第一章:雨の放課後、君の名前を呼ぶだけで
夕方、教室の窓に小さな雨粒が打ちつけていた。
梅雨の季節の気まぐれな空は、誰かの感情を映す鏡みたいだ、と僕は思った。傘を持ってきたかどうかさえ曖昧で、ぼんやりと窓の外を見つめていたそのときだった。
「雨、止まないね」
彼女の声は雨音に混じっても不思議と耳に届く。振り返ると、教室の入り口に彼女が立っていた。
長い前髪を耳にかけながら、少しだけ寂しげな笑みを浮かべていた。
「…うん。止まなそうだね」
僕はそう返しながら、自分の机の横に掛けられたカバンを見た。傘は、やっぱり入っていなかった。
「じゃあさ」
彼女はスカートのポケットから折り畳み傘を取り出して、にこっと笑った。
「一緒に帰ろ?恋人みたいに」
それは、あまりに軽い調子で言われた言葉だった。でも、その軽さが、僕の胸をずしんと打った。
僕と彼女は「付き合っていない」。でも、放課後、二人きりになることが多かった。文化祭の準備で遅くなった帰り道、勉強の話をする図書館の席、夏祭りのときも、彼女は僕を誘った。
「ねぇ、恋人ごっこって楽しくない?」
そんなことを、彼女は何度も言った。
そのたびに、僕はうなずくふりをして、心の奥で「ごっこじゃないのに」と呟いた。
彼女と並んで歩く帰り道。傘の下、彼女の肩が少し濡れていた。僕が傘を少し傾けたことに気づいたのか、彼女はじっと僕を見つめて笑った。
「ね、今日もありがとう。私、やっぱりこういうの好きだな」
「…こういうの?」
「恋人ごっこ」
その言葉が、ナイフみたいに胸に刺さる。好きだと思ってくれるのは嬉しい。でも、それが“ごっこ”なら、僕の気持ちはどこに置けばいいんだろう。
「じゃあさ、いつか本物の恋人になろうとか思わないの?」
思わず口に出してしまった言葉に、自分でも驚いた。彼女も目を見開いて、一瞬黙った。
雨音が、空気を埋めた。
そして、彼女は目を細めて、優しく笑った。
「ダメだよ、それ言ったら終わっちゃう」
「え?」
「“ごっこ”じゃなくなったら、たぶん、私たち上手くいかない」
その言葉は、僕にはどうしようもなく残酷だった。
「私ね、本当に恋がまだ怖いの。誰かに本気になるのも、誰かを本気にさせるのも」
「だから、今だけ。こうしてるのが、ちょうどいいの」
傘の下、彼女の顔を見られなかった。どんな表情をしていたか、わからなくなった。でも、雨が少しだけ強くなった気がした。
僕は何も言えなかった。傘の下で、ただ彼女の歩く足音を聞いていた。
コメント
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もう!言葉の表現の仕方が最高なんですけど?!