「今日は、室田先生に御意を得たく、参上致しました」
恭しく頭を下げたのは、身長190センチ、体重は見た目では計れぬほどの巨漢、玉木浩明と言う名の、若者であった。
団栗眼に、丸顔で、眉が太く、彫りが深い
要素だけ抜き出せば、コミカルにも思える顔であるが、まるで相撲取りのような巨大によって、禍々しい圧力を発している。
「おお、よう来たのう。儂と手合わせしたいとは、中々勇気のある若者よの。最近のもんは、儂に気を使いすぎて、中々試合も受けんよってにな」
90度に身体を折り、深々と礼をした玉木の頭頂部に向かって言うのは、この剣道道場の最高師範、室田甚平である。
御年85の老人で、同世代には、車椅子の者や、寝たきりになる者もでている。この世を去った者も居る。
しかし、この老人は矍鑠として、竹刀を振るい、弟子に稽古も付けている。
その身は、老人の常で痩せていて、短髪の髪は真っ白。長く伸ばした髭も真っ白で、昔話に出てくる仙人のような容貌である。
「試合を受けていただき、ありがたく存じます」
玉木は、若者にしては、妙にジジくさい、否、ジジくさいを通り越して、江戸時代のお武家みたいな物言いで、慇懃に挨拶しているが、その目的の実は、道場破りである。
先に室田本人も言ったように、老人に本気で打ち込める若者は少ないし、大先生と崇め奉られている達人を、万が一にも倒してしまったら、剣道界の権威というものが、破壊される事になるから、本気が出せない。
それを破壊してやろうというのが、玉木の狙いだ。
年を取り、衰えて、大して強くもない癖に(※玉木の主観による印象)誰も彼もが室田を崇拝しているのが、気に食わない。
道場もろとも、ぶっ潰してやろう。
そんな意気込みを胸に、乗り込んできたのである。
「防具も無し。場外も無し。本気で剣の勝負をしたいとは、中々の変わり者じゃ。しかし、剣士は皆、宮本武蔵に憧れ、巌流島を夢想するものじゃ。それも良かろう」
このルールは、言わずもがな、玉木が提案した者だ。
達人を自分のような者から遠ざけ、永遠の崇拝対象となるように守る物は、思いつく限り、排除したかった。
弟子達、しきたり、スポーツマンシップ………防具やルールもそうだ。
すべてを剥がし取り、達人の威光は、所詮虚像であると、世に知らしめんとして、この提案をした。
そして、その意図に気づかぬ室田老人ではない。
どんなに丁寧に、恭しく頭を下げようとも、この男の前では、邪気や殺気は隠す事は出来ない。
彼の目的が、道場破りであることも、剣道界の権威破壊であることも、言葉には出さぬが、とっくに見抜いる。
それが出来るのが、達人という物なのだ。
「では、室田先生。よろしくお願いします!」
玉木は、室田以外の目には、実直なスポーツマンにしか見えぬ態度で一礼すると、板敷きの中央に貼られた、目印へと歩を進めた。
室田もまた、歩を進め、互いに睨み合うと、蹲踞の姿勢を取り、竹刀を構えた。
室田は切っ先を、玉木の目線に据えた、衒いの無い青眼の構え。玉木は、腕を上に伸ばし、切っ先を真上に向けた大上段に構えた。
細身の老人では、俺の怪力を受けきれまいと考えた玉木は、竹刀で受けても、その竹刀ごと吹っ飛ばしてやろうと、もっとも威力の出る構えを選んだのだ。
「始め!」
審判役を買って出た、門弟が叫ぶ。
「でやああ!」
玉木は、開始の号令がかかるや否や、大上段から、室田の脳天めがけ、稲妻のように打ち込んだ。
室田が、それを横に反れてかわすと、玉木の剣が床板を打ち、バチーン!と落雷のごとき轟音が、道場中に響いた。
玉木は、返す刀で横に居る室田に向かって、メジャーリーガーのフルスイングの如く、両手で真横に竹刀を振るった。
「どおおあぁ!!!」
室田はこれを、後ろに飛び退いてかわすと、間髪入れず踏み込むと、面を狙って竹刀を振り下ろした。
「面!」
パシン!
