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萌さんとは去年の四月に出会って、一年後の五月に挙式することになった。もともと結婚を前提とした交際だったから予定通りではあったけど、すべてが予定通りだったわけではない。
僕はスタジアムで彼女を好きになった。だから交際を始めてから、アスルヴェーラのホームの試合は必ず二人で応援に行った。アウェイの試合も夏休み中沖縄で開催された琉球戦を含めて五試合応援に行った。
彼女は毎晩のように僕のアパートに来て泊まっていった。いかにも真面目そうな僕と見た目通りのヤンキーの彼女。並んでいても恋人同士に見られることはなかったけれど、僕らは一歩一歩着実に愛を育んでいった。
去年の秋頃、誰かから僕らの挙式が決まったと聞いて、萌さんの元カレの山田康二に嫌がらせをされたりもした。彼はどうしてそんなことをしたのだろう? いつか桜町選手にやり込められた仕返しをしようと思ったのか? それともまだ萌さんに未練があって脅してまたセフレ関係を復活させようとしたのか? 定かではないが、かつて彼は恋人の萌さんを実際にはセフレ扱いした挙げ句ほかの女性との浮気を繰り返したクズ男。クズな男ほどモテるという現実にモテない僕は理不尽だと嘆くしかなかったものだ。
クズ男の彼がした嫌がらせとは、いわゆるリベンジポルノ。彼は交際中に撮影した萌さんの性的動画をSNSの萌さんのアカウントに送りつけようとした。が、ブロックされていて送れなかったので、萌さんから聞いて知っていた高校生の義妹のアカウントに送信した。
結婚おめでとうとお姉さんに伝えてね。動画はおれからのご祝儀。ご祝儀だからお姉さんと結婚する男にもぜひ見せてやってほしいな。
こんなメッセージを添えて。
ヤンキーの萌さんと真面目な義妹。姉妹の仲は悪く会話もなかったので姉に言い出せず、義妹は義母に相談した。義母も困って義父に相談。
義父は結婚が破談になることを恐れて、萌さんと僕に言い出せなかった。かといって僕側の関係者に一切知らせないのも不誠実だと考えて、僕の父に事実を伝えた。萌さんの両親と僕の両親とで話し合いが持たれ、山田康二が今後何をしてきても黙殺すると決定した――
はずなのに、萌さんを嫌う母は動画を僕に見せた。いかにも深刻そうな表情で。
動画は全部で15本! 動画に収録されていた多くの行為は、通常の恋人同士のあいだでなされる行為ではなかった。元カレは中世の絶対君主のように横暴だった。
萌さんに大人のおもちゃを渡して自慰行為させて風俗嬢が向いてるぜとからかったり、ピザの配達を頼んで配達員が到着したらセクシーな下着姿のまま受け取りに行けと命じたり、縛られて目隠しまでされた全裸の彼女を部屋に放置して何時間も外出したり。
ちなみにもっとアブノーマルなプレイを撮影したシーンもたくさん収録されていた。比較的ソフトなシーンだけ例に挙げたのはもちろん萌さんの名誉のためだ。
それにしても、僕に対してはいつも強気で遠慮を知らないヤンキーの萌さんが、元カレの言いなりになって好き放題にされていたのは不思議だった。それほど好きだったということか、とそれもまた僕を落ち込ませる材料になった。
萌さんが元カレの横暴に耐えたご褒美は彼とのセックスだった。元カレは避妊薬を萌さんに飲ませていて、責任取る気もないくせに一度も避妊しなかった。しかも彼のセックスはいつだって激しい暴力や羞恥を伴うものだったのに、それを心待ちにしていた萌さんの笑顔を見るのもつらかった。
僕は教師だけどセックスについては萌さんが先生だった。シンはあたしがしてほしいことをしてくれればいい、という彼女の言う通りにしてきた。でも動画の中で萌さんがしていたさまざまな過激な行為を彼女からしてほしいと言われたことはない。そもそもスマホカメラで撮影されている時点で、それは僕の大事な萌さんが別の男にとっては性欲処理の対象としか見られていなかったことを意味して、僕と出会う前のことだから気にしても仕方ないのに、その事実も器の小さい未熟な僕には受け入れがたかった。
