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あぁ、いじめすぎてしまった。泣かせるつもりも、怒らせるつもりもなかった。
「はぁー、変わんなぇな俺⋯⋯」
「ん?どーした?神楽くん」
ため息をついていた所を同じ部署の奴に見つかってしまった。
「あー、いやぁ、うーん⋯」
「あ、もしかして色恋沙汰か?神楽くんは顔がいいからな色んな女に言い寄られて困ってんだろーけどさ。」
そう言っているお前も塩顔イケメンじゃねーか。そう思って軽く会釈した後、自分の職場に戻った。
貰った編集許可証とやらを上司に提出した。だが、上司は困った顔で固まっていた。
「は?神楽くん、一ノ瀬上司に貰いに行ったのか⋯⋯?」
「あ、はい!同期の高海さんにおすすめしてもらいました。その時に一ノ瀬上司の名前が挙がっていたので成り行きで」
「⋯⋯いやぁ、あの人、パワハラが凄くてねぇ。神楽くんみたいな後輩が関わって大丈夫かなぁって」
パワハラ⋯⋯?あの、気弱でダメ男で嘘つきでウブで、初キスからなのか、それともキスに慣れていなかったのかは、分からないがトロットロになっていたあの時さんが?俺は上司への疑いの目を悟られぬよう、床を見つめつつ、話を聞いていると上司は何故か真っ黒に染まっているファイルを取り出した。
ファイル名と思われるものには『一ノ瀬時 パワハラ報告書』と記載されていた。ファイルは分厚く、そして挟まれている書類の量がとんでもないことに今更ながら気づいた。いや、気づきたくなっただけかも知れない。なぜなら、一ノ瀬さんがパワハラをしていることを是が非でも認めることになってしまうから。一ノ瀬さん一途に生きてきた俺にとってはとてもショックな出来事だった。
「これが一ノ瀬上司のパワハラ報告書だ。見たければ見なさい。幸い、今日は一ノ瀬上司と川瀬ちゃんと、前津さんがいるからすぐに仕事終わると思うよ。まだ繁忙期ではないから、今の内にこの仕事について知ることをお勧めするよ。」
そう言って、デスクに戻っていく上司に頭を下げて感謝の意を示した。俺は認めたくないという気持ちと、でも、それが真実かどうかが気になって仕方がないという気持ちがぶつかり合って非常に疲れる。恋をした、惚れたという代償はそうとう大きなものだったことにハッとした。
書類の最初には、必ず一ノ瀬さん、本人の言葉が記載されていた。だが、その度に『俺はやっていない。信じてくれ。』という近しいニュアンスの言葉を発言していたという事実がそこにはあった。
一ノ瀬さんは断じてパワハラをやっている訳では無いのかな。なんて思ってしまう自分が本当に甘ったるいことを痛感する。
好きなんだもん。先輩のファーストキスを奪えちゃった三年前。僕はその責任を取るだけ、何をそんなに、必死になって拒むのだろう。
「時先輩⋯⋯は、パワハラ上司⋯なのかもしれい⋯⋯⋯。」
そう思った僕は、真実かどうかを確かめるべく、片っ端から一ノ瀬上司について詳しい情報を探った。結果的に分かったことは、あの時の菓子サークル(以降は、菓子サーと呼ぶことにする。)に居た先輩とはまるで別人のように変わってしまったこと。。
パワハラ上司が僕の初恋⋯⋯。認めたくない真実かどうか怪しい事件。それを会社内で隠蔽しているということ。
「⋯⋯どこ行っちまったんだよ、時さん。」
僕は、人目も気にせずボソッと一言だけ呟いた。そのせいで、人に見つかってしまった。しかも最も今は、会いたくない上司だ。
「あ、神楽⋯」
そう、一ノ瀬上司だ。一ノ瀬さんが僕に頭を下げている。そんな上司を見て、気が気じゃないのが本音だ。だが、僕には僕の仕事がある。構っている時間はないのだ。(まぁ、印刷用紙を色別に分ける仕事ではあるのだけれども、別に暇ではない。)
「⋯⋯ちょっと、神楽くんの時間を俺にくれないか?」
「⋯すぐ終わる予定でしたら付き合いますよ。」
「本当か!?ありがとな!」
その眩しい笑顔は、僕の心にクリーンヒット。菓子サーの時にみた笑顔と似通っている。いや、瓜二つだ。そりゃあ、同一人物だからに決まっている。だが、一ノ瀬上司と時先輩が同一人物だと認識することを脳が拒否している。だから、別人だと考えた。
「ここの会議室は、普段誰も使ってないからここでお話しするか?」
「あー、まぁ、そーですね⋯⋯」
「はい、鍵開けた。扉は閉めるか?」
「閉めた方が話しやすいんじゃないっすか?」
「あー、⋯⋯閉めるよ。」
そう言ってパタンと音立てたドアを見つめつつ本題に入った一ノ瀬さん。
「⋯⋯お前は、椿だよな?」
早速何を言い出したんだか、同姓同名で、同じ大学からきた菓子サーの超絶仲の良かった後輩が僕だぞ。まさか⋯⋯忘れられてる?
