【目次】
プロローグ
一章 消失
二章 傾慕
三章 因縁
四章 混迷
五章 斃死
六章 死と覚醒
七章 狂う覚悟
八章 追憶
九章 覆面の男
十章 継承
十一章 孤独の道
エピローグ
八月、その日は、とてつもない猛暑に見舞われていた。
客の少ない、小さなホテルの外には、捜査四課の刑事たちが群がっていた。
「中の報告はまだか」
「まだ、一つの情報も」
係長が、気弱な部下に確認した。
係長が、苛立ちを隠せずに貧乏揺すりを繰り返していると、ホテル内部から怒声が聞こえてきた。
「どけ!」
小柄な男が、ホテルの出口から飛び出してくる。
待機していた刑事たちが取り捕まえようとするも、男はくぐり抜けて逃走を図った。
「おい、逃げたぞ!」
あちこちで刑事たちが、焦りの声を挙げている。
しかし、男を追っていた係長は、余裕の笑みを浮かべていた。
「安心しろ、あいつは確実に仕留められる」
部下は納得出来ないまま、男を追い続けていた。
男が裏路地へ逃げ込むと、前に、一人の刑事が立ち塞がった。
「そこまでだ、観念しな」
無視し、そのままくぐり抜けようとする男を、刑事が取り押さえた。
「離せ!俺はヒットマンなんかやってねえよ!」
「そうかそうか、話はじっくり署で聞いてやるよ」
手馴れた手つきで、刑事が男に手錠を嵌めた。
男が、鋭い目つきで刑事を睨む。
「てめえ……、まさか、狂犬の──」
「随分と古いあだ名で呼ぶんだな。早く立て」
男は、他の刑事たちに連行されていった。
「助かりました、犬山さん」
「おう」
巡査部長、犬山 健次。かつて狂犬と呼ばれた男だ。
犬山は、ポケットから出した煙草を咥え、手馴れた手つきで火をつけた。
二年前 犬山、巡査部長へ昇格
一年前 県警本部 捜査四課に赴任
九月の空を見つめながら、犬山は一本の煙草を吸い切った。
巡査部長 犬山 健次は、かつて狂犬と呼ばれた刑事だった。
しかし、この二年の月日で、彼は大きな変貌を遂げた。誰よりも熱心に事件解決へ挑み、数多くの手柄を挙げ、その功績が県警本部からも称えられた。
それだけではない。
部下には優しく振る舞い、上司には相応の態度で接する───文句一つない、完璧な刑事に成り上がっていた。
犬山は、灰皿で煙草の火を揉み消すと、署内へと戻った。
机に座り、事件の書類に目を通す。
竜崎組の若衆が銃撃され、傷害を負った事件だ。
捜査四課は、反社会組織を取り締まる課であり、基本的には極道の相手をする。
今回の事件は、関東の二大暴力団、松原会と竜崎組との間で起こった事件で、抗争にもなりかねない、重大なものであった。
竜崎組は、松原会に仕返しを企んでいたところ、警察が説得。ヒットマンを必ず捕らえることを約束に、抗争にはしないと誓った。
そして先月、ヒットマンの疑いをかけられた、松原会の若衆、西条 重信を逮捕。
松原会は冤罪を訴えたが、事は丸く収まったのだった。
しばらくすると、部下の村上 大雅が、取り調べ室から戻ってきた。
「西条は、何か吐いたか」
机に座ったまま、犬山が尋ねた。
「いえ。全部、知らない、知らない、ですよ。挙句の果てに、警察に因縁につけたりなんかしだして」
「極道の人間は、無駄に口が固いから面倒だな」
係長であり、犬山の上司の黒島 武広が、溜息をつきながら呟いた。
「まあ、証拠は余ってるんですし、直に折れて認めるでしょう」
全員が犬山の言葉に納得し、再度仕事に取り掛かった。
「犬山さん、ちょっといいですか」
村上が、犬山の肩を叩いた。
「どうした」
「今日の晩、ちょっと話したいことがあって」
呑みの誘いだろう。
晩は特に予定もない。部下の誘いにはきちんと応じるのが、上司としての勤めだ。
犬山は承諾し、書類整理を続けた。
晩、犬山は待ち合わせ先の居酒屋へ向かう為、愛車に乗り込んだ。
犬山の愛車は、トヨタ・セルシオ。購入して一年になる。
今までは単車のYB-1を愛用してきたが、不便を感じ、乗り換えた。
待ち合わせの居酒屋は、かつて水井と行きつけていた、『幸福亭』。
最近でも、一人で行くことは少なくない。
到着すると、入り口前で、手を振る村上の姿が伺えた。残業で遅れたことを詫びつつ、犬山たちは中へ入店した。
お馴染みのカウンター席に、二人で座る。
「いらっしゃい」
店長の鈴木がカウンターの向こうから顔を出した。
犬山とは顔見知りである。
一人で呑む時は、よく話し相手になってもらっていた。
「今日は部下の村上と二人です。お気使いなさらず」
「お、それじゃこっちは、とびきり旨いもん作っといてやるよ」
感謝の言葉を述べ、二人で注文する品を決める。
そういや───と、向こうで料理を取り掛かろうとした鈴木が付け加えた。
「うちに若い女の子のアルバイトが入ったんだ。手が空いたら話させるよ」
彼女を持たない自分を気遣ったのか、鈴木が笑顔で接した。
仕事柄がこうである以上、恋愛の出会いというものはなかなかない。
犬山自身は、特に不満も感じていなかったが、年齢を気にするとそろそろ本格的に考え始めなければいけない頃合だった。
鈴木の言葉に甘えると同時に、生ビールを二つ注文した。今日くらいは、代行でも構わない。
「それで、話って?」
犬山から口火を切る。
村上は重い表情を浮かべた。
「決して媚びるわけではないんですが、実は、母親がステージ4の肺がんであることが発覚したんです。手術を急ぐべきなんですけど、そんなお金、うちにはなくて…」
どう対応していいのか分からず、静かに相槌を打つ。
葛藤するような素振りを見せ、村上は話を続けた。
「──僕、闇金に手を出そうと思うんです」
予想外の案に、犬山は硬直した。
闇金がどんなものか、犬山は身に染みて知っている。
だが、だからといって、村上を阻止する口は、犬山にはなかった。
父親と母親、そして水井を亡くしている犬山にとって、親を喪う苦痛もよく知っている。
助けられる可能性があるなら、どんな手段でも使うはずだ。
アドバイスを求める村上に対して、犬山は一言も発することが出来なかった。
「悪い…。こんなので」
犬山は、静かに村上に詫びた。
「いや、犬山さんが悩むようなことでは決して──でもまあ、こんな職についている以上、それもどうかと思ったんです。警察が闇金なんて、汚職と変わりないことですから」
犬山は、ますます心が締め付けられた。
村上も、一言犬山に詫びてから、再度ハイボールを注文した。
しばらくすると、鈴木ではなく、若い女性店員がカウンターまで運んできた。
犬山が店員の方を見る。
誰が見ても美人と思えるような容姿だった。年齢は大学生くらいだろう。
一瞬で、鈴木の言っていた新人アルバイトの子だと分かった。
「すみません、わざわざ」
犬山が丁寧に会釈をする。
「いえ、前々から店長に話は聞かされてまして。常連が、警察の方だと言うから気になってたんです」
容姿だけでなく、振る舞いからも愛想が滲み出ていた。
おそらく、鈴木から話をするように言われて来たんだろう。
アルバイトの子は、中々帰る素振りを見せなかった。
「お名前は?」
「井上 知香と言います。今年大学を卒業しまして、今は就活中です」
大学生くらいだと思っていたが、どうやら社会人一年目のようだ。
しばらく他愛のない会話をしていると、村上が気分を悪そうに便所へ駆け込んで行った。
犬山も切り上げの頃合だと思い、代行を頼んでから料金を支払った。
店の外に出てから、一服する。
後から村上も、犬山を追って店から出てきた。
「すみません、気分が悪くて」
村上が以前から酒に弱いことは知っている。
状況を察して、犬山の羽織っていたコートを差し出した。
代行の者と見られる者が、駐車場へ入ってくる。
犬山は、村上に別れを告げ、自身の車へと乗った。
さすがの犬山も、かなり酔いは回ってきていた。
だが、どうも村上の話が頭から離れない。
一人前の上司であれば、いや──水井であれば、まともなことを言えたんじゃないのか。
自分は、水井のような刑事になれているのか、そう疑問に感じた。
あのクリスマス・イブの日。
犬山が、今まで以上に、自分の存在で悩むようになったのは、その日が境だった。
──お前にしか、マーリスは倒せない。
犬山は、水井との約束を守るべくして、これまで生きてきた。
堅実で、完璧な刑事であった水井を尊敬して、この道を選んだ。
だが、その尊敬していた水井は死んだ。
あの日会った男の言葉が事実ならば、本来の自分はマーリスだって倒せただろう。
いずれ、水井と同じ運命を辿るかもしれない今の生き方より、マーリスを追う道の方が正しかったのではないか──そんな風に考えていた。
いつまでたっても答えの出ない疑問を抱えながら、気づけば犬山は眠りについていた。
取り調べ室内からは、尋常ではない殺気で溢れていた。
「西条よ、このまま否認し続けても意味は無いんだぞ。自分がやってる事の意味、分かってんのか」
西条は、表情で怒りを露わにし、犬山を睨みつけていた。
「警察だからといって、極道を本気にさせりゃ、痛い目見ることになるぞ」
フン──と犬山が鼻で笑った。
「そりゃ、警察にも言えることだ。本気にさせないうちに、事実を認めな」
犬山が言い終わるや否や、西条が机を叩きつけた。
「知らんものは知らん!証拠まででっち上げる悪徳組織が。覚悟しとけ!」
怒り狂う西条を、同僚の飯田 昌彦が鎮静化させた。一度取り調べを切り上げ、犬山は自席へと戻った。
「こっちまで聞こえてきましたよ。西条の戯言」
