと台所へ消えていく。それを見計らった陽翔がテーブルの下から手を握って来たので百子は彼に目を向ける。
「すまん……うちの親がいろいろと失礼をしちまって……」
「いいのよ……ある程度予想はしてたから」
陽翔が素性を打ち明けてくれた時から、百子は嫌な予感がしていたのだ。それなりに親が社会的地位のある人間なら、当然子供の配偶者にはなるべく生活水準の対等な人物を宛てがいたいと考えるのは自然な流れである。例え陽翔が社長にならずとも、似たような育ちの人間の方が、育ってきた環境がまるで違う人間と暮らすよりは価値観の齟齬が少なく、互いの育った環境に理解があるために難易度が下がるのだ。
(そして今回の場合は……私が間違いなく陽翔よりも格下になるし)
しかも陽翔の場合は一度婚約破棄を経験している。そうなれば次の候補に対して諸々厳しくなるのも致し方無いと百子は考えた。陽翔の父が遅れている現状と、陽翔の母の冷たい態度には流石に落胆していたが。
足音のする方を向くと、陽翔の母はよく冷えた麦茶のグラスを漆塗りの丸い盆に乗せてやって来た。自分の前にグラスが置かれると、百子は感謝の言葉を掛けて頭を軽く下げた。そして彼女が椅子に座るまで頭を上げずにいた。
「私が紹介した縁談を全部蹴ったと思ったら、急にお相手を連れて来るなんてね。電話貰ったときはびっくりしたわ。しかも結婚を前提にだなんて。あの時の二の舞いは勘弁なのだけど」
「今わざわざそれを言うのか? 俺はそんな話をするために百子を連れてきたわけじゃないぞ」
「本当のことを言ったまでよ。もう終わったことだし」
再び親子の応酬が始まって、百子は首を竦めて彼らの言葉を頭上に躱す。わざとなのか元々なのかは不明だが、陽翔の母の百子に対しての無礼で配慮に欠ける振る舞いを見ていると、自ずと彼女の目的が浮き彫りになってくる。百子が果たしてここにいても良いのかと疑問を感じてしまうのも無理もない。
「あら、驚かないのね。陽翔から聞いてたの?」
彼女は急に百子に話を向けてきたので、百子は一瞬だけ反応が遅れた。百子が首肯したのを確認した陽翔の母はゆっくりと告げる。
「それなら話は早いわ。陽翔は一度婚約破棄を経験してるの。だからこれからのお相手選びは慎重にならなければとこちらとしては思ってます」
「母さん! 何言ってんだ!」
「陽翔は黙ってなさい」
噛み付く陽翔を一言で黙らせた陽翔の母はきっぱりと言い放つ。
「悪いことは言わないわ。百子さん、陽翔と手を切ってくださいな」
(やっぱり……)
反対の言葉を突きつけられたことに対しては驚いてはいないのだが、やはり心が凍てついた氷で覆われているかのように重く、冷たく沈んでいく。百子は思わず回れ右をしたくなったが、逃げるために来た訳ではないと言い聞かせてその場にとどまる。
「勝手なことを言うな! 母さんに百子の何が……!」
「陽翔、私は百子さんとお話してるの。邪魔しないでちょうだい」
陽翔は口を一瞬だけつぐんだが、低い声で告げる。
「いいや、するね。あんなに百子に対して無礼なことをしておいて黙ってられるか! 百子に対する無礼は俺への無礼も同然なのに、わざわざそんなことをするなんてどうかしてる! 父さんも父さんだ。事前に伝えてあったのに遅刻なんてあり得ないだろ! 遠いところからわざわざ挨拶に来てくれてるんだぞ? そっちがそのつもりなら俺だっていくらでも無礼になっても問題ないはずだ! 俺も百子も時間を割いてるのに、そっちだけ守らなくてもいいだなんて、そんな屁理屈が通るかよ!」
陽翔の母は彼の言葉に眉を顰めるでもなく、憤る訳でもなく淡々と告げた。
「健二さんは会社の用事で遅れてるだけ。あの人しか対処できないから致し方ないわ。陽翔、健二さんは貴方達のことだけを考えてる訳にもいかないの。小さな時から言い聞かせているのに、そちらこそ忘れたの?」
陽翔は相変わらず顔を真っ赤にしていたが、百子は理不尽に思いながらもこっそりと首肯した。祖父が同じことを言っていたのを思い出したからだ。一緒に遊んでいた祖父が電話一本で飛び出してしまい、何度も泣いていたこともある。泣いても帰って来なかったことに失望した百子は、次第に祖父に対して不信感を募らせていった。同じ時間を共有できない悲しみや寂しさは、後で事情を説明されたとて拭えないものであり、祖父は埋め合わせにと旅行に連れて行ってくれたり、ぬいぐるみやお菓子や図鑑や本を買ってくれたりしたが、それでも百子の心の穴は埋まらなかった。
「あら、百子さん。我が家の事情もご存知なの? それなら尚の事陽翔と手を切って下さいな。これは貴女のためでもあるのに」
室温がエアコンの設定温度よりも三度ほど下がった気がした。話を振られた百子は驚いてワンテンポ反応が遅れたが、ゆっくりと話し始める。
「……はい。陽翔さんが教えてくれました。でも陽翔さんと手を切ることは致しません」
きっぱりとしたその声に、陽翔の母どころか陽翔も驚いて百子を見る。
「その事情を知った後も、私は陽翔さんと一緒にいたいと、そう思ったんです。陽翔さんは元彼の浮気でボロボロになっていた私を何も言わずに介抱してくれました。疲弊した心に寄り添ってくれました。二人で協力して暮らして行くうちに、私はこれからも一緒に陽翔と同じ未来を歩んで行きたいと、そう思ったのです。それに……私も陽翔さんの家の事情は少しですが理解できます……私は、私の母は……」
百子が言葉を続けようとしたら、不意にインターフォンが鳴って彼女は口を閉ざす。陽翔の母は百子に一言断りを入れて応対のためにモニターを確認して、二言ほど話すと玄関へと向かったが、既にドタドタと慌ただしい音がリビングまで届いていた。残された二人は顔を見合わせたが、リビングの扉が開けられて音のする方角に目を向ける。
「遅れて申し訳ない。わざわざ遠くからお越し下さったのに、迎える側が遅くなりお詫び申し上げます」
紺色のスーツを着こなした、陽翔よりも僅かに小柄な男性が、百子に向かって頭を下げていた。ごま塩色なその頭頂は、少しばかり涼し気になっていたが、百子は見てみぬ振りをして否と返答した。