テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
湊未来
795
白波 灯
1,263
#せつない恋
夢美留子
725
#カラフルピーチ
ねむ
31
――あの夜、星と一緒に焼け落ちたのは、本当に私の夢だけだったのだろうか。
梢は、膝を抱えたまま動けずにいた。
暗い部屋の中で、スマホの画面だけが淡く光っている。
映画『星の降る庭』。
十数年前、自分が最後まで出演するはずだった映画。
そして、人生を変えられた夜の記憶。
「……消して」
誰に頼むでもなく、梢は呟いた。
画面を閉じても、幼い自分の笑顔は頭から離れなかった。
あの頃は、本当にお芝居が好きだった。
カメラの前に立つことも、知らない誰かの人生を演じることも、撮影が終わったあとにスタッフから褒められることも。
全部、大好きだった。
だからこそ、どうしても忘れられない。
自分が、なぜ女優になったのか。
◆ ◇ ◆
宵待ひばりが初めて子役オーディションを受けたのは、六歳の春だった。
母親の深冬は、シングルマザーだった。
昼間は小さな花屋で働き、夜は帰宅してからひばりのために夕食を作る。決して裕福ではなかったけれど、深冬は娘の前でお金の心配を口にしなかった。
「お母さん、今日のお花、どうだった?」
「うん。ひばりが昨日選んでくれたお花、全部売れたよ」
「ほんと?じゃあ、ひばり、お花屋さんになれる?」
「なれるんじゃない?」
「えー!じゃあ、お母さんと一緒にお花屋さんする!」
そんな娘を、深冬はいつも笑って抱きしめた。
けれど、ひばりにはもう一つ、大好きなものがあった。
星だった。
寝る前に窓から夜空を眺めては、母親に星の話をせがんだ。
「お母さん、星って、どうして光ってるの?」
「遠くにいる誰かが、ひばりに見つけてほしくて光ってるのかもね」
「じゃあ、ひばりも光りたい!」
「どうして?」
「だって、遠くにいる人にも、ひばりを見つけてもらえるでしょ?」
深冬は一瞬だけ、寂しそうに目を細めた。
それでも、すぐに娘の頭を撫でた。
「そうだね。ひばりなら、きっと光れるよ」
数日後、深冬はテレビで子役オーディションの募集を見つけた。
娘に無理をさせるつもりはなかった。ただ、ひばりがあまりにも芝居の真似をするのが好きだったから、一度くらい挑戦させてあげたかったのだ。
オーディション当日。
小さなひばりは、審査員たちの前でぺこりと頭を下げた。
「宵待ひばりです。六歳です!」
「今日は、どうしてここに来てくれたのかな?」
審査員の一人が優しく尋ねる。
ひばりは少し考えてから、胸を張った。
「ひばり、星になりたいんです!」
「星?」
「はい!お空の星は、遠くにいる人にも見えるでしょ?ひばりも、お芝居をして、遠くにいる人にも見つけてもらいたいんです!」
小さな手を、ぎゅっと握る。
「悲しい人がひばりのお芝居を見て、ちょっとでも笑ってくれたらいいなって。泣いてる人が、ひとりじゃないって思ってくれたらいいなって!」
最後の言葉を言い終えたとき、ひばりは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……あの、だめですか?」
審査員たちは、すぐには答えられなかった。
その日、ひばりは合格した。
帰り道、深冬は娘の手を握りながら、何度も言った。
「ひばり、すごかったね」
「ほんと?」
「うん。でもね、ひばり」
「なあに?」
「星になっても、ご飯はちゃんと食べるのよ?」
「ええーっ!星ってご飯食べないの!?」
二人の笑い声が、春の道に響いた。
あの日のことを、梢は今でも覚えている。
忘れたくても、忘れられない。
◆ ◇ ◆
子役として活動を始めたひばりは、瞬く間に注目を集めた。
六歳でドラマ『雨音の子守歌』に出演。
八歳で映画『星の降る庭』に抜擢され、九歳で演技新人賞を受賞。
そして十一歳のとき、映画『硝子の王冠』で主演を務めた。
撮影現場では、いつも誰かがひばりを呼んでいた。
「ひばりちゃん、こっちで写真撮ろう!」
「ひばりちゃん、差し入れのケーキあるよ!」
「ひばり、今日の演技、すごくよかったぞ!」
「ありがとうございます!」
ひばりは誰に対しても笑顔だった。
そんな彼女の近くには、いつも二人の子どもがいた。
柊木るりあと、鷹巣玲。