珈琲を片手に村上が言い寄った。
「証拠があるのは分かってるんですけど、あそこまで頑なに認めなかったら、信じてしまいそうになるんですよね」
「普通の人間には理解できないのが極道だ。普段からシャブ喰ってるような人間と同等に話し合うなんて、無理があるだろ」
村上が納得しながら、どうぞ──と犬山の分の珈琲を差し出した。
──ブーン
犬山の携帯に、着信が入る。
着信相手は、『幸福亭』の鈴木だった。
「はい、もしもし」
『仕事中に済まないね。店の準備してたら、昨日あんたが座ってた席に、煙草一箱丸々落ちててね。待ってるから、いつでも取りに来な』
犬山が自身のポケットを探ると、確かに買ったばかりの煙草が無かった。
昨日は酔いが回って気づかなかったのだろう。
「分かりました。昨日と同じくらいの時間に取りに行きます」
礼を言って、電話を切ろうと差し掛かった時、鈴木の声が続いた。
『知香ちゃん、どうやらあんたのことを気に入ったらしいぞ。今日も待ってる』
知香──昨日のバイトの子だと、ワンテンポ遅れて気がついた。
異性を意識する間も滅多にない犬山にとって、気に入ってもらえたのは正直に嬉しかった。
分かりました──と告げ、電話を切る。
犬山は、その日の仕事をさっさと切り上げ、『幸福亭』に向かうことを決心した。
夕方から夜へと差し掛かった頃、犬山は仕事を終えて愛車に乗った。
居酒屋へ行くとはいえ、忘れ物を取りに行くだけだ。大して呑みに行く訳では無い。
家へ帰るついでにと思い、特に急ぐことなく向かった。
──証拠をでっち上げる悪徳組織が!覚悟しとけ!不意に、西条の言葉が頭に浮かぶ。
──悪徳組織
同時に、マーリスのことが脳裏を過った。
今頃、マーリスは何をしているのか。
平気で一人、刑事を殺しておきながら、何一つ名を知られることなく、今も悪事を続けているのだ。
怒りが込み上げてくると同時に、それは自分のせいでもあると、複雑の気持ちになった。
気がつくと、『幸福亭』に到着しており、犬山は駆け足で店内に入った。
鈴木さん──と、自分が来たことを知らせようと呼ぶと、店の奥から、バイトの知香が顔を出した。
「すみません、今店長忙しくて…。これ、言っていた煙草です」
どうも──と素直に煙草を受け取る。
相変わらず、知香は謙虚な素振りを見せた。
──あんたのこと、気に入ったらしいぞ。
さすがの犬山も、昨夜とは、全く違う目で見てしまう。
気に入られたと言っていたが、まだ恋愛に発展したわけではない。とはいえ、意識して彼女を見ると、改めて美人だとも思わされた。
「じゃあ、今日は帰ります」
いきなり気まずさが芽生え、知香に別れを告げた。
またお越しください──知香の声を聞きながら店に背を向けた途端、店の入口が勢いよく開いた。
いらっしゃいませ──と言いかけた知香の言葉が詰まる。
柄の悪い巨漢たちがぞろぞろと店に押しかける。
只者ではないと察したのだろう。
「松原会のモンだ。狂犬の刑事はあんたか」
松原会──犬山も背筋が凍った。
このままでは、店に、目の前にいる知香にまで被害が出る。
「話なら外にしてくれ。俺はたまたまここに寄っただけだ」
「刑事というやり手を逃がすわけにはいかないんだ。このまま話させてもらう」
しばらく話しているうちに、男の正体が頭に浮かんだ。
松原会若頭、斎藤 吾郎。県警にもマークされており、暴力団系重要人物として、取り上げられていた。
喉にまで入れ墨を覗かせており、威圧感を増している。犬山も、脚が怯んだ。
「県警本部を張り込んでたら、偶然あんたを見かけてな」
「それでつけて来たのか」
「こっちも理不尽に、仲間捕まえられては困るだろう。竜崎組との抗争には、人手が必要なんだ」
「だから警察に抗争の手助けをしろだと?理不尽はどっちだよ」
若衆の者からヤジが飛ぶ。
斎藤は、思い切り犬山の襟首を掴んだ。
今は拳銃も何も手にしていない。このままでは殺られて終いだ。
打開策は、思いつかなかった。
「あんたら犬なら、そう言うとも思ってたんでな。こうなりゃ徹底的に、警察と戦うだけだ」
若衆の一人が、ドスを取り出す。
いよいよ身の危険を感じさせられた。
逃げることも、応戦することもできない。
「よせ…」
非力な声で訴える。だが、斎藤にはそんな声も届かなかった。
「竜崎とともに葬ってやる」
斎藤が、犬山の胸にドスを突き立てる。
その時だった。パトカーのサイレンが鳴り響く。
斎藤が店外を見渡した。
──チャンスは今しかない。
犬山は、斎藤の腕を引っ張って投げ倒し、ドスを奪い取った。
ドスを人気のない所へと投げ捨てる。
「てめえ!」
若衆によって犬山も取り押さえられた。
だが、警察はすぐそこまで来ている。
斎藤は、犬山に唾を吐き捨ててから撤収を命じた。
「犬山さん!」
目の前で見ていた知香が、心配の声を掛けた。精神的にも肉体的にも疲労しきり、地面に横たわる。
「すみません、店にまで迷惑かけちゃって…」
周囲を見渡すと、店内に居た客まで勢揃いしていた。
少しの間も経たないうちに、警察が店内へと入り込んで来る。
「犬山!」
黒島がいち早く犬山の元へ駆け寄った。
「怪我は無いのか」
「ええ…。事件の詳細は俺から話せます。あぁそれと、あちらの方に凶器が。すぐさま回収をお願いします」
分かった──と返事をし、黒島は外にいる刑事課の捜査員に事情を報告しに行った。
他の警官らが犬山を取り巻き、事情確認を行った。
一時間ほど経過し、ようやく現場検証を終え、犬山も休憩をとることが出来た。
すっかり閉店した店内には、人の気配が消え、静寂に包まれていた。
犬山さん──と知香が透き通った声を掛けた。
「体調が良ければ休んでいってください。お代は頂戴しませんので…」
「ああ…、助かります」
犬山は言葉に甘えて、店で休んでいくことにした。
事件を終えても、手や脚の震えが止まらない。
必死の思いで、カウンター席へと座った。
──次はいつ、襲撃を掛けてくるだろうか
そう考えると、気が気でなかった。
「その様子じゃ、落ち着かないようだね」
鈴木が顔を出した。鈴木自身も、あの現場を目の当たりにし、事情確認をさせられたはずなのに、犬山の前では笑顔を絶やさなかった。
「すみません、ご迷惑をお掛けしました」
「いやいや。通報した時は間に合うかヒヤヒヤしたが、なんとか事が収まって良かった」
通報したのは鈴木だったのか──命の恩人に感謝し、再びカウンター席に向き合った。
「俺は飯でも作ってくるから、知香が相手してやってくれ」
気がつかなかったが、鈴木の横には知香の小さな体が並んでいた。犬山は断る気力もなく、知香が進んで犬山の横に座った。
「普段も、あんな人たちと戦ってるんですか」
知香が積極的に質問を問いかける。
「まあ。でも、あんな事態は珍しいものです。極道とはいえ、奴らのことは一通り把握していたはずなのに、実際に目の前にすると……」
これ以上は声に出せなかった。
「──狂犬って」
知香の言葉に、犬山が反応する。
手の震えが、一時的に止まるのが分かった。
「狂犬って、どう言う意味ですか」
犬山が黙り込む。
どう返したらいいのか──今ある最大限の力で脳を動かしても、言葉が出ない。
「す、すみません。失礼なことを」
「──いえ」
ようやく、口から声に出た。変に力を入れていたからか、想像以上に声が出てしまい、知香は犬山の方を驚いた目で見つめた。
「狂犬──前は、警察でもヤンチャやってたんですよ。この様子じゃ、想像も出来ないですよね」
知香に過去を知られるのが怖かったんじゃない。
──狂犬なら、あんな風にはならなかった。
自分という存在の変貌が、恐ろしく感じさせられる。
肩がぶるぶると震えた。
自分は、ただ水井のような刑事を目指しただけなのに──なぜこんなにも臆病で、弱々しい人間なんかに
「私は、凄く安心しましたよ」
予想外の言葉に、犬山はハッとした。
「だって私じゃ、どうにかしようなんて思えませんから…。強い人が居ると、やっぱり心強いです」
言い終えてから、知香は気恥しそうに顔を隠した。
しばらく、知香が考え込む。
犬山も言葉が詰まった。
「まるで───大型犬みたいです」
──大型犬
前の自分が狂犬なら、今の自分は大型犬、か。
他人にそう思ってもらえるのは、確かに嬉しかった。だが、自分では納得がいかない。
犬山は、ほうじ茶をひと口呑んだ。
今の自分は───小犬以下だ。大型犬にはなれない。
自分の中で答えは出た。
だが、知香の前で口に出すことは出来なかった。
「大型犬になれるよう、頑張ります」
知香は首を傾げた。
なれないのは、犬山にも分かっている。だが、それでも目指さなければ、これまでの自分は無かったことになる。
それに──知香の為だった。
やはりか──と、犬山はため息を吐いた。
紛れもなく、これは恋心であった。
マル暴である犬山が、指定暴力団松原会の幹部に接触を図られた事件は、警察組織内部でも重大視され、県警本部にて緊急会議が開かれた。
「現役刑事が殺害される可能性があった凶悪事件として、松原会幹部を指名手配とする」
警視の近本が捜査員に言い放つ。
警察組織は、本気で松原会を潰しにかかるつもりだ。
現役刑事に襲いかかるということは、警察を侮辱するのと同等の行為である。組織としても、見逃すことは出来ない事案なのだろう。
最後に一通りの会議の内容を警視がまとめ、会議は解散となった。
犬山は俯いたまま、日に照らされる通路を歩いた。
──証拠をでっち上げる悪徳組織が!
