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後日譚
偽りの聖杯へ至る余波
― スノーフィールド前夜 ―
第一話
冬木の余白に、遠い偽りの火が灯る
神杯戦争が終わって、三週間が経った。
冬木の朝は、ようやく普通の顔を取り戻し始めていた。
何もかもが元に戻ったわけではない。
戻る、という言葉は、少し違う。
壊れたものは壊れたままだ。
失われた時間は帰ってこない。
星へ還った者たちの席は、今も空いている。
衛宮邸の居間には、以前より少しだけ広い余白があった。
アルトリアが座っていた場所。
アーチャーが壁にもたれていた場所。
イスカンダルが豪快に笑っていた場所。
ジャンヌが静かに祈っていた場所。
ギルガメッシュとエルキドゥが並んで庭を眺めていた縁側。
アストルフォが騒がしく飛び込んできた玄関。
リチャード一世が剣を掲げ、物語の続きを語っていた廊下。
山の翁が、音もなく気配だけを残していた夜明け前の庭。
そこにはもう、誰もいない。
けれど、いなかったことにはならない。
空席は穴ではなくなった。
そこに誰かがいたことを思い出すための、静かな余白になった。
その余白を抱えたまま、朝は来る。
台所では、味噌汁の湯気が立っていた。
士郎が鍋の火を弱め、味を確かめる。
「……うん。大丈夫だな」
隣では、イリヤが真剣な顔で卵焼きと向き合っていた。
額には薄く汗が浮かんでいる。
まるで強敵と対峙しているような顔だが、手元にあるのは卵とフライパンである。
「焦らない。巻く時は優しく。でも、迷わない」
イリヤは自分に言い聞かせるように呟いた。
ユイがその横で、じっと見つめている。
「卵焼きって、戦いなの?」
士郎は少し笑った。
「人による」
「イリヤにとっては?」
イリヤは菜箸を構えたまま、きっぱり答えた。
「明日を作る練習」
ユイは少し考え込んだ。
「明日って、卵でできてるの?」
「今日は、ちょっとだけ卵でできてる」
「そっか」
ユイは納得したように頷いた。
ミライは居間の端に座り、記録帳を開いている。
「日常継続記録、二十二日目。朝食準備。イリヤの卵焼き形成精度、前回比一四パーセント向上。ユイの質問傾向、比喩理解段階へ移行中。士郎の味噌汁安定度、高」
凛は湯呑みを持ったまま眉を寄せた。
「味噌汁安定度って何よ」
「食卓基盤維持能力の指標です」
「また変な分類増やしてる……」
「必要項目です」
「本当に?」
「ミライ基準では」
「その基準が一番信用できない時があるのよね」
ミライは真顔で記録帳に追記する。
「凛、分類基準に対し疑念を表明。継続観察」
「観察しなくていい!」
そのやり取りを聞きながら、桜は食器を並べていた。
#異能力バトル
聖杯
523
聖杯
1,207
7
彼女の隣には、薄い影が静かに寄り添っている。
メドゥーサの気配。
完全な現界ではない。
姿がはっきり見える時もあれば、ただ影の輪郭だけがそばにいる時もある。
桜はそれを、無理に確かめようとはしなくなった。
そこにいる。
それだけでいい。
「ライダーさん、お茶も置いておきますね」
影が微かに揺れた。
返事のようだった。
士郎が味噌汁を運ぶ。
イリヤの卵焼きが、無事に皿へ乗った。
以前よりずっと綺麗な形だ。
イリヤは胸を張った。
「今日は成功」
ユイが箸を持って、その卵焼きを真剣に見つめる。
「どこから食べたらいい?」
「好きなところからでいいよ」
「壊れない?」
「壊れても、卵焼きは卵焼きだよ」
ユイはその言葉をしばらく考え、それから端を小さく切って口へ運んだ。
「……温かい」
イリヤの顔が明るくなる。
「でしょ?」
「うん。温かい。燃えてないのに」
その一言で、居間に少しだけ静けさが落ちた。
燃えてないのに。
神杯戦争を終えた彼らにとって、その言葉はただの感想ではなかった。
願いは、燃えなくていい。
卵焼きも、願いも、朝も。
温かさは、燃やさなくても生まれる。
士郎は何も言わず、ユイの前に味噌汁を置いた。
「こっちも温かいぞ」
「燃えてない?」
「燃えてない」
「じゃあ、飲む」
ユイは両手で椀を持ち、慎重に味噌汁を飲んだ。
ミライがまた記録する。
「ユイ、非燃焼性温度への信頼を更新」
凛が額を押さえる。
「もう好きにして……」
朝食は、穏やかに進んだ。
誰も、昨日までの戦いを忘れたわけではない。
誰も、すべてが解決したと思っているわけではない。
けれど、こうして食べる。
椀を持つ。
箸を使う。
味を確かめる。
少し笑う。
それは、戦いの後に残された者たちが、今日を生きるための小さな儀式だった。
◆
食後、凛は柳洞寺地下へ向かった。
士郎、イリヤ、ユイ、ミライも同行する。
桜は間桐邸地下の白い花と影の状態を確認するため、少し遅れて合流することになっていた。
柳洞寺の地下大空洞は、以前のような禍々しさを失っていた。
神杯炉心があった場所には、もう黒い炎はない。
代わりに、静かな畑が広がっている。
願いの畑。
そこには、無数の小さな種が眠っていた。
叶わなかった願い。
持ち主を失った願い。
名前を持たない願い。
返事を待つ願い。
変わることを許されなかった願い。
それらはもう、燃料ではない。
無理に叶えられることもない。
永遠に記録として閉じ込められることもない。
沈黙へ押し戻されることもない。
眠っている。
いつか芽吹くかもしれない余白として。
畑の奥には、ヘラクレスの守護結界が淡く光っている。
巨大な姿はない。
咆哮もない。
だが、そこには確かに、イリヤを守り続ける意志があった。
イリヤは卵焼きの包みを持って、結界の前に立った。
「バーサーカー、今日の卵焼き、かなり上手くできたよ」
結界がわずかに震える。
「帰ったら食べる分、置いておくね。食べられないかもしれないけど、見せるだけでも」
光が少し強くなる。
イリヤは笑った。
「うん。分かってる。無理はしない。ちゃんと帰ってくる」
そのやり取りを横目に、凛は宝石板を起動した。
宝石板の表面に、冬木の霊脈図が浮かび上がる。
柳洞寺。
衛宮邸。
遠坂邸。
間桐邸。
冬木大橋。
港湾区。
願いの畑。
願録聖堂。
返事の庭。
神杯戦争の後、凛とメディアとミライは、冬木全域の霊脈を幾重にも監視する術式を組んでいた。
神杯は砕けた。
けれど、砕けたから終わりではない。
願いが燃料から種へ戻った以上、それを見守る責任がある。
凛は宝石板へ魔力を流し、各地点の安定値を確認した。
「願いの畑、安定。願録聖堂、安定。返事の庭、安定。間桐邸地下の影反応も……桜の報告待ちだけど、数値上は安定」
士郎が隣で水やりの道具を持ったまま尋ねる。
「今日も問題なさそうか?」
「今のところはね」
凛はそう答えかけて、指を止めた。
宝石板の端に、小さな揺らぎがあった。
最初は霊脈の残響かと思った。
神杯戦争後、冬木には小さな揺らぎがいくつも残っている。
大半は無害だ。
願いの種が寝返りを打つようなもの。
返事の庭の芽が風に揺れるようなもの。
しかし、今の反応は違った。
内側ではない。
外側へ伸びている。
「……おかしい」
士郎が水やりの手を止める。
「また何か出たのか?」
「出た、というより……呼ばれてる」
「誰が?」
凛は宝石板を拡大した。
冬木の霊脈図の端。
そこから、細い線が伸びていた。
線は冬木の外へ出ている。
海を越え、地脈の薄い連絡線を渡り、遠い大陸の方角へ向かっている。
士郎は眉をひそめた。
「これは……召喚線か?」
「違う。召喚なら、もっと明確な引きがある。これは、向こうから穴を開けられかけてる感じ」
「穴?」
「足りない器が、外から中身を吸おうとしてる」
凛は声を低くした。
「こっちじゃない。向こう」
ミライが即座に解析へ入る。
「方角補正開始。地脈反射、海洋魔力減衰、北米大陸西部方面に収束。都市名候補……スノーフィールド」
士郎は聞き慣れない地名を繰り返した。
「スノーフィールド?」
「砂漠にある都市よ」
凛が答える。
「時計塔でも噂はあった。霊脈の人工整備。冬木式聖杯戦争の模倣。召喚術式らしき痕跡。けど、今まで確証はなかった」
「聖杯戦争を、真似てるのか?」
「たぶんね」
凛は宝石板を睨む。
その表情は険しい。
「でも、これは普通の模倣じゃない。骨組みだけ似せて、足りない部分を別の何かで埋めようとしてる」
