流石、心を調べた結果か。と俺は納得した。
そしてそんなものかとも思ってしまう。内容を思い出しながら論文の印刷を見返していると、何かが挟まっていた。──手紙。俺宛だ。
 ああ、恐らく裏切ってるな。この悪魔が……。すべての意味を理解した途端、猛烈に腹が立った。
 「この手紙で人を信じられるかの実験、またはそれに気づくための実験とするならば俺はまんまとハマってしまった。信じたとして新しく実験されるし、信じなければそういう脳のしくみで片付けられるのか。こいつも考えたんだな……」
 よくよく考えてみれば、凄いことではないか。友人を偽論文でハメてこんな無理難題を押し付けるのだ。心ではなく思考のテストでは? とも思ってしまう。
 (ここから逃げるべきだ。一年前も似た論文の出汁にされた。今回殴られるのだってもう懲り懲りだしな。置き手紙をして帰ろう)
 ──静かにその場から去ろうとすれば、扉が丁度良すぎるタイミングで開いた。
 「あ、逃げようとしてた? 無駄だよ。一生そこにいてね」
 「辞めろ、実験に使うな」
 恐ろしさで引き下がると、面白そうに吉木が笑う。
 「心って感情を置く所だよね。ねぇ、今どんな気持ち? 悔しい?」
 もはや煽ってるのではないかという口調。普通なら怒ってしまうかもしれない。だが、諦めたらもはや何も感じないのである。
 「諦めたから悔しくもなんとも無い」
 「……つまんねーやつ! でも面白いや。ちょっとこっちおいで」
 こっちというのは吉木の隣。今は1メートルほど距離を開けて向かい合っているのだが、隣に行くとどうやら嫌な予感がする。
 「……なんで?」
 こういうときは質問をするに限る。吉木は笑みを崩さずに答えた。
 「人間ってくすぐったら笑うでしょ? グル君もそうなのかなぁって!」
 「体性感覚ニューロンとか関係するだろう。
やってみるか?」
 くすぐられることさえ無かったから笑えるのかと気になった。そして吉木の隣に歩いていくと、ごく普通にくすぐられる。──恐ろしいことに笑えない。なんなら変な感覚と泣きそうになる直前の感覚がした。
 「びくともしない、なんで笑わないの?」
「笑うより泣きそうな顔してるね……」
 そうか。くすぐることを続けていると泣く人が居るが、続ける以前に泣きそうになる。どういう反応なのだろう。
 「好きな人には笑うって言うけどね、グル君は両親の前でも真顔だし……凄いや。なんか意地でも笑わせたくなってきた」
 俺だって笑いたい。でも表情筋が硬すぎて動かないのだ。
 「笑えるような頭にしてくれよ……論文のまま言わせてもらうと学習させてくれ、お前のすることは予想とシステム以外の何でもない」
 「感情ないグル君みたいな人だって?」
 「俺より酷いだろ……友人を殴って満面の笑み浮かべるようなやつとは関わりたくない」
 「愛。漢字一文字で表現できる簡単な感情さ。殴ったり抱きしめたりは同じだと思うんだよね」
 何でもない顔。どこにも裏が見当たらない。本気でそう思っているのだろうか。
 「それも研究か?」
 「これは真実なんだよ」
 「お前にとっての真実とかどうでもいい。
事実を聞きたいんだ。俺は」
 「?」
 「第一、俺を何故試す? お前にはメキシコの友達が居るだろう。こんなやつより良い結果が出るはずだ」
 友達の多い吉木が何故こんな奴と話すのか。そして研究材料に使うのか。謎でしかない。吉木は驚いたように目を見開いて、何か解ったような笑顔を浮かべる。
 「事実、君は親友より断然上だ。ほぼ身体の一部だとも思ってるよ。それほどに執着してるのは、関わってきて「こんな人は世界に一人だ」って判断したからさ」
 「何故」
 「言わな〜〜い! さて、Let’s think」
 考えましょうと言われても。分からないから聞いている。
 「俺は一般人だ。何も変哲のないただの一般人」
 「……どこが? 友人が人殺して誰よりも喜んでただろうに」
 冷たく笑いながら俺の顔を覗き込む。狐の目をした龍でも見ているような気分になった。目を開ければ圧をかけられ動けなくなるだろうに。
 「無意識に吸い寄せられる、ってのが理由にならないかな。性格や思考の歪みが、君と出会って同じことに気がついた……形は違えど、重さが同じなら形を変えても変わらないでしょ? 当たり前だよ。同じものなんだから」
 「俺とお前は別物だ」
 「一番同じだって気がついてるのはグル君でしょ? 事象なんだから」
 笑っている目が少し開いて、こちらを見る。どこかに気づけよという圧倒感を感じた。
 「同じだとして、性格は違う。お前みたいに明るくない」
 「君の前だから明るいんだ。明かりがないと影には気付けないでしょ?」