なぜ、斎藤は自分という現役刑事に襲撃を掛けたのか。
冷静に考えれば、極道にとっても自滅行為であるにちがいない。
そうとなれば、松原会は警察組織に相当な恨みを抱いていたという可能性しか残らなくなる。
──とするならば、西条の容疑は全て虚偽であり、本当に証拠がでっち上げられていたのか。
考えられるのは二つ。
一つは、竜崎組が初めから警察組織を騙しており、松原会を陥れる為の罠に過ぎなかったという可能性。
そしてもう一つは──竜崎組と警察組織との間に、陰謀があったという可能性。
どちらも当てはまる話であり、信じ難い話だ。
いくら関東の二大組織であるとはいえ、竜崎組が警察組織を騙し込めるとは思えない。それに竜崎組が松原会を陥れようと企んでいたとしても、貴重な組の若衆を、自ら傷つけるとは考えられなかった。
──考えすぎか。
犬山は重いため息をついた。
まだまだ証拠も不十分だ。答えも出るはずがない。
「よう犬山。具合はどうだ」
振り返ると、黒島の姿があった。
「ああ、もう平気です」
「本当か?さっきまであれほど元気がなかったのに」
黒島は勘が鋭い。監察力と言うべきだろうか。
ふとしたことも、全てお見通しだった。
「黒島さんは、なぜ松原会の連中が、警察を標的にしたと思いますか」
黒島も薄々不思議に思っていたのだろう。
しばらく考える素振りを見せた。
「陰謀だとかどうとかは口出しできないがな…。だが、仲間をやられたら徹底的に対応するってのは、極道の仁義そのものだ。その仁義には、何一つ嘘がない」
黒島も考えは同じだった。
やはり、松原会が一方的に始めたこととは言えなさそうだ。
犬山は、気晴らしに喫煙所へ向かった。
煙草と一緒に携帯を取り出す。
マナーモードにしていた分の通知に、一通り目を通した。
『大したことはできないけど、また連中絡みで問題があったら、なんでも協力します』
メッセージの主は知香だった。
──なぜ知香が
初めは驚きを隠せなかったが、すぐに、昨晩連絡先を交換していたことに気がついた。
「協力、か」
犬山は、微笑みを隠せなかった。
こんな危険事を真似させるわけにはいかない。だが、愛苦しい知香の想いに、日頃の疲れも忘れさせられた。
──もう二度と、知香は危険に曝さない。
翌日、犬山を含む黒島班、計六人で、松原会本部事務所を張り込んだ。
二台の覆面車両から様子を伺う。
張り込みを開始してから既に五時間が経過していた。
「これじゃ、斎藤たちは既に身を潜めている可能性がありますね」
疲れの溜まった村上が本音を洩らした。
──その可能性は有り得ない
犬山は確信していた。
斎藤に仁義があるならば、警察と対峙するのは本望のはずだ。身を潜めるならば、一矢報いてからにちがいない。
「すみません、僕お手洗いに」
そう言い、村上が車のドアを開けた。
「待て!」
黒島が急いで村上を制止する。三人とも、事務所の出入口に目をやった。
──斎藤だ。
若衆を連れている。
どこへ行くのか、駐車している車に向かった。
「俺たちも行くぞ」
黒島が二人に命じた。
斎藤の動きを見計らっていると、車に乗り込もうとしていた斎藤の動きがぴたりと止まった。犬山も体が硬直する。
──知香だ
「俺たちに何か用かね。お嬢ちゃん」
斎藤が知香の傍へ接近する。
知香は戸惑い、逃げようとする素振りを見せた。
「私は…違います」
「おお?あんた、居酒屋にいた姉ちゃんじゃないの。用が無いとは言わせないぞ」
サツの回し者か──と若衆の一人が怒鳴った。
知香が危険を察知し、後ろを向いて走り出す。
斎藤が力強い手で知香の腕を掴んだ。
「変な真似をすれば、痛い目を見るってこと、教えてやろうか」
「やめて!」
知香は一心不乱に振り払おうと暴れた。
──プーッ
車のクラクションが莫大な音で鳴り響いた。
「乗れ!」
犬山の捜査車両だ。
犬山は拳銃を斎藤に向けた。
動揺した斎藤の隙をつき、知香が斎藤を振り払う。
急いで知香が車両に乗り込み、発進させた。
組員の怒声を後ろに車はその場を離れていった。
斎藤らが急いで車両に乗り込もうと駐車場へ向かう。
「斎藤!観念しやがれ!」
黒島らが齋藤の元へ走り寄った。
斎藤が怒りに痰を吐き捨てる。
「若頭、今は不利です。俺たちが時間を稼ぐ間に逃亡を」
「砂橋……。すまん」
斎藤が若衆に詫び、車へ乗り込んだ。
若衆らが拳銃を捜査員に向けた。
捜査員が困惑している間に斎藤が逃亡したことを確認すると、若衆は拳銃を下ろし、手を挙げた。
「畜生───ワッパ掛けろ」
黒島が命じ、若衆らは確保された。
犬山の乗っていた捜査車両は、松原会事務所から一キロほど離れた場所に駐車されていた。
人気も少なく、街灯の一つもない真っ暗な場所だ。
無言の空気が、車内に流れ渡る。
「何であの場に居たんだ!」
犬山が知香を怒鳴りつけ、沈黙に終止符が打たれた。
「ごめんなさい」
ハキハキとした口調で、素直に知香が詫びた。
「あいつらが、また動き始めたら、犬山さんが襲われると思って──」
「自分の命だって、喪っていたかもしれないんだぞ」
知香が相槌を打つように俯いた。
「私は──」震えた声で恐る恐る口を開く。
「──私は、犬山さんに死んで欲しくなかったから!」
犬山の言葉が詰まる。
そうだ。知香にあんな行為をさせたのも、全部自分のせいだった。
知香は、自分を何よりも想ってくれていただけだ。自分のことはお構い無しにしてしまう程に。
咄嗟に、犬山が知香を抱きしめた。
「ごめん」
知香も涙を流していた。
「何で──私のせいなのに」
「いいや」
抱きしめていた知香の体を離す。
でも──と犬山が付け加えた。
「俺は、死なない」
知香が静かに肯く。
「必ずこの手で、斎藤に手錠を掛ける」
知香を家に送り届けた頃、犬山の携帯が鳴った。
黒島だ。
「はい、もしもし」
『もしもしって、お前今どこにいるんだよ』
「すみません。例の子を保護しようと、安全に家まで送り届けてまして」
『にしては随分と──まあいいや。斎藤の側近だった砂橋と清原を確保した。お前も早めに戻って来てくれ』
黒島はあえて斎藤の名を口に出さなかった。
「斎藤は──」
一瞬の沈黙に、上手くいかなかったことを察せられた。
『取り逃した。おかげで二人を確保出来たんだがな…。すまん』
「黒島さん達のせいじゃないです。また機会を狙いましょう」
そうだな──と黒島も納得し、電話は切れた。
ひとまず黒島に従い、犬山は署へと向かった。
頭の中は、斎藤に引き続き知香のことで一杯だった。
初めて、女性をこの手で抱きしめた。
──知香は、俺の為に
自分の立場上、知香に接近するということは、彼女自身にも危険をもたらすことを意味する。知香がもう二度と下手な真似をしない確証もない。
けれど──
犬山にとって、とてつもない葛藤だった。
──知香に会いたいそれが犬山の本心だ。
二十分程で、署に到着した。
逮捕された砂橋と清原は、すぐさま取調室へと連れて行かれ、事情聴取を開始させられていた。
「犬山さん」
村上が署内に入った犬山に言い寄った。
張り込みの疲労からか、目下にはくっきりと隈が出来ていた。
「大丈夫か村上。相当疲れてるそうだが」
「まあ…。一旦、砂橋達が留置所に送られたら帰って休みますよ」
「そうだな」
話を終え、犬山が取調室へと向かう。
あと──と、慌てて村上が犬山を呼び止めた。
「また、例の相談に乗ってもらえませんか」
犬山は動揺した。自分にまともな答えを出せるわけが無い。
それなら、初めから断っておいた方が良案だ。
「すまない、俺には──」
「そこをなんとか…。犬山さんにしか出来ないんです」
どうやら村上は引く気がないようだった。犬山は渋々承諾し、再度取調室に向かった。
犬山の入った取調室には、眉間に皺を寄せた砂橋が堂々と机に座っていた。
「犬山さん、来てくれましたか」
救世主を見るような輝かしい目で、飯田が近寄った。
取り調べは、飯田と若山の二人で行っていたようだった。
「何か吐いたか」
「いえ、西条と同じです」
やはり松原会から想像通りのことを吐かせるのは困難らしい。とはいえ、立場上、陰謀であることを断定するのも難しかった。
「二人は休憩してろ。俺が相手をしておく」
「いいんですか?」
驚く二人に目で微笑み、二人を退室させた。
犬山が羽織っていたスーツの上着を、椅子へと掛けて座る。
「こっちも刑事は刑事だ。証拠も出てるのに吐いてもらわなきゃ、困るだろ」
「フン、証拠証拠言ったって、警察が仕組んだなら証拠も事実と限らんだろう」
「警察が仕組んで、何の得があるっていうんだ」
砂橋は視線を逸らし、面倒くさがるように椅子へもたれかかった。
同じやりとりには飽きたと、態度で示している。
しばらく沈黙が流れ、不貞腐れるように砂橋が口を開いた。
「あんた、本当は茶番なんかしてる場合じゃないんじゃないのかい」
「どういう意味だ」
「もう既に、あんたの周りは敵だらけだ。ワシらだけじゃない」
敵──考えても、犬山には思いつかなかった。
今自分が相手をしているのは松原会だけのはずだ。
「二年前、通り魔事件の犯人に殺された刑事が居ただろ」
水井のことだ。犬山は無意識に固まった。
犬山のことはお構い無しに、砂橋が続ける。
「そいつが殺されたのは、知ってはいけない事実を知ってしまったからだ」
「それがどうした。そのことについて、何か知ってるっていうのか」
「いいや。だが、その刑事と組んでいたのはあんたなんだろ?真の犯人たちにとっては、念の為あんたを狙うはずだ。二年間何も起こらなかったからって、あんたの身が守られた保証は無い」
まるで、マーリスのことを知っているような口振りだった。
犯人の正体は知っていなくても、竜崎組の関連で情報を持っているのか。
砂橋が体を起こし、犬山に顔を近づける。
「いつか命とられんよう、覚悟しとけ」
──覚悟。
『幸福亭』に向かうべく、運転しながらも、この言葉が頭から離れなかった。
西条も砂橋も、この言葉を口ずさんでいた。
よりによって自分が、何の為に殺されるというのか。
松原会斎藤の標的は、何も犬山に絞る必要は無い。砂橋のいうマーリスは、そもそも存在自体が明確になっていない。自分の敵は何なのか。
──俺は、死なない。
あの日、犬山は知香に誓った。どの道、自分が死ぬわけにはいかないのだ。
『幸福亭』には、村上が先着していた。
村上の疲労は、以前よりも増しているように見えた。
「悪い、待たせた」
村上は、犬山よりも先に、カウンター席でビールを呷っていた。
犬山も、急いで村上の隣の席に座る。
「僕、闇金に手を出しましたよ」
早々に驚き、犬山は村上を見た。
「でも、かなり酷い条件を出されていて。その条件を呑めば、確かに母親は助かるんです」
「その条件って?」
村上は黙り込んだ。どうやら他言出来ない内容らしい。
「条件を呑めば、少なからず僕は刑事で居られなくなります」
刑事居られなくなる条件──村上の人生に大きく支障がきたすことは間違いない。
「僕はそれでも、どうしても母さんを助けたいんです。他のことなんてどうでもいいんです。それに、間違いなんてあるんですか!」
