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箱庭の終焉 / 蘭菊
1.大人びた坊や
何千年か前に私が生まれてから、今日に至るまで。様々なことがあった。時に、忌み嫌われ。時に、神として崇められ。
しかし、この長い年月の中で、私個人を見てくれる人なぞ、誰一人としていなかった。
否、それもそうだろう。私は人ではない、他とは違うもの。即ち、国なのだから。
そして、いつしか私は“人ではない、老いることも死ぬこともできぬ国の身体”を恨むようになった。『なぜこんな身体で生まれたのか』夜な夜な苦しみ、絶えず泣いた。
──もう、思い出せないほどずっと昔。一度、自刃したことがあった。皆眠るであろう夜中。腹に短刀を突き刺し、自分の持つ限りの強い力で抉った。瞬く間に服は真っ赤に染まり、生暖かい血液が指先をなぞった。
気付いたら、朝を迎えていた。慌てて腹を見ると、普通の人ならあるはずの抉った傷がなかった。というより、何事もなかったかのように心臓が動き、体温があった。やはり、明らかに人ではない。
その時、初めて理解した。
私は死すら許されない存在なのだ、と。
それから、私は生きる屍のようになった。必要最低限のこと以外はせず、やることがなくなったら眠る。それだけだった。
そんなある日。異国の地から来たであろう、黄金色の髪に、翡翠のような眼の少年に出会った。
その少年は河川敷で、一人何もせずぼーっと立っていた。
「おや。こんにちは、坊や。どこから来たのですか?」
いつもなら話しかけもせず、無反応のまま歩き進んでいただろう。気まぐれもいいところだ。しかし、このたった一言が私を大きく変える要因になったのは、言わずもがな。
「⋯⋯遠くやざ。海を越えた、ここよりもずっと遠く」
少しの間私を見つめた後、彼は呟くように言った。少し訛りはあったものの、なかなか日本語が上手な子だった。
それにしても、“遠く”ですか。どのようなところから来たのでしょう。
私が『何という国ですか?』と問うと、少年は『知らん』とだけ言って、またそっぽを向いてしまった。
彼の素っ気ない対応からか、下に見られているような気がして、意地になってしまった。
「あそこで団子を買ってやりましょう、お話いかがですか?」
私の誘いに彼は乗り、暫く二人で話すことになった。団子屋前にあった長椅子に座り、彼は無言で三色団子を食べ続けた。よほど腹が減っていたのか、あっという間に食べ終わってしまった。追加で買おうとすると、彼は拒否したので、そのまま座って話し続けた。
「どのようなところから来たのですか?」
先とはまた違う質問をすると、思い出すように天を見上げてから、口を開いた。
「花が綺麗なところやざ。チューリップとか咲いとるところ」
「チューリップ⋯⋯あ、赤色のあれですか」
先日、阿蘭陀の化身である方から頂いた花。それはもう綺麗で、生け花として飾ったのを思い出した。
「いや、赤以外もある。白とかも」
私の言葉に反応してくれたのが嬉しくて、この後も質問を繰り返してしまった。
話しているうちに、この子は阿蘭陀から来た子だと分かった。少年が居たところの景色や出来事を聞くと、阿蘭陀さんの言っていたことと重なったからだ。また、彼は奴隷として連れて来られ、逃げていたところ私に話しかけられたそう。なかなか運の良い子だ。
それから、好きな食べ物の話や、天気の話。日常の何気ないことを沢山話した。
「そういえば、あなた。お名前は何と言うのです?」
ふと気になり、軽い気持ちで訊いた。
私の質問に、彼は黙り込んでしまった。
もしかして、訊いてはいけないことだっただろうか。そう思い、謝罪しようとすると、彼は重い口を開いた。
「名前は、ない。というか親がおらん。ほんでここに来た」
親が居なく、引き取る方も居なかったため、奴隷としてここに連れて来られたということだろう。