竹刀の打ち合う、乾いた音が響いた。竹刀が打ち合ったという事は、室田の打ち込みを、玉木が受けたと言う事だ。
室田老人は、受けられる事を織り込み済みで、先の面を打ち込んでいた。
小兵が、巨漢に対抗するため方法の一つに、密着して、ゼロ距離で戦うという物がある。
体格で勝る相手の、自分より長いリーチを封じる戦法。
室田老人は、それを狙っていたのだ。
「ぐぬううぅ………」
鍔迫り合いの中、うめき声を上げたのは玉木だ。
体重は、明らかにこちらの方が重いのに、室田の足は、地に根を張ったように動かず、押し込めないのだ。
「先生が押しているぞ………」
周りに控えた門弟達が、にわかに色めき立った。
苦しんでいるように見えるのは、巨漢の挑戦者の方であり、先生の方が余裕綽々といった表情で構えているように見える。
が、である。
実の所、室田も決して余裕があるわけではない。
(なんちゅうデカブツじゃ。まるで大乃国と力比べしとるみたいじゃ)
室田は、玉木に悟られぬ様、涼しい顔を作っているが、内心冷や汗を搔いている。
室田が、剣の道に進んだ少年時代、身体の大きな剣士など、滅多に居なかった。
身体の大きな子供は、みんな将来は横綱だと持ち上げられ、みんな相撲取りになった。
剣士になるのは、そのお零れ。小柄な少年ばかりだったのだ。
ましてや、玉木のような大兵肥満の剣士など、室田の知る限り、一人も居ない。
その、相撲取りのような巨漢が、竹刀を目一杯の力で押し込んでくるのだ。
(ぬうう……)
声にこそ出さなかったが、室田もまた、心のなかで唸り声を上げていた。
玉木は、顔面を真っ赤にしながら、ジリジリと前進してくる。
室田老人が、いかに効率的な力の使い方をしていても、それを押しこむだけの馬鹿力が、玉木にはあった。
室田が、受け止めた構えのまま、ゆっくりと後退していく。
普段の試合ならば、場外となる仕切りを越え、先生が押されていると慌てる門弟達が、モーゼの海割りのように左右に避け、道をあける。
そしてついに、道場の壁まで追い詰められた。
「なかなかやるのう。流派はなんじゃ?巌流か?念流か?」
「くっ……耄碌じじいめっ……。そのどちらも、失伝しておるわ………」
壁際で、密着しながら、周りの門弟に聞こえぬ音量で、挑発し合う。
壁という、支えを得た事で、室田は若干の余裕が出てきた。
室田は、身体の芯を一直線にして、玉木に怪力を受け止めていた。
身体の芯が曲がっていたら、曲がっている部分から折れ、怪力でへし折られるが、室田は己の身を、一本の柱のすることで、それを防いでいた。
玉木が圧しようと、足を踏み出すと、反対の足が反作用で押し返され、足袋が板敷きを擦り、キュウと甲高い音が鳴った。
(ならば、丸ごと押しつぶしてやるまで!)
その身を、丈夫な柱にしたのなら、柱が破断するまで、圧をかけてやるまでだ。
そう思った玉木が、一際全身に力を漲らせ、踏み出そうとした瞬間である。
室田が素早く竹刀を引き、僅かに生まれた隙間から、するりと抜け出し、横に飛び退いた。
「あっ!ああっ!」
支えを失った玉木の身体は、前につんのめる。それに加えて、足袋は両足ともツルンと滑って、玉木の下半身はコントロールを失った。
ならば、上半身で身を庇わねばならないのだが、室田を圧しようと、ガチガチの強張らせた筋肉は、動かそうとしても、とっさには動かない。
「あーーーー!!!!!」
玉木は頭から、壁に突っ込んだ。
石頭が漆喰を砕き、その中の木格子をブチ抜いて、反対側の漆喰をも砕いて、廊下に頭を突き出した所で、ようやく止まった。
「うぅ〜ん…………」
木造の道場が、ぐらりと揺れるほどの衝撃を、頭に受けた玉木は、そのまま気を失い、すっかり伸びてしまった。
門弟一同が、わっと湧き、室田を讃えた。
こうして、達人の面目と、剣道界の威厳は、守られたのであった。
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