相当酔いが回っているのか、村上は口調を荒らげた。
たとえ村上自身の人生が狂っても、後先はどうにかなるかもしれない。だが、母親は末期がんだ。ここで手術をしなければ、確実に死に至る。
今日こそは、村上に答えを出させるべきだ。
「何もかも捨てる覚悟が出来ているなら、条件は呑めばいい。今母親を助けるには、それしかないだろ」
村上は、輝かしい目で犬山を見つめた。
しかし、すぐさま俯いた。
「ありがとうございます」
村上が小声で呟く。
答えが出たとはいえ、全てにおいて良案かと言えばそうではないのも、また事実だ。
カウンター越しに出されたつまみと酒で腹を満たす。
今日はノンアルだ。
存分に腹を満たした頃、犬山は煙草の箱を取り出した。
「一服してくる」
村上に告げてから立ち上がると、後ろで村上の立ち上がる音が耳に入った。
「お供します」
村上は吸っていなかったはずだが、あまり深くは考えなかった。雑談で暇つぶしでもするつもりだろう。
店の通路からは、厨房で働く、知香の姿が見えた。
ふと、斎藤のことが頭をよぎる。
あれからまだ逮捕を出来ていない。
また知香を心配させれば、変に行動をさせるにちがいない。そんな不安が、常日頃から拭えなかった。
店の外にある喫煙所で、煙草の箱から一本取り出す。
ライターを片手に持ち、煙草を口に咥えた。
ふと気になり、火をつけないまま、村上の方に視線をやった。
「どうしたんだ村上。来たなら来たで、一本くらい吸えばどうなんだ」
いや──と村上は愛想笑いで返した。
何か、微笑ましげな顔をしている。覚悟を決められたのが、それほどまでに嬉しかったのか。
「本当に、ありがとうございました。犬山さんのおかげで」
相変わらず、村上は煙草を吸う気配はなかった。
お構い無しに、犬山は煙草に火をつけた。
煙を、吸って、吐き出す。
──覚悟
その二文字の言葉が咄嗟に脳をよぎり、手が止まった。
変に静寂に包まれる空間に、違和感を覚えた。
「村上」
変に名前を呼び、村上の方を向いた。
変に感じていた違和感の正体がようやく理解できた。
カタカタと音を立てながら、村上は犬山の方を向いていた。そして手には、ガッシリと拳銃が握られていた。
「──お前」
声も出ないまま、煙草が口から落下する。時の流れが限りなく遅く感じさせられた。
──パァン
銃声が響き渡り、胸元あたりを火傷したような感覚に陥る。
意識する間もなく、全力を振り絞って村上の方へと手を差し伸べた。
阻止しようと思うも虚しく、村上は続いてトリガーを引いた。
銃声が二発。両方とも腹部を撃ち抜かれたのだと悟った。
体勢を崩し、気がつけば地面に倒れかかっていた。
脳がぼんやりとして機能しない。
たちまち瞼が下りてきて、そのまま意識が飛んだ。
血を流して倒れる犬山を前に、村上は呆然と立ち尽くしていた。
物凄い銃声を聞きつけて、店内や通りから人が騒いでいる。
村上は、震えた手から拳銃を落とし、その場を立ち去った。
「犬山さん!」
騒ぎを聞きつけ、店から出た知香がその惨状を目にするや否や、すぐさま倒れて動かない犬山の傍へ走り寄った。
「誰か、早く救急車!」
涙を流しながら群衆へと訴える。
無惨な犬山を姿を前にして、知香は咽び泣いた。
──ヤクザの男がやったのか。一緒にいた後輩はどこへ行ったのか。犬山の傍には、凶器と見られる拳銃が落ちていた。様々な最悪のケースが、脳裏をよぎって仕方なかった。
「約束、したのに」
救急車と捜査車両は、ほぼ同時に到着した。
事件の瞬間の目撃者が居なかった為、現場にいた知香に事情聴取が掛けられた。
犬山も、意識がないまま救急車へと乗せられ、最寄りの病院へと運ばれていった。
「中でゆっくり、話を聞かせてもらえるか」
黒島が知香を誘導する。
松原会の連中が押しかけた際にも見かけていた為、お互い顔見知りとなっていた。
知香と黒島は、店内のテーブル席に腰掛けた。
犬山の安否──二人とも、気が気ではなかった。
事情聴取が出来るほど、まだ心に余裕はない。
黒島は、平然を装いつつ、優しげに話しかけた。
「犬山巡査部長の近くに、犯人と見られるような男は居たか?」
出来る限りで脳を働かせても、知香には見当もつかない。
「いえ」
「それなら、被害にあう前、犬山巡査部長は何をしていたか、知ってるか」
今度は、考えずとも答えが出てきた。
「うちの店で、お酒を呑んでました。後輩の方と、一緒に」
「後輩?」
かかさず黒島が質問をする。
──後輩の人
黒島の問いかけに、知香もハッとした。
「そうです!もう一人、刑事の人が一緒に居ました!」
捜査関係者であるはずの人間が、事件直後に居ないはずがない。少なくとも、被害者を放置したまま、現場を立ち去るような真似は絶対にしないはずだ。
「その後輩の名前は?」
──村上
カウンター越しに聞く、二人の会話から、そんな名前が出ていたことに気がついた。
「村上、と言っていました」
「村上が?」
黒島の体が硬直する。
「村上さんは、今どこに?」
ああ、いや──と、知香の言葉には反応できないほどに動揺が抑えられていない。
ようやく、黒島の中で事の整理がつき、知香の方を向いて話し始めた。
「村上は、現在連絡が取れていなくて…。場所が分からないんです」
黒島の言葉に、知香も、今回の事件の犯人が村上であることを確信した。
衝撃に衝撃が走り、居てもたってもいられなくなったのは、黒島もだった。
「すみません、ちょっと席を外します」
知香にそう告げ、黒島は店の出口へと走っていった。
出口には、二人の男性警察官と、飯田が見張りを行っている。
黒島は、慌てて飯田の名を呼んだ。
「何か、ありましたか」
「村上の居場所を突き止めろ、今すぐにだ」
黒島の必死の形相から、飯田も事件の概要を何となくで悟った。
飯田が、黒島の指示に従い、本部へと連絡を入れる。
誰もが予想外の犯人に、捜査四課には衝撃が走っていた。
──ブーン、ブーン
聞き覚えのある音が、段々、はっきりと聞こえてくる。
少しずつ脳が働きだし、携帯のバイブ音であると認識できた。
寝起きの悪い朝のように、目覚めることが勿体なく思うほどの心地よい眠気と葛藤しながら、瞼を開けた。
「起きたか、犬山」
脳がはっきりと目覚め、見知らぬ部屋の様子に戸惑う。
声の主は、黒島だった。ベッドの横の椅子に腰掛けている。
気づいた頃には、携帯の着信も切れていた。
──ここは、病室だ。
「あ、そうだ。着替えならここにあるぞ」
黒島がスーツの入った紙袋を犬山に見せた。そんなことよりも、頭が混乱して落ち着かない。
「俺、何を──」
自分の身に何が起こったのか理解出来ず、様々な最悪なケースを予想してしまう。
──斎藤に襲われたのか。
──知香は大丈夫なのか。
少しでも謎を解消する為に、最後の記憶を辿った。
「俺は、村上と幸福亭に居て──」
──村上?
自分は一人で…いや、二人で喫煙所に向かって、それで──
──村上に、撃たれた。
「村上は!?」
犬山は、ベッドから飛び起きた。
飛び起きた衝動で、胸と腹部に激痛が走った。
この激痛こそが、自分の身に起こったことを鮮明に物語っている。
自分の考えていた間が思いの外一瞬だったのか、黒島は今にも喋り出しそうな表情で、呆気に取られていた。
「そう焦るな。自分の身を最優先しろ」
痛みが落ち着き、犬山は息を吐き出しながらベッドにもたれ掛かった。
「すみません」
黒島は、ベッド横の机に置いてあった缶コーヒーを口に含み、話を切り出した。
「村上は逮捕された。かれこれもう二日経つ」
「そう、ですか」
黒島は、手に持っている缶をクルクルと回しながら話を進めた。
「取り調べでは何も吐いていない。お前の状態ばかりを気にしてな」
「俺の……」
少し考えた後、動機の謎はすぐに解けた。
「まさか──」
犬山の知っていることを尋ねる黒島の言葉を遮り、犬山が口を開いた。
「村上の母親は、どうなりましたか!」
「母親?」
「すぐに母親の状態を確認してください!俺の状態が洩れる前に、早く!」
村上は全部、自分に打ち明けていた。
母親の状態、そして──闇金のことも。
自分の今の状態と例の条件の関係性──思い当たる節が、一つだけある。
もし、村上の言っていた闇金が、竜崎組経由の物であったならば──筋は通る。
──マーリスだ。砂橋の言っていたことと一致する。
「その前に教えてくれ。村上の母親と今回の事件に、一体何の関係がある?」
「村上は、母親の癌治療の為に闇金へ手をつけたんです。その時に出された条件が俺の殺害であるなら、村上の動機も明確に出来ます」
犬山の話から全てを悟り、黒島は、持っていた缶コーヒーを机に叩きつけるように置いた。
「分かった。母親を警備するよう、上に伝えてくる」
「頼みます」
黒島は急ぎ足で、病室を飛び出していった。
不安が拭いきれない中、犬山はベッドに寝転び、心を落ち着かせる。
段々と緊張が解れ、目が覚めた際の電話のことを思い出した。
意識がない中の電話──まさか、知香が?急いで机に手を伸ばし、携帯を自分の元へ寄せた。
ロック画面の一面には、着信履歴の通知がびっしりと並んでいた。
──非通知設定
見慣れぬ文字が、一層恐怖を煽る。
二日間で約五十件。ただのいたずら電話でないことは確実だ。
しかも、事件発生したのが二日前なら、世に情報が出回ったのは、少なくとも昨日からのはずだ。
── 一体、誰が?
恐怖に襲われながらも、冷静に考えれば、無視するのが最適解とも思えなかった。
マーリスの可能性も否定出来ない。
俺の状態を確認し、村上の母親に手を下す──そんな罠だって有り得る。
だが、ある程度の時間は経った。
一つでも多くの謎を解明しなくてはならない。
犬山は、非通知設定の主へと折り返し電話掛けた。
電話の着信音が途絶え、相手に繋がったことを確認する。
「もしもし」
犬山が声を掛けても、しばらく相手からの返答がなかった。
一瞬の沈黙が流れ、ようやく向こうから声が聞こえてくる。
『目を覚ましたようだな、犬山』
その言葉と男の声に、犬山の背筋が凍る。
明白に正体は分からない。なぜ自分の名前と電話番号を知っているのかも。だが、聞き覚えはある。
声の主の正体──それは、二年前のクリスマス・イブに、突如として現れた男だった。
犬山のことからマーリスのことまで知っている謎の男だ。
「あなたは、二年前の…。なんで」
『マーリスが動き出した。お前を殺す為にな。もう悠長な真似はしていられないぞ』
え──つい、衝撃に声を洩らす。勘づいてはいたが、二年間縁のなかったマーリスが、今更自分を狙ってくるなど、動機が分からない。
「何でマーリスが?あなたは何を知っているんですか。あなたの正体は一体…?」
度重なる謎を存分に吐き出す。だが、男がその問いに答える気配はなかった。二年前のあの日と同じ。重要な部分が聞き出せない。
『それを知りたいなら、”Secret”というバーへ来い。話はそれからだ』
犬山が返事をする間もなく、通話は途切れた。