その時、柳洞寺の結界外縁に紫の光が走った。
メディアが姿を現す。
完全な現界ではないが、彼女は柳洞寺と願録聖堂に縁を残している特殊な状態だった。
本人はそれを「残務処理」と呼んでいる。
「今の反応、見たわ」
凛は振り返る。
「メディア」
メディアは宝石板を覗き込み、すぐに顔をしかめた。
「霊脈の匂いが違う。冬木の聖杯式に似ているけれど、骨組みが歪んでいる。模倣ね」
「やっぱり」
「しかも作りが悪い。足りない神秘を外部から拾う前提で組まれている」
士郎が聞く。
「作りが悪いと、危ないのか?」
凛とメディアが同時に答えた。
「悪いから危ないのよ」
「悪いから危ないのよ」
二人は一瞬、互いを見た。
メディアが嫌そうに眉を寄せる。
「同じことを言わないで」
凛も同じ顔をする。
「そっちこそ」
士郎は少しだけ笑いそうになったが、空気を読んで黙った。
凛は宝石板を指で弾き、術式表示を切り替える。
「冬木の聖杯戦争は、最悪な部分も含めて完成度が高かった。根幹に辿り着くための大儀式としてはね。でも向こうは違う。土台だけ借りて、足りない部分を別の何かで埋めてる」
ミライが続ける。
「観測名候補、偽装聖杯式。あるいは、偽りの聖杯戦争」
ユイが小さく呟く。
「偽物?」
士郎の表情が変わった。
偽物。
その言葉は、彼にとって軽いものではない。
借り物の理想。
投影された剣。
誰かの背中を追いかけた自分。
本物には届かないと知りながら、それでも手を伸ばした日々。
偽物だから悪いのか。
偽物だから価値がないのか。
そんな問いは、神杯戦争の中でも何度も彼を刺した。
凛はそれに気づき、少しだけ声を柔らかくした。
「偽物だから悪い、とは限らないわ」
士郎が凛を見る。
凛は続けた。
「でも、偽物が本物のふりをして人を巻き込むなら話は別。自分が何を真似ているのか分からないまま、足りないものを他所から奪おうとするなら、もっと危ない」
メディアも頷く。
「偽物には偽物の倫理がある。模倣には模倣の責任がある。それを知らない術式は、ただの穴よ」
その時だった。
返事の庭の方角から、小さな鈴の音が響いた。
ちりん。
全員が振り返る。
願いの畑の奥、返事の庭へ続く通路が淡く光っている。
続いて、願録聖堂の頁が一枚、勝手に開いた。
ミライが顔を上げる。
「願録聖堂、自動開頁。未記入頁反応」
凛が宝石板を持ったまま、返事の庭へ向かう。
士郎たちも続いた。
返事の庭は、静かだった。
おかえりの芽。
ごめんの芽。
見ている芽。
送別の芽。
届いた芽。
聞こえた芽。
いくつもの芽が、淡く揺れている。
その中で、聞こえた芽だけが、わずかに震えていた。
ユイが胸を押さえる。
「声がする」
イリヤがそばへ寄る。
「誰の?」
「まだ、分からない」
ユイは目を閉じた。
「でも……呼んでるんじゃない。始まろうとしてる」
メディアの目が鋭くなる。
「神杯の余波が、向こうの儀式に引かれているのね」
凛が顔を上げる。
「どういうこと?」
「向こうが聖杯戦争の模倣をしているなら、足りない神秘をどこかから拾おうとする。神杯戦争で生まれた余白、返事の庭、願録聖堂。それらは今、通常の聖杯式から見れば異常なほど濃い神秘よ」
士郎が理解する。
「つまり、向こうの偽りの聖杯が、こっちの残り火を燃料にしようとしてる?」
「そういうこと」
メディアは杖を握った。
「もっと正確に言えば、向こうの術式は自分が何を拾おうとしているのか理解していない。ただ、足りない穴へ強い神秘を流し込もうとしている。最悪の場合、願いの畑や返事の庭を、向こうの聖杯式が代替炉心として誤認する」
イリヤの顔が険しくなった。
「それって、ここで眠ってる願いを持っていくってこと?」
「ええ」
メディアは静かに答える。
「燃料として」
ユイが震えた。
ミライが記録帳を握る手に力を込める。
士郎は返事の庭を見た。
ここに眠る願いは、もう燃やされなくていいはずだった。
持ち主へ返された願い。
持ち主がいないなら眠ることを許された願い。
まだ名前を持たない願い。
聞こえたけれど、すぐに答えを出さなくていい願い。
それらが、遠い街の欠けた儀式に吸われようとしている。
そんなことは、許せない。
けれど、怒りだけで動いてはいけないことも、士郎はもう知っていた。
「凛」
「分かってる」
凛は宝石板を持ち上げる。
「止めるわよ。スノーフィールドで何が始まるにしても、神杯戦争の余波まで持っていかせるわけにはいかない」
士郎は頷く。
「何をすればいい?」
「まず接続点を特定する。次に、冬木側の余波を固定。最後に向こうとの誤認接続を切る」
メディアが補足する。
「ただし乱暴に切れば、余波の破片が向こうで暴れる可能性がある。切断ではなく、返還に近い処理が必要ね」
ミライが即座に記録する。
「遠隔遮断作戦、開始準備。目的、神杯余波の外部流出防止。副目的、偽装聖杯式への願望燃料混入阻止」
ユイが一歩前に出る。
「私もやる」
イリヤも言う。
「私も」
その背後で、願いの畑の奥にあるヘラクレスの守護結界が、淡く強く光った。
イリヤは振り返る。
「バーサーカー……」
言葉はない。
だが、光は確かに告げていた。
守れ。
そして、帰れ。
イリヤは卵焼きの包みをぎゅっと握る。
「うん。帰ってきたら食べる」
凛は一瞬だけ呆れた顔をした。
「こういう時まで卵焼き?」
イリヤは真剣に答える。
「こういう時だからだよ」
士郎は少し笑った。
「そうだな」
桜から連絡が入ったのは、その直後だった。
凛の端末が震える。
画面には短い報告。
『間桐邸地下の白い花が反応。影が外へ引かれかけています。危険値は低いですが、ライダーさんが支えています。合流します』
凛は端末を閉じる。
「桜の方にも出た。やっぱり冬木全域の余白を引っ張ってる」
メディアが低く言う。
「なら急ぎましょう。向こうの器が、自分の欠けをこちらで埋める前に」
凛、メディア、ミライが術式を展開する。
宝石板の上に、冬木と遠い大陸を繋ぐ線が浮かび上がる。
線は細い。
だが、放置すれば太くなる。
やがて、願いの畑も、返事の庭も、願録聖堂も、遠い偽りの器へ引かれてしまうかもしれない。
士郎は応答筆を見る。
神杯戦争の最後に生まれた礼装。
剣ではない。
杭でもない。
鐘でもない。
盾でもない。
返事を書くための筆。
士郎はそれを握った。
「向こうに送るのは、力じゃない」
凛が見る。
士郎は続ける。
「これは燃料じゃないって、返事する」
ユイが頷く。
「聞こえたものを、奪わせない」
ミライが記録する。
「応答筆使用条件、限定承認。対象、神杯余波誤認接続。書式、燃料否定型返答」
メディアが少しだけ笑う。
「本当に、貴方たちらしい術式ね。攻撃ではなく返事で殴るなんて」
「殴るのかよ」
士郎が言うと、凛は肩をすくめた。
「相手が雑な術式なら、理屈で殴るのも大事よ」
返事の庭の鐘が、もう一度鳴った。
ちりん。
遠いスノーフィールドへ向かって、冬木の余波は静かに伸びていた。
その先で何が待っているのか、まだ誰も知らない。
偽りの聖杯戦争。
その名はまだ、冬木の誰にも実感を持って届いていない。
だが、確かなことが一つだけあった。
神杯戦争は終わった。
だからこそ、その余波を別の火種にはさせない。
士郎は応答筆を構える。
凛は宝石板へ両手を置く。
メディアは神代文字を展開する。
ミライは記録を開く。
ユイは聞こえた芽へ手を添える。
イリヤは卵焼きの包みを胸に抱く。
桜とメドゥーサの影が、遠くから願いの畑の外縁を支え始める。
冬木の余白に、遠い偽りの火が灯ろうとしていた。
そして、冬木はその火へ、自分たちの願いを渡さないと決めた。
第二話
英霊の座、還った者たちのまなざし
英霊の座に、時間はない。
過去も未来も、人の尺度で区切られることはない。
そこには記録がある。
生きた証。
戦った意味。
誰かに語られた名。
誰かに祈られた姿。
英霊はそこに在り、同時にどこにもいない。
召喚されれば時間の流れへ降り、役目を終えれば再び座へ還る。
それは本来、静かな循環のはずだった。
だが、神杯戦争から還った者たちは、完全な沈黙には戻れなかった。
なぜなら彼らは見てしまったからだ。
願いが燃やされる炉を。
願いを記録へ閉じ込める聖堂を。
沈黙を強いる冠を。
