テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
窓の向こうで瞬く都会の煌めきは冷たい硝子に滲んで、柔らかな光の粒となって室内にこぼれてくる。
葵は、濃紺色のソファに身体を深く預け、膝に乗せたタブレットを見つめていた。
画面の光が、彼の整った鼻梁や、濃く長いまつげを瑠璃色に照らす。
彼の瞳に映るのは、数日後に控えた写真集の構成案だ。
モデルとして、今の自分という一瞬を硝子の標本の様に閉じ込める作業は、現実であるにも関わらず、どこか非現実的にも感じられる。
画面を指先でなぞるたび、その硬質さに体温が吸い取られていくようだ。
「……葵、そんなに根詰めると、知恵熱出すぞ。」
背後から届いた揶揄する様な蓮の声は、微かに掠れている。
氷が涼やかな音を奏でる、クリスタルのグラスを片手に、蓮は静かに歩み寄ると葵の隣に腰掛けた。
昼間は弁護士として、鋭い論理を武器に戦っている蓮。
けれど、この薄闇の中にいる今は、葵を優しく包み込む柔らかな存在なのだ。
蓮が隣に座ると、彼が纏っている甘苦いシトラスの香りと、グラスの中に満たされた酒のフルーティーな芳香が混じり合い、ひんやりとした夜気の中で微かに空気の色を変えた。
それは、どこか遠い国の果実を思わせる、鋭くて甘やかな匂いだ。
蓮が葵の手元のタブレットを覗き込むと、グラスの中の氷が「カラン」と音をたてる。
「今回はヌード写真集なんだっけ?俺にもチェックさせろよ。」
蓮はニヤリと唇の片端を上げて、葵の肩に肘を置く。
葵は黙ってタブレットを蓮の方へ向けた。
蓮は、仕事で書類を精査する時と同じ、鑑定士のごとく鋭い眼差しで葵の画像を見つめている。
「……へぇ。この影の付け方、いいじゃん。お前のこの、肩甲骨の下にあるほくろまで、綺麗に拾ってる。」
「……普通そこ見る?」
「見るよ。俺はお前の身体の隅々まで暗記してるんだから、すぐに目につく。」
不意に、蓮の空いた方の手が俺の顎をクイ、と持ち上げる。
蓮の指先は、氷の入ったグラスに触れていたせいか、驚くほどひんやりとしていて、葵は思わず身を震わせた。
「俺を見て。」
蓮の言葉に葵が彼の目を見つめると、視線が熱く交わる。
「蓮、本当に俺の顔、好きだね。」
葵は呆れながらも、嬉しさを隠しきれない声を出す。
「うん。好き。」
その言葉には一分の迷いもない。
「でも、毎日こうやって見るのはちょっと異常。」
葵の笑いを含んだ言葉に、蓮は目を三日月型に細めると、葵の頬を優しく撫でた。
「確かに…異常かもね。でも、ついでに中身も大好きだよ。」
「ついでに…ね…ありがと。」
葵は投げやりにそう言うと、蓮の大きな掌に軽く頭を預け目を瞑る。
暫くそうしていて、うっすらと目を開けるとふと口を開く。
「……蓮は、嫌じゃないの? 他の男が、俺の裸を撮ること。」
「俺が?なんで?だって仕事だろ?」
蓮はそう言って、葵の耳たぶを指先で軽く弾くと、彼の肩に手を回し、そして続ける。
「これが不当な契約なら、弁護士として即座に叩き潰すけど、そうじゃないだろ?」
蓮の言葉に、葵はわざと不貞腐れて言う。
「……じゃなくてさ。嫉妬とか、そういう感情は、ないんだ。」
「嫉妬って誰に?もしかしてカメラマンに?」
面白がって覗き込んできた蓮から顔を背けると、葵はタブレットの画面を無意味にスクロールし、拗ねた様に小さく呟いた。
「もういいよ。」
蓮はクスッと笑い、葵の首筋に軽く唇を這わせる。
「……葵、お前、体が冷えてる。少し、温めないと。エアコンつけよう。」
「蓮の指が冷たいせいだよ。エアコンより、何か温かいものつくって。」
「わかったよ。ちょっと待ってろ。」
少し困った様に眉を下げ、蓮は葵の頭を軽くぽんぽんと叩く。
蓮が立ち上がると、シトラスの香りが甘苦くふわりと揺れて、暗いキッチンへと消えていった。
しばらくして、濃厚なカカオの香りが部屋の中に満ち始め、ひんやりとした夜気が、少しずつ甘く塗り替えられていく。
蓮が戻ってくると、二つのお揃いのマグカップからは、白く重たい湯気がもわりと立ち上っていた。
カップを受け取ると、手の平からじんわりと、甘ったるい熱が伝わってくる。たっぷりのチョコレートを溶かした、蓮特製のホットチョコレートだ。
「熱いから気をつけろよ。」
蓮は隣に座り直し、自分のカップを口にした。
葵もそっと、その濃厚な液体を口に含む。
舌の上でとろけるような甘さと、喉を通る心地よい熱が、冷え始めた夜気でこわばった体を内側から解きほぐしてくれる。
「……蓮の味がする。」
「お前、いつもそれ言うな。」
蓮はそう言って、飲み終えた葵のカップを空いた手で受け取り、テーブルに置いて身を翻す。
そのまま、葵の両手を掴んでグイと引っ張ると、優しく腰に手を添えて、抱き寄せるようにして彼を立ち上がらせた。
「ほら、体温かいうちに寝るぞ。明日は早いんだろ。」
「……うん。」
蓮に促されるまま、2人は隣の寝室へと向かった。
厚手のカーテンに遮られた寝室は、リビングよりもさらに深い闇に包まれている。
真綿色の布団カバーが、廊下の淡いライトに照らされて静かに揺らめく。
蓮が布団を捲り上げ、葵を先に潜り込ませた。
シーツは少しひんやりとしていたけれど、すぐに体温で馴染んでいく。
隣に蓮が入ると、マットレスが大きく沈み、彼が放つ熱が布団の中を満たした。
蓮は葵を背後から包み込むように腕を回し、首筋に顔を埋める。
そこから伝わる規則正しい吐息と、かすかなシトラスの残り香。
さっき飲んだホットチョコレートの熱が、まだお腹の奥の方でじんわりと残っていて、心地よい微睡みが降りてくる。
「……蓮。」
「ん?」
「あのさ…。」
言いかけて、そこで口を噤む。
「なんでもない。おやすみ。」
「なんだよ。気になるだろ。」
そう言うと蓮は葵の耳朶を優しく噛む。
「たいしたことじゃないよ。寝よ。明日早いし。」
「ん…分かった。おやすみ。」
蓮の低い声が耳元で心地よく響く。
布団の中には2人の体温と、蓮の纏う香りが満ちていて、柔らかい暖かさに、意識がゆっくりと遠のいていく。
明日は蓮よりも早起きして、スクランブルエッグを乗せたトーストを作ろう。
蓮が喜ぶ顔が見たいから。
葵は、そんなことを頭の片隅で思い描きながら、蓮の香りと温もりに身を委ね、深い眠りの底へと落ちていった。