ベロニカが『初夜』という単語に衝撃を受けている間に、侍女たちによってアダムを迎えるための準備は終えられていた。
入浴時に手入れされたプラチナブロンドの髪はつやつやと輝きを増し、体は疲れが取れただけではなく、肌がしっとりと潤いほのかにいい香りがする。
寝衣は上等な絹地の、短い袖のシンプルなワンピース。脱がせやすさのためか、胸元は細い紐のリボンで留められていた。
侍女たちが去った後、ベロニカはよろよろとベッドへ行き腰を下ろした。
おそるおそる自分の姿を見下ろし、ボンッと顔が赤くなる。
あからさまな格好に両手で頭を抱え、「ああああ」と声にならない声をこぼす。
(これって……そういうこと、よね? でも初夜って結婚式を終えてからじゃないの!? 全然わからない……)
ローズ中心の生活を送り、ローズに人生を捧げると決めていたベロニカに、色事の経験があるはずもない。
結婚以前に、恋をすることすら考えたことがなかったのだ。
(知識がまったくないわけじゃないけれど……でもそれと自分がどうこうっていうのは別ものじゃない……!)
いきなりのことでどうしていいかわからず、緊張と恥ずかしさで動悸が激しさを増す。
(だけど……夫婦になったんだもの。私が失念していただけで当たり前にあることよね)
公爵家当主の妻になるのならば、後継ぎだって産まなければならない。
(ローズお嬢様はきっと、このことも覚悟を決めていたはずだわ……)
自分がローズであるということを意識するとうるさかった心臓の音は治まり、『初夜』に挑む準備もできた。
「……それにしても遅いわね」
覚悟を決め深呼吸をしながらベッドの周りをぐるぐる回っていたら、時計の針が一周していた。
(屋敷に来た時もそうだけれど、公爵は人を待たせるのが当たり前だとでも思っているのかしら)
足を止めてベッドに座り直し、細長く息を吐く。
玄関ホールで対峙した冷たいアダムの顔を思い出すと、無意識のうちに眉間に皺が寄る。
「顔は多少良かったかもしれないけど……ローズお嬢様の相手としては最低ね。大事な夜に待たせて一人にしておくなんて」
いくつでも零れるアダムへの文句をブツブツ口にしてすっきりすると、ベロニカは後ろに倒れた。
ベッドに体を沈めて見慣れないベルベットの天蓋を見つめる。
口を閉じると一気に静けさが広がり、どこからともなく寂しさが体にまとわりついてくる気がした。
ランデュシエ王国の自室とはまるで違う豪華な部屋は、ベロニカが異国へ来たことをまざまざと思い知らせてくる。
そばに誰もいない。今、自分は一人ぼっちだ。
ストリートチルドレンに戻ったみたい、と思った。
「慣れてると思ったのに……」
熱いものがこみ上げてきそうになって、奥歯を食いしばる。
閉じた瞼をきつく合わせ、路上で寝ていた時のようにベッドの上で小さく丸まった。
(泣いたらダメ。これくらいで弱っていたら、ローズお嬢様としてやっていけない)
そう自分を律しているうちに、ベロニカはゆっくりとまどろんでいった。
***
煌々と灯りがともるブラッド公爵邸の一室で、アダムは執事兼秘書のマーディンからランデュシエ王国との取引について報告を受けていた。
「王国への支援金は滞りなく支払いが済み、国王から受領証にサインをいただいております」
手元の資料をマーディンが読み上げていく。
先代の時から公爵家に仕えているマーディンは、もう四十代後半になる。オールバックにしたアッシュグレーの髪にはところどころ白い毛も混じり、穏やかな目元にも皺が見えはじめていた。
「王国の農業従事者たちですが、問題なく国境付近の街に到着いたしました。明日には村に到着し、明後日からは作業に入れると思います」
「そうか」
ようやく、という思いでアダムは頷く。
電気や機械技術など工業への発展ばかりに目を向ける帝国の中で、ブラッド公爵家は先々代の頃から広大な領地を開拓し、整地し、農業に関する事業を進めてきた。
特に一大事業としてガラス温室を利用した農産物の栽培の研究を進めていたが、公爵領には農業に携わる人材や知識が不足していた。
それを解消するために、農業技術で先端を行っているランデュシエ王国に接触したのだ。
多額の資金援助と友好関係を築くために王女との結婚を約束すれば、王国から農業に関する人材や技術の提供を受けられる。
不幸に見舞われた王国に同情はするが、アダムにとってはチャンスだった。そして今事業の進展が見えてきたことに、確かな喜びを感じていた。
「なお先方からローズ様の身分証明の用意を待ってくれ、と言われておりまして……婚姻手続きが完了するには少々お時間がかかるかと」
「そんなものいつだって構わない。約束の人材が派遣されたのだからな。それに王女様がこちらにいる以上、王国は俺との契約を撤回できるわけもない」
アダムはどうでもよさそうに答え、椅子に背中を預けた。
「マーディン。明日、俺も村に向かう。直接農家たちの働きを確認したい。必要があれば物資などの手配もそこで済ませよう」
「えっ、明日ですか?」
マーディンがうろたえるようにアダムを見つめる。
変なことを言っただろうかと、アダムは顔をしかめた。
「何だ。俺が行くことで何か問題でも生じるか?」
「い、いえ、そうではなく……ローズ様とお過ごしになられなくてよいのでしょうか?」
「は……?」
「夕食も別々でしたし……。隣国から一人嫁いで来られたので、寂しい思いをされているのではと。せっかくご夫婦になられたのですから、お互いのことを知るお時間を作っては?」
そんなことかと、話を途中から真剣に聞く気にもなれず小さく息をついた。
「お前も知っての通り、これは公爵家の事業のための結婚だ。向こうだって王国を助けるためでしかない。夫婦になったからといって馴れ合いなど不要だ」
「……左様でございますか」
思うところがあるのだろうが、マーディンはそれ以上余計なことは言わなかった。
「つつがなく過ごせるよう取り計らってくれていればいい」
「かしこまりました。そのように侍女長に申し伝えます」
頷いて一礼をした後、マーディンは静かに部屋を出ていった。
静寂が訪れアダムは椅子を回転させた。窓の外の闇夜を見つめながら呟く。
「ローズ・ランデュシエ……」
午後、玄関ホールで会った彼女を思い出す。
――『俺に疑われるような行動はするなよ。王女様』
と、言った時のローズの表情。
確かに恐怖を感じているのに、アダムから目を逸らすまいとする意志の強さを感じた。
(あのような顔をする女だったのか)
初対面の際には妙な落ち着きはあるものの、か弱い女にしか見えなかった。しかし今日は、どことなくあの時のお姫様とは違って見えた。
性格が変わるほどの何かがあったのかもしれないが、正直、ほぼ顔を合わせることもないだろうしどうでもいい。
(だが……あの目は悪くなかったな)
アダムは自分でも気づかず口角を上げていた。
***
翌朝目覚めた時、ベロニカは一人だった。
ベッドの隣を見れば、自分が寝ていた痕跡が残っているだけ。
アダムが夜やって来なかったのは明白だった。
(信じられない! こっちは『初夜』だからって仰々しく準備させられて待ってたのに……!)
気まずさと羞恥心が湧き、カアッと顔が赤くなる。
「一人で悶々とした時間を返せ!」
綺麗なままの隣を枕で叩きながら、ベロニカは荒々しく叫んだ。
「……はあ、はあ……。とりあえず着替えよう……」
ひとしきりベッドに不満をぶつけ落ち着いた頃、ベロニカは侍女を呼ぶためにサイドテーブルに置かれたベルを鳴らした。
だが、いつまで経っても侍女たちが現れる様子がない。
「遅いわね……」
念のためもう一度鳴らしてみるが、それでもなかなか侍女たちはやってこない。
(……ありえない)
侍女の仕事に誇りを持っているベロニカにとって、主人の呼び出しを無視するなんて考えられないことだ。
(ここの侍女たちはいったいどうなってるの?)
それから彼女たちがやってきたのは、ベロニカが不信感を抱きながらしつこくベルを鳴らしてようやくのことだった。
「随分と来るのが遅かったわね」
部屋の中央に並ぶ侍女長と四人の侍女を前に、ベロニカは咎めるような口調で言った。
すると侍女長が一歩前に出て、平坦な声で答える。
「すでに陽も高く、各々の仕事に取り組んでいたため呼び出しに気づくのが遅れてしまいました」
謝りもせず言い訳をする侍女長に、ベロニカの眉間に刻まれた皺が深くなる。
「昨夜は特別な夜でしたでしょう。ローズ様がゆっくりお休みできるよう、私たちも気遣いをしたつもりでおりました」
言葉を続けながら、侍女長はわざとらしく視線をベッドの方に向けた。
「……必要なかったようですが」
侍女長の背後でクスクスと数名の侍女が笑う。
(なるほど……。つまり公爵に初夜をすっぽかされた王女だとバカにしたいわけね)
おまけに侍女長は、遅くまでぐうたら寝ていたのはそっちだろうと暗にベロニカを責める言葉まで口にした。
あまりの態度のわかりやすさに、ベロニカは心の中でため息をついた。
(昨日会った時から、彼女たちには手放しで歓迎されているわけじゃないとは思っていたけど‥…)
ベロニカに対し、明らかに拒絶と敵意を向けている侍女長と侍女たち。
こんな不敬を働かれても、ローズは何も言い返さないとでも思われているのか。
(バカにしないで……ローズお嬢様は侮られて黙っているような方じゃない)
「今回は初めてだから遅れたことも無礼な発言も大目にみるわ。――支度を手伝ってくれるかしら」
そのベロニカの強気の態度が気に入らなかったのか、その後の彼女たちの仕事は酷いものだった。
着替えの手伝いはやる気がない。
食事自体も粗末なものだったが、それをわざとこぼしたりする。
進んでお茶も出さない。
(嫌がらせにもほどがあるわ! ローズお嬢様に対してなんて仕打ちなの……!)
様子を見ようと黙って一日耐えたが、さすがに酷すぎるしありえない。
(公爵の指示ではないわよね? そうではなかったとしても、止めさせてもらわないと。……さすがに夜なら会えるわよね)
朝、身支度を済ませた後、アダムに会えないか侍女長に尋ねると、すでに屋敷を出たと言われた。
だから夜まで待っていたのだ。
……しかしこの日の夜、アダムは屋敷に戻ってこなかった。
***
それから数日。
侍女たちのベロニカへの嫌がらせは続いていた。
小国の、しかも財政難の国の王女。
大貴族のアダムには釣り合わない。
アダムに夜の相手をされなかった女。
そんなローズへ侮蔑の声も、日に日に大きくなっていく。
しかも侍女だけではなく、他の使用人たちもローズに良い印象が無いのか関わらないよう距離を取り、見て見ぬふりをしている。
ローズ――ベロニカはすっかり孤立していた。
この状況に怒りが溜まる一方で、アダムには未だに会えていなかった。
公爵邸に着いた翌日から三日連続でアダムに会いたいと申し出ていたが、侍女長の返答は
「あいにく公爵様は外出しております」
の一点張り。
あげくの果てには、
「公爵様は先日から二週間ほど視察に出かけております」
と言った。
(よくよく聞けば、公爵が執事を連れて出かけたのは、私がここに来た翌日だって言うじゃない……!)
ある日の朝、ベロニカは動きやすいワンピースに一人で着替えながら、鼻息を荒くしていた。
(視察に行くなら一言くらいあってもいいんじゃないの? 来たばかりの妻を二週間も放置なんて……ありえる!? 政略結婚でも夫としての誠意くらいは見せなさいよ!)
侍女たちにいじめられる現状も、不誠実なアダムのことも、考えるだけでイライラしてしまう。
(ここにいるのがローズお嬢様じゃなくて私で本当によかった……)
侍女たちもおらず、誰に聞かれる心配もないので思いきりため息をついた。
そして、右手を胸の前でグッと握る。
(私は絶対あんな奴らに負けない。そのうち絶対、酷い仕打ちをしたことを後悔させてあげるんだから!)
ローズのことも、ローズの名誉もベロニカが守る。
(長年ローズお嬢様の侍女をしてきた私を、舐めないでもらいたいわ)
「……よし」
小さく気合を入れたベロニカは、部屋の掃除を始めることにした。
嫌がらせを受けるようになってから、ベロニカは侍女たちを部屋から遠ざけていた。
彼女たちに頼らなくても身の回りのことは自分でできる。
自分を苦しめる人間を、無理にそばに置いておくことはない。
雑巾で大きなガラス窓を黙々と綺麗にしていると、コンコンと控えめに部屋の扉がノックされる。
(誰? 侍女長だったら面倒ね……)
身構えながら入ることを許可すると、顔を覗かせたのは侍女の一人、キャシアだった。
「キャシア。どうしたの?」
驚いて首を傾げると、キャシアは辺りをキョロキョロと見回してから、急いで部屋に入った。
「ローズ様が先ほど掃除用具を取りにいらしたというお話を聞いたので、お手伝いしようと思ってきました。お邪魔でしたでしょうか?」
長い栗毛を後ろで三つ編みに纏めたキャシアが、猫のように丸くて大きい緑の目でベロニカを見つめおずおずと申し出る。
くす、とベロニカは笑みをこぼした。
「邪魔なわけないでしょう。とても嬉しいわ。お願いしてもいい?」
「は、はい! 私、テーブルを綺麗にいたしますね」
嬉しそうに顔を綻ばせたキャシアが、雑巾を持ってソファテーブルの方へ向かう。
掃除を始めるキャシアの後ろ姿を眺めながら、ベロニカはわずかに癒される。
ベロニカのお世話をほぼ放棄している侍女たちの中で、キャシアだけは彼女たちの目を盗みこっそりベロニカを助けにきてくれていた。
ローズの一つ年下で十八歳のキャシアは、親しみやすく敬意を持った態度で接してくれていて、すぐに仲良くなった。
「ねえ、何故キャシアは私に良くしてくれるの? 他の人たちのように小国の王女とバカにしないわよね」
窓を拭きながら、ふと疑問に思って尋ねる。するとキャシアは、掃除の手を止めてベロニカの方を向いた。
「その……ローズ様は年も近いですし、お可愛らしい方だったので仲良くなりたかったのです。それに私、自然が多いと言われるランデュシエ王国にずっと興味があり……お話をいろいろ聞きたいなと思っておりまして……」
「そうだったのね。ふふ、王国の話ならいつでもするわ」
ベロニカが笑顔で答えると、キャシアは恥かしそうに俯いて雑巾をぎゅっと握る。そして真面目な声で続けた。
「ローズ様はすごい御方です」
「え?」
「お国のために人生の変わるご結婚を決断するなんて、簡単にできることではありません。お国を大切にされる御方だから公爵様はローズ様を選ばれたと思うのです。なのに歓迎もせずこんな仕打ちを……酷いです」
キャシアの切実な言葉に、ベロニカの胸が喜びで締めつけられる。
「そんな風に言ってくれる人がいて……嬉しいわ」
(私は完全に一人というわけじゃないのね……)
味方が一人いてくれるだけですごく心強い。
「キャシア、これからもよろしくね」
にっこりと微笑みかけると、キャシアも満面の笑みを向けてくれる。
(キャシアがいてくれたら、公爵が戻ってくるまで頑張れそう)
アダムが屋敷に戻ってくるまで、あと一週間。
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