そして、最後に返事が書かれる庭を。
それらは英霊の記録にも、淡く痕を残した。
痕は傷ではない。
束縛でもない。
ただ、余白だった。
アルトリア・ペンドラゴンは、座の奥で静かに目を開けた。
彼女の前には、冬木の残像があった。
衛宮邸の朝。
土蔵の静けさ。
士郎の背中。
凛の強がる声。
桜の穏やかな笑み。
イリヤの卵焼き。
ユイとミライという、新しく名を得た者たち。
そして、返事の庭に残る送別の芽。
アルトリアは、あの芽を思い出す。
別れは敗北ではない。
そう語ったのは、彼女自身だった。
けれど、語った言葉が自分にも返ってくるとは思っていなかった。
「……士郎」
その名を呼んでも、返事はない。
当然だ。
彼女は座に還った。
彼は冬木に残った。
しかし、遠い場所で、偽りの聖杯が灯ろうとしている気配は届いた。
冬木とは違う土地。
冬木とは違う戦争。
だが、聖杯という言葉は、いつも人の願いを呼ぶ。
アルトリアは静かに剣の柄へ手を添えた。
そこに実体はない。
だが、王として、騎士として、ひとりの少女として、彼女は祈ることができた。
「どうか、その願いが誰かを縛るものとならぬように」
彼女の隣に、赤い外套の影が現れる。
エミヤだった。
「祈りとは、ずいぶん王らしい」
「貴方こそ、皮肉を言いに来たのですか」
「半分はな」
エミヤは腕を組み、遠いスノーフィールドの気配を見る。
「偽りの聖杯戦争、か。名前からして嫌な予感しかしない」
アルトリアは静かに言った。
「偽物だからこそ、本物より痛い真実を映すこともあります」
エミヤは一瞬だけ黙った。
それから、苦笑する。
「それを君に言われるとはな」
彼の視線の先には、士郎の面影があった。
偽物の剣。
偽物の理想。
偽物だから無価値なのではないと、あの戦いで何度も証明した少年。
「向こうの戦争に、あいつは行かないだろう」
「ええ」
「行けない、ではなく、行かない。少しは学んだか」
エミヤの声は呆れたようで、どこか安堵していた。
アルトリアは微笑む。
「士郎は、誰かの物語を奪わないことを学びました」
「それでも、見て見ぬふりはしない。厄介な成長だ」
「貴方に似ています」
「やめろ。心外だ」
そう言いながらも、エミヤの表情は穏やかだった。
そこへ、軽い足音のような気配が近づいた。
「お、何だ何だ? また面倒な聖杯か?」
クー・フーリンが槍を肩に担ぐような姿で現れた。
実体があるわけではない。
だが、彼は相変わらず軽い。
「冬木の次は砂漠かよ。聖杯ってのは落ち着きがねぇな」
エミヤが言う。
「君に落ち着きを語られたくはない」
「はっ、違いねぇ」
クーは遠い気配を見て、目を細める。
「でもまあ、変な感じだな。冬木の残り火を持っていこうとしたって? そいつは筋が悪い」
アルトリアが頷く。
「冬木の願いは、冬木で返事を待つべきものです」
「だな。横からかっさらって燃やすなんざ、戦士の流儀じゃねぇ」
その言葉に、別の大きな笑い声が響いた。
「流儀を語るか、青き槍兵!」
イスカンダルだった。
征服王は、座にあっても豪快だった。
彼の背後には、かつての軍勢の遠い影がある。
「偽りの聖杯戦争! 面白いではないか。偽りを掲げてなお、英雄を呼ぼうとする。人の欲深さはまったく見飽きぬ」
エミヤは眉をひそめる。
「面白がるな」
「面白がるとも。ただし、侮りはせぬ。偽りとは、時に本物以上に強く己を証明せんとするもの。ならば、そこで呼ばれる英霊もまた、何かを試されるのだろう」
アルトリアは問う。
「征服王なら、向こうへ行きたいと思いますか」
イスカンダルは豪快に笑った。
「思わぬと言えば嘘になる! だが我は我の戦を終えた。今あの砂漠へ行くべきは、あの砂漠で呼ばれる者たちだ」
その言葉に、ジャンヌ・ダルクが静かに現れた。
彼女は旗を抱え、遠い方角へ祈る。
「ならば、私は祈りましょう。裁くためではなく、迷う者が自分の足で立てるように」
クーが肩をすくめる。
「聖女様らしいな」
ジャンヌは微笑む。
「あなたも無事を祈っているのでしょう?」
「祈りって柄じゃねぇ」
「では、幸運を願っている」
「まあ、それくらいならな」
そこへ、黒い騎士の影が静かに膝をついた。
ランスロット。
彼はアルトリアの前で深く頭を垂れる。
「王よ」
「ランスロット。ここでは、そのように畏まらなくてもよいのです」
「いえ。私は、あの戦いでようやく罪を抱えたまま剣を取ることを許された。ならば、その記録を軽んじることはできません」
彼は遠いスノーフィールドの気配を見る。
「偽りの戦争にも、罪を抱えた者がいるでしょう。願いの名を借り、誰かを傷つける者もいるでしょう。ですが、そこにもまた、剣を向けるだけでは届かぬものがある」
アルトリアは静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、冬木から余計な火を送ってはならない」
「はい」
次に現れたのは、緑の気配だった。
エルキドゥ。
彼はギルガメッシュの隣に立つように現れた。
だが、黄金の王はまだ姿を見せていない。
エルキドゥは遠い砂漠の空を見つめる。
「偽りの器が、本物の重さを欲しがる。興味深いね」
エミヤは言う。
「君まで面白がるのか」
「面白い、というより悲しいかな。造られた器が、自分に足りないものを外から奪おうとする。それは、よく分かる」
エルキドゥの声は穏やかだった。
「でも、足りないからといって、誰かの願いを燃料にしてはいけない。足りなさは、選ぶことで形になる。奪うことでは埋まらない」
その時、黄金の気配が座を照らした。
ギルガメッシュが現れる。
彼は腕を組み、どこか遠いものを見下ろすように笑った。
「偽りの聖杯だと? 小賢しい。器を名乗るならば、まず己が空であることを知れ」
エミヤが皮肉げに言う。
「王は偽りがお嫌いか」
「偽りそのものを嫌うわけではない。偽物にも宝はある。だが、己が偽物であることすら見誤る器は、宝物庫に置く価値もない」
ギルガメッシュは遠い砂漠を見据える。
「だが、あの地には我に縁ある気配もある」
エルキドゥは穏やかに言う。
「君はまた、誰かと出会うのかもしれないね」
「出会うのではない。向こうが我を見上げるのだ」
「そういうことにしておくよ」
二人の会話に、アストルフォが飛び込んできた。
「え、何なに? スノーフィールド? 遠いの? 楽しそうじゃん!」
エミヤは即座に言う。
「君は行くな」
「まだ何も言ってないよ!?」
「顔が言っている」
「ひどい!」
アストルフォは頬を膨らませたが、すぐに遠い方角を見て少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ。行かないっていうのも、大事なんだよね」
その場の空気が少し変わる。
アストルフォは続けた。
「逃げるのも、進むのも、行かないのも、選ぶことだもん。冬木でそれ、ちょっと分かった」
ジャンヌが微笑む。
「ええ。あなたらしい言葉です」
「えへへ」
さらに、リチャード一世の影が現れた。
彼は剣を片手に、まるで舞台へ上がる役者のように笑う。
「偽りの聖杯戦争。なんと物語めいた響きだろう。だが、物語は誰かに押しつけられるものではない。そこにいる者たちが、傷と選択で書き進めるものだ」
イスカンダルが笑う。
「気が合うな、獅子心王!」
「光栄だ、征服王」
リチャードは剣を胸元に当てる。
「冬木の物語は閉じた。余白を残して。ならば、次の物語に必要なのは、冬木の答えを押しつけることではない。次の頁を開く者たちが、自分で一文目を書くことだ」
その言葉の後、重い鐘のような気配が現れた。
山の翁。
誰もが自然と静かになる。
彼は遠いスノーフィールドを見た。
「死は、いずれ訪れる。だが、炉に縛られし死は死にあらず。願いに縛られし生もまた、生にあらず」
その声は低く、静かだった。
「彼の地にて始まる戦が、何を呼ぼうとも、死者を炉に繋ぐことなかれ。願いを鎖とすることなかれ」
ジャンヌが頭を垂れる。
アルトリアも目を閉じる。
エミヤは腕を組み、遠い冬木を見た。
そこにはもう、自分たちの席はない。
いや、席はある。
空席として。
記憶として。
余白として。
だからこそ、彼らは戻らない。
冬木で戦うべき者たちは、もう戦った。
冬木で答えるべき問いには、答えた。
