左耳の先だけ、ぺこんと垂れた耳。右耳はピンと立っている白い中型犬のオスの雑種。もともとは雪のように艷やかだったであろう白い毛は、糞尿と砂で薄汚く汚れていた。左目の下には薄く血が出ている。額には小さな切り傷があり、心には一生治らない傷ができていた。尻尾はほうきのようにふさふさとしていて、首には泥がこびりついた赤い首輪をつけているのを見ると捨てられたのだろうか。真っ黒なその瞳で座りながらこちらを見つめてくる彼にも、愛する人がきっといたのだろう。そして、ずっと待っていた。愛する人が、自分を迎えに来てくれることを信じて。
この話は、実際に保健所に収容され、殺処分された動物をモデルに書いた話です。殺処分日は、2008年5月30日だった。
僕は大きな野山で生まれた。お母さんとお兄ちゃん。そして僕らの従兄弟たちで暮らしていた。お母さんは白い柴犬の雑種。お父さんは僕が生まれる前に【人間】っていう悪いヤツに捕まって殺されちゃったんだって。お母さんは僕にユキって名前をくれたあと、こんなことを言ってくれた。「ユキ、サチ、【人間】っていうものは恐ろしい化物だよ。お父さんを殺したんだからね。お母さんのお母さんは、その【人間】が仕掛けたくくり罠っていうのに挟まって殺されたんだからね。あなた達も気をつけなさい。」サチっていうのは僕のお兄ちゃんの名前だ。「うん。わかったよ。僕、人間を信用しないから。」
僕とお兄ちゃんはしっかり頷いたよ。お兄ちゃんは僕にすっごく優しくしてくれた。遊んでくれるし、時々力加減して負けてくれる。それから、「ユキは強いなぁ。お兄ちゃん、負けちゃったよ」って笑ってくれる。その時は僕は本気で、「僕はお兄ちゃんより強いんだ!」って思った。お母さんはそれを楽しげに見守ってくれる。しかも、周りにも気をくばってくれるから、僕らは安心して遊ぶことができたんだよ。ありがとう。お母さん。こんな日々がずっと続くといいね。でも、僕が大きくなったら、お母さんを守るからね。
でも、僕が二歳を過ぎた頃、お母さんとお兄ちゃんが木の枝みたいにやせ細っちゃった。僕も一緒。すっごくお腹がすいた。
「ユキ」
ふいに、僕は呼ばれて振り返った。「なあに?お兄ちゃん。」僕より一回りほど大きいお兄ちゃんが僕を見下ろしていた。「俺、人里に行ってくる。畑で少しでも食べ物をとる。もしかしたら鹿とか鳥とか獲物が多いかもしれない。」え?お兄ちゃん、いなくなっちゃうの?
僕がそれを聞くと、「もうひもじくって耐えられない。だから行くんだ」ってそれだけ言って、どこかに行った。僕がお兄ちゃんを見たのは、それっきりだった。お母さんは、「大丈夫よ。ユキ。お兄ちゃんはね、今どこかで立派なオスとなってるよ。」と、なんだか寂しそうに言ってた。
翌日、僕はなんだかガヤガヤした様子と振動で目を冷ました。だんだんと冷えてきた空気が、僕の目を襲ってきた。なんだか、まるで、見るな!って言ってきてるようだった。
でも、僕はなんとか見た。そしたら僕は誰かに抱かれていた。「誰!なにするの!」僕は暴れた。周りを見渡してもお母さんはいなかった。
「お母さん!お母さん!僕、ここにいるよ!」
僕は叫んだ。力一杯叫んだ。でも、僕のその声が、お母さんに届くことはなかった。
「あれ?」気づけば僕は眠っていた。そして慌てて起きる。僕はケージの中にいた。そして近くには、黒い柴犬みたいな雑種がいた。
と、人間のおばあさんの声がした。僕が振り返ると、おばあちゃんがいた。そのおばあちゃんは僕の目をしっかりと見つめ、にっこりと笑った。「おはよう。はじめまして。」
僕はこの人が僕を連れ去ったって思う。優しそうだけど騙されないぞ。お母さんが、「人間は信用するな」って言ってたんだもん。お母さんの言いつけを守らないでいるなんて論外だ。
「あんた誰!どうして僕を連れ去ったの!」
僕は怒って吠え立てた。
「大丈夫だよ。ユキちゃん。ばあばは何も悪いことしないからね。」おばあちゃんが言った。え?ユキちゃん?ユキ?どうして僕の名前を知っているんだろう。「あんたはね、雪のようにきれいで白い毛を持ってるよ。だからユキ。ばあばのかわいい娘だよ。」おばあちゃんは僕に話しかけながらケージにお水とご飯を入れた。僕はすぐに平らげた。
すると、おばあちゃんは僕を抱き上げて、ケージから出そうとした。「何すんの!勝手に触んないでよ」暴れると、おばあちゃんは、「大丈夫大丈夫。」ってささやいてきた。一回、深呼吸をするとなんだかおばあちゃんの腕の中がだんだんあったかく、気持ちいいものになってきた気がする。
「この人‥だけ」
僕は、このひとだけなら、信頼してもいいと思ったのだ。これだけは、特別。そう思った。