るりあはひばりと同い年で、華やかで人懐っこい少女だった。
一方、玲は二歳年上。口数が少なく、笑うことも苦手な少年だった。
けれど、ひばりの前では少しだけ違った。
「玲、また台詞間違えたでしょ」
「……間違えてない」
「間違えたよ。『星は落ちない』なのに、『星は降らない』って言った」
「意味は同じだろ」
「違うよ。星は落ちるんじゃなくて、願いを叶えるために降ってくるんだから!」
ひばりは、なぜかそこだけは譲らなかった。
「星はね、誰かの願いを叶えるために降ってくるの!だから、落ちるなんて言っちゃだめなの!」
「……何それ」
「私が考えたの!」
ひばりが胸を張ると、玲は呆れたように目を細めた。
「お前、ほんと変なやつ」
「玲にだけは言われたくない!」
そんなやり取りを、るりあは少し離れた場所から眺めていた。
「……二人って、ほんと仲いいよね」
「そう?」
ひばりは振り返り、無邪気に笑った。
「玲って、放っておくとすぐ一人でいるんだもん」
「余計なお世話だ」
「ほら、そういうところ!」
玲は反論しかけて、結局、口を閉じた。
その耳が少し赤くなっていたことに、ひばりは気づかなかった。
当時のひばりは、誰からも愛される少女だった。
そして、彼女自身も、周囲の人間を疑うことなど知らなかった。
◆ ◇ ◆
十二歳の秋。
映画『星の降る庭』の撮影は、終盤に差しかかっていた。
ところが、あの火災が起きた。
星辰撮影所・星降りセット火災事故。
公式発表は、電気系統の故障による事故。
だが、撮影所の一部が焼失し、セットも機材も失われたことで、撮影は長期間中断された。
ひばりは頭部に重傷を負い、煙を吸い込んだ影響で呼吸器にもダメージを受けた。
さらに、強い恐怖と混乱から、しばらく言葉を発することさえできなくなった。
目を覚ましても、医師の問いかけに答えられない。
母親の顔を見て、泣くことしかできなかった。
「ひばり……お母さん、ここにいるよ」
深冬は娘の手を握り、何度も名前を呼んだ。
「大丈夫。もう怖くないよ。お母さんがいるからね」
ひばりの指が、母親の手を弱々しく握り返す。
それだけで、深冬は泣きそうになった。
けれど、ひばりを不安にさせたくなくて、笑った。
「ゆっくりでいいからね。お話できなくてもいい。今は何も頑張らなくていいの」
ひばりは、声にならない息を漏らした。
涙だけが、頬を伝っていった。
◆ ◇ ◆
映画『星の降る庭』は、火災のあとも完成を目指すことになった。
焼失したセットは再建され、残されていた映像と台本をもとに、撮影が再開された。
ひばりの出演シーンについては、事故前に撮影された映像を最大限に使用する方針が取られた。代役で補える場面は別の子役が演じ、編集と音声の調整によって物語がつながるよう構成された。
ひばりの母親には、制作側から何度も説明があった。
だが、深冬にとって、映画の完成など二の次だった。
娘が生きている。
それだけでよかった。
しかし、退院後もひばりの心身は回復しなかった。
焦げた臭いに怯え、突然の物音に身体を震わせる。夜になると、火災の夢にうなされる。
以前なら楽しそうに話していた娘が、言葉を失ったまま母親の服の裾を握りしめている。
深冬は、そんなひばりを抱きしめ続けた。
それでも、ひばりが再び声を出せるようになるまでには、長い時間が必要だった。
そして、映画が完成した頃。
ひばりは十二歳で、芸能活動の休止を発表した。
表向きの理由は、療養。
世間は惜しみながらも、少女が戻ってくる日を待っていた。
けれど、ひばりの人生には、もう一つの別れが迫っていた。
◆ ◇ ◆
火災から数か月後。
深冬は、体調を崩すようになった。
最初は、ただの疲れだと言っていた。
「お母さん、また病院?」
「うん。ちょっと検査するだけ」
「ひばりも行く!」
「ひばりはおうちで待ってて。帰りにプリン買ってくるから」
ひばりは不安そうに母親を見つめた。
以前なら、すぐに「やった!」と喜んでいたはずなのに。
言葉が戻ったあとも、ひばりは以前のようには話せなくなっていた。
深冬は、そんな娘の頭を撫でた。
「大丈夫。すぐ帰ってくるからね」
けれど、その約束は守られなかった。
深冬の病気は、思っていたよりもずっと重かった。
入院が決まり、治療が始まった。
ひばりは、毎日のように病室へ通った。
