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冷たい空気が、肌に張り付くようだった。季節は確かに、冬へと歩みを進めている。 寒波が流れ込む十二月。どこか静かで、どこか鋭い空気が街を包んでいた。
今日は土曜日。保育園は参観日で、遊戯室では子供達が体操を披露することになっていた。
子供向け番組の軽快な音楽に合わせて、クラスの子たちが手足を上げたり、床をゴロゴロ転がっている。
「キャハハ!」と明るい笑い声が響くたび、遊戯室の空気もぱっと華やぐ。
保護者達はスマートフォンやビデオカメラを構え、成長を見守るまなざしでシャッターを切る。
その表情は皆、どこか誇らしげで、柔らかく、嬉しそうだった。
だけど。その輪の端にいる凛は、ただ一人。音の鳴るおもちゃを握り締め、同じ場所をクルクルと回り続けていた。
目は虚ろで、頬の筋肉はピクリとも動かない。音楽にも、笑い声にも反応しない。
世界の明るさから、まるで隔絶されたような存在。
その姿は、遊戯室の中にぽっかり空いた、冷たい穴のように見えた。
私は、ただそれを見ていた。
スマホも手に取らず、カメラを構えることもなく。
心は凛と同じくらい、静かで無表情だった。
他の親たちは、顔を見合わせながら微笑んでいた。
「すごいね」「こんなことできるようになったんだ」
夫婦で寄り添い、小声で囁き合う光景が、あちこちにあった。
誰の隣でもなく、誰とも視線を交わさず、私は一人。
取り残された母親として、そこにポツンと存在していた。
成長の輪から外れた我が子。
それを眺めるしかない私。
心が少しずつ黒く染まっていくのを、冷静なふりで押しとどめていた。
参観は静かに終わり、遊戯室を出る時には、周囲の保護者がまるで空気のように私を避けて通った。
顔を合わせないように、気付かないふりをしながら、けれど意図はあまりに明確で。
無理もない。
凛はその後、また他の子を噛んでしまったのだから。
藍田さんの息子さんも、その牙を向けてしまったのだから。
謝りたかった。でも、言葉が出なかった。
申し訳なさすぎて。何を言えばいいのか分からなくて。
何を言っても、もう響かない気がして。だから私は、親としての務めを放棄した。
今日の参観は、土曜出勤の保護者はそのまま園に子供を預け、休みの保護者は連れて帰る日。
私も今日は休みで、凛の手を引き保育園の玄関から外へと出て行く。
他の家庭は夫婦で参観に来ていた。
子供を真ん中に挟み、父親母親が小さな手を片手ずつ握る。「よく出来たね」「お昼ご飯をどこに食べに行こうか?」と、そんな明るい声が冷たい風に乗って流れてくる。
たとえ夫が来られなくても、母親同士で明るく談笑しながら帰っていく人達。
その中で、私たち親子だけが色のない存在だった。
世界の端で静かに立ち尽くしているような感覚。
──惨め。
人生で初めて過った言葉が、胸の奥にじわりと滲んだ。
冬の空は重たい雲に覆われていた。
低く垂れ込めた灰色の雲。太陽の光さえ拒まれた空。
その薄暗さが、私の気持ちとぴたりと重なる。
ひんやりとした風が頬に触れる。冷たい冬の棘は、容赦なく体も心も冷たくしていく。
最近、迎えのたびに保護者の目が突き刺さる。
「あんな子と、同じ場所に居させられない」
「転園して欲しい」
「家で見たらいいのに」
そうした声が、私の背後で囁かれている。目の前で言われなくても、聞こえてしまう。
目が合えば表情を歪めて、目を逸らして、足早に通り過ぎていく。
──まるで、中学生の頃に学校で見ていたいじめのように。
そういうこととは無縁の人生を送ってきたはずだった。
誰かを傷付けることも、傷つけられることもないように、波風を立てずに生きてきた。
でも、思い出す。
見て見ぬふりをしていた過去。
あの時、何も言わずに目を逸らした私も、きっと加害者だった。
無関心という、冷たい暴力を選んでいた。
今、私達親子に向けられているその無言の拒絶に、あの頃の自分の姿が重なっていく。
逃げたはずの場所に、私は今立っていた。
『痛っ! だから、噛んだらダメだって言ってるじゃない!』
凛は今日も、昼食の軟飯にスプーンを突き立てては、べちゃべちゃと潰していく。口に運ぶ気配は一切なく、食べ物を指先で押しつぶし、無表情のまま遊んでいる。何度注意しても聞く耳など持たず、こちらに目も向けない。
私はため息をこらえながら、手を伸ばしてプラスチックの皿を取り上げた。
次の瞬間。鋭い目が私を射抜き手首を掴まれたと思えばガブリと強く噛まれた。
痛みに顔が歪む。脳内は、吐きそうなぐらいに揺れてくる。
──分かってやっている。
この子は相手が怯むことを知っている。明らかな悪意により攻撃をしている。そうすれば思い通りになるって、学んでしまった。
「愛情が足りないから、手が出るんじゃない?」
誰かがそう言っていた。耳打ちするように、陰で。
違う。私なりに我が子を愛してきた。凛が泣けば抱きしめて、「大丈夫だよ」「お母さんが居るよ」と背中を摩っていた。
手をかけて、時間を注いで、この子を育ててきたつもりだった。
……でも、それを拒んできたのは、凛の方だった。
じゃあ、私はどうしたら良かったの? これ以上、どうしろって言うの?
『いい加減にしなさい! どうして分からないの!』
感情が爆発し、テーブルを強く叩くと音が響く。
痛みなんて感じない。ただ、乾いた音が部屋に弾けて消える。
普通の子なら、大人に叱られれば手を止める。何に怒られているのか分からなくても、何かを感じてくれる。
でも、凛は違う。こちらの怒りも悲しみも、全部すり抜けていく。
ただ感情のままキャアアア、と甲高い声を上げ、私に向かって皿を投げた。プラスチックが跳ねて、私の肩に当たる。
バランスを崩し、ハイチェアから転げ落ちた凛が、硬い床に頭を打って泣き叫ぶ。
「凛!」
無心で駆け寄り抱き上げようとする私を、鋭く睨みつけ、手足をバタバタと振り回して拒絶する。
抱きしめたいのに。怪我が心配なのに。触れさせてもくれない。
私は、その場に崩れ落ちるようにして、ただ見つめるしかなかった。
……これって、天罰なのかな。
あのとき、見て見ぬふりをしてしまった罰。
誰かが苦しんでいたのに、私は知らん顔をしていた。
でもそれなら、私だけで良かったじゃない。どうして、凛まで苦しめるの?
窓の外で、冬の空が沈黙している。
灰色の雲が低く垂れ込めて、空の端から雨が降り出した。
音もなく、静かに。まるで部屋の中の空気と呼応するかのように、冷たく、鈍く、降り続けている。
食卓は暗く、照明の明かりすら霧がかったように見えた。
外の世界と自分の心が、ぴたりと重なる。
冷えきった空気が肺に入るたび、痛みより先に虚しさが広がっていく。
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