通話の切れた携帯で、そのまま聞き覚えのなかった”Secret”について地図で検索する。犬山の入院している病院からはそう遠くなかった。歩いても五分といったところか。
犬山はベッドから起き上がり、すぐさまスーツに着替えた。
多少体を動かしただけで激痛が走る。だが、立っていられるほどまでには痛みも引いていた。
病室を飛び出し、一階へと駆け下りる。
カウンターでは、看護師たちが忙しそうに書類の整理やら、電話の応答やらをしている。
こちらに気を配る気配が無いことを確認してから、犬山は、病院に人が入って来るのと同時に抜け出した。
病院前の表通りには、誰も乗せていないタクシーが、気怠げに数台停車していた。
すぐさまタクシーの後部座席へ乗り込み、言われていた『Secret』を目的地に指定した。
ゆったりと走るタクシーの窓から、犬山は空を見上げた。
雲一つない快晴。普段であれば、心も和むものだが、今はどうも落ち着かない。まるで、世界が変わってしまったかのような、はたまた自分が生まれ変わったような、そんな言い知れぬ不安感に襲われた。
俺も水井と同じだったんだな。
気づけばタクシーは、どんどんと暗い通りに入っていく。
道も狭く、裏路地のような場所だ。
「到着になります」
欠伸をかくような声で、運転手が呟く。
犬山は携帯で支払いを済ませ、タクシーから下車した。
犬山の目の前にあるスタンドバーには、確かに『Secret』の看板が掛けられている。しかし、扉には「CLOSE」の看板も掛けられていた。
閉店しているのか。だが、ついさっき男と話したばかりだ。待っているというくらいなら、ここに居るに違いない。
犬山は恐る恐る、扉に手を伸ばした。
「すみませんー」
店内にはBGMの一つも流れていなかったが、電気はついている。カウンターには、マスターらしき年配の男も立っていた。
「おう、よく来たな」
物陰に隠れてよく見えていなかったが、席には、一人の男が座っていた。
間違いない。クリスマス・イブに会ったあの男だ。
「お久しぶりです」
男からの返答はない。一瞬の沈黙が流れる。
「まあ、座れよ」
男はこちらを見向きもしないまま呟いた。
指示されたよう、男の隣の席に腰掛ける。
男が「酒は?」と犬山に尋ねた。
犬山が丁重に断る。
相手を何も知らない状態で酔うわけにはいかない。自分の命を狙っている一人という可能性もあるのだ。
「ここのマスターとは知り合いでな。入口にあったように、今は閉店中だから誰も入ってこない」
ここまで厳重に話をするとなると、相当内密な情報なのだろうと察した。
「あの、あなたは一体」
男は高級そうなグラスに注がれたウイスキーをロックで呑み干した。
「警視庁新宿署の虎井 誠一だ。歌舞伎町の交番勤務をやってる」
警察であるという事実に、犬山は驚きを隠せなかった。入れ墨一つ入ってないとはいえ、ガタイの良さや面構え、話し方から見ても反社の人間としか思えない。
「警察の方だったんですね」
思ったままのことを口にする。
虎井は、その言葉に反応せず、マスターにウイスキーをもう一杯注文した。
そろそろ本題に移るべきだ。
二年前からずっと疑問だったこと。
犬山は覚悟を決めた。
「虎井さんは、何故マーリスのことを知っているんですか」
虎井が、マスターからウイスキーの入ったグラスを受け取る。
「俺は大昔、警視庁本部の捜査四課だった。だから知ってる」
「捜査四課、ですか」
重要な部分を誤魔化したような言い草だった。だが、警察であれば、少なくともマーリスと敵対する仲であることは事実であろう。
ならば、虎井は一体、マーリスの何を知っているのか。
マーリスの正体は──
水井の死の真相は──
犬山は覚悟を決めた。
自分がずっと知りたかったマーリスについて、虎井に聞くべきだ。
「お前は、マーリスと戦う覚悟はあるのか」
先に口を開いたのは、虎井だった。
突然の問いに、つい呆気に取られる。
不覚にも「はい?」と虎井に聞き返した。
覚悟──マーリスが自分や周りに害を加えるのであれば、抵抗するのは当然だ。
だがそれに、一体何の覚悟が必要だと言うのか。
「覚悟は、あります。自分にやれることは、何でもやります」
質問の意図が掴めず、自信なさげに答えた。
「じゃあ、お前はマーリスを潰せるのか」
再び言葉を失う。
相手は組織だ。自分一人でどうこうなる話じゃない。その上で勝てるかどうかなんて、分かりもしなかった。
「分かりません…」
先程にも増して、頼りない掠れた声で答える。
虎井は、手に持っていたグラスをゆっくりと机に置いた。
視界の端から一瞬虎井の姿が消える。
認識する間もなく、犬山の頭が後ろに飛んだ。
鼻骨に激痛が走る。顔正面から殴られたのだ。
まさかの不意打ちに、脳震盪を起こしたのか、体が思うように動かなかった。
精一杯の余力で、虎井に視線をやった。
虎井が今度はゆっくりと右脚を上げた。瞬時にその強靭な脚を、犬山の腹部へと落下させた。
倍の激痛が腹部に走る。
声にもならない程の掠れ声で喘ぐ。
ぽっかりと腹に空いた穴から、服の中で血が滲むのが分かった。
虎井は脚を退けることなく、尋常じゃない力で、腹の更に奥へとねじ込ませた。
なぜ虎井に殴られるのか。
痛みに耐えながらどれだけ考えても、理解が追いつかない。
意識が飛びそうにながらも耐え抜くと、ようやく虎井は腹部から脚を退けた。
視界の外で、虎井がごそごそと音を立てる。
ポケットから物を取り出しているのだと認識できた。
虎井がようやく視界へと戻り、犬山の襟首を掴んで壁へ叩きつけた。
衝撃と激痛に涙目にながら、虎井の方を見つめた。
虎井がポケットから取り出した”何か”を、犬山の頭へと向けた。
脳が瞬時に覚醒し、それを認識する。
──拳銃だ。
虎井は、手に持っている拳銃を、無理矢理犬山の口へとねじ込んだ。
歯を食いしばるも、勢いよく金属がぶつかり、激痛とともに歯茎から血が噴き出した。
痛みに耐えかねて口を開き、喉の方へと銃身が入り込む。舌から金属の冷気が伝わってきた。
口を塞がれている為、話すことも抵抗することも出来ない。
「水井は、半端な覚悟のままマーリスを知りすぎてしまった。だから虚しく敗れて殺されたんだ」
やはり虎井は、水井の事を知っている。
「何を知っている」と眼で訴えかけた。
「哀れだが、それと今のお前の何が違う。半端に首を突っ込んで、足元を掬われるだけだ」
犬山は唖然とした。
水井と俺が同じ──決して良い意味なんかじゃない。だが、確かに自分は水井になることを決心していた。
「水井のように、なってみせる」──心の深く底にあった懐かしい言葉を、不覚にも思い出してしまう。
虎井が撃鉄を起こし、拳銃から嫌な金属音が鳴り響いた。
続けて無言のまま、引き金にへと指を掛けた。
──殺される
深くは考えられなかったが、本能的にそう察知した。死を覚悟し、思い切り目を瞑る。
──カチン
引き金を引いた金属音が、沈黙を破った。
一瞬、痛みが走るような気もしたが、それは誤認であることに気がついた。
──弾が装填されていない
虎井は、黙ったまま表情ひとつ変えることなく、銃身を口から外に出した。
途端に息が荒くなり、何度も口で呼吸を行う。
同時に、喉まで突っ込まれた不快感で、嗚咽をもらした。
ずっと無言だった虎井が、ようやく口を開いた。
「お前は、一度殺された。あの居酒屋の前でな」
あの居酒屋──幸福亭のことだ。
「──だが、神はお前の味方をしたのか、もう一度機会をお前に与えたらしい。痛みこそがその証拠だ」
既に自分は殺されていた。知香との約束も放ったままで、無責任に死んだ。
虎井の言葉が、異常なほどにしっくり来た。犬山の反応など待たず、虎井は話を続けた。
「お前がマーリスと戦う覚悟をつけるまで、特別に時間を与える──が、マーリスの連中は待ったりなどしない。これからは、本格的に命取りになるぞ」
──命取りになる
気がつけば、鼻や口、それから腹部の至る所から、血が噴き出していた。
スーツの袖で拭い、やっとの思いで、ふらつきながら立ち上がる。
「分かりました」
滑舌の悪い声で、小さく返事をした。
ついさっきまで賑やかだった店内も静まり返り、知香は淡々と清掃をこなしていた。
犬山が斃れて、三日が経つ。何度もメッセージを送信したが、知香の元へ返信が来ることは、一度もなかった。
幸い、銃撃事件の日に訪れた黒島刑事から、一命は取り留められたとの報告は受けていた。
病院まで見舞いに行こうかとも思ったが、司法勉強とバイトに追われ、今はそれどころじゃなかった。
無事大学を卒業をしたはいいものの、最後まで自分のやりたいことなど一切見つからず、ただ適当にバイトを続けて過ごしてきた。
唯一弁護士という道を見つけ、それ以来司法勉強に励んでいるが、やる気も何も出ず、憂鬱な時を過ごすのは、全く変わらなかった。
そんな中、犬山と初めて出会った。
初めは一目惚れで、なんとなく恋というものに憧れるだけだった。けれど、二人で話していくうちに、いつの間にか、本気で犬山を愛していた。
支えだったのだ。
犬山ならではの強い正義感に、とても安心させられていた。だからこそ、自分の生きる意味となった犬山を、簡単に手放したくなかったのだ。
それなのに、犬山は遠くへと行ってしまうばかり。
知香は重いため息をついた。
その瞬間、店の引き戸が開く音がした。
ついさっき、閉店の看板を出したばかりだったはずだと、知香は困惑した。
──また、あのヤクザの人達かもしれない知香はカウンターの影から身構えた。
やってきた主が、暖簾から顔を出す。
「え?」
知香がつい、声を洩らす。
やって来た主は、紛れもない、犬山だった。
「迷惑かけてすまない、ずっと顔を出したかった」
想定外の出来事に、知香は言葉一つ出せなかった。
犬山は、静かにカウンター席へと腰掛けた。
知香はすぐに、犬山の顔に新しい傷があることに気がついた。
あの事件でついたものではないと、察しがついた。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉にできない。頭の整理が追いつかなかった。
「俺は事件の日、死んじまったみたいだよ。約束を破ったことは、本当に申し訳ないと思っている」
「なんで謝るの…?」
遠くへ行ってしまったことは許せなかった。けれど、今はこうして話すことが出来ている。
犬山の本意が、掴めなかった。
「私はただ、犬山さんが近くに居てくれれば、それだけで…」
犬山は、カウンターに向かって俯いた。
「約束はできない」
知香は呆然とした。
「なんで」
俯いていた犬山は、ようやく知香の方を見た。
「俺は、命を捧げてでも務めを果たしたい」
犬山に生きていて欲しいなど、知香にとっての欲望でしか無かった。
そんなもので、犬山を縛りつけていた。
それでも、愛する者を手放すなど、納得がいかない。
「…刑事じゃないと、駄目なの?」
身勝手な言葉が口に出る。
わがままで居たくないのに、つい本音を出してしまう。
「もっと安全な課に飛ばしてもらったりとかさ、警察だって、そんなに危険なら辞めてしまえばいいじゃん!」