ベッドの上の母親は、少しずつ痩せていった。
「お母さん、今日はね……」
学校であったこと。
庭に咲いていた花のこと。
窓から見えた星のこと。
ひばりは、母親が眠ってしまうまで話し続けた。
以前のようにうまく笑えなくても、言葉が途中で詰まっても、深冬はいつも嬉しそうに聞いてくれた。
「ひばりのお話、好きだよ」
「……ほんと?」
「うん。世界で一番好き」
ある夜、深冬は枕元に置いてあった小さなノートをひばりに渡した。
表紙には、母親の字でこう書かれていた。
――ひばりの星のノート。
「これ、なあに?」
「ひばりが小さい頃に話してくれた星のお話、覚えてる?」
「……うん」
「お母さん、忘れたくないから、書いておいたの」
ページを開くと、拙い絵や短い言葉が並んでいた。
星は、遠くにいる誰かが見つけてくれるように光っている。
星は、願いを叶えるために降ってくる。
ひばりは、みんなを笑顔にする星になる。
その文字を見た瞬間、ひばりの目から涙が落ちた。
「お母さん……ひばり、まだ……」
言葉が続かなかった。
女優に戻れるか分からない。
また笑えるか分からない。
あの夜のことを、忘れられるかも分からない。
それでも、母親だけは失いたくなかった。
「ひばり、まだお母さんと一緒にいたい……」
深冬は、娘の手を握った。
「うん。一緒にいたいね」
「やだ……お母さん、いなくならないで……」
「ひばり……」
「お願い……ひばり、いい子にするから……お芝居も頑張るから……だから……」
深冬の目にも、涙が浮かんだ。
「いい子じゃなくてもいいの」
深冬は、震える手で娘の頬を撫でた。
「お芝居をしなくてもいい。星にならなくてもいい。ひばりが笑って、ご飯を食べて、明日も生きていてくれたら……お母さん、それだけで幸せだから」
「やだ……っ」
「ひばり」
深冬は、娘の額にそっと口づけた。
「もし、お母さんがいなくなっても……ひばりは、ひばりのままでいてね」
「……いやだ」
「誰かに愛されるために、無理して笑わなくていいんだよ」
深冬の声は、かすれていた。
「悲しいときは泣いていい。怖いときは、怖いって言っていい。ひばりは、ひばりの人生を生きていいの」
ひばりは首を横に振り続けた。
母親の手を、離さなかった。
その夜、深冬は眠る娘の手を握ったまま、何度も小さく名前を呼んだ。
「ひばり……大好きだよ」
それが、娘が聞いた最後の言葉になった。
◆ ◇ ◆
深冬が亡くなったのは、ひばりが十三歳になる少し前だった。
葬儀の日。
ひばりは、病院から別の療養施設へ移されていた。
火災による身体の傷はまだ癒えておらず、精神的な状態も不安定だった。主治医は、強い刺激を避ける必要があると判断していた。
親族と関係者の協議の末、ひばりは葬儀に参列できなかった。
母親が亡くなったことを知らされたとき、ひばりは最初、意味が分からなかった。
「……お母さんは?」
付き添いの女性は、答えられなかった。
「お母さん、いつ帰ってくるの?」
返事はなかった。
「……ねえ」
ひばりは、もう一度尋ねた。
「お母さん、どこ?」
誰も答えてくれなかった。
やがて、ひばりは理解した。
理解してしまった。
「……いや」
唇が震えた。
「いや……やだ……っ」
呼吸が乱れ、身体が震えた。
「お母さん……お母さんっ!」
叫んだ声は、廊下に響いた。
けれど、母親は戻ってこなかった。
その日、ひばりは何時間も泣き続けた。
葬儀に出られなかった彼女の手元に届いたのは、母親が大切にしていた小さなノートだけだった。
最後のページには、短い言葉が残されていた。
――ひばりへ。
あなたがどんな大人になっても、お母さんはあなたを見つけるよ。
だから、ひばりは自分の人生を生きてね。
ひばりは、その文字を何度もなぞった。
声が出なくなるほど泣いても、涙が枯れるほど泣いても、母親は帰ってこなかった。
やがて彼女は、芸能界から正式に引退した。
十三歳になる前。
かつて天才子役と呼ばれた少女は、母親を失い、自分の声を失い、夢を失った。
残されたのは、母親のノートと、あの夜の記憶だけだった。
◆ ◇ ◆
「……梢?」
呼びかけられ、梢は我に返った。
目の前には、いつもの撮影スタジオがある。
るりあが、心配そうにこちらを見ていた。
「どうしたの?ぼーっとして」
「……何でもない」
「また寝不足?」