 「俺が影だと?」
 「君は僕の影。そして、僕も君の影。この関係は等しいよ。どちらも影だから!」
 正気じゃない。目がそれを物語っていた。
 「影が混じっても影。光は絶対に混ざらない。光は俺等を証明するための道具。映してるだけ。俺等はずっとそこに居る。でも、おかしいよねぇグル君。君は僕のことを光であると? なら近づけないはずだ」
 「……落ち着け」
 「僕はず〜〜〜〜っと落ち着いてるよ。むしろ、君のほうが焦ってるように見える。いつもの無感情はどうしたんだい?」
 これも実験なのだろうか。そんなことはどうでもいい。吉木は何かが壊れて暴れ出しているようにも感じる。俺は肩を掴んでくる吉木を睨みつけることしかできなかった。
 「親友が妙なことを言い出したらこうもなる。冷静になって考えてみろ、お前の考えは少し歪んでる」
 論文の内容は違和感がない。だが、吉木を自分と同じものだとは思わない。むしろ反対だとも思っていた。
 「正論だろ。当たり前じゃないか、君が僕のことを親友と言えばそうかもしれない。君が僕のことを同じ存在といえばそのはずだ。お互い鏡のような思考回路なんだよ。分かるかな」
「鏡に映る人は同じでも反対でしょ? まさにそうだと思わない? けど、僕が鏡の世界から出てきて現実世界に居るのなら鏡の向こうの存在になれる。ただし、同じ存在であるグル君は鏡から出れないんだ。決まったことでしょ?」
 「どちらが鏡の外なんだ?」
 「解らない、これは現実でも言えることじゃないかな? 問題であったら面白い。自分が鏡の外の人間であることを証明しなさい……なんてね」
 聞けば聞くほど頭が痛くなった。俺が椅子に座ると、吉木も隣の椅子に座る。
 「何が言いたいんださっきから。これも何かの研究か? それとも俺を試しているのか?」
「違うよグル君。君と僕が対で、いつだって二人じゃないと成立しないって言いたいんだ」
 「俺はお前を対だなんて思ったことは一ミリたりともない。いい加減にしてくれないか」
 あまりにもしつこい吉木に嫌気がさして顔を背けようとした。だが、顔を片手で覆われ 向きを戻される。
「そんなはずない。上下どちらかが欠けたら成立しないだろ?!」
 「だから、俺とお前は対じゃない。そもそも違うんだから成立しないんだ。上横だけ。横がなくても上下は成立するはず」
 「なら僕と対になるのは誰なんだよ?」
 眉を寄せて腹を立てる吉木は闘牛のようだった。俺は対という言葉を思い浮かべて、ある人物を思い浮かべる。
 「サーフィーとかじゃないか?」
 「似てるじゃん」
 「お前ほど深読みしないぞ。苺をやればなんでもする男だ、あいつは」
 「そんなに僕のこと嫌い?」
 「さっきの発言がなければ好きだったが、頭冷やしてきたらどうだ。氷水でも被るといい」
 流石に言い過ぎたか? 冷え性の吉木に氷水被れなんて拷問なのでは……。
 「そうすれば許してくれるんだ?? なら被ってくるよ」
 「え? いや、すまない。氷水なんて被らなくて良い……」
 「許して欲しいから氷水被るんだよ?」
 「お前の脳を開いて見てみたい……」
 気が付いだらキッチンにいるし氷をバケツに入れている。行動が早い。止めようとしたが一向に辞めようとせず、本当に氷水を被った。
 「バスタオル持ってくるから待ってろ」
 あの量、冷たいを超えて熱いだろう。
急いでバスルームまで走り、タオルを持ってくると吉木の頭を拭いた。驚くことに、 吉木は立ちすくんで無表情。拭き終わった時には唐突に抱きついてきた。吉木の頬が冷たい。
 「許して?」
 「……許すメリットは?」
 自分は何を言っているのだろうか。
 「え? 僕のことを利用できるよ。世の中は利用する、されるの法則だから。凄く有利になる 」
 「本当にそれが頭を冷した答えか? 心の底からそう思っているのか? 」
 「……思ってないよ。許すメリットなんてない」
 「お互い安心するのがメリットだが……お前、体冷えただろ。キッチンがビシャビシャなのは良いが風呂に入れ」
 「……うん」
 妙な会話を済ますと、吉木はバスルームまでふらふらと歩いていった。俺はさっきのバスタオルでキッチンを拭く。
 「相変わらず思想が狂ったやつだ。あるときおかしくなって、突然冷静になる」
 今日もそうだった。いいや、今日はずっとおかしい。違う生き物を見ているようだ。吉木が風呂に入っている間、また論文を見直してコーヒーを飲む。俺の意見だと、心は実在しない。脳の作り出した言い訳だと思う。
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