知香は涙ぐみながら声を荒らげた。
言い終えて束の間、沈黙が流れる。
犬山は再度、目線を下へ落とした。
「それじゃ、自分を許せないんだよ」
犬山は、拳を強く握りしめた。
「俺には、大事な先輩刑事が居た。でもそいつが殺されて、警察は犯人を野放しにしたままだ。そんなの、俺は許せない。そして──」
一気に頭へと血が上る。
「──見て見ぬふりしてきた自分も、許せない。だから、俺はそいつの仇を取らなくちゃならねえ」
立派な刑事になろうとしていたはずが、いつの間にか、あるべき自分を見失っていた。正義というものを、錯覚してしまっていたのだ。
進むべき答えは、既に頭に出ている。
──なのに、覚悟は決められなかった。
犬山が立ち上がって、知香へと近寄る。
そのまま、思い切り知香の体を抱きしめた。
「それでも俺は、知香が好きだ」
知香の目から、涙が零れる。
──本当は、刑事なんて辞めてしまいたい。他の課に異動させられたり、警察自体辞めてしまいたい。
犬山よりも背の小さい知香が、そっと背伸びをする。
気づけば、互いの唇が触れていた。
これまで経験したこともない感触──キスだった。
理解が追いつかず、犬山は呆然とした。
知香がゆっくりと、伸ばした背を元に戻す。
「この先、危険なことが待ち構えていたとしても、私は犬山さんについていきたい」
犬山は静かに肯いた。
ここで知香を裏切るなど、到底出来るはずがない。それでも、犬山には分かっていた。
──いずれこの手で、知香を突き放すことになると。
「今日は帰る。またすぐに顔を出しに来るよ」
互いに複雑な心境のままだったが、犬山は知香に別れを告げた。
帰るとは言ったが、このまま自宅には帰りたくない気分だった。
近場のコンビニに車を駐車し、ありとあらゆる酒を買い漁った。
そのままコンビニの裏路地へ座り込み、次々と買い漁った酒を空き缶にしていく。頭がぼやけながらも、気づけば夜が更けていた。
朝、携帯の振動音で目が覚めた。
見慣れた天井──自宅だ。
犬山は、昨日の出来事をすぐに思い出せなかった。
同時に、激しい頭痛が来る。
振動音のする携帯の方を覗き込み、初めて着信だと理解出来た。
相当脳が鈍っている。
電話の主は、黒島だった。
急いで着信に応答し、声を掛ける。
こんな朝に、なぜ黒島から電話が掛かってくる理由が掴めなかったが、電話の内容を聞き、すぐさま記憶を取り戻した。
『朝っぱらから悪ぃな。例の、村上の件だ』
村上の件──母親のことだ。
「母親は無事でしたか」
『そのことなんだが…。実は、二日前、自宅で意識のない状態で発見されて、昨日、死亡確認されたんだ』
「死んでいた…?」
遅れて呟いた。
自分が生きていることが、奴らに悟られてしまったのだ。
これで、村上の望みは、全て潰えたことになる。
「死因は?」
『睡眠薬の過剰摂取だが、お前の証言から照らし合わせても、他殺の可能性が高い。一課と合同で、捜査を行っていく見込みだ』
捜査──このまま捜査していけば、きっと警察はマーリスに辿り着く。
本当にそれで大丈夫なのか、犬山に疑問が浮かんだ。
水井殺害からしても、マーリスが表に出るということは、奴らも徹底的に応戦してくるということだ。そうなれば、警察とマーリスの全面戦争。大多数の死者を生むことになる。
それに加え、村上もだ。
今は怒りの矛先が犬山でも、いずれ組織に牙が向くかもしれない。
それにより情報を知り過ぎれば、たとえ檻の中の村上でも、命が危うくなるだろう。それは、確実に阻止する必要がある。
「一度、村上と話させてください」
『無茶だ。何をするか分からないんだぞ』
犬山は、黒島の制止を聞かなかった。
まだ村上は取り調べで署に居るはずだ。
「今すぐ署に向かいます」
犬山は、重い立ちくらみに耐えながら、支度を整えた。
犬山の愛車には、いくつか擦れ傷が出来ていた。
つい最近までなかった傷だ。
おそらく、今朝家に帰る際に傷つけたのだろう。
明け方に帰ったから、飲酒運転ではなかったが、酔いは醒めず、意識は朦朧としていた。その為だろう。
犬山は、急いで車を走らせる。
見慣れた景色のはずなのに、やはりどこか、新鮮味を感じる。やっぱり、自分は死んでいたのだ。
──水井、俺はこれからどうすればいい。自問自答だった。
署内には、既に殺気で溢れていた。
その殺気の源である取調室に、犬山は徐々に近づいていく。
「犬山、本当に話すのか?」
黒島だ。
まだ心配が拭いきれないのだろう。村上が何をしでかすか分からないのだから、当然のことだ。
「俺のせいであいつの母親は殺されたんです。だから、俺が話すべきだ」
黒島が重いため息をついた。
「くれぐれも、気をつけろよ」
犬山は、取調室の扉に手を掛けた。
この先に、村上が居る。
覚悟を決め、犬山は扉を開いた。毎度の如く、取り調べを担当していたのは、飯田だった。
そしてその正面──村上は、物凄い形相で、こちらを睨みつけていた。
眉間に皺を寄せ、歯を食いしばってか、歯ぎしりが室内に響き渡っている。
目元には隈ができ、頬が削れていることからも、全体的にげっそりと痩せていることが分かった。
到底、犬山の知っている村上では無い。
あの愛想のある笑顔に、気遣いの出来る、明るい後輩──そんな面影は、どこにもなかった。
「久しぶりだな」
犬山から話を切って出た。
村上からの返答はない。ただこちらを永遠と睨んでいるだけだ。
「母親のこと、残念だったな」
「残念…?」
今度は食い気味に、村上が返事をした。
「俺は、あんたのことを信頼して、どうにか母親を助けられないか相談した。そしたらお前は、どんな手を使ってでも、母親の命を助けることを俺に勧めた──なのに」
村上は、机に拳を振り落とした。
物凄い轟音が、部屋中に響き渡る。
「母さんを見殺しにしたのは、お前だろうが!」
暴れる村上を、飯田と若山が慌てて押さえつけた。
「よせ村上、お前だってそんなこと思ってないだろ!」
飯田が強くも優しさの詰まった言葉を投げ掛けた。
声には、悔しさと悲哀の感情が込もっている。
飯田は、村上の同期だった。
それも、同時期に四課へ配属されてきた新人同士でもあったことから、かなり親しい仲だったのだろう。そう考えると、飯田の心境に痛いほど胸を締め付けられた。
村上は、飯田の言葉に構いもしない。
犬山も、先程より顔を険しくし、村上に睨み返した。
「お前の言う通り、母親を殺したのは俺だ」
予想外の言葉に、飯田と若山は驚いた反応をした。
村上はびくともせず、押さえつけられたまま、上目遣いでこちらを見ている。
「俺が力を貸せば、母親を助けられたのも事実。そして、俺のせいで殺されたのも事実だ」
村上は、少しだけ表情を変えた。
犬山のせいで殺された、という言葉には違和感を覚えたのだろう。
「俺は、目を覚ました直後、黒島に母親の状態を探るよう指示した。まだ、俺が意識を取り戻したと外部に知られる前にな。黒島もすぐさまそれに従ってくれたさ。だが、俺の状態は、すぐさま奴らに知られてしまった。病院のどこかで、張り込んでやがったんだろう」
犬山は、村上の顔に近づいて囁いた。
「だから、俺がお前の母親を殺したんだ」
「てめえ!」
再び暴れ出そうとした村上の顔面を、犬山は思い切り横殴りにした。
反動で、村上が椅子から転げ落ち、地面に横たわる。
「犬山さん!」
飯田が、今度は犬山を抑えかかろうと動いた。
犬山はそれを振り払い、村上の腹に脚を落とした。
「俺の腹に穴を開けた仕返しだ。お前にとって俺が敵なら、俺にとってもお前は敵だ。よく覚えとけ」
村上は喘ぎ苦しんでいる。
これで、村上の犬山に対する憎悪は、永遠に消えることがないだろう。懲役を終えたら、何度でも犬山を殺しにかかってくるかもしれない。犬山も、それは重々承知していた。
犬山は、脚を村上から退けると、無言のまま取調室を後にした。
取調室を出ると、黒島と他の刑事たちが立ち並んでいた。騒ぎを聞きつけたらしい。
黒島は、音から事態を把握していたのか、特に拍子抜けした顔をしていた。
黒島の知る犬山は、至って真面目な、正義感溢れる誠実な顔だけだ。あまりにも予想外だったのだろう。
突っ立ったままの捜査員たちを振り払い、犬山は喫煙所へと向かった。
署内を出た頃、黒島が後を追ってついて来た。
犬山は、目で会釈し、煙草を口に咥えた。
「犬山、お前なんであんなことを…」
ポケットから取り出したライターで火をつける。
今日はやたらと着火が上手くいかない。
犬山は煙草を一吸いしてから、黒島の問いに答えた。
「すみません、声を荒らげてしまって。でも仕方ないんです」
「仕方ないって、何が」
「今はどれだけ俺を恨んでたとしても、いずれ村上の牙は犯人組織に剥く。そうなれば、確実に村上の命が殺られます」
黒島が全てを理解したように相槌を打った。
黒島も自身の煙草を取り出し、煙を吸った。
二人の吐き出した紫煙が、宙を舞う。
「俺も、あいつのことは分かるんだ。家族の為なら、俺でも罪の一つや二つは犯す」
黒島の言葉に、犬山は驚いた素振りを見せた。
「家族って?」
「知らなかったか?妻と、子供が二人いるんだ。上の子が六歳で、下の子が三歳。ほんと、愛くるしいもんだよ」
「そうでしたか…」
既婚者であることは、黒島がいつも付けている薬指の指輪から分かっていたが、まさか子供が居るとまでは思っていなかった。
犬山は、ふと疑問が浮かんだ。どうしても今、聞いておきたい疑問だ。
「黒島さんは、家族と仕事、どっちが大事ですか?」
黒島は、驚いた表情で犬山を見た。不味いことを言ってしまったかと思い、「すみません」と気づけば詫びていた。
「いや、いい。難しいことだが、やっぱり家族の方が大事だよ」
犬山は黒島の言葉に安堵した。それに伴い、犬山は更に質問を重ねた。
「じゃあ、なぜ黒島さんは刑事を続けるんですか。もし、最悪の場合、殉職してしまったら、家族を取り残してしまいます」
黒島は、暗い表情を浮かべた。
「確かにそうだ。取り残したくもないし、かといって刑事も辞めたくない。矛盾してるんだよな。でもやっぱり、家族の次くらいに、警察としての責務が大事なんだ。俺は昔から、ただねじ曲がった奴が嫌いだったから、この仕事を続けてきたんだ。その志を無駄にすることは、自分が死んでしまうのと、同じことだと思う」
犬山が返事をしようとした途端、黒島が遮った。
「──それに、家族は俺のことを一番に認めてくれているから、この仕事を続けていられる。本当に感謝しているよ」
犬山は俯いた。
「そうですか…ありがとうございます」
認めてもらう──知香は、自分を認めてくれるのか。考えられない。自分が死ぬことなど、知香が許してくれるわけない。
「どうした、悩みでもあるか?」
黒島が心配の声を掛ける。
「ああ、いえ」
犬山は、ふと我に返った。
「この感じ、俺が望んでいたことだと思います」
「望んでいたって?」
「殉職した水井と、こうして煙草を吸いながら話してみたかった。でも、今では黒島さんが、俺にとって水井みたいな者なんです」
黒島は微笑んだ。