私は、その答えにただ相槌を打つことしかできなかった。気を遣っているのが感じ取れたのか、少年は再び話し始めた。
「気ぃ遣わんでええ、さっきみてぇに話ししよっさ。おめぇこそ、名前。何て言うんや」
今日出会って、初めてされた彼からの質問。
「日本国の日本です、呼び捨てで良いですよ」
案の定と言うべきか。彼は私が国であり、人間ではないことに、ひどく驚いた顔をした。やはり、私を人として扱ってくれる方はいないのだろう。
もう、終わりか。
そう悟った時だった。
「違う、ほういうのやない。おめぇの名前を訊いとんのや」
まさかの返しに、固まってしまった。国である私に、国以外の名など無いも同然なのに。
そのまま“日本”としての名を貫き通そうかと迷ったが、無垢な瞳を見ているうちに、そんな考えは消え去っていた。
「つくづく、不思議な少年ですねぇ。⋯⋯私の名は本田菊。ずっと昔に、恩師からつけていただいた名です」
私の答えに満足したのか、彼は頬を緩めた。
きっと、この少年は私よりも歳が遥かに下なはずなのに。どこか見透かすような瞳に、目が離せなかった。それと同時に、この少年を逃したら、再び私を“本田菊”として見てくれる人は居ないだろうと思ってしまった。
独占欲か、はたまた単なる情けだったのか。
「坊や、私の家に来ませんか?」
他意はない。ただ私を見てくれた、たった一人の彼を、失いたくないだけ。そう思いたい。
彼は拒んだりせず、大人しく私に着いて来た。
異国の地出身であるのだから当然といえば当然なのだが、彼は土足で家に上がろうとした。
「あ、履物は脱いでくださいね」
坊やは戸惑っていたものの、私が『置いていきますよ?』と言うと、焦って脱いでいた。
これが母性というものなのか。なんだか彼が無性に愛らしく見える。
2.坊やの名
「なんや、これは」
坊やが顔をしかませた。どうも着心地が悪いらしい。
「着物ですよ。きっとすぐ慣れます。⋯⋯以前、私が着ていたものになりますがね」
ここは日本ですのでこの国に合った生活をしていただきたく思いまして、と続けると、彼はあまり納得していないようだった。
夕飯の時間になると、坊やは勢いよく食べ始めた。
「ほら、慌てて食べると喉に詰まりますよ」
そういえば、この子の名を決めていませんでしたね。太郎くん⋯⋯は、流石に嫌がられるでしょうし。
阿蘭陀から来たのですから、蘭太郎?
いえ。なんだかしっくりこないので、無難に“蘭”とかですかね。
「坊や、蘭さんというのはいかがでしょう」
食事の手を止め、箸を置いた。
「何がや」
「あなたの名です、花の名でもあるのですよ」
存外気に入っていただけたのか『ほうけ』とだけ言って再び食事をはじめた。
蘭さんが食べ終わると、別々で風呂に入り、寝床についた。
「寒くはないですか」
初冬。昼間もだが、夜中はもっと冷える。
「⋯⋯だんねーざ」
一緒の布団で寝ているので暖を取るために抱き締めても良いのに、蘭さんは一人で平気だと言う。やはり、年頃の子は気にするところがあるのだろうか。
何分か経ち、隣から寝息が聞こえてきた。他の子と比べると多少は大人びているとはいえ、本質は十歳ほどの小さな子供。なかなか寝付きが良い。
⋯⋯これから、私が大切に育てねばなりませんね。
まるで自分の子のように思えた。自国民とは別の、また大切な子。
蘭さんに気付かれぬように、そっと布団を出る。静かに襖を開けて、縁側に腰掛けた。冬と言っても、まだ秋の空気が残る季節。風は冷たいものの、問題ない程度だった。
月が綺麗に輝いている。今夜は満月だ。冬は星や月がはっきりと見えるので、一年の中では一番と言っても過言でないほど楽しみにしている季節である。
すると、襖の開く音がした。
「何しとる」
まだ少し寝ぼけた声で言った。その声の主は、先程まで寝ていたはずの蘭さんだった。
「おや、起こしてしまいましたか。子供はもう寝る時間です、早く布団に帰りなさい」
「目ぇ覚めた、暫く起きとるざ」
それでも私が布団に戻るなように言うと『おめぇのせいで眠くなくなった言うとるんや』とか言いながら隣に座ってきた。
せっかくなので、月で餅をつく兎の話をした。すると彼はぼーっと月を見つめたまま『そう言われりゃ、そう見えなくもないの』と。小さく微笑んだ。
その時気が付いた。月明かりに照らされた蘭さんの瞳が、翡翠のように輝いていたことに。
思わず目を奪われ、言葉が出なかった。不自然な間が空く。
慌てて、再度。話題を月の兎に戻した。
「昔ね、私の恩師は“月で兎が薬を混ぜている”と言っていました。蘭さんには、あの月はどう見えますか?」
気まぐれに、そんな質問をした。というより、月を見ていて思い出したことだった。
彼は一度私を見てから、再び月を見つめた。
「⋯⋯菊が、団子食べてるざ」
なかなか不思議なことを言う子だ。しかし、なんだか侮辱されている気がする。
「そんなに私食いしん坊ですか?」
私の問いに蘭さんは「ほうや、おめぇは食いしん坊やざ」とだけ言って「もう寝る」と。布団へ戻ってしまった。
思わず笑ってしまった。
私は、随分と愉快な子を拾ってしまったようだ。
3.齢十五の幼子
それから毎日、私は以前とは打って変わって楽しい日々を送った。初めて彼と出会った日は、私の名すら呼んでくれず、仮に呼んだとしても一日に片手で数えるくらいだったのに。気付いたら菊、菊、と言いながら私の後をついてくるほどにまでなった。
時に、実の親のように彼を可愛がり。時に、実の親のように彼を叱ったり。
蘭さんと血が繋がっていないのが嘘のように。彼は非常に懐いてくれた。
──彼が十五歳くらいになったある日。
「では、行ってきますね」
初めて彼を置いて家を出た。今までも長く家を空ける機会があったのだが、その度に『幼い彼を置いていくことはできない』という理由で。また、周りには嘘の理由を言って。家を空けるようなことはなかった。
しかし、彼ももう十五歳。出会った当初は私よりも小さかった子が、今では私よりも大きくなり。
だから、きっと心配無用だろうと。
「おう、またの」
蘭さんを置いて、五日間家を空けた。
「ほら、日本さん!ここ数年付き合い悪かったやないですか〜、今日はぎょうさん飲みましょうや!」
家臣の大阪藩が酒を勧めてくる。
そういえば、蘭さんが来てから藩の方々とあまり話せていませんでしたね。
「そうですねぇ、今日は私も飲みましょうか」
そうして、促されるままに。柄にもなく、沢山飲んでしまった。
頭がぼーっとする。顔が火照っているのが自分でも分かる。視界が霞んでいるまま、大阪藩の心配の言葉も聞かず、一人で帰路についた。
「蘭さぁん、帰りましたよぉ」
呂律が回らぬまま帰宅したら、蘭さんの返事がなかった。帰ったのが日の沈む直前、空が茜色に染まっている頃だったので、きっともう寝ているのだろうと思った。
そして。私もそろそろ寝ようと思い、寝室へと向かった時。
「⋯⋯蘭、さん?」
彼が部屋の中央で倒れていたのだ。
「蘭さん?どうしたのですか?」
いくら揺すっても返事がなかった。すぐに、息をしているか確認したが──止まっていた。心臓もまた、機能していなかった。
作り物であるはずの私の心臓が、どくどくと脈を打つ。呼吸がどんどん荒くなる。襖の隙間から吹いた風が、頬を冷やした。酔いなどとうに覚めていた。
いや、そんなはずない。そんなはずがないのだ。彼が、蘭さんが死ぬなんて。病に冒されている様子はなかった。では、誰かに殺された?その割には家は整っており、蘭さん自身にも傷はないように見えた。
大阪藩を呼ぼうと酒屋まで裸足で走った。冬の寒さや足裏の痛みなんて気にもせず、一心不乱に走り続けた。
連れてきた大阪藩は一目見て状況を理解したようで、冷静さを欠いた私を横目に、倒れた蘭さんの隣に座った。
「⋯⋯日本さん。うちらが普通の人間でないのはご存知やんな?」
そんなの、百も承知だ。
「人ってねぇ、うちらみたいな奴らと長い間一緒におると時間感覚狂ってまうんですわ。この子は人や。見たところ、国である日本さんと一緒にいておかしくなっちゃったんでしょうな」
大阪藩が、蘭さんを見ながら淡々と話した。気付いたらすっかり日は沈み、蘭さんと大阪藩が月明かりに照らされていた。
「彼は普通の人の子のように育っていました、何も狂ってなど」
私の反論を無視し、大阪藩は続けた。
「あなたの近くにおる限り、普通の人の子のように育ったやろな。せやけど、日本さんはこの子から離れてしもうた。そんでこの子は一気に元の時間軸に戻り、その反動で亡くなったってとこですわ」
大阪藩が立ち上がり、蘭さんを見下ろした。
「ところでこの子、何歳なんです?」
ふいに、蘭さんの年齢を問われた。
「⋯⋯十五ほどです」
「十五にしては、成長が遅かったりしたんやないですかね」
図星だった。彼の言う通り、蘭さんは稀に幼子のような言動が目立った。勉学を教えようとすると「嫌ざ」と言って拒んだり、食べ物の好き嫌いが多かったり。
しかし、私は個人差あるものだと思い、あまり気に留めなかった。
それに気付いていればよかったのに。
「結局、私が殺したということですか」
私の問いに、大阪藩は少し黙り込んだ後、口を開いた。
「ちゃいます、日本さんが悪いわけではありまへん。仕方のないことやから、気に病まないでくださいよ」
大阪藩の慰めも耳に入らず、私は泣いた。
私は、齢十五の幼子を殺したのだ。どうしようもない罪悪感と喪失感で、押し潰されそうになった。
どうして、どうしてと。後悔の言葉を繰り返す。冬の冷えた風が、肺を凍らせる。息がしづらい。
静かに眠る蘭さんの顔が見えた時、もう取り返しのつかないことなのだと。そう悟ってしまった。
国であり“日本”以外の何者でもない私を、“本田菊”個人として見てくれた人は、彼が最初で最後だった。
4.彼に似た
そして現在二十一世紀。私は他国と接する機会が多くなり、二度の大戦もあったことで、彼のことを忘れかけていた。
「何笑っとんのや」
ラン科の植物が一面に広がる花畑。
オランダさんに『会議の合間に、散歩がてら外へ出ませんか?』と言うと、快く了承していただけたので、近くの庭園を訪れた。
「いえ、ね⋯⋯昔、親しかった少年を思い出しまして」
そして、オランダさんは深く考え込んだ後、再び口を開いた。
「あの金髪の子供か」
「おや、知っていたのですか?」
オランダさんが来た時は、蘭さんは別の部屋で遊ばせていたのに。
「まあの。俺が商売話持ち込む度に、子供が襖から覗いとったし」
私たちが花を見ながら少年の話をしていると、大阪さんが走って来た。
「お二人さーん、急に居なくならんといてくださいよ!」
なんと、会議は既に始まっており、居なくなった私たちを大阪さんが探しに来たようだった。
そうして。会議室に戻ろうと、大阪さんに手を引かれ、慌てて走っていた時だった。
屈んで花を見る、あの時と変わらず、翡翠のように綺麗な瞳の少年。
“彼”に似た、十五歳ほどの坊や。
「⋯⋯蘭さん?」
目を奪われ、立ち止まる。花を見るその目は、何百年も前に見たあの目と酷似していた。
間もなく、彼の友達であろう方々が、坊やを呼んだ。蘭、蘭、と。目が離せなかった。
「日本さん、早く早く!」
「おえ、はよしね。置いてくざ」
ふいに立ち止まった私を、大阪さんとオランダさんが呼んだ。すかさず返事をしたが、目は彼を捉えたままだ。
──ああ、坊や。今世は、長く生きてくださいな。
彼の幸せを願った呪いをかけるように。心の中で小さく唱えた。
愛しき我が子。私を見てくれた、たった一人の愛しき我が子。どうか、幸せに。
友達であろう方々と笑う坊やを横目に、私は大阪さんとオランダさんの背中を追った。
会議が終わったら、お団子でも買っていきましょうかね。
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