「うん。ちょっとね」
梢は、ノートの記憶を振り払うように眼鏡を直した。
ひばりが引退したあと、るりあは何度も彼女のもとを訪れた。
芸能界に戻らなくてもいい。
自分のそばにいてくれればいい。
そう言って、るりあはひばりを引き止めた。
その頃、ひばりはようやく少しずつ日常生活を取り戻していたものの、芸能界へ戻ることには強い恐怖を感じていた。
そんな彼女に、るりあは一つの提案をした。
名前を変えて、外見も変えて、自分のマネージャーにならないか、と。
新しい名前は、瀬名梢。
かつて『星の降る庭』の企画段階で使われ、採用されなかった少女役の名前だった。
ひばりがその名前を選んだのは、もう一度だけ、物語の中に居場所を作りたかったからだ。
宵待ひばりは、女優として死んだ。
瀬名梢は、誰かを支える人間として生きる。
その二つを、決して混ぜない。
るりあもまた、二人を完全に別の人間として扱った。
梢の前では、かつての親友を思い出させる話を避けた。
宵待ひばりの名前が出れば、話題を変えた。
まるで、ひばりなど最初から存在しなかったかのように。
それが優しさなのか、支配なのか。
当時のひばりには、考える余裕さえなかった。
◆ ◇ ◆
その日の夕方。
梢は、るりあの次の仕事に必要な資料を取りに、事務所の保管室へ向かった。
棚の奥には、古い映画の宣伝資料や、過去の撮影記録が保管されている。
整理中の箱を動かしたとき、一枚の封筒が床に落ちた。
中から滑り出たのは、古い写真だった。
星辰撮影所。
燃える前の『星の降る庭』のセット。
そして、写真の隅に写り込んだ、赤い非常口の扉。
梢の心臓が、ドクンッと跳ねた。
「……っ」
写真を持つ手が震えた。
扉の前に、誰かが立っている。
顔は影になっていて、はっきりとは見えない。
けれど、その人物の手元には、見覚えのあるものがあった。
星形の装飾を固定するための、金属製の留め具。
写真の裏には、鉛筆で短く書かれていた。
――撮影終了後、避難扉の確認をしたのは誰か。
梢は息を止めた。
事故の調査資料なのか。
それとも、誰かが残した告発なのか。
分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この写真は、公式発表だけでは説明できない何かを示している。
「……どうして、こんなものが」
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
梢は反射的に写真を封筒へ戻し、資料の山の下へ隠した。
「梢?まだいたの?」
るりあの声だった。
「うん。資料を探してた」
「もう帰ろうよ。お腹すいちゃった」
「……分かった。すぐ行く」
梢は、もう一度だけ封筒を見た。
胸の奥が、嫌な音を立てている。
忘れたはずの記憶が、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
◆ ◇ ◆
それから数日後。
るりあは、生放送のトーク番組に出演していた。
新作映画の宣伝を兼ねた出演で、スタジオには人気俳優やタレントが並んでいる。
梢も、舞台袖から進行を確認していた。
番組は終盤に差しかかり、司会者が過去の出演作について話題を振った。
「るりあさんは、子役時代から活躍されていますよね。昔の映像を見ると、本当にかわいらしい!」
「ありがとうございます。あの頃は、毎日が楽しかったですね」
「当時、一緒に出演されていた方で、今でも印象に残っている人はいますか?」
るりあは、いつもの完璧な笑顔を浮かべた。
「たくさんいますよ。現場の皆さんには、今でも感謝しています」
「例えば、映画『星の降る庭』で共演した宵待ひばりさんとか」
――その瞬間。
スタジオの空気が、変わった。
「……あ」
誰かが小さく声を漏らした。
隣の出演者が視線を交わし、観客席もざわざわと揺れ始める。
宵待ひばり。
それは、長いあいだ芸能界で触れられることの少なかった名前だった。
事故のあと、表舞台から姿を消した元天才子役。
引退の理由は療養とだけ発表され、本人の消息もほとんど伝わっていない。
彼女の名前を口にすること自体が、どこか禁句のようになっていた。
るりあは、ほんの一瞬だけ瞬きをした。
それから、笑顔を崩さずに答えた。
「……ひばりちゃんは、すごい女優さんでした」