「そりゃ、嬉しい限りだな」
犬山も黒島に続き、微笑んだ。
再度煙草を吸おうと口に咥えた途端、若山の声が響き渡った。
「犬山さん、黒島さん!銃撃事件です!竜崎組の組員が何者かに撃たれました!」
二人が慌てて煙草を放り込む。
誰の仕業か、犬山は勘づいていた。
可能性があるとすれば──松原会だ。
「やりやがったな」
二人は署内で拳銃と防弾チョッキを着用し、犬山の愛車へと乗り込んだ。
外は、豪雨かと思わせるほどの大雨に見舞われていた。
闇となった空から、月に照らされた光の粒が、犬山たちを打ちつける。
「殺られたのは、竜崎組の若頭補佐、重山十蔵か。まさか幹部の奴が殺られるとは」
傘を差したまま突っ立っていた犬山に、黒島が話し掛けた。
「警察の網から逃れていた松原会の連中が、こんな大胆に攻撃を仕掛けるなんて…」
犬山は、何か言い足りなさそうに呟いた。
「だが、抗争が起ころうとしている今なら、起きてもおかしくはねえ──いや、もう始まっちまったかもな」
黒島は重いため息をついた。
「抗争が始まれば、堅気である一般市民にも危害が及ぶ。かつての抗争のようにな」
「かつての抗争?」
犬山の問いに、黒島が深く肯いた。
「史上最悪と呼ばれた、松原会と竜崎組の抗争。もう、十年は経つか…。その頃は、どちらの組も今ほど巨大化してなかったんだが、堅気は巻き込み、人質事件で機動隊が出動するほど、大事になったんだ」
十年も前となれば、犬山は中学生くらいの年齢だ。黒島も、刑事に就任して、間もない頃だったに違いない。
黒島が咳払いをし、口を開いた。
「本題に戻ろう。被害者の重山は、竜崎組のシマでもあるこのスタンドバーで、若い衆と酒に浸っていた。そこを、松原会の何者かによって脳天を撃たれ、その後死亡した。犯人は、若衆を相手にもせず、颯爽とその場を立ち去ったらしい」
「撃たれたのは、脳だけですか」
黒島がそっと肯いた。違和感を覚える。
若衆を相手にもせず、標的の急所を一撃──相当な射撃の名手と言わざるを得ない。
それに、犯人が現れてから犯行を行うまで、重山たちは抵抗一つしなかったのか。
「そんなに拳銃の扱いに慣れた輩が、松原会に居るんでしょうか」
犬山は、黒島に疑問をぶつけた。
「さあな。だが、現段階ではそう言わざるを得ないだろ」
黒島が煙草を取り出したその時、飯田の声が現場に響き渡った。
「黒島さん!路地裏の監視カメラから、犯人の特徴を割り出せました!」
「どうだった」
飯田は息を整えてから、黒島に答える。
「犯人の特徴は、全身黒服にレインコート、目と口だけ切り取られた覆面を身につけていました」
「覆面…。何か、松原会の連中に一致しそうな奴は居たか」
黒島に代わって、犬山が質問をする。
「…それが、暗闇で目も口元も全く映っていなくて」
「そうか…」
犬山は鼻でため息をついた。
「動画を加工すれば、少しは割り出せるかもしれない。今日は署に戻って、報告書を纏めるぞ」
黒島が犬山と飯田に言ってまとめた。
午後六時。犬山と黒島は、車に乗って署へと引き返していた。
空にはもう雨雲は残っておらず、美しい満月が光り輝いている。
防弾チョッキと拳銃の携帯により、二人の体は既に疲労しきっていた。
助手席に座る黒島は、窓を全開にして、煙草の煙を吐いている。
わずかな紫煙が、車内にも舞っていた。
「俺たち警察は、一体何の味方なんだろうな」
遠くを見つめる黒島が、誰に言うわけでもなく呟いた。
「味方…そりゃ、市民の味方ですよ」
「まあな。だが、今回の事件の敵は一つじゃない。松原会と竜崎組、よりによって関東の頭二つを相手にしなくちゃならない」
分かりきったことを言う黒島の言葉に意図を掴めず、犬山は聞き流した。
「でも実際は、どっちかに肩入れしなくちゃ勝負はつかない。敵を絞ることが、手っ取り早い解決策だと思わないか」
「確かに…そうですね」
黒島の言うことは理解出来た。が、犬山にとっては、どちらも隙を見て命を殺りに来る蛇のような存在だ。その一方と手を組むなど、困難な話だろう。
「俺は、これ以上竜崎組を野放しにしておくわけにはいかないと思ってる」
「野放し?」
「確証はないが、竜崎組が拡大する一方で、奴らが事件を起こしたなんて報告は比較的に少なすぎるんだよ。事実、警察は奴らを野放しにしてる。だがな、このまま竜崎組が松原会までもを従えたら、奴らは警察の手に負えなくなっちまう。関東どころか、全国規模にまで発展してしまうんだ」
確かに、このまま抗争が勃発すれば、松原会が竜崎組に勝利出来る三段は無い。即ちそれは、竜崎組が関東の天下を取るということでもあった。黒島の言うように警察の手に負えなくなれば、堅気である市民に被害が及ぶのは日常茶飯事になり、治安悪化のあとを辿るのみだ。
「だからな犬山、これは竜崎組を締め上げる、最後のチャンスなんだよ。膨大化した竜崎組という組織を解体する──それには、警察は松原会の手が必要だ」
黒島の言葉に、犬山は気が引けた。
松原会と接触すれば、知香に被害が及ぶかもしれない。とはいえ、黒島が言うように竜崎組を潰す為の三段だ。虎井の言っていた覚悟を、どこかで決めなくてはならない。
息を呑むと同時に、犬山はサイドミラーから、後ろの大型車に目をやった。
やけに車間距離が短い。
「黒島さん、後ろの車──」
犬山が言いかけた時、大型車が急遽、犬山たちの車両と横に並んだ。
煽り運転か──大型車の車内を確認しようとしたが、街灯の光が窓に反射し、運転手の顔も見えない。
黒島は吸っていた煙草を灰皿に擦り付け、窓から顔を出した。
黒島が注意を掛けようとした瞬間、向かい側にある大型車の窓が、ゆっくりと下り始めた。
窓の向こうからは、銃口がこちらを睨みつけていた。
「黒島さん!」
パァン──銃声が鳴り響き、弾がこちらの車内に入り込んでくる。
二人は瞬時に頭を伏せ、命中を防いだ。
「野郎、何者だ──犬山、人通りの少ない道まで走れ!確実に仕留めるぞ!」
慌てつつも、目で威勢の良い返事を返し、車を全速力で走らせた。
黒島は、携帯していた拳銃を取り出した。
「何者だ!銃を今すぐ捨てろ!抵抗するなら撃つ!」
黒島が頭を出した瞬間、第二の銃弾が、こちらを目掛けて発射された。
犬山の車両の窓ガラスに、大きな穴が空いた。
犬山は姿勢を低くして命中を免れた。が、前方の様子が見えず、上手く車を走らせられない。このままでは事故をして終わりだ。
今度は黒島が、容赦なく相手側を目掛けて発砲した。
運転手は、素早く身を後ろに引き、銃弾を交わした。
黒島は、運転手の姿を見て絶句していた。
「犬山…あいつ──」
犬山は、一瞬黒島へと目をやった。
「覆面の男だ」
黒島の言葉に、犬山をつられて絶句した。
衝撃に思考回路が停止したが、すぐさま運転に集中を取り戻した。
犬山は、人気のない道へと急遽右折し、車体が大きく揺れた。
大型車は一時的に視界から消え、犬山は頭を上げて前方を確認した。
しかし、時速は二〇〇キロを超えている為、なかなか運転が安定しなかった。
大型車も劣らず、犬山の車両へと追いついた。
そのまま大型車は止まることなく、犬山の車体へと何度も突っ込んだ。その度に、犬山の車体は大きく揺れ、ハンドルを抑えるのは限界へと近づいていた。
大型車は車体へと突っ込むことを止め、またしても車体の左へと並んだ。
その瞬間、大型車は横に犬山の車体へと接近し、勢いよく衝突させた。
強い衝撃により、ハンドルの制止が効かなくなる。
車体の左タイヤは大きく宙に上がり、とてつもない火花を散らしながら横転した。
「大丈夫か、犬山」
黒島の声で目が覚める。
どうやら、頭の打ちどころが悪く気絶していたらしい。
返事をしようとした瞬間、口から噴水のように血が噴き出した。
「まあ…何とか……」
体を動かそうともしたが、打撲した激痛で動かすこともままならなかった。
「畜生。よくもやってくれたな、あの野郎」
黒島は上着の内ポケットから、拳銃を取り出した。
「お前は自力で車から脱出しろ。奴に手錠を嵌めてくる」
外を見やると、数十メートル離れた先に、あの大型車が乱暴に駐車されていた。
黒島は這いつくばりながら、車の外へと出た。が、辺りを見渡しても覆面男の姿はなかった。
精一杯体力を振り絞り、ふらついた足取りで大型車へと近づいていく。
「おい、今すぐ武器を捨てて出てこい!抵抗するなら容赦なく射殺する!」
すぐ傍へと近寄った時、黒島は背伸びをして、人気のない大型車の車内を覗き込んだ。同時に、すぐさま拳銃を車内へ構えた。
──誰もいない。
車内から目を逸らした瞬間、右手側からとてつもない銃声音が轟いた。
銃弾が、黒島の胸に命中する。
防弾チョッキを着用していた為、貫通は防げたものの、衝撃の圧には逆らえなかった。
黒島は後ろへと倒れ込み、すぐさま抵抗する為、覆面男に銃弾を放った。
覆面男の手から拳銃が吹っ飛ぶ。
黒島は激痛に堪えて立ち上がり、覆面男に覆い被さるようにして突進した。
右手に持つ金属の塊で覆面男の頭を殴打し、膝で腹部を蹴り上げた。
覆面男の膝が折れ、そのまま勢いよく地面に倒し込む。
黒島は抵抗出来ないよう覆い被さり、至近距離で覆面男に銃口を向けた。
覆面男の外見から、今回の竜崎組組員銃撃事件の犯人はこいつで間違いないことは確信した。だが正体が掴めない。動機から挙げられる松原会とも、今までの言動と照らし合わせれば違和感を覚えた。
「おら、とっとと正体を明かせ」
男は一言も喋らない。
何とも言えぬ静けさが、辺りには漂っていた。
犬山は、自力でシートベルトを外し、車内で横たわっていた。
覆面男に馬乗りになる黒島の姿を、遠くから薄目で眺める。
車内にはオイルの匂いが漂い、いつ引火するかも分からなかった。ひとまずは、車内から脱出することを優先しなければならない。
幸い、犬山側のドアの窓ガラスが割れ、脱出口になっている。が、散々全身が痛み付けられた上に、防弾チョッキの重量に耐えられる程の体力も残っていない。痛みに耐えてでも、少しずつ匍匐することでしか、移動出来なかった。
割れた窓の向こうへと手を伸ばし、肘に重心をかけて前に進む。
──とにかく早く、黒島さんに加勢しなければ
犬山は体を引きずるようにして、ようやく上半身を外に出した。
その瞬間、後方から異常な熱波を感じ取った。
オイルに引火したのだ。このままでは、丸焦げになって加勢どころではない。
膝を曲げ、足裏で椅子を蹴るようにして、前に進む。
だが、無理に進めば進むほど、激痛は増すばかりだ。
犬山は叫ぶようにして喘ぎながら、必死の思いで体を前に出した。
覆面男は、黒島の問いに答えない。
普通であれば埒が明かないのは分かっているはずだ。それとも、黒島の手で正体を暴かせようとしているのか。
嵐の前の静けさだ。黒島は、前者のような不穏な空気を悟っていた。
だが、銃口は確実に覆面男を睨んでいる。身動き一つさせれば、躊躇なく脳天を撃ち抜けるだろう。
「そういうつもりなら、このまま手錠をはめさせてもらうぞ。おら、寝そべって手を出せ」
黒島は、覆面男の体から僅かに体を浮かせた。