受け入れがたくても、萌さんが元カレの言いなりになってさまざまなアブノーマルなプレイを受け入れていたことは仕方ないと思うしかない。だって萌さんにとって元カレは恋人でも、元カレにとって萌さんはセフレでしかなかったようだから。夫婦や恋人同士ではしないことでも快楽だけの関係のセフレにはできてしまう。たとえば、不倫カップルのセックスはそういうものだと聞いたことがある。
僕がどうしても受け入れがたかったのは、萌さんが僕とのセックスでは決して見せたことのない性の快楽に溺れる姿を、そして表情を元カレには見せていたことだ。
萌さんと僕のセックスは、彼女の指示どおりに僕が動くだけだ。触ってと言われたら触るし、舐めてと言われたら舐めるし、挿れてと言われたら挿れる。萌さんはそのたびに必ず、気持ちいいと小声で言ってくれる。満足してくれていると思い込んでいた。でも全部演技だったのかもしれない。そう思えるくらい、動画の中の彼女は行為中ずっとわれを忘れて悶え、そして自分から積極的に元カレを求めていた。
早く挿れて! そこ、いい! まだイかないで! ああ、イクッ! 康二さん、愛してる! 中に出して! もっとして! やだ、我慢できない! 何でもするからやめないで! すごい、奥まで当たってる! もっとめちゃくちゃにして! 一滴残らず出して! ああ、またイッちゃう! ああああん! 気持ちよすぎて脳が溶けそう!
僕とのセックスでは聞いたことない嬌声の数々。萌さんはそれを僕に聞かせたくなかっただろうし、僕も聞くべきではなかった。僕ではない男に抱かれながら発していた彼女の嬌声が、動画を見てないときも僕の脳裏でリフレインされるようになった。
萌さんが元カレとしていたセックスこそが本当のセックスなのだろう。それと比べたら僕としているセックスは義務的にしてるだけ。僕ではどうしたって萌さんを性的に満足させることができないのかと思うと、元カレへの嫉妬と圧倒的敗北感が込み上げてきてこの世界から消えてしまいたくなった。
動画を見たことは萌さんに知らせなかった。ふだんと変わらない態度で萌さんに接しようと努力したけれど、彼女との行為が最後までできないことが何日か続いた。画面の中の萌さんの痴態を見ながら自慰することはできたけど、それはそれで最愛の恋人がかつて元カレに性のはけ口扱いされている動画を見て欲情している自分自身が情けなかった。
ある日、心配ごとでもあるのかと萌さんに心配された。
ないよと答えたら、キレられた。
「ないわけねえだろ! 困ってることがあれば言えよ! おまえ、あたしと結婚するんじゃねえのかよ!」
どう答えていいか分からず黙ったままの僕を見て、萌さんはさらにヒートアップした。
僕が動画を見たあとも萌さんと別れようとしないのに痺れを切らして、母は僕に動画を渡したことを萌さんの両親に告げた。萌さんの両親は萌さんと、そしてなぜか静香さんまで連れて僕の住むアパートに駆けつけた。
そうしようとあらかじめ決めていたのだろう。四人は部屋に上がるなりひざまずいた。萌さんはすでにあきらめ顔だった。
「最近シンの様子がおかしかったのはあの動画を見たせいだったんだな。言い訳はしねえよ。あんなやつの言いなりになって、動画まで撮らせたあたしが馬鹿だった。あいつとつきあった三年間、あたしは奴隷と同じだった。動画で見たような、シンとはしないような普通じゃないセックスもいっぱいした。もちろん脅されてしたわけじゃない。あいつはあたしにとって初めて好きになった相手。どうしても嫌われたくなかった。あいつから求められたことは、どんなことでもしなきゃいけないと思い込んでたんだ。最初は嫌だったことも、そのうち麻痺して何でも気持ちよく感じるようになった。でもそんなことはシンにとっては知ったことじゃないよな。こんな変態と結婚したくないと思われて当然なのも分かってる。おまえの母親の言う通り、結局あたしはシンにふさわしくない女だった。でも別れたくねえなあ。シンのいない人生なんて、どうやって生きてけばいいか分からねえよ」