これから始まる偽りの聖杯戦争は、別の者たちの物語だ。
アルトリアは静かに言った。
「冬木から送るべきものは、剣ではありません」
エミヤが続ける。
「説教でもない」
クーが笑う。
「槍でもねぇ」
ジャンヌが祈る。
「祈りと、警告」
エルキドゥが言う。
「余白を奪わないための楔」
ギルガメッシュが鼻で笑う。
「そして、身の程を知れという忠告だ」
アストルフォが手を振る。
「あと、無事に帰ってきてねって感じ!」
リチャードが微笑む。
「物語の続きを書くために」
山の翁が最後に告げる。
「晩鐘はまだ鳴らぬ。ならば、生者は歩め」
英霊の座に、再び静けさが戻る。
彼らは還った者たちだ。
だが、完全に消えたわけではない。
彼らの戦いは、冬木の余白に残っている。
送別の芽が揺れるたび、彼らがそこにいたことは思い出される。
そして今、その思い出は遠い砂漠へ向けて、何かを押しつけるのではなく、静かに見送る形を取った。
第三話
時計塔から届いた封蝋
ロンドン、時計塔。
ロード・エルメロイⅡ世は、机の上に置かれた一通の封書を見つめていた。
封蝋には遠坂の印。
そして、もう一つ。
冬木で確認された未知の術式印。
願録聖堂と返事の庭に関する、簡略化された警告印だった。
彼は眉間を押さえる。
「……また冬木か」
傍らにいたグレイが、静かに尋ねた。
「師匠、遠坂さんからですか?」
「ああ。しかも、ただの近況報告ではない」
封を切る。
中には必要最低限の情報だけが書かれていた。
冬木の神杯戦争終結。
神杯炉心の破壊。
願いの畑、願録聖堂、返事の庭の成立。
沈黙冠の余白化。
そして、北米スノーフィールド方面で観測された、冬木聖杯式に酷似した偽装儀式。
そこまでは、まだいい。
いや、よくはない。
まったくよくはないが、少なくとも遠坂凛が「簡略化」と書いた理由は分かる。
本当に詳細を書かれたら、読む側の胃が先に終わる。
だが、問題は次の頁だった。
神杯戦争の余波が、スノーフィールド方面の偽装聖杯式へ引かれかけている。
冬木側で遮断処理を試みる。
失敗した場合、偽装聖杯式に願望保存・燃焼・沈黙強制・返答余白の諸概念が混入する可能性あり。
エルメロイⅡ世は深く息を吐いた。
「頭が痛い」
グレイは不安そうに言う。
「スノーフィールド……ですか」
「あの街は以前から妙な噂があった。霊脈の整備。人工的な地脈調整。聖杯戦争を再現しようとする動き。どれも確証はなかったが、火のない所に煙は立たない」
彼は別の書類を取り出す。
そこには、時計塔に届いた複数の報告が並んでいた。
北米西部で起きた異常な霊脈移動。
魔術協会外部の組織による神秘収集。
召喚術式の不自然な痕跡。
英霊召喚に似た反応。
そして、ありえないほど整いすぎた「未完成」。
グレイが小さく息を呑む。
「聖杯戦争が、また?」
「正確には、冬木のものとは違う。恐らく模倣だ。しかも、模倣者は模倣であることを理解している。だからこそ厄介だ」
「偽物だと分かっていて、行う……」
「ああ。偽物には偽物の強さがある。正統ではないからこそ、正統なら踏まない手順を踏む」
その時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「教授ー!」
明るすぎる声。
フラット・エスカルドスだった。
エルメロイⅡ世の眉が跳ねる。
「ノックをしろ、フラット」
「しました!」
「していない」
「心の中で!」
「それはノックではない」
フラットは気にせず、一枚の紙を差し出した。
「これ、アメリカ方面の霊脈観測なんですけど、すごく変です!」
エルメロイⅡ世は紙を見る。
そして、顔色を変えた。
「……どこでこれを?」
「夜中に星を見てたら、変な線が見えたので計算しました!」
「星を見るなとは言わん。だが霊脈を星座扱いするな」
「でも綺麗でした!」
グレイがそっと紙を覗き込む。
そこには、スノーフィールドを中心にした奇妙な霊脈図があった。
通常の聖杯戦争ならば、土地に刻まれた大儀式が軸になる。
だが、その図は違った。
まるで、最初から欠けている。
欠けている部分を、外部から何かが補おうとしている。
エルメロイⅡ世は遠坂の手紙と、フラットの観測図を並べた。
冬木から伸びる神杯の余波。
スノーフィールドで形成される偽装聖杯式。
欠けた器。
それらが、一本の線で繋がる。
「遠坂は、向こうの儀式に冬木の余波が引かれていると見ている」
グレイが言う。
「それは、危険なのですか?」
「極めて危険だ。冬木の聖杯式だけでも厄介なのに、神杯戦争の余白まで混ざれば、何が召喚されるか分からない。英霊ではないもの、神格に近いもの、あるいは願いそのものが形を持つ可能性すらある」
フラットは目を輝かせた。
「すごいですね!」
「すごくない。最悪だ」
「でも、教授。これ、もう始まりかけてますよね?」
エルメロイⅡ世は沈黙した。
その通りだった。
始まりかけている。
いや、儀式そのものはまだ完全には動いていない。
だが、準備は終わりに近い。
誰かが、遠い街で聖杯戦争を再演しようとしている。
正しい聖杯戦争ではない。
偽りの聖杯戦争。
しかし、偽りだからこそ、どんな真実が紛れ込むか分からない。
エルメロイⅡ世は手紙を畳んだ。
「グレイ、冬木へ返信を出す。遠坂には、余波を完全に遮断するよう伝えろ。こちらからも調査を進める」
「はい」
「フラット」
「はい!」
「お前は余計なことをするな」
「えっ」
「特に、スノーフィールドへ行こうなどと考えるな」
フラットは目を泳がせた。
「まだ考えてません」
「つまり、これから考えるつもりだったな」
「教授、鋭い!」
エルメロイⅡ世は頭を抱えた。
グレイは少しだけ困ったように微笑む。
「師匠、人が集まってきています」
「分かっている。だから頭が痛い」
スノーフィールド。
その名は、まだ大きな事件として表には出ていない。
だが、魔術師たちの鼻は血の匂いに敏感だ。
聖杯戦争という言葉が微かにでも漂えば、願いを持つ者、野心を持つ者、研究対象を求める者、ただ面白がる者まで集まってくる。
エルメロイⅡ世は窓の外を見る。
霧の向こうに、見えないはずの砂漠の街が浮かぶような気がした。
「偽りか……」
彼は低く呟く。
「ならば、その偽りが何を呼ぶのか、見極める必要がある」
第四話
冬木に縁を残す者たち
冬木には、完全には還らなかった者たちがいる。
それは現界している、という意味ではない。
神杯戦争の終結によって、多くのサーヴァントは座へ還った。
契約はほどけ、霊基は薄れ、星の記録へ戻っていった。
だが、すべてが同じ形で帰還したわけではなかった。
ヘラクレス。
メディア。
メドゥーサ。
この三騎は、冬木に縁を残している特殊な存在となっていた。
ヘラクレスは、願いの畑の深い霊脈に眠っている。
それは肉体を持つ現界ではない。
言葉を発することもない。
戦場へ出ることもない。
だが、願いの畑の最奥、豊穣の種が眠る地層の近くで、巨人の守護の気配は確かに残っていた。
イリヤは毎朝、卵焼きを見せに行く。
「今日は、かなり上手くできたよ」
守護結界は、静かに光る。
「まだ食べられないけど、いつか食べられるかもしれないし」
光が少し揺れる。
イリヤは笑う。
「うん。分かってる。無理はしない」
ヘラクレスは答えない。
だが、その沈黙は拒絶ではなかった。
守る。
待つ。
帰ってこい。
神杯戦争の間、何度も感じたその意志は、今もイリヤのそばにある。
スノーフィールド方面の余波を観測した時も、ヘラクレスの守護結界はわずかに強く光った。
まるで、遠い火がこちらの畑へ触れることを許さないと言うように。
イリヤはその光を見て、包みを握った。
「大丈夫。今度は、ちゃんと帰るために行くから」
守護結界が、低く震えた。
それは咆哮ではない。
けれど、イリヤには分かる。
行け。
ただし、帰れ。
その声なき返答に、イリヤは頷いた。
メディアは、柳洞寺と願録聖堂の間に半ば固定された特殊な霊基で残っていた。
完全なサーヴァントとしてではない。
神代魔術師の記録。
柳洞寺との縁。
凛との共同術式。
願録聖堂の監査権限。
それらが重なり、彼女は冬木の霊脈に「滞在許可」を得たような状態だった。
本人はそれをひどく嫌そうに表現した。
「まったく、誰がこんな面倒な管理術式の残務係になると言ったのかしら」
