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彼女の左手を額に当てながら、陽翔はしゃくり上げながら百子に|希《こいねが》う。百子がいない日々は、まるで砂を噛むようで、虚しさばかりが募り、陽翔の心を、体を苛んでいた。
(百子が目覚めないのは俺のせいなのか……? 俺が勝手にしろって突き放したからなのか……?)
もしそうだとしたら、あの時に話があると百子が言ったのは、きっと別れ話に違いない。そして百子が目覚めないのは、きっと陽翔に会いたくないからだろう。いきなり怒る相手と一緒にいたいだなんて思う道理がない。
「それでも……それでも俺はまた百子と一緒にいたい。ちゃんとあのことを謝って、二人で笑って過ごしたい。だから……だから戻ってきてくれ、百子……! 頼むから……」
絞り出すような陽翔の声は、病室を束の間彷徨って消えていく。涙を乱暴に拭い、彼女の左手に頬をすり寄せる。そのまま時間が過ぎていくかと思われたな、ノックの音がしたので、力なくどうぞと返答する。看護師かと思ったが、複数の足音が聞こえて違和感を覚え、陽翔はしゃがんだままドアの方に視線を向ける。
そこには手提げを持つ女児と、紙袋を提げた自分の母と同世代の女性が手を繋いで立っていた。
「あ、すみません……百子の見舞い、ですか?」
陽翔は二人が棒立ちになっているのを見て、さっと立ち上がり、きまりが悪くなって謝罪する。すると女性から口を開いた。
「はい。私は葛城章枝と申します。この子が……美香が助かったのは茨城さんのお陰ですし。そのお礼を言いに来ました」
章枝は陽翔に頭を下げ、陽翔も釣られて頭を下げた。彼女は隣にいる女児に挨拶を促す。
「こ、こんにちは。みか、です……。6さい、です。おばあちゃんといっしょに、おみまいにきました」
(おばあちゃん?!)
陽翔は仰天して美香と章枝を交互に見る。てっきり章枝は美香の母親だと思っており、祖母だと判明して頭が追いつかない。とはいえ、章枝の娘が早くに結婚しているのなら、小学生の孫がいるのは何ら不思議でないと思い直す。陽翔は立ち上がり、二人に入室を促した。彼は章枝に名乗ったが、女児が章枝の後ろに隠れているのを見て、立ったままだとまずいと気づいた。
「こんにちは。僕は東雲っていいます。このお姉さんの婚約者です。僕も見舞いに来たばかりなんだ」
陽翔は美香と目線を合わせ、できるだけ眉間のシワを伸ばして晴れやかに笑いかけ、言葉もなるべく柔らかにして告げる。
「こんやくしゃ……?」
章枝から離れ、こてんと首を傾げる美香に、章枝は百子の左手を見ながらやんわりと説明する。
「結婚の約束をしてるってことよ。お姉さんは将来東雲さんのお嫁さんになるの。ほら、左手の薬指に指輪してるでしょ?」
「およめさん! ホントだ! キラキラのゆびわしてる!」
美香が大きな声を出すので、章枝は人差し指を唇に当てる。美香は頬を膨らませてから生返事をして、百子に向かってありがとうと告げた。
「茨城さん……百子さんって仰るのね。百子さん、私のみならず、美香まで助けて下さって……何とお礼をしたら良いか……」
(百子が助けた……? このご婦人を……? そんなはずは……いや、待てよ……?)