「悪い⋯なんでもなかった。神楽椿は神楽椿だよな。」
上司は、咳払いをして、僕の目の前に立ちはだかった。少しシャツを汗で濡らしながら、そのガタイのいい肩幅を剥き出しに⋯⋯本当、日頃が心配になってくる。
「神楽、ご、午前中に怒鳴って済まなかった。あれは、上司として情けなかったと思っている。反省している。だから、落ち込まないでくれ。」
「いや、なんとも思ってないですよ。一ノ瀬さんを不快にさせたのは僕なので」
「ち⋯違⋯⋯」
あ、その戸惑い────とっても可愛いね、時さん。
ぎゅっ⋯⋯⋯思わず抱きしめたくなった。また可愛くなっちゃった。
「んなっ⋯⋯⋯⋯!?んっ⋯かぐっ⋯らぁ⋯」
「あ、すみません。急に抱きしめたくなってしまいました。」
一ノ瀬さんは、顔を真っ赤にして僕を見つめている。この人の視線を釘ずけに出来て、菓子サーに居た頃とよく似た感覚に陥って、僕は無意識に上司を押し倒してしまった。
「あ⋯⋯かぐっら⋯⋯⋯痛っっいぃ⋯」
上司が悶え苦しんでいる声を無視した。そして、僕は、上司の口を手で抑えた。
「⋯そっか、時さんって⋯⋯本当に察しが悪いですよね?」
「んっ⋯んぅ⋯⋯!!」
「んはは、いやぁ、分かるまでこのまま至近距離で見つめ合っちゃいますか。時さんは、非力なので*抵抗*なんて出来ないですよね。」
こんな可愛い人がパワハラなんてできるはずもない。そうだとしたら、警戒心が無さすぎる。もっと自分のことを大切にしてもらいたい。
どうして、そんな顔で僕のことを見つめるんですか?所詮、同じ大学の後輩というだけの存在が、一ノ瀬さんを振り向かせることは出来ないということか。あぁ、この人にならパワハラされてもいーや。
「あ、一ノ瀬さん、本当に気にしていないので⋯あと、これ。」
僕は、LINEのQRコードを見せて「連絡先交換しませんか?」と、押し倒した一ノ瀬さんの腰あたりにあったスマホを取り出しつつ尋ねた。
一ノ瀬さんはビクッと体を反応させた。口を手で抑えていて良かったと、不覚にも思ってしまった。
「あ、セキュリティなにもしてないんですね。余計に心配です。まぁ、そのお陰で登録出来るんですけどね⋯⋯」
一ノ瀬さんはそんなことも止められず、ふるふると顔を動かしてもがいてた。真っ赤に染まった頬、今にも泣き出しそうな瞳、誘ってるのかと思わせる困り眉、あの瞬間と同じ表情。三年前のあの瞬間を忘れたことは一時たりともない。
遂に口をもごもごさせ涙を流した。あ、息できないですよね。そう言って、口から手を離した。はぁはぁ、と息を漏らす可愛い上司。
「あ、あ⋯つ、ばき⋯⋯んぅ、はぁ⋯はぁ⋯」
「んふふ、まるでちゅーしたみたいですね。」
「んな⋯!?し、してないぃ⋯⋯」
「でも、もがいていましたよね。気持ちよかったですか?」
「⋯⋯ん、んなわけねぇだろ。勝手なこと言うな。」
そんなこと言って、お口、弱いんだろうな⋯⋯。一ノ瀬さんが僕のことを名前呼びで読んでくれた。質問でも、感想でもなく、普通の呼び方で。神楽呼びも言いけれど、好きな人に椿と呼ばれることは最上級の喜びだ。
「⋯⋯⋯もう、いい。連絡先交換も俺の許可なしに⋯まぁ、悪い気はしなかった⋯」
上司は立ち上がって、「まぁ、ありがとな。」と言って去っていった。勢いで押し倒してしまった。恋人でもなんでもないのに。あぁ、また嫌われたのかな。そのことが気になって、この後の仕事を真面目にこなすことすら困難となってしまった。
「上司、先輩⋯⋯あーもう!脳がバグる!!」
僕は誰もいない会議室で人目を気にせず困惑した声をだして叫んだ。この声が、一ノ瀬さんに届かずに扉の前で落ちたことを察した。
しばらくの間、その場で立ちつくし、心臓の鼓動を手で感じながらその部屋を速やかに出た。