凛は冷静に返す。
「かなり積極的に残ってるように見えるけど」
「気のせいよ」
「そう」
「何よ、その顔」
「別に」
メディアは不機嫌そうに杖を鳴らした。
「言っておくけれど、私は慈善事業で協力しているのではないわ。願録聖堂の構造が不安定なまま放置されるのが、魔術師として気に入らないだけ」
士郎は素直に言う。
「助かる」
「そこで真っ直ぐ感謝しないで。調子が狂うわ」
ユイは不思議そうに尋ねた。
「メディアは、嫌なのに手伝うの?」
メディアは一瞬詰まった。
「嫌ではないとは言っていないわ」
「でも、嫌だけじゃない?」
「……あなた、妙なところが鋭いわね」
ミライが記録する。
「メディアの残留理由。分類困難。暫定項目、面倒見」
「消しなさい」
「記録保護により不可」
「本当に消しなさい」
そんなやり取りをしながらも、メディアは誰よりも早くスノーフィールドの偽装聖杯式の歪みを見抜いた。
「模倣術式というのは、作り手の傲慢が一番出るのよ」
彼女は宝石板の上に神代文字を走らせる。
「本物に届かないから偽物を作るのではない。偽物で本物を超えようとするから、穴を塞ぐために余計なものを欲しがる。今回の器も同じ。足りない霊格、足りない歴史、足りない罪、足りない願い。それを外から奪おうとしている」
士郎が聞く。
「止められるか?」
「冬木側から余波を渡さないことはできる。向こうの儀式そのものは、こちらの管轄ではない」
「管轄って言い方、遠坂みたいだな」
「不愉快ね」
凛が横で言う。
「私も不愉快なんだけど」
メディアと凛は同時に睨み合い、それでも同じ術式へ手を伸ばす。
二人の相性は悪い。
だからこそ、術式の相性は妙に良かった。
互いに疑い、補強し、穴を潰す。
その精度は、冬木の誰よりも高い。
そして、メドゥーサ。
彼女は桜の影に縁を残していた。
完全現界ではない。
だが、桜が影を通して願いの畑や返事の庭を支える時、その背後に彼女の気配が寄り添う。
夜、桜が一人で庭の見回りをしている時。
影の端に、紫の髪の女性が静かに立っていることがある。
「ライダーさん」
桜が呼ぶと、メドゥーサは穏やかに頷く。
「サクラ」
「まだ、いてくれるんですね」
「縁が残っている限りは」
「それは、無理をしていることではありませんか?」
メドゥーサは少しだけ微笑む。
「無理ではありません。私はあなたの影を守ると決めました。その形が少し変わっただけです」
桜は自分の影を見る。
以前は、影が怖かった。
自分の中にある暗さが、自分を呑み込むように思えた。
だが今は違う。
影は、眠るための夜にもなる。
芽を守る土にもなる。
誰かが泣ける場所にもなる。
そして、その影のそばには、メドゥーサがいる。
スノーフィールドの接続が観測された時、桜の影は不安定に揺れた。
遠い偽装聖杯式が、冬木の余白へ手を伸ばした影響だった。
メドゥーサは即座に桜の背後へ立つ。
「サクラ、呼吸を」
「はい」
「影を広げすぎないでください。向こうの器は、空白を見つけると入り込もうとします」
「私の影も、空白に見えますか?」
「見えるでしょう。ですが、あなたの影はもう空白ではありません」
桜は目を閉じた。
「夜の土」
「ええ」
メドゥーサが静かに言う。
「眠るものを守る土です」
桜は影を落ち着かせた。
黒ではなく、夜の色として。
その影が、願いの畑の外縁を包む。
遠いスノーフィールドから伸びた線は、影の縁で滑り、内側へ入れなかった。
メドゥーサは頷く。
「よくできました」
桜は少しだけ笑う。
「ライダーさんがいてくれたからです」
「あなたが選んだからです」
その言葉は、桜の胸に静かに沈んだ。
ヘラクレスは守る。
メディアは解析する。
メドゥーサは影を支える。
完全に還らなかった者たち。
彼らは冬木の物語に残り続けるためではない。
冬木が次の物語を奪わないように、余白の境界を守るためにそこにいた。
第五話
砂漠の街は、まだ名を知らない
スノーフィールド。
砂漠に作られた都市。
夜の街は静かだった。
だが、その静けさは眠りではない。
巨大な獣が息を潜めているような、奇妙な緊張を含んでいる。
街の地下深く。
人工的に整備された霊脈の網が、微かに光っていた。
それは冬木の聖杯式によく似ている。
だが、完全ではない。
足りない。
器が欠けている。
座標がずれている。
召喚の理論は整っているようで、どこか不自然に空白がある。
その空白へ、遠い冬木から細い光が伸びようとしていた。
神杯戦争の余波。
願いの畑の余白。
返事の庭の鈴。
願録聖堂の追記可能な頁。
それらが、偽りの聖杯式に引き寄せられる。
街の片隅で、一人の魔術師が夜空を見上げていた。
名を持たぬ観測者。
彼は正式な参加者ではない。
監督者でも、主催者でもない。
ただ、この街に刻まれた儀式の歪みを偶然見てしまっただけの末端魔術師だった。
彼は震える手で記録を取る。
「……冬木式の模倣。だが、違う。これは聖杯戦争を再現するというより、聖杯戦争という器を使って別の何かを呼ぼうとしている」
霊脈が鳴る。
遠くから、鈴の音が聞こえた気がした。
ちりん。
彼は顔を上げる。
「鈴……?」
次の瞬間、地下の霊脈図に黒い染みが生まれた。
それは神杯そのものではない。
神杯戦争で生まれた未回収の余波が、偽りの聖杯式に触れたことで変質したものだった。
声が聞こえる。
願いを叶えよ。
願いを集めよ。
願いを燃やせ。
願いを記録せよ。
願いを黙らせよ。
願いを返せ。
矛盾した命令が、同時に霊脈を走る。
観測者は苦しそうに耳を押さえた。
「違う……これは、儀式に混ぜていいものじゃない」
黒い染みは形を取り始めた。
杯ではない。
王冠でもない。
頁でもない。
それは、ひび割れた仮面のようなものだった。
偽りの聖杯式が、神杯戦争の余波を取り込み、自分に足りない「重み」を補おうとしている。
仮面は囁く。
『願いを使え』
『空白を埋めよ』
『偽物に、真実の重さを与えよ』
観測者は後ずさった。
その時、別の光が地下へ差し込んだ。
赤い宝石の光。
紫の神代文字。
銀色の鈴。
白い余白。
夜の影。
豊穣の根。
冬木からの遠隔干渉だった。
◆
同じ頃、柳洞寺地下。
凛は宝石板に両手を置き、歯を食いしばっていた。
「捕まえた!」
メディアが術式を重ねる。
「余波が向こうの霊脈に接続しかけてる! 切るわよ!」
士郎は応答筆を握る。
「ただ切ればいいのか?」
「普通ならね。でも今回は、切断すると残滓が向こうで暴れる可能性がある」
ミライが警告する。
「偽装聖杯式が、神杯余波を燃料として誤認しています。切断のみでは暴走確率高」
ユイが目を閉じる。
「向こうに、怖がってる人がいる」
凛が一瞬だけ顔を上げた。
「参加者?」
「分からない。でも、見ちゃった人」
士郎は応答筆を構えた。
「なら、こっちから返事を送る」
メディアが驚いたように士郎を見る。
「まさか、スノーフィールドの霊脈に直接?」
「余波が繋がってるなら、逆にこっちから書けるはずだ」
凛は少しだけ笑った。
「無茶苦茶だけど、今はそれしかないわね」
イリヤがヘラクレスの守護結界から受け取った光を、豊穣の根へ流す。
「持っていかせない。ここで眠ってる願いは、ここで待ってるんだから」
桜の影が広がる。
「影の外縁、固定します」
メドゥーサの気配がその背後に立つ。
「支えます、サクラ」
メディアが杖を掲げる。
「凛、三番式を逆位相で」
「分かってる!」
「本当に?」
「分かってるって言ってるでしょ!」
二人の術式が重なり、霊脈の上に白い余白が開いた。
士郎は応答筆を霊脈図へ触れさせる。
そこへ、一文を書く。
これは燃料ではない。
文字が光となり、霊脈を走る。
冬木の願いは、冬木で返事を待つ。
返事の庭の鐘が鳴る。
偽りの器に、余白は渡さない。
白い光が海を越えた。
◆
スノーフィールド地下。
観測者の目の前で、仮面に亀裂が入った。
冬木から届いた文字が、黒い染みを包む。
『これは燃料ではない』
仮面が震える。
『冬木の願いは、冬木で返事を待つ』
偽装聖杯式が抵抗する。
空白を埋めようとする。
だが、余白は奪われない。
『偽りの器に、余白は渡さない』
仮面が砕けた。
黒い染みは霊脈から剥がれ、白い紙片となって消える。
観測者は床に膝をついた。
息が荒い。
