◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「壱都さん!」
部屋に飛び込むと壱都さんは白い包帯を腕に巻き、痛々しい姿をしていた。
「ナイフで刺されたって聞いて……!」
「かすり傷だよ。|朱加里《あかり》がいなくて本当によかった」
壱都さんは自分が怪我したというのに私の心配をしてくれた。
「傷は平気なの?深くないの?」
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。ただ俺の怪我が治るまで、そばにいて助けてくれると嬉しいな」
「ええ」
利き腕の右腕に包帯をしたままで、痛むのか左手で私の頬をなでた。
背後から視線を感じ、振り返ると樫村さんが壱都さんを呆れた顔で見ていた。
「自分はこれで失礼します。壱都さん、いい加減にしておかないと、白河会長に言いつけますよ」
「わかってるって。樫村は怖いなぁ」
ナイフを持った人間に襲われるという怖い思いをしたばかりなのに壱都さんは落ち着いていた。
むしろ、機嫌がいい。
「会食はどうだった?」
刺されたと聞いたせいで頭の中が真っ白になり、楽しかったとは答えることができなかった。
「お茶の先生が壱都さんと近いうちに伺ってほしいとおっしゃられて」
「ああ……そういえば、そうだったね。今週の日曜日にでも伺おう」
「え?壱都さん、お茶の先生がお会いしたいと言っているのを知っていたんですか?」
「用があって、連絡した時に言っていたんだよ。色々やることが多くて忙しかったから、つい後回しになってしまっていた」
「最近、残業も続いてますから、体に気を付けて下さいね」
「ああ」
にっこりと壱都さんは微笑んだ。
その笑みを見て、ふと父の事が頭をよぎった。
「あの、井垣の父はどうしているか、知っていますか?」
「知ってるよ。アルコール中毒で入院中らしいよ」
「アルコール中毒!?」
「ダメだって言ってもお酒が欲しいって聞かなかったそうだよ。町子さんが辞めただろう?新しい家政婦さんばかりで、断れなくて買い与えてしまったとか言ってたかな」
「そんなことになって……」
「ああ、朱加里は顔は合わせない方がいいと思うよ。向こうはよく思ってないだろうし、危険だよ」
「そうですよね」
私を見ても不快なだけだとはわかっている。
壱都さんが言うように会わないほうがいい。
「お互いに距離を置くのが一番だよ」
そう言って、壱都さんは私に孤独を感じさせないためなのか、抱き寄せた。
「大丈夫。朱加里には俺がいるからね」
「ええ」
抱き締められた腕の中は心地よく、私は目を閉じた。
壱都さんが無事で本当によかったと思いながら―――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「壱都さん!なにをしているんですか?」
朝、壱都さんを迎えに来た樫村さんの第一声はそれだった。
「何ってご飯を食べさせてもらっているんだけど?ほら、利き腕が怪我しているからね」
「すみません。いつもより、遅くなってしまって」
「朱加里さんは謝らなくていいですよ」
「次はその卵がいいかな」
「はい」
スプーンですくい、口に運ぶ。
幸せそうな顔で壱都さんは卵を口にした。
「壱都さんが一人で食べれないなら、パンにすればよかったでしょう」
「あっ!そ、そうですよね」
恥ずかしい。
どうして思いつかなかったのだろう。
「朱加里さん、怒っていいですよ。傷は絆創膏をはっておけば、いいくらいの傷なんですからね!」
「えっ!」
「樫村は|野暮《やぼ》だなー」
「なにが、野暮ですか。朱加里さんを騙してイチャイチャして。ふざけてないで仕事に行きますよ!」
「せっかく楽しんでいたのにな」
「壱都さん!怪我が痛むって嘘だったんですか?」
「痛いよ?」
「かすり傷程度には痛いでしょうけどね」
樫村さんは冷ややかな目で壱都さんを見た。
昨日、夕飯の食事を食べさせて、恥ずかしかったのにお風呂も一緒に入って、そのあげくっ……
「私のことを騙したんですか」
「怪我はしてるよ。ほら」
包帯をとると、大きな絆創膏には血がにじんでいた。
「そうですけど」
なんとなく、納得できない。
「信用無いなぁ」
樫村さんは包帯を巻きなおして、すかさず言った。
「壱都さんの日頃の行いが悪すぎるんでしょう」
「こんなに善良なのにな」
なにが善良なんだろう。
私は朝食を片付け、じろっーと見ていると壱都さんはさっと目をそらした。
一応、わざとおおげさに言った自覚はあるらしい。
一番、タチの悪い人間が身近にいるような気がしてならなかった。
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