テラーノベル
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巴さんが屋敷を出てから私の心はずっと落ち着かなかった。
時計を見るたびに帰りはまだかと自然に玄関の方へ視線が向いてしまう。
それから暫くして、扉の開く音がした瞬間、胸が大きく跳ねた。
「おかえりなさいませ、巴様」
いつも通りの挨拶のはずなのに声が少しだけ上ずり、私は無意識のうちに巴さんの表情ばかりを見ていた。
疲れているような、どこか苛立っているような顔。
それを見ただけで胸の奥がざわつく。
「ああ……部屋へ、約束の物を準備してくれ」
「はい、すぐにお持ちいたします」
そう答えて厨房へ向かうと、大きく深呼吸をする。
(縁談……どうなったのかな)
断るつもりだとは聞いていたけれど、ご両親や相手方が乗り気なのだから簡単に済む話ではないはずだ。
聞きたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちが胸の中で交差する。
コーヒーを淹れ、お菓子と共にトレイに乗せて巴さんの私室へ向かった。
「お待たせいたしました」
テーブルに置くと巴さんはコーヒーに目を落として小さく息を吐いた。
「いい香りだ」
そしてカップを口に運び、一口。
でも、それきり何も言わない。
「……どう、でしょうか」
恐る恐る尋ねると、ようやく巴さんの視線がこちらを向いた。
「……ああ。美味い」
たったそれだけの言葉なのに胸の奥がじんわりと温かくなる。
そのまま、私は迷いながらも口を開いてしまった。
「あの……顔合わせの方は、いかがでしたか?」
巴さんはカップを置くと背もたれに身体を預けながら答えてくれた。
「最初から断る意思は伝えていた。相手と二人になっても会話はほとんど無かったしな。あれなら、向こうから断ってくるだろう」
「……そう、ですか」
その言葉に思わずほっと息を吐いてしまった自分に気づく。
すると巴さんは、じっと私を見つめて問いかけた。
「お前は……俺が縁談を断ったこと、どう思う」
「私は……巴様が、ご自分の気持ちを大切にされたなら、それで良いと思います」
それ以上は言えなかった。
そんな私の言葉を聞いた巴さんは暫く黙ったあとで、独り言のように低く呟いた。
「今日、向こうで……ずっと考えていた」
「……何を、ですか」
「帰ったら、お前の淹れたコーヒーを飲む。それだけが頭から離れなかった」
胸が、強く脈打つのが感じられる。
「相手と二人でいるのが、ひどく居心地が悪かった。ただ会話が無いからというだけじゃない。俺は……お前と二人でいる時が一番心地いいと気づいたんだ」
真っ直ぐに向けられる視線から目を逸らせない。
(私といる時が、一番……?)
「お前はどうだ。俺と二人でいるのは、気まずいか?」
「そんなことは、ありません」
「嫌じゃない、ということは……俺と同じ感覚だと思っていいのか?」
「…………そう、だと思います」
「そうか。なら良い」
はっきりと気持ちを伝えられたわけでも、言ったわけでもない。
それなのに胸の奥が熱くて恥ずかしくて、体温が上昇していくのが分かった。
(私……きっと、巴さんのこと……)
そして、コーヒーの香りに包まれた部屋の中で、ようやく自分の気持ちに気づいてしまった。
これまで感じていたこの気持ちが何なのか、はっきりと。
それ以上、私たちは言葉を交わさなかったけれど、その沈黙は不思議と苦しくなかった。
巴さんが相手方と顔合わせを済ませてから数日後。
その縁談は私の想像以上の速さで不穏な動きを見せ始めた。
「ふざけるな! 俺は断ったし、会うだけ会えって言われたから会っただけだ!」
夜の静まり返ったお屋敷内に巴さんの怒号が響き渡った。
あまりの剣幕に私だけでなく他の使用人たちも思わず手を止めて顔を見合わせる。
どうやら、お父様に呼ばれて書斎へ向かったのが原因らしい。
次の瞬間、扉が乱暴に開いて巴さんが勢いよく書斎から飛び出してきた。
怒りを隠そうともせず、そのまま私室へと向かっていく背中を私は咄嗟に追いかけていた。
「あの、巴、様……」
恐る恐る声をかけると彼は一度だけ足を止め、深く息を吐いた。
「……断ったはずの縁談が、俺の知らないところで更に進んでたんだ」
その声には怒りと同時に、どうしようもない疲労が滲んでいた。
話を聞くと彼が明確に断ったにもかかわらず、両親同士の話し合いは続いており、ついには「一度きちんとデートをしてみなさい」とまで言われたらしい。
「勝手に話を進めるなんて、冗談じゃねぇ」
苛立ちを隠さず吐き捨てる巴さんに、私は何も言えなかった。
奥様と旦那様が、この縁談を簡単に手放すつもりがないことを私は既に知っていたから。
(あの時のことを、伝えておくべきだったのかもしれない)
そう思うほど、胸の奥がちくりと痛んだ。
「それで……どうなさるおつもりなんですか?」
そう尋ねると、彼は即答した。
「行かない。俺は断ったんだからな」
それ以上話す気はないと分かった私は、その日は早めに下がることにした。
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