だが、生きている。
彼は震える手で記録の最後に書いた。
冬木からの干渉あり。
偽装聖杯式、外部神秘の取り込みに失敗。
だが儀式自体は停止していない。
そして、もう一文。
この街は、何かを呼ぼうとしている。
彼は夜空を見上げる。
砂漠の街は、まだ自分が何を始めようとしているのか知らない。
だが、星はすでに動き始めていた。
どこかで、黄金の気配が笑ったような気がした。
どこかで、大地に近い緑の気配が目を開けたような気がした。
警察機構の奥で、ファルデウス・ディオランドが報告書を閉じた。
その目は冷静で、感情が薄い。
しかし、彼の指先だけが、ほんの一瞬止まっていた。
「冬木からの干渉……予定外だな」
彼は窓の外を見る。
砂漠の夜。
人工の街。
整えられた霊脈。
偽装された聖杯。
「だが、余計な混入が消えたのなら、むしろ純度は上がる」
ファルデウスは静かに笑った。
「偽りは、偽りとして完成すればいい」
別の場所。
スノーフィールド市警のオーランド・リーヴは、部下から上がってきた不可解な報告に目を通していた。
地震ではない振動。
地下施設の一部で発生した原因不明の停電。
星図と一致しない魔力反応。
そして、連絡の途絶えた観測者。
彼は眉をひそめる。
「厄介な夜になりそうだ」
彼の机の引き出しには、普通の警察官なら持たない種類の礼装が収められていた。
表の秩序と裏の神秘。
その両方に足を置く者として、彼はこの街がただの街ではないことを知っている。
その街が今、何かを始めようとしていた。
さらに別の場所。
ティーネ・チェルクは、土地の震えを感じていた。
彼女はまだ、自分が何を呼ぶことになるのか知らない。
だが、大地の奥で眠る何かが、目を開きかけていることだけは分かった。
「……来る」
それが敵か、王か、災厄か、救いか。
まだ分からない。
けれど彼女は、恐れだけではなく、覚悟を持って夜を見つめていた。
遠い宿の一室では、フラット・エスカルドスが旅行鞄を開け、楽しそうに資料を広げている。
「教授、怒るかな」
彼は少し考えた。
「怒るだろうなあ」
それでも、彼の目は輝いていた。
地図。
星図。
霊脈の線。
そして、冬木から届いたかもしれない薄い余白の痕。
「でも、これ……すっごく変だ」
彼は笑った。
「偽物なのに、ちゃんと何かを呼ぼうとしてる」
その言葉には悪意がなかった。
だからこそ、危うかった。
さらに、街のどこかで、フランチェスカ・プレラーティは笑っていた。
「余計なものは弾かれたか。うんうん、冬木もなかなかしつこいね」
彼女は砂漠の夜を見つめる。
「でも、これでいい。偽りは偽りのまま始まらなくちゃ。余計な真実を混ぜすぎると、味が濁るもの」
その笑みは、子供のようで、魔性のようだった。
別のホテルの一室では、アヤカ・サジョウが、理由も分からず目を覚ました。
胸の奥がざわついている。
夢を見ていた気がする。
金色の光。
硝子のように透き通った何か。
遠い鈴の音。
そして、誰かが「これは燃料ではない」と言う声。
アヤカはベッドの上で上体を起こし、窓の外を見る。
砂漠の街は静かだった。
けれど、その静けさの向こうで何かが動いている。
彼女はまだ知らない。
自分が、この偽りの聖杯戦争にどう関わるのかを。
偽りの器は、冬木の余波を失った。
それでも、儀式は止まらない。
むしろ、余分なものを削ぎ落とされたことで、より純粋な形で動き出そうとしていた。
偽りの聖杯戦争は、まだ始まっていない。
だが、その前夜は確かに訪れていた。
第六話
送らない者たちの選択
冬木からスノーフィールドへの接続は切れた。
神杯戦争の余波は、返事の庭へ戻された。
願録聖堂の頁も安定した。
聞こえた芽は静かに揺れ、送別の芽は遠い方角へ小さな光を伸ばしている。
だが、凛の表情は晴れなかった。
「向こうの儀式は止まってない」
士郎は頷く。
「ああ」
「こっちの余波を切っただけ。スノーフィールドの聖杯戦争自体は、そのまま進む」
イリヤが不安そうに言う。
「止めに行かないの?」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
士郎は、遠い街のことを考えた。
まだ始まっていない戦争。
けれど、始まろうとしている戦争。
そこには、きっとマスターがいる。
サーヴァントが召喚される。
願いがあり、思惑があり、戦いがある。
止められるなら、止めるべきなのか。
手を伸ばすべきなのか。
しかし、凛は静かに言った。
「私たちは行けない」
ユイが顔を上げる。
「どうして?」
「一つ目。距離。二つ目。政治的問題。三つ目。あの儀式の主体がまだ見えていない。四つ目……私たちが介入すれば、冬木の神杯戦争の残滓を逆に持ち込む危険がある」
メディアが続ける。
「それに、忘れてはいけないわ。向こうには向こうの物語がある。こちらが何でも抱え込めばいいわけではない」
士郎は拳を握った。
全部には手が届かない。
それは神杯戦争で何度も突きつけられたことだった。
全部を救えない。
全部に返事はできない。
それでも、聞こえたものを白紙には戻さない。
「じゃあ、何をする?」
士郎が聞くと、凛は封筒を取り出した。
「警告を送る。時計塔へ。エルメロイⅡ世へ。スノーフィールド方面の調査権限を持つ筋へも可能な限り」
ミライが記録する。
「直接介入ではなく、情報接続。冬木側の責任範囲、神杯余波の遮断および警告発信」
ユイは少し寂しそうに言った。
「それだけ?」
凛は首を横に振る。
「それだけ、じゃないわ。情報を送ることは、返事の一つよ」
士郎も頷いた。
「手を出せない場所に、無理やり踏み込むことだけが助けじゃない」
イリヤが卵焼きの包みを見つめる。
「じゃあ、お弁当は送れない?」
凛は一瞬固まった。
「……さすがにスノーフィールドへ卵焼きは送らないわよ」
イリヤは少し残念そうだった。
メディアが肩をすくめる。
「でも、発想は悪くないわ。物資ではなく、安定化礼装なら送れるかもしれない」
凛が目を細める。
「返事の庭の鐘を写した、簡易防濁札」
ミライが即座に補足する。
「効果。外部願望干渉、記録固定、沈黙強制、余白侵食への初期抵抗」
メディアが頷く。
「完全防御にはならない。でも、冬木からの余計な影響を避けるには役立つ」
士郎は応答筆を見る。
「じゃあ、それを作ろう」
◆
その夜、衛宮邸の居間に、いくつもの札が並んだ。
凛が宝石粉で術式を書く。
メディアが神代文字を重ねる。
ミライが分類印を刻む。
ユイが「聞こえている」の結びを添える。
イリヤが小さな卵の絵を描こうとして、凛に止められる。
桜が影の線で札の輪郭を安定させる。
メドゥーサが封印鎖を薄く重ねる。
ヘラクレスの守護結界から届いた淡い光が、札の外縁に重なる。
士郎が最後に応答筆で余白を残す。
札には、こう記された。
冬木の余波を持ち込まない。
願いを燃料にしない。
返事を強制しない。
余白を奪わない。
凛は完成した札を見て言った。
「これを送る。受け取った側がどう使うかは、向こう次第」
士郎は少し黙った後、頷いた。
「それでいい」
ユイが聞く。
「心配じゃない?」
「心配だよ」
士郎は正直に答えた。
「でも、全部を俺たちが決めることじゃない。向こうで戦う人たちがいるなら、その人たちが選ぶこともある」
凛が士郎を見る。
「少しは学んだじゃない」
「凛ほどじゃないけどな」
「そこで余計なこと言わなければ満点だったわ」
居間に少しだけ笑いが生まれた。
その笑いは、重い選択を軽くするものではない。
ただ、選んだ後に息をするためのものだった。
◆
深夜。
士郎は土蔵にいた。
応答筆は返事の庭へ戻した。
神杯戦争の最後の礼装。
それは、もう戦うための武器ではない。
余白へ返事を書くためのものだ。
土蔵の空気は静かだった。
だが、完全な静寂ではない。
どこか遠くで、星が動く気配がする。
スノーフィールド。
偽りの聖杯戦争。
まだ見ぬマスターたち。
まだ召喚されぬ英霊たち。
まだ始まっていない戦い。
士郎は小さく呟いた。
「こっちは、ここでできることをした」
返事はない。
けれど、胸の奥で鈴の音がした気がした。
ちりん。
それは、見送る音に似ていた。
冬木からスノーフィールドへ、何かを送る。
干渉ではなく、警告。
支配ではなく、余白。
