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桃水
こさめ: かつては将来を期待されたピアニストだったが、ある事故で指を痛め、夢も居場所も失った青年。今は隠居するように、古い洋館で暮らしている。
らん : こさめの世話をしている、若く有能な執事。こさめを神聖な存在として崇拝しているが、その裏では、こさめが一生自分なしでは生きていけないように、社会から隔離し、精神的に追い詰めている。
「らんくん……また、指が動かない」
月の光が青白く差し込む深夜、こさめは鍵盤の前に座り、幽霊のように項垂れていた。
かつて喝采を浴びた指先は、今や象牙の鍵盤の上で力なく震えるばかり。こさめの瞳には、絶望という名の薄幕が張り付いている。
「お可哀想に、こさめ様」
らんは背後から影のように忍び寄り、その華奢な肩を包み込んだ。
「らんくん、こさめ もう一度だけ、あの光の中で弾きたい。みんなの拍手が、……っ、あ……」
こさめが言いかけた言葉は、らんの冷たい指先によって唇ごと塞がれた。
「 みんな? こさめ様、まだそんな汚らわしい連中のことを考えておいでなのですか」
らんの低く、静かな声が鼓膜を震わせる。
らんは、こさめの震える左手を取り、まるで愛おしい宝物に触れるように、一本ずつ指を舐めとった。それは愛撫というにはあまりに執拗で、捕食者のような冷徹さを孕んでいる。
「外の世界は、あなたを壊れた楽器としてしか見ていない。彼らが愛したのはあなたの才能であって、あなた自身ではないのです」
「……うそ…、みんな、あんなに優しく……」
「優しい? 事故のあと、誰一人としてこの屋敷を訪ねてこなかった。それが答えですよ」
らんは、嘘を吐く。
本当は、連日のように知人やファンが門を叩き、らんはそのすべてを「こさめ様は精神を病み、二度と誰にも会いたくないと仰せです」と冷酷に追い払っている。こさめに届くはずの励ましの手紙も、すべてらんの指先で灰に変えてきた。
「あなたを愛しているのは、私だけです。あなたの指が動かなくても、旋律を奏でられなくても、私はこの硝子の温室で、あなたを永遠に飼って差し上げる」
らんの腕が強引にこさめを抱き上げ、寝台へと運ぶ。
こさめは、らんの胸元に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「らんくん…、こさめには、もう、らんくんしかいないの、」
「ええ、そうです。……いい子、こさめ様」
こさめの背中を撫でながら、らんは暗闇の中で口角を吊り上げた。
こさめの心が壊れ、世界が自分一人だけになる瞬間。それは、どんな名曲よりも美しく、らんの鼓膜を震わせる最高の旋律だった。
こさめは、自分を抱きしめるこの腕が、実は自分の首を絞めている「真綿の枷」であることに、生涯気づくことはないだろう。