陽翔は目をぱちくりさせていたが、少し考えて、納得したように頷いた。
「もしかしてひったくりに遭われてた……?」
「ええ、そうです。茨城さんは本当に勇敢で……私の荷物も無事でしたし、私の怪我の応急処置もして下さいました。助けて貰った後に連絡先を聞こうと思ったのですが、仕事があると仰って、聞けずじまいで……でも茨城さんが入院してると聞きましたので、この機会にお礼申し上げたかったのです」
そして彼女は持っていた紙袋を陽翔に差し出す。有名な和菓子屋さんの袋を見て、陽翔は思わず口元に笑みを浮かべる。百子は和菓子も好きだからだ。
「そうだったんですか……何だか百子らしいですね。百子も喜んでいると思いますよ。自分の誕生日に、自分が救った方から感謝されるんですから。しかも百子の好きな和菓子となれば、起きてたら小躍りの一つくらいはしそうです」
章枝は目を見開き、ベットの側にしゃがむと百子の手をそっと握った。
「百子さん、今日がお誕生日だったんですね。お誕生日おめでとうございます。素敵な一年になりますように」
章枝の落ち着いた声に、美香の溌剌とした声が続いた。
「おねえさんおめでとう! だからプレゼントがおいてあるのね」
百子の枕元にある箱と百子の顔を交互に見て、美香は悲しげに百子に問いかけた。
「おねえさん、おきないの……? おきないとごはんたべられないよ? おにいさんからのプレゼントもみられないよ?」
「……うん。そうなんだ……何度呼んでも起きなくて……ひょっとしたら目覚めたくないのかも……」
「そんなことないよ! おにいさん、おねえさんがだいすきなんでしょ? けっこんしたいんでしょ? だったらあきらめちゃだめなの!」
鼻息を荒くしてのたまう彼女に、陽翔は呆気に取られて瞬きを増やす。同じようなことを職場の人間に言われても定型文句にしか受け取れなかったにも関わらず、美香の言葉だけは陽翔を元気づけた。
「……そう、だね。ありがとう……百子とは喧嘩することもあるけど、誰よりも大事にしたいし、笑ってる所もたくさん見たい……愛してるんだ。愛してるから……愛してるからこそ、僕が諦めたら、百子が余計に悲しむよね……」
白い病室にしばし沈黙が降りる。百子への愛を囁きながら、彼女の左手をそっと握る陽翔の様子に、二人は暫し見惚れていたが、弾かれたように美香は陽翔の方を向いた。
「そうだ! ミカがおきてほしいっておまじないするの!」
美香はそう言って、手提げから白い折り紙を取り出し、慣れた手つきで何やら折り始めた。それはみるみる花の形を取り、花をあまり知らない陽翔でもその正体を言い当てることができた。
「できた!」
美香は手のひらに、折ったばかりの白薔薇を乗せると、ニコニコとしてそれを百子の右手に握らせる。薔薇を持って眠る百子の様子を見て、陽翔はその光景に既視感を覚えた。
「ねむれるもりのおひめさまみたい……おひめさまはたしか……あいするひとのちゅーでめざめたよね。おにいさん、ちゅーしたらおきるかもよ?」
「美香?!」
章枝は素っ頓狂な声を上げたが、陽翔は考え込む素振りを見せる。荒唐無稽にも思えるが、試してみるのもやぶさかでないと判断した陽翔は、体を傾けて百子に口付けした。こんな時にも口付けで興奮する自分に嫌気がさしたが、久し振りの彼女の唇は柔らかくて温かく、意識が無くとも、百子はここにいると強く陽翔に思い知らされ、ひび割れた心が少しずつ癒えてきた。三人は息を呑んで見守っていたが、陽翔はやがて首を振る。流石に物語のように、都合良くはいかないらしい。消沈していた陽翔に、美香はぶんぶんと首を横に振った。
「だいじょうぶ! ミカがおねえさんがおきますようにっておまじないしたから! だからこのバラ、おねえさんにあげる! ふかいねむりからさめますように」
美香は折り紙で作った白薔薇ごと、彼女の右手をぎゅっと握って目を瞑る。しばらくそうしていた彼女だったが、ぴょんと跳ねて目を丸くした。
「あ! いま、おねえさんのてがピクってなった!」
「本当か?!」
陽翔もすかさず百子の左手を握る。彼女の言ったとおり、1度だけ、ほんの僅かではあるが、百子の指先が自発的に動いていたのだ。彼女の睫毛は動かなかったが、陽翔は感極まって涙ぐんだ。
「美香ちゃん……僕からもお礼を言うよ……ありがとう。美香ちゃんのおまじないのお陰だね。きっと百子も喜んでるよ。百子の見舞いに来てくれて、しかもプレゼントやおまじないまで……本当にありがとう……!」
百子が目覚めたら章枝に連絡することを約束し、二人は病室を辞していった。一人残された陽翔は、体を傾けて百子に口付けし、明日も来るとだけ告げて病室を出た。その後もできる限り彼女の顔を見に病院に通ったが、以前のように彼女のベットの側で嘆いてすすり泣くことはせず、手を握りながらその日にあった面白い出来事などを話し、帰る際には必ず口付けをした。深い眠りについているだけだと言い聞かせながら。
陽翔が彼女に会っている間、友人の美咲に、百子の両親と兄の冬治もそれぞれ見舞いに来ており、彼らにも百子の手を握るように促している。百子が反応を見せたのは、今の所美香と陽翔に対してだけなのだが、接触が多いと彼女の目覚めが早くなると踏んだのだ。
(百子の友人にも反応するようになったもんな)
百子の様子を見て泣きそうになっていた美咲は、百子からの反応が得られたことで、歓喜に震えていたのを陽翔は思い出す。その後で美咲に、結婚式のことはしっかり二人で話し合えと懇々と説教をされ、ぐうの音も出なかった彼は大いに反省をし、彼女に百子の目が覚めるのをいくらでも待つと約束した。しょげきった陽翔だったが、百子には良い友人がいることを素直に喜び、来る日も来る日も、陽翔は未だに固く目を閉ざしている彼女の元に通った。