覆面男が寝そべるような動きを見せる。
黒島は拳銃をぐっと構えていた。
その瞬間、覆面男が足元に忍ばせていたナイフを黒島の横腹に突き刺した。
「うっ」と痛みとともに声が洩れる。
覆面男は黒島の体を蹴飛ばし、立ち上がった。
痛みに耐え兼ねて横たわる黒島に、覆面男が蹴りを入れる。黒島は喘ぎ仰向けになった。
覆面男は黙ったまま、何度も黒島に脚を振り落とした。拳銃を持つ手元に集中攻撃し、拳銃を遠くへ蹴飛ばす。それと同時に、黒島の右手の薬指から、銀色に輝く指輪が飛んで行った。
そして最後に、覆面男は重い脚を、黒島の腹部へと向かって落とした。
完全な形勢逆転を目の当たりにし、犬山はすぐさま体を動かせ始めた。
──呑気にやっていれば黒島の命がない。
水井の時のようにはいかせないと、犬山は決心していた。今回は自分が着いている。自分の力でどうにでも出来る。
後方の炎は、先程にも増して勢いを上げていた。犬山の足元までにも、直接火が伝わって来る程だ。
今ある力を出し切り、犬山は最後の下半身を車から脱出させた。だがいよいよ力が尽き果てた。これ以上体が言うことを聞かない。
せめて立てなくても、拳銃なら何とかなる。犬山は、懐から拳銃を取り出した。
標準を覆面男に定めた途端、またしても口から血が吐き出た。
体力が奪われる。
──黒島が死ぬ前に、自分が死ぬのか。
そうも思えた。
だがその瞬間、遠くからパトカーのサイレンが耳に入って来た。
覆面男は、地面に落ちていた自身の拳銃を手に取り直した。
黒島は抵抗力を完全に失ったからか、覆面男は相手にしなかった。
犬山に視線を送り、歩き始める。
犬山が、真の標的だったのだ。
覆面男が黒島を跨いだ途端、黒島が力強く、覆面男の足元を掴んだ。
今残っている最大限の体力で、必死に脚を握り締める。
「いかせねえ…」
覆面男が何度振り払おうとしても、黒島の手は離れない。
「黒島、さん」
犬山は弱りきった目で、二人の様子を見つめていた。
やがて三台ほどの捜査車両が到着し、一斉に警察官たちが飛び出してきた。その中には、飯田たち四課捜査員も含まれている。
覆面男はしびれを切らし、銃口を黒島の頭に向けた。
「水井!」
パァン──嫌な轟音がその場一帯に響き渡る。
凶弾は、黒島の脳天を射抜いていた。
「黒島さん!」
飯田が現場を目撃し、犬山達に近寄る。
警察官全員、拳銃の狙いを覆面男に定めた。
「それ以上動くな!拳銃を地面に捨てろ!」
警官の一人が命令したが、覆面男は動じない。
犬山を殺ることが不可能であると察したのか、覆面男は大型車へと走って行った。
「逃げるな!」
数名が発砲したが、距離が離れている事もあり、命中には至らなかった。
発砲を終え、警官達が覆面男を追った直後、大型車に乗り込んだ覆面男は、そのまま逃走して行った。
「追うぞ!」
一人の警官が部下たちに指揮したが、犬山はそれを制止した。
「追えば死人が増えるだけです…。それよりも、黒島、さんを──」
犬山の言葉を聞き、飯田が黒島の元へと近寄った。
額の中央に明らかな弾痕がある。致命傷だろう。誰が見ても分かるように、黒島は息をしていなかった。
「救急車を!」
助からないと分かっていながらも、飯田が叫んだ。涙ぐみ、鼻の詰まった声だった。
四課の人間で、黒島の世話にならなかった奴は居ない。一度は必ず、皆黒島に助けられてきた。その優しさ溢れる誠実感から、皆黒島のことを慕っていた。
交番の警官が、119に電話を掛けたが、四課の捜査員達は、それどころでは無い。ある者は泣き崩れ、ある者は怒り狂っていた。
犬山も同じだった。ただ、放心状態だった。
水井の時と同じく、自分の愚かさに苛まれる。
──助かっていた命かもしれないのに。
黒島の葬式は、覆面男襲撃から二日後に開かれた。
犬山は先日病院に行き、幸い骨折には至ってなかったが、全身打撲で松葉杖をついていた。
右の額には深い一直線の傷もでき、跡が残る可能性があると、医者から言われた。
式場には、黒島の親戚から、同志とも言える四課の刑事、県警本部の人間も訪れていた。
四課の刑事達は、全員すすり泣いている。その中に、飯田も居た。
だが、犬山は涙を浮かべなかった。飽きるほど同じ失敗を繰り返した。自分は泣けるような分際じゃない。大罪人だ。そんな自分が悔しがってどうする。
黒島の棺から最も近いところに、二人の幼子と若い女性が座っていた。
黒島の家族だ──と犬山は直感した。
二人の幼子は、感情を表にして泣いている。が、黒島の妻と思しき母親は、口を固く結び、感情を堪えていた。
「おとうさんー!おねがいだからかえってきてよー!」
「おとうさん…おとうさん…」
母親は、ついに堪えられなくなったのか、黒島のいる方へと近づき、棺を叩いた。
「何でよ…。子供二人も遺して、これからどうするって言うのよ…」
母親は、子供たちを背にして咽び泣いた。
「何で、警察なんかやってたのよ!」
黒島は事件当日、家族は自分を一番に認めてくれていると、犬山に語っていた。そのお陰で、黒島は刑事を続けられていたのだと。
だが、家族の本心は違った。父親である黒島が生きていること、それが一番の望みだったはずだ。その為には、警察官として誇りなど求めてもいなかったはずなのだ。
犬山は杖をついて立ち上がり、家族のいる方へと近寄った。黒島から一番近い場所へと。
「あなたは…」
母親は犬山に尋ねた。
犬山は黙ったまましゃがみ込み、そのまま土下座した。
「申し訳ございませんでした!」
母親は呆気に取られ、僧侶もお経を読むのを止めた。式場の全員が、犬山に注目している。
「俺は、黒島さんを助けることが出来たんです。でも助けなかった。あの時、黒島さんと一緒に居たのは、俺だったのに!」
母親は困惑した。周りから聞けばただの贖罪に聞こえるかもしれないが、それは違う。虎井の指示に早く従って、もっと早く決意を決められたなら、黒島は本当に死ぬことはなかった。
「俺は自分を許せません。黒島さんを殺した犯人も許せません。だから──」
罪を償う方法は一つ。
「俺が必ず犯人を見つけ出します」
見つけ出してどうするのか──犬山はあえて口にしなかった。
「…私たちは、決して犯人を不幸にしたいわけではありません。それに旦那と同じ被害者のあなたに、罪なんて──だから顔を上げてください」
家族が犯人を懲らしめることを望んでいないことなど、容易に想像できた。だが、自分は身勝手に気持ちを晴らしに来たのでは無い。このまま許されてたまるか。そんな納得の出来ない罪滅ぼしなど。
「許さないでください。それで俺は、償えますから…。お願いします」
「おい犬山、遺族の方も困ってるだろう。もう下がってろ」
捜査四課長の高上 徹が、犬山の肩を引いた。
犬山は高上に連れられ、渋々立ち上がった。
その瞬間、母親が犬山を呼び止めた。
「許しません。あの子たちの父親を見殺しにしたこと。私を独りにさせたこと」
犬山は、細めていた目を見開いた。
そのまま言葉を発することはなく、母親に会釈をし、式場を立ち去った。
犬山の愛車は廃車となり、今は仮の車を借りている。
犬山はレンタカーに乗り込み、鏡で自分の姿を確認した。
相変わらず醜い。顔の至る箇所に傷が出来ている。額の傷は、ガーゼにも血が特に染み込んでいるのが分かった。が、心なしかまだマシに見えた。それは単なる罪滅ぼしではなく、ようやく覚悟を決めることが出来た証だった。
マーリスを潰す──水井と、黒島の仇だ。
犬山は携帯を取り出し、突然電話を掛けた。
電話の向こうからドスの効いた声がし、応答されたことが確認できた。
「これから、Secretで会えますか」
犬山がSecretに到着した頃には、空に満月が浮かび上がっていた。
虎井はまだ、Secretに来ていない。
犬山は前と同じカウンター席へ腰掛け、マスターから灰皿を受け取った。
酒は一つも頼まず、ひたすら煙草を吸い続ける。一本、二本と本数は減っていき、やがてもう一本吸おうとした時、箱は空になった。
諦めたその瞬間、店の扉が開いた。
虎井だ。
「待たせたか」
「いえ」
愛想の無い返事を返した。
げっそりと痩せた犬山を見て、虎井は静かに相槌を打ちながら、犬山の隣へ座った。明らかに、以前ここで会った時とは違うと察したのだろう。が、それ以上に驚きはしなかった。
「話はなんだ」
珍しく虎井から話を振られる。呼び出したのは犬山だから当然といえば当然だが、新鮮だ。
「その前に一つ教えてください」
「なんだ」
虎井は自身の煙草を取り出し、火をつけながら応えた。
「あの覆面は、マーリスですか」
「そうだ」
虎井が答えたにも関わらず、犬山は表情一つ変えなかった。どこか虚ろな目で、カウンターの向こうを見つめている。
「俺はマーリスを潰します」
虎井も大した反応は取らなかった。言葉の混じる沈黙が、終始漂っていた。
「俺が知ってるマーリスの全てを話す」
犬山は、自分の拳を強く握った。
四十年前、東京。
虎井は、地元高校で一二を争うほどの不良であった。三度の飯より喧嘩を好み、ヤクザに面倒を見てもらっていたことから、誰しもが恐れる存在にへとなっていた。
虎井の面倒を見ていたのは、松原会の若頭・池道 利夫であった。
「また喧嘩でもして来たのか」
池道は、泥まみれで傷だらけの虎井の姿を見てそう言った。
「根性無しのイキリ野郎がムカついたから、滅茶苦茶にしてやったよ」
池道はため息をついた。
「てめえはガキだから許されるかもしれねえがよ、大人になれば暴力で全てが解決するわけじゃないんだぞ。根性があって、人一倍正義感があるのはお前の良いとこかもしれねえが、少しは衝動を抑えればどうなんだよ」
池道が言い終わるや否や、虎井はくすりと笑った。
「池道さんには言われたくはねえよ」
「じゃあお前、将来は何になるんだ」
そりゃ──と、虎井は目を輝かせた。
「池道さんと同じ極道になって、松原会に世話見てもらうんだ。その時は、池道さんのこと兄貴って呼ばせてくれよ」
「駄目だ。お前に極道は務まらん」
池道の応えに、虎井は怒り狂った。
「どういうことだよ!」
「所詮極道は屑だ。親父みたいな昔気質ないいヤクザも居るがよ、近頃の若い衆は、それこそお前が嫌いな捻くれ者ばっかりだ」
「それがどうしたってんだ。それに極道以外、俺に道は無い!もう腹は括ってんだよ!」
池道は、虎井の覚悟をよく認めていた。虎井なら、極道なんて余裕で務まる。だが、それでは池道の気が良くなかった。
「お前は、警察になれ」
「俺がポリ公だと?笑わせんなよ。それじゃ俺と池道さんは真っ向から反対で…」
「それでいい。お前が極道になることは、俺がさせない」
池道は、先程より口調を強めて言った。池道の本気に気がついたのか、虎井も流石に怯んだ。
池道にとって、虎井は子分のような存在だ。極道になれば、毎日が命取りだ。他の組織連中、もしかすれば身内にだって命を狙う者が居るかもしれない。そんな危険な世界に、子を晒したくはなかった。
「警察も簡単な仕事じゃねえぞ、虎井。警察なんて極道と同じだ。覚悟を決めて、犯人と真っ向から戦わなