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京之介くんは私をおじいちゃんの家まで送ってくれた後帰っていく。夜風に揺られ、その後ろ姿が見えなくなるのを見届けてから、鍵を開けて家の中へ入った。まだ少し風が冷たいが良い夜だった。僅かに虫の声がした。
おじいちゃんはもう眠っているのか、居間はしんと静まり返っていた。
――――居間の向こうにある畳の間の薄暗さとその静けさは、私にある経験を想起させた。
京之介くんとは、体の関係を持ったことがある。それはたった一度きりのことだった。
お姉ちゃんが死んだ夜、私の家族も京之介くんの家族も家には帰ってこなかった。この家の畳の間で壁に背中を預けて並んで体育座りしていた私たちは、互い以外には誰もいないこの家で静けさだけを感じていた。
先にすすり泣いたのは京之介くんだった。私にはまだ姉が死んだという実感がなく、どちらかと言えば京之介くんが泣いたのにつられて、京之介くんの背中をさすりながら、いつの間にか泣いていた。京之介くんが泣くのをその時初めて見た。
二つ、三つ離れた親戚のおにいちゃん。感覚的には父親の次に強い男だったひとが、泣いている。その事実からようやく、姉が死んだことを実感し始めたのだ。
「……瑚都、」いつもは瑚都ちゃんと呼んでくる京之介くんが、その時ばかりは瑚都と呼び、泣いている私を抱き締めたことを、鮮明に覚えている。この大きな体を守らなければ、励まさなければ、と抱き締め返した。キスをしたのがどちらからだったかは覚えていない。互いに初めてではなかった。ぼんやりとただ悲しみを、寂しさを埋めるように互いの温もりを求めた。
あの夜のことを過ちと言うならばそうなのだろう。お互いあの夜のことについては何も喋らない。
何事もなかったかのように四年が過ぎた。
畳の間に荷物を置いて記憶を閉じ込めるように襖を閉め、お風呂に入る準備を始めた。
入浴を終えた後、私は部屋着ではなく外行きの春らしい薄桃色のロングスカートと白いトップス、カーディガンを羽織り、もう一度外へ出た。電車に乗って三条駅で降りて、三条大橋を渡りながら、昼間も別の場所から見たはずの鴨川を見た。夜中に一人で京都を歩くのは始めてだった。いや、夜でなくても初めてかもしれない。盆や正月に帰ってきた時も、大抵は親や祖母、京之介くんの親が一緒だった。
一人で電車に乗って、一人で来られるなんて、大人になったな。
小さい頃の私にとって、たまに来る京都の中は全て未知の世界で、誰かと一緒でなければ怖くてどこにも行けなかったのに。
一人で歩いているせいで声をかけてくるナンパ目的の男性を躱しながら、目的地の、クラブハウスの上階にあるバーへと向かう。
何せ、体の熱が収まらない夜は久しぶりだったのだ。
「瑚都ちゃん」
あんな脳まで甘く震わせるような声をずっと聞いていたせいかもしれない。私の腕を掴んだあの手の大きさと強さを思い出し、ぎゅっと腕を握った。
――気持ち悪い。
従兄で何を考えているのか。家族のようなものじゃないか。
良からぬ欲が掻き立てられるのを防ぐように会員制のバーの扉を開けて、保険証と免許証で年齢確認を済ませ、薄暗いそこに足を踏み入れる。
店主の「新規客だよ」という声に、中にいる客たちが一斉に品定めをするかのようにこちらを見てきた。
口コミによるとここはいつも常連客が多いらしく、新規客は浮くらしい。何よりここは――カウンターからは死角となっているカップルシートがあり、盛り上がった男女はそこへ行ってよろしくするらしい。新規客をそういう目で品定めするのも無理はないだろう。男女比的にも、どうやら男が多いようだし。
「いらっしゃい。ここちょっと分かりにくいのに、何で来てくれたん?」
常連客が私の上着をハンガーにかけたり、ソフトドリンクを注いでくれたりと歓迎してくれる。こちらを探るような質問だった。
「他人同士のセックスが見たくて」
他人のセックスを見ながら飲む酒ほどうまいものはない、と私は思う。近くに居る常連客の方々がどっと笑った。
「なるほどね。今日女子少ないしそういうのあるか分からんけど、見れたらええね」
ソフトドリンクを一杯飲み干し、二杯目はカクテルにでもしようかとメニューを見ていたその時、隣に大人っぽい男が座った。赤く光るライトのせいで髪の色がはっきりとは分からないのだが、彼はこの光の中でも分かるほどには美形だった。
そしてその顔を見た瞬間、何故かひゅっと心臓が縮こまるような感覚がした。
次に、タバコの葉のような乾いた香りと甘すぎないバニラの香りが混ざった、掴みどころのないアンニュイな雰囲気の匂いがして緊張が解ける。香水を嫌う私にしては珍しく、好きな匂いだった。
「久しぶり」
「……え?」
思わず聞き返すと、男はふっと笑う。
「誰かと間違えてません?」
「ああ、そうだね、ごめん。君があんまりにも可愛いから、ついからかいたくなっちゃった」
カウンターの向こうにいる店主から何だかよく分からないお酒をもらった男は、それを一口飲み、私の方へ向き直った。
「なんて呼んだらいい?」
「……瑚都」
「へぇ。瑚都ちゃんっていうんだ。名前まで可愛いね」
薄っぺらいなあ、と思った。こういう場で初対面の女に息を吐くように可愛いだの好きだのと言える男が好きなのは、恋愛ごっこに騙されるバカな女だけだ。
「俺は、鞍《くら》って呼んでくれたらいいよ」
「……鞍?」
「うん。鞍」
鞍が少し顔を近付けてきて、じっと私の目を見つめる。
「ねえ、ちゅーしていい?」
不自然なはずの問いもこの男が言うと流れるように自然で、思わずうんと頷いてしまうと同時に、唇が重ねられた。しばらく深いキスをされた後、ゆっくりと唇が離れていく。
そして、至近距離で囁くように聞かれた。
「いちゃいちゃする?」
――展開早いな。でもこういうバーってこれくらいなのかもしれない。おかしい、東京で行ったところはこんな感じではなかったはずだが。
こんな遊び慣れてそうな、知らない男とヤって性病でも移されたら堪らない。
その流れになったらきっと相手のものを舐めることになるし、オーラルセックスでゴムを付けさせてくれる男なんて私の経験上では滅多にいないのだ。
「好きな人がいるので」
嘘を吐いて断った私に、鞍が目を細める。
「好きな人?彼氏?」
「まあ、そんなところです」
嘘だ。特定の相手なんて、高校生の時以来作ってこなかった。
「何それ、えろいね」
は? と思った時には、また深くキスされていた。
少しだけお酒の味がするキス。鞍は顔が好みだし口臭もしないし、これ以上のことをするのもアリだと思うのにそう時間はかからなかった。
あれよあれよという間にカップルシートに移動させられ、「可愛い」としつこいくらい耳元で囁かれながらぼうっとしているといつの間にか下着まで脱がされていた。何度もキスを交わしながら、「彼氏いなかったらキスマーク付けるのになあ」なんて言うわりには、首元を噛んでくる。噛み跡はいいのかよって思った。
「彼氏のどこが好きなの?」
「え?……優しいと……ッ、ん」
「ん?なあに?」
「……優しいところ」
「他には?」
私の身体の敏感な部分を刺激しながら、楽しそうに彼氏のどこが好きなのか聞いてくる鞍。こんな場面で聞くべきことじゃないだろう――と思うのと、コイツ寝取りプレイが好きなんだろうなと察するのが同時だった。それならその“プレイ”に乗ってやろう。彼氏なんていないけど、架空の彼氏を作って……と無理矢理創造しようとしたところで、ぱっと浮かんだのは京之介くんの姿だった。
「彼氏いるのに何でこんな所に一人で来たの?」
「……彼氏が私のことを家に送って早々に帰ってしまったので」
「ふうん。こんな可愛い子すぐ帰しちゃう彼氏、どうかと思うけどね。俺なら朝まで帰さない」
長い指が十分に濡れた私の中に入ってくる。そんな動きAVでしか見たことないわってくらいの速さで私の壁面を擦り続ける鞍。んっんっ、と出そうとしなくても喘ぎ声が漏れた。下の水音が妙に大きくなってきたと思うと、敷いてあるタオルがビショビショになっていた。
「……え」
「知らない男に吹かされちゃったね」
「……え、潮?」
「うん。はじめて?」
「私吹かない体質なんだと思ってました」
「潮は誰でも吹くよ。吹かないんだったら男の問題」
へえ、という間抜けな感想が出た時には、目の前に鞍のそれがあった。
「舐めて」
短く命令されて、ぼうっとしていたせいか流れるようにそれを咥えていた。
あ、やってしまった。と思ったけれど、もうやってしまったから仕方ないかと、スイッチを切り替えて深く咥え込む。必死に舐める私の敏感な胸の先端をきつく刺激しては、動きを止めた私に、
「動き止めんな」と叱責するように鞍が低い声を出す。ずっと優しい口調だった分、そのギャップにきゅうっと子宮が反応した。
しばらくするとずるりとそれが口内から出ていき、コンドームを取ろうと手を伸ばすのが見えたので、「あの、だめです」と急に我に返って止めた。
「何で?気持ちいいの好きでしょ?」
「……彼氏がいるので」
「ふうん?瑚都ちゃんのここは準備万端なのにな。下のお口の方が正直だね」
快楽で捻じ伏せるかのように、与えられる刺激が強くなる。
「っとに、だめです……! ヤるつもりで来たんじゃないし、もう帰ります」
必死に抵抗する私に、鞍の動きがようやく止まった。
「まあ、嫌がってる女の子に無理強いする趣味ないし……じゃあ最後にもっかい気持ちよくしてあげるね」
「え」
私の中に入っている鞍の指の動きが速くなり、本日三度目の潮吹きをさせられた。
事が終わりタオルを入れ替え服を着ていると、あれだけ遠慮している素振りを見せていたわりに普通にキスマークをつけてきた鞍は、
「連絡先教えてよ。俺からは連絡しないからさ。会いたくなったら連絡して」
とLINEのQRコード画面を見せてくる。少し躊躇ったが、何か面倒なことがあればブロックすればいいだけだと思い交換した。
私はバーを出たが、鞍はまだ残っている様子で、手を振って私を見送る。外の風は冷たく、自分の身体にうつった鞍の香水の匂いが鼻を掠めた。
……香水の名前だけ聞いておけばよかったな、と後悔した。
もう二度と会うことのないであろう鞍の匂いだけが、シャワーを浴びるまでずっと残っていた。
:
進学先の大学の研究室に初めてお邪魔したのは、その数日後。
「うちはお金がないから、液体窒素とかも多くは買えないんだよねえ。細胞の数え方も原始的だし……ああ、そう、ここで細胞を培養してるんだけど」
配属される研究室を案内してもらいながらメモを取った。この分野の教授はどうやら怖い人みたいで、挨拶をしても「ああ」くらいの返事しか返ってこなかった。
今案内をしてくれているのは准教授。気さくで優しいオジサンだ。一通り部屋の説明が終わった後、他の学校から来た院生に対してはキャンパスのマップが配られた。
「うちの学食、安くて美味しいからぜひよろしくね」
にこりと笑った時の目の皺が可愛らしく、人に好かれる人だろうなと思った。
「この研究室には9人学生が配属されてるから、そのうち仲良くなれると思うよ。……って、ちょうど一人来たね」
准教授が私の背後を見たので、私もそちらを振り向く。
そして、息が止まった。
「鞍馬《くらま》くん、今日は時間通りに来たんだね」
「こんにちはぁ」
昨日はライトの具合で見えていなかったその髪の色は、ミルクティーベージュだった。
彼の真っ黒な瞳がこちらを向いたその瞬間、全身に寒気が走る。こうしてまともな光の下で彼を見て、私は彼が誰だか思い出してしまったのだ。
彼の口元が、私の焦りを見透かしたように弧を描く。
「久しぶり」
鞍馬。
それは、私が子供の頃に
殺したはずの男の子の名前だった。