助けるのではなく、助けになるかもしれないものを渡す。
士郎は土蔵の扉を閉めた。
物語は、ここから先へ進む。
だが、そのすべてを自分が背負う必要はない。
そう思えるようになったこともまた、神杯戦争の後に残った答えだった。
第七話
始まりを待つ者たち
数日後。
時計塔に、冬木からの封書が届いた。
ロード・エルメロイⅡ世は、それを無言で受け取った。
封筒の中には、遠坂凛の報告書。
神杯余波遮断の成功。
スノーフィールド方面の偽装聖杯式継続。
冬木由来の異常神秘が混入する危険は低下したが、儀式そのものは停止していないこと。
そして、数枚の防濁札。
エルメロイⅡ世は札を一枚手に取る。
そこに刻まれた文字を読み、深く息を吐いた。
「まったく……冬木の連中は、厄介なものを作る」
グレイが尋ねる。
「危険なものですか?」
「いや。逆だ。危険なものに触れすぎた者が、二度と同じ失敗を繰り返さないために作った札だ」
彼は札を机に置く。
「スノーフィールドへ送る。届くかどうかは分からない。届いたとして、使われるかも分からない」
グレイは静かに言った。
「でも、送るのですね」
「ああ。送らない理由にはならない」
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
軽い足音。
嫌な予感のする足音。
エルメロイⅡ世は額を押さえる。
「フラットを見なかったか?」
グレイは少し困った顔をした。
「先ほど、旅行鞄のようなものを持っていました」
「……あの馬鹿」
彼は立ち上がった。
「止めるぞ、グレイ」
「はい」
「いや、待て。止められると思うか?」
グレイは少し考えた。
「師匠が本気で怒れば、少しは」
「少しでは困るんだ」
その頃、フラット・エスカルドスはすでに空港へ向かう準備を進めていた。
本人に悪意はない。
悪意がないからこそ厄介だった。
彼の鞄には、衣類よりも魔術資料の方が多い。
スノーフィールドの霊脈図。
冬木式聖杯戦争の断片資料。
自作の観測メモ。
そして、どこから手に入れたのか分からない航空券。
フラットは楽しそうに呟く。
「偽りの聖杯戦争……教授は嫌がるだろうなあ。でも、これ見ないのはもったいないよね」
彼は窓の外を見た。
「偽物が本物を呼ぶのか。それとも、本物が偽物に合わせて変わるのか」
その問いは、彼にとって恐怖ではなく好奇心だった。
それが、どれほど危険なことか。
彼自身、たぶん分かっている。
それでも、行く。
フラット・エスカルドスとは、そういう男だった。
◆
スノーフィールド。
ティーネ・チェルクは、大地の震えを感じていた。
夜の砂漠は冷たい。
都市の灯りは人工的で、空の星とは別の規則で瞬いている。
彼女は膝をつき、地面へ手を当てた。
地下の霊脈が、かすかに脈動している。
それは土地の鼓動だった。
だが、自然な鼓動ではない。
整えられ、曲げられ、利用されようとしている鼓動。
「……始まる」
彼女は呟く。
何が始まるのか。
聖杯戦争。
そう呼ぶ者もいるだろう。
だが、この街のそれは、正しい聖杯戦争ではない。
偽り。
模倣。
欠けた器。
けれど彼女にとって重要なのは、呼び名ではなかった。
この土地が何を求めているのか。
この土地に、何が召喚されるのか。
そして自分は、それにどう向き合うのか。
ティーネは目を閉じる。
遠くで、黄金の気配が揺れた気がした。
その圧倒的な気配に、彼女は息を呑む。
恐怖ではない。
畏れ。
地上にあるものが、天を見上げる時に感じるもの。
「王……?」
まだ名は知らない。
だが、何かが来る。
それだけは分かった。
◆
スノーフィールド市警。
オーランド・リーヴは、報告書を読みながら眉間に皺を寄せていた。
「地下霊脈の異常振動。街外縁での魔力濃度上昇。時計塔方面からの警告文書。そして冬木由来の防濁札……」
彼は札を指先で軽く叩く。
「厄介な贈り物だ」
部下が尋ねる。
「破棄しますか?」
オーランドは即答しなかった。
札の術式は、明らかに高度だった。
攻撃用ではない。
召喚用でもない。
封印でも、支配でもない。
むしろ、余計な干渉を避けるための礼装。
冬木で何かが起き、その後始末を知る者たちが作ったもの。
「破棄はしない。保管しろ。必要なら使う」
「信頼するのですか?」
「信頼ではない。使える可能性を捨てないだけだ」
オーランドは窓の外を見る。
街の灯りが夜に浮かんでいる。
表向きは、何も起きていない。
しかし、彼は知っていた。
この街はすでに、聖杯戦争という名の舞台になりかけている。
そしてその舞台は、警察も、魔術師も、英霊も、一般人も、等しく巻き込む。
「備えろ」
オーランドは低く言った。
「偽りだろうと何だろうと、戦争が始まれば街は壊れる」
◆
ファルデウス・ディオランドは、遠くからそれらを見ていた。
報告書。
霊脈の状態。
冬木からの干渉。
防濁札の流通。
時計塔の動き。
警察機構の警戒。
すべてが、予定外を含みながらも、許容範囲に収まりつつある。
彼は静かに笑う。
「冬木の余波は遮断された。余計な神秘の混入は消えた。ならば、こちらの聖杯式は、より純粋に偽りとして成立する」
彼にとって、偽りは欠陥ではない。
偽りだと知った上で構築された儀式。
それは、本物を目指す偽物ではなく、偽物であることを武器とする儀式だった。
「さて」
ファルデウスは椅子へ背を預ける。
「この街は、何を呼ぶ?」
その問いに、夜は答えない。
だが、霊脈はすでに脈打っていた。
◆
アヤカ・サジョウは、また夢を見た。
暗い場所にいた。
砂漠ではない。
街でもない。
そこは、何かが始まる前の場所だった。
遠くで鈴が鳴る。
ちりん。
誰かが言う。
これは燃料ではない。
別の誰かが言う。
願いを燃やしてはいけない。
また別の声が言う。
偽物だから、悪いとは限らない。
アヤカはその声の意味を知らない。
知らないのに、胸がざわつく。
夢の中で、彼女は手を伸ばした。
すると、遠くに白い余白が見えた。
何も書かれていない頁。
だが、白紙ではない。
これから何かを書くための余白。
アヤカは目を覚ました。
窓の外にはスノーフィールドの夜が広がっている。
「……何だったの」
彼女は自分の手を見る。
何もない。
令呪もない。
火傷のような痕もない。
けれど、胸の奥に違和感だけが残っていた。
誰かの物語が始まろうとしている。
そして、自分はその入口に立っている。
そんな気がした。
第八話
余白を奪わない札
冬木から届いた防濁札は、いくつかの経路を通ってスノーフィールドへ渡った。
時計塔経由。
協会関係者経由。
市警の裏ルート。
そして、どこをどう通ったのか分からない、奇妙な偶然の経路。
札は万能ではない。
聖杯戦争を止めることはできない。
サーヴァントの召喚を封じることもできない。
マスターの願いを消すこともできない。
ただ一つだけ、役割がある。
冬木の余波を持ち込まない。
願いを燃料にしない。
返事を強制しない。
余白を奪わない。
その四つを、最低限の楔として刻んでいる。
エルメロイⅡ世は、札の解析結果を見ながら言った。
「これは、防御礼装というより倫理礼装だな」
グレイが首を傾げる。
「倫理礼装、ですか」
「ああ。術式としては外部干渉防止だが、根幹にあるのは“何をしてはいけないか”の定義だ。冬木で何があったのか、これだけで分かりたくないほど分かる」
「つらいものですか?」
「おそらくな」
エルメロイⅡ世は札を封筒へ戻す。
「だが、こういう礼装を作れるなら、あの土地の後始末は少しだけ前へ進んだのだろう」
グレイは静かに頷いた。
「届くといいですね」
「届くだけでは足りない。使われなければ意味がない」
「それでも送る」
「そうだ」
彼は短く答える。
「送らない理由にはならない」
◆
スノーフィールド市警では、オーランドが札を一枚手に取っていた。
「冬木の余波を持ち込まない、か」
彼は小さく笑う。
「ずいぶん慎重な警告だ」
部下が尋ねる。
「信用しますか?」
「半分だけ」
「半分?」
「全面的に信用するには、相手を知らなすぎる。完全に無視するには、術式が丁寧すぎる」
オーランドは札を机に置く。
「使いどころを見極める。これは戦場の弾ではなく、事故を減らすための標識だ」
その表現は、奇妙に的確だった。
札は武器ではない。
標識。