それに答える前に、とりあえず四人の土下座をやめさせた。足腰の弱った静香さんはひざまずくのも立ち上がるのもつらそうで、そんな目に遭わせてしまってこちらの胸が痛くなった。
「僕と出会う前のことなので、萌さんも、もちろん家族のみなさんも、謝る必要はありません。ただ僕が未熟で人としての器が小さいために、動画を見たショックからなかなか立ち直れなくてこちらこそ申し訳ないです。萌さんと僕に嫌な思いをさせたいという元カレの思い通りになってることが何より悔しいです」
僕は反撃を宣言した。
「正直結婚については悩みました。でも萌さんなしの人生が考えられないのは僕も同じです。母に反対されても、僕は萌さんと結婚したいです。僕らが幸せな結婚生活を送るために、結婚の障害はすべて排除しましょう」
僕が山田康二をリベンジポルノ防止法違反で刑事告訴することを勧めると、萌さん一家も同意してくれて正直ホッとした。萌さんが元カレをかばって刑事告訴に躊躇したら、それこそ結婚話を白紙に戻そうと考えていた。
萌さんは誠実だったと思う。僕が気にしながら言い出せなかったことも、彼女の方から話をしてくれた。
「結婚をキャンセルされなかったのはよかったけど、動画のことを怒ってないわけじゃないんだろ?」
「怒ってはいないけど、君の気持ちがよく分からなくて困ってる」
「分からないって何が?」
「君は僕とのセックスに満足してるというけど、あの動画の中の君を見てから僕は自分に自信が持てなくなった」
「あれは演技だったと言っても今さら信じてくれないよな。うん、あたしの前に何人も彼女がいて女の扱いに慣れてるだけあって、あいつとのセックスは最高だった。正直シンがこれからどれだけ頑張ったって、セックスであいつ以上に女を満足させられるようになるとは思えない」
要は、結婚を約束した女性からおまえはセックスが下手だと面と向かって言われているわけだ。僕は歌会でみんなの前で、おまえ童貞だろと罵倒されたとき以上の衝撃を受けていた。
「でもそれが何だって言うんだよ! あいつにとってあたしはただのセフレ。会えばいつも何かの実験台みたいに痛いことや恥ずかしいことをいっぱいされて、その引き換えに最後に気持ちよくしてもらえただけだ。あいつとのセックスはそのとき気持ちいいだけで、セックスするほどあたしの心は壊れていった。でもシンとのセックスはあたしの空っぽの心を温かいもので満たしてくれた。あたしの価値は体だけじゃなくて、心にもあるって知ることができた。気持ちいいだけのセックスより愛のあるセックスの方がずっといいって、シンがあたしに教えてくれたんだ。これからのあたしにはシンとする愛のあるセックスだけあればいい。気持ちいいだけのセックスなんて二度としたくねえんだ。それに――」
僕だけでなく、萌さんの両親も今度は何を言い出すんだろうとハラハラしながら彼女の話に耳を傾けている。
「毎日走って下半身鍛えてるだけあって、シンの持久力はあいつに負けてない。多少下手でも持久力があるから、いつも最後には気持ちよくなれてる。だからシンとのセックスに満足してるというあたしの言葉は、結局嘘じゃないってわけだ」
そのとき萌さんたち四人の後方で、何かが床に落ちる音がした。目を向けると萌さんの妹が立っていた。彼女は女子高生。姉妹仲が悪くても、姉が心配であとから駆けつけたらしい。
足元にトートバッグがあるが、置いたのでなくさっき思わず手を放して落としてしまったようだ。よく見ると妹の顔が真っ赤だ。萌さんと違って処女で純情な子だから、駆けつけて早々姉の赤裸々な性体験を聞かされてビックリしてしまったのだろう。
単なる名誉毀損と違って、リベンジポルノは犯人の特定が容易なので、刑事告訴後の警察の動きは迅速だった。山田康二はまもなく逮捕され、出勤しなかったことで会社にもバレて一方的に解雇された。彼は警察にも性的動画を送信したのは結婚祝いだったと言い張ったが、もちろんそんな言い分が認められるわけがなく、かえって自分の印象を悪くしただけだった。
警察の話では、彼は性的画像や動画を不特定多数に公表した場合だけ犯罪になると思い込んでいた。特定個人への提供も犯罪になると聞いて真っ青になっていたそうだ。
彼は弁護士を雇い、示談を求めてきた。示談成立による刑事告訴取り下げが狙いなのは明白。あの男の金なんていらなかったが、示談に応じるよう萌さんに指示した。萌さんは意外そうな顔をしていた。彼が保持する萌さんの性的画像・動画のすべてを没収することを示談項目に入れるためだと言ったら納得してくれた。
慰謝料100万円で示談成立。萌さんを撮影したデータは膨大なものだったが、すべて取り上げた。もしまだ手元にデータが残っていてそれが流出した場合には追加で1000万円の制裁金という取り決めもなされた。
山田康二は不起訴となり、前科者にならずに済んだ。ただし会社を解雇されたことで社会的制裁は受けている。今から努力してプロサッカー選手になれるかは知らない。彼は萌さんを底辺女と侮辱し、彼女との結婚を考えていた僕までゴミレベルの底辺だと罵倒した。底辺まで落ちた彼がサッカー選手として這い上がっていけるかどうか、あとは彼次第だ。
リベンジポルノから刑事告訴、そして示談。いろいろあったが、すべてはこれから長く続く僕らの結婚生活のプロローグにすぎない。山田康二も完全に過去の人となった。僕らの人生の主役は僕らだけだ。僕らの人生において、彼はただのモブなエキストラに成り下がった。
ところで、僕らの結婚の障害となる人物はもう一人いる。もちろん僕の母だ。今回の母の勝手な行動に父が激怒して、父は母を家から追い出した。母はさんざんゴネたけど、離婚後で居候の立場でしかなかったから、結局父の家を出るしかなかった。母はボロアパートの一室を借り、介護施設のパートとして働き始めた。介護職は肉体的に相当きついそうだ。今までずっと専業主婦でありながら何人もの男性と不倫関係を続けてきた。
自業自得。因果応報。身から出た錆。これらの言葉を母には贈りたい。
母が父の家を出た直後に、僕と萌さんが父の家に移り住んだ。どうせ結婚するのだから早い方がいいだろうということで、同居を始めたタイミングで入籍もして、僕らは晴れて夫婦になった。それが去年の年末。結婚式は半年後の五月に行われることになった。
当初の予定より同居や入籍のタイミングがずいぶん早くなった。そういう意味では、母と山田康二には感謝してもいいかもしれない。
今回の件はこれで全部終わりにしたつもりだったけど、萌さんは違ったようだ。
「本当に迷惑かけたし、傷つけてごめん。あたしにも何か罰を与えてくれないか?」
「僕と知り合う前の話で僕が君に罰を与えるのは違う気がする。どうしてもと言うなら君が自分で考えて今後の戒めにすればいいんじゃないかな」
そう僕に言われたその日のうちに、彼女は髪を黒く染めてピアスも全部外して、服も露出の少ないシックなものに変えた。酒もタバコももうやめるそうだ。
「もうヤンキーは卒業だ。これからは自分さえよければいいなんて言ってられないからな」
「僕の目を気にしたの? 僕はヤンキーの君を好きになったんだから、気にしなくてもいいのに」
「シンの目を気にしたんじゃねえよ。母親がヤンキーじゃお腹の子が嫌だろうと思ってさ」
「……………………!」
萌さんと知り合うまで恋愛も結婚もあきらめていたのに、どうやら僕はパパにもなれるらしい。彼女に罰を与えなくてよかったと心から思った。
そして今日、五月四日、僕らの結婚式の日を迎えた――