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「私、消えますね。」
何を言っているのか理解できず、僕は瞬きを繰り返した。返すべき言葉が見つからず、黙り込んでしまう。
その沈黙を破るように、彼女はほんの少しだけ口元を緩め、まるで春先に咲く花が風に揺れるような笑みを浮かべた。
「今日は、エイプリル・フールなので揶揄っちゃいました」
なんだ、そういうことか──胸の奥の重さがするりとほどけていくのを、はっきりと感じた。
肩の力が抜け、思わず安堵の息がこぼれる。
彼女がくすりと笑うたびに、部屋の空気がやわらかく震えるようだった。
その瞳は、僕を見つめているようでいて、どこか遠くの景色を見つめているようにも映る。
春の午後の光をそのまま閉じ込めたような澄んだ色が、ゆらりと揺れた。
「本当に消えると思ったんですか?」
「当たり前だろ。大切な人がいなくなる事なんか、想像したくないから…」
自分でも驚くほど素直にら言葉が口からこぼれた。
彼女はふっと微笑む。
その微笑みは、世界の色を少しだけやわらかく変えるようでら僕は目を逸らせなかった。
窓からの風がカーテンを揺らし、花の香りが部屋に流れ込む。
春の陽気が、目に見えない羽のように舞っている気がした。
「そうですか。……私、買い物に行ってきますね」
軽やかな声を最後に、彼女は玄関に向かった。ドアが開き、春の光が差し込み、彼女の影が長く伸びる。
外の世界と部屋の境界が、ほんの一瞬だけ淡く溶けた。
やがて影は消え、ドアが閉まる音が、なぜかいつもより遠くに響いた。
──それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
最初は、ほんの小さな不安しかなかった。
きっと少し遠くの店まで足を伸ばしているだけだろう、と。
春の午後は、のんびり散歩するのにちょうどいい。彼女なら花や小物を眺めながら、つい時間を忘れて歩いてしまうかもしれない。
僕は机に肘をつき、時計に目をやる。
針は静かに進むけれど、その動きがやけにゆっくりに感じた。
しかし、気づけば針は何度も同じ数字を指しては過ぎ、空が朱に染まり始めても、彼女は戻らなかった。
部屋の中には、静寂が積もる。
外の世界は春のままなのに、僕の周囲だけが冬に閉じ込められたようだった。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
やがて夜の気配が忍び寄り、窓の外には一番星が瞬く。
僕は一度、立ち上がって窓を開けた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
昼間にあったはずの花の香りは、もうどこにもなかった。
孤独だけが、確かにそこにあった。
あのときの言葉が、静かに胸に蘇る。
──「私、消えますね。」
ほんの冗談のはずだった言葉が、今は現実の刃のように胸に沈む。携帯を手に取り、何度も彼女に電話をかけた。
呼び出し音が、虚しい空間に広がるだけだ。メッセージを送っても、既読はつかない。
文字だけが、暗い画面に取り残される。
時間の感覚が遠のく。
僕はただ、彼女が玄関を開けて「ただいま」と笑う瞬間を信じて、暗い部屋で座り続けた。
壁にかかった時計の針が、孤独を刻み続ける。夜が深まり、窓の外の街灯がぼんやりと光る。
その光に照らされた部屋で、僕はようやく理解する。
彼女が発言した言葉は、午後だという事に。嘘じゃないのだ。本当だったのだ。
──彼女は、本当に消えたのだ。