ここから先に持ち込んではいけないものがあると示す印。
冬木の者たちが、遠い街に置いた小さな境界線だった。
◆
フラットは、札を見た瞬間、目を輝かせた。
「すごい! これ、術式なのに“やさしい”!」
周囲の魔術師は顔をしかめた。
「やさしい?」
「うん。普通、こういう礼装って拒絶とか封印とか命令が多いんだけど、これは違う。入るな、じゃなくて、奪うなって書いてある感じ」
フラットは札を光に透かす。
「余白を守る札だ」
彼は楽しそうに笑う。
「これ作った人、たぶんすごく面倒な戦いをしたんだろうなあ」
その無邪気な言葉は、ある意味で核心を突いていた。
◆
アヤカは、偶然その札を見ることになった。
本当に偶然だった。
ホテルの廊下で、誰かが落とした封筒。
中から滑り出た、一枚の札。
拾い上げた瞬間、彼女の胸が小さく震えた。
文字は読めない。
けれど、意味だけが少し分かる。
奪わない。
燃やさない。
黙らせない。
余白を残す。
アヤカは指先で札の縁をなぞった。
「……変なの」
でも、怖くはなかった。
その札は、彼女に何かを命じなかった。
ただ、ここに境界があると示しているだけだった。
彼女はそれを封筒に戻し、持ち主らしき人物の部屋の前へ置いた。
その時、遠くで何かが鳴った気がした。
鈴ではない。
鐘でもない。
もっと別の音。
始まりを告げる音。
アヤカは振り返る。
廊下には誰もいない。
だが、彼女は確かに感じていた。
この街はもう、普通の夜ではない。
第九話
見送る者たち、始まる者たち
冬木。
返事の庭。
士郎たちは、夜の庭に立っていた。
スノーフィールドへの接続は完全に切れている。
もう、向こうの詳細は見えない。
凛は宝石板を閉じた。
「これで、冬木からできることは終わり」
士郎は頷いた。
「ああ」
イリヤが少し寂しそうに言う。
「大丈夫かな」
メディアが答える。
「大丈夫かどうかは、向こうの者たちが決めることよ」
ユイは聞こえた芽に手を添えた。
「でも、聞こえたら?」
凛は少しだけ考えた。
「その時は、その時。今度は向こうから届いた声として考える」
ミライが記録する。
「スノーフィールド方面、観測終了。冬木側対応、完了。以降、過干渉禁止」
士郎は遠い夜空を見た。
スノーフィールドは見えない。
だが、どこかで何かが始まろうとしていることだけは分かる。
その戦いには、きっと冬木とは違う願いがある。
冬木とは違うマスターがいる。
冬木とは違うサーヴァントがいる。
そして、冬木とは違う答えがある。
士郎は静かに言った。
「いってらっしゃい、だな」
凛が横を見る。
「誰に?」
「分からない。でも、これから始まる誰かに」
返事の庭の送別の芽が揺れた。
ちりん。
小さな鈴の音がした。
それは、冬木から遠い街へ向かう最後の音だった。
◆
その夜、英霊の座では、還った者たちがその音を聞いた。
アルトリアは目を閉じる。
「どうか、剣が願いを縛るためではなく、守るために振るわれますように」
エミヤは小さく息を吐く。
「また厄介な戦争が始まる。だが、今度は彼らの番だ」
クー・フーリンは槍を肩に担ぐような仕草をする。
「死ぬなよ、まだ見ぬ連中。戦うなら、せめて自分の足で立って戦え」
イスカンダルは豪快に笑う。
「偽りの戦よ、ならば偽りのまま堂々と始まるがいい! そこに立つ者が真に征くならば、その道もまた本物よ!」
ジャンヌは旗を抱く。
「迷う者に、祈りを。裁きではなく、灯りを」
ランスロットは剣を伏せる。
「罪を抱えても、剣を取る道はある。どうか、それを忘れぬように」
エルキドゥは遠い友の気配を感じる。
「君はまた、誰かに見つけられるのかな。ギル」
ギルガメッシュは砂漠を見下ろす。
「偽りの器が何を呼ぶか、見ものだな。だが我の宝を勝手に量るなど、許されると思うなよ」
山の翁は沈黙の奥で告げる。
「晩鐘はまだ鳴らぬ。ならば、生者は歩め」
アストルフォは見えない誰かへ手を振る。
「行ってらっしゃい! 帰ってくる場所、ちゃんと見つけてね!」
リチャード一世は、新しい物語の頁が開かれる音を聞く。
「さあ、次の頁だ。傷があるなら語ればいい。名がまだないなら、これから名乗ればいい」
彼らは干渉しない。
戻らない。
だが、知っている。
冬木の物語は、余白を残して閉じられた。
そして、余白があるからこそ、次の物語は始まる。
第十話
偽りの聖杯、その前夜へ
数日後。
スノーフィールドの地下で、最初の大きな脈動が起きた。
偽装聖杯式が開く。
不完全な器が、英霊の座へ手を伸ばす。
それは正統ではない。
完全でもない。
だが、だからこそ奇妙だった。
だからこそ、予測できなかった。
そして、予測できないものほど、物語を始める。
砂漠の街に、見えない鐘が鳴った。
冬木の鐘ではない。
返事の庭の鈴でもない。
新しい戦争の始まりを告げる、別の音。
フランチェスカ・プレラーティは笑う。
「さあ、始めようか。偽物の器に、本物みたいな願いを注いで」
ファルデウス・ディオランドは報告書を閉じる。
「儀式、第一段階へ移行」
オーランド・リーヴは静かに立ち上がる。
「市内警戒を最大まで引き上げろ。表向きは通常警備でいい」
ティーネ・チェルクは大地へ手を当てる。
「来る」
フラット・エスカルドスは夜空を見上げる。
「わあ……本当に始まるんだ」
アヤカ・サジョウは、胸の奥の違和感を抱えたまま窓の外を見る。
「何なの……この感じ」
そして、英霊の座の奥で、いくつもの記録が揺れた。
黄金の王の気配。
大地に近い友の気配。
獣のような笑み。
硝子細工のような純粋さ。
偽りの戦争は、何を本物として呼ぶのか。
まだ誰も知らない。
◆
冬木。
衛宮邸。
士郎は朝食の準備をしていた。
凛は宝石板を閉じたまま、もうスノーフィールドを見ようとはしなかった。
桜は庭に水をやり、イリヤは卵焼きを焼き、ユイは箸を整え、ミライは日常継続記録を開いた。
メディアは柳洞寺へ戻り、文句を言いながら監査術式を調整している。
メドゥーサは桜の影に寄り添い、ヘラクレスの守護結界は畑の奥で静かに光っている。
冬木は、冬木の朝を迎える。
遠い砂漠で何が起きるとしても、ここにはここで守るべき日常がある。
士郎は味噌汁をよそいながら、ふと夜空の方角を思い出した。
「始まったのかな」
凛は少しだけ目を伏せる。
「たぶんね」
「見なくていいのか?」
「見ない。見れば、手を出したくなるから」
士郎は頷いた。
「そうだな」
凛は静かに言う。
「向こうには向こうの戦いがある。私たちは、冬木の余波を渡さなかった。それ以上は、向こうの物語よ」
ユイが聞く。
「でも、もし声が届いたら?」
凛は少し考え、士郎を見た。
士郎は答える。
「その時は、聞く」
ミライが記録する。
「方針更新。過干渉は禁止。ただし、届いた声は白紙化しない」
イリヤが卵焼きを皿に乗せる。
「じゃあ、朝ご飯食べよう」
その言葉に、誰も反対しなかった。
神杯戦争は終わった。
願いは燃えなくていいと、彼らは知った。
記録は閉じ込めるものではないと、彼らは知った。
声は黙らせるものではないと、彼らは知った。
そして、助けることは、すべてを背負うことではないと、ようやく知った。
◆
スノーフィールドの夜に、偽りの聖杯が灯る。
その火は冬木の火ではない。
神杯の残り火でもない。
返事の庭の鈴でもない。
別の街の、別の願いの、別の戦争の火。
偽物の戦争に、本物の願いは宿るのか。
偽りの器は、何を呼ぶのか。
砂漠の街は、その答えをまだ知らない。
けれど、始まりはもう目の前にある。
冬木の物語は、余白を残して閉じられた。
そして、遠いスノーフィールドで、別の物語が幕を開ける。
後日譚
「偽りの聖杯へ至る余波
― スノーフィールド前夜 ―」
完。
そして、偽りの聖杯戦争へ。
コメント
1件
うわあ…読み終わったあと、なんか胸がじんわり温かい感じがする😭💕 「卵焼き」と「明日」「燃えてないのに温かい」のやり取り、めっちゃ良かった…戦いが終わった後の日常の尊さってこういうことか、って思った。 あと、凛とメディアが同じこと言ってお互い嫌そうな顔するところ、思わず笑っちゃったよ😂 最後の「送らない選択」も、すごく大人になったなあって感じたし、英霊たちが座から見送るシーンも泣ける…新しい物語、応援したい気持ちでいっぱいです🌸