声は穏やかだった。
「小さい頃から、本当にお芝居が上手で。私も、たくさん勉強させてもらいました」
「今はどうされているんでしょうね?」
「私にも、分かりません」
るりあは、少し寂しそうに微笑んだ。
「元気でいてくれたら、それだけで嬉しいです」
拍手が起こる。
司会者も、それ以上は深く追及しなかった。
番組は何事もなかったかのように進行していく。
けれど、舞台袖の梢は、るりあの言葉を聞きながら、あの写真のことを考えていた。
避難扉の前に立つ人物。
撮影終了後、誰が扉を確認したのか。
なぜ、そんな疑問が写真の裏に残されていたのか。
――調べなければ。
梢は、初めてそう思った。
◆ ◇ ◆
生放送が終わる直前。
梢は、資料を確認するためにスマホを開いた。
写真の裏に書かれていた言葉を、忘れないうちに検索しようとしたのだ。
星辰撮影所。
星降りセット火災事故。
避難扉。
いくつかの単語を入力すると、古い記事が一つ表示された。
そこには、事故当時の関係者による証言が掲載されていた。
――火災発生時、避難経路の一部が使用できなかった可能性がある。
梢の指が止まる。
記事を開こうとした、そのとき。
舞台袖から、るりあが戻ってきた。
「梢、終わったよ!帰ろう!」
「あ……うん」
梢は慌てて画面を伏せた。
けれど、るりあはその動きを見逃さなかった。
「何を見てたの?」
「仕事の確認」
「ふうん?」
るりあは笑顔のまま、梢の手元を覗き込もうとした。
「ねえ、梢」
「……何?」
「昔のこと、調べたりしてないよね?」
梢の心臓が、ドクンッと鳴った。
ほんの一瞬。
けれど、るりあの笑顔が、わずかに硬くなった。
「……どうして?」
「ううん。何となく」
るりあは梢の腕に手を回した。
「私たち、今の生活が一番幸せだもんね」
その声は、いつもどおり優しかった。
「だから、昔のことなんて、思い出さなくていいんだよ」
梢は答えられなかった。
るりあの指が、腕に食い込む。
「ね?」
梢は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
その瞬間、スタジオの向こうから、出演者たちの笑い声が聞こえた。
番組は、最後まで明るい雰囲気のまま終わったらしい。
誰も知らない。
あの名前が出た瞬間、どれほどの人間が息を呑んだのか。
そして、舞台袖に立つ一人のマネージャーが、十年以上も封じてきた過去へ手を伸ばし始めたことを。
帰りの車の中。
るりあは、いつものように今日の番組の感想を話していた。
梢は相槌を打ちながら、窓の外を見つめる。
夜空には、星がいくつも瞬いていた。
かつて母親が教えてくれた言葉が、胸の奥によみがえる。
――遠くにいる誰かが、ひばりに見つけてほしくて光ってるのかもね。
梢は、膝の上でそっと手を握った。
宵待ひばりは、もう死んだ。
そう思わなければ、生きてこられなかった。
けれど。
あの写真が本物なら。
あの夜には、まだ知らない真実が残されている。
そして、るりあは――。
「梢?」
「……何?」
「明日もよろしくね」
るりあは、いつもの笑顔で言った。
「私のこと、ずっと支えてくれるよね?」
梢は、返事をするまでに少しだけ時間がかかった。
「……もちろん」
その言葉は、今まで何千回も口にしてきたものだった。
けれど今夜は、ひどく遠い言葉に聞こえた。
窓の外で、星が一つ流れた。
願いを叶えるために降ってくる星。
幼いひばりが信じていた、あの星。
梢は、暗いガラスに映る自分の顔を見つめた。
――もし、あの夜の真実を知ったら。
私は、もう一度、宵待ひばりになれるのだろうか。
それとも。
今度こそ、本当に、すべてを失うのだろうか。
答えはまだ、どこにもなかった。
コメント
1件
おおっ、第2話……めっちゃ重い過去が来たな……。 冒頭の母親とのやり取りとか、星のノートのエピソード、泣けるわ。深冬さんの「ひばりはひばりの人生を生きていいの」って台詞、ずっしりきた。それだけに、現在の梢(ひばり)とるりあの関係性がすごく気持ち悪く感じられるんだよな。るりあの「昔のこと、調べたりしてないよね?」って圧、完全に支配者の目線やん……。 最後の古い写真と避難扉のメモ、これ絶対火災に何かあるやつや。続きが気になりすぎる。さくらさん、丁寧に伏線散りばめるの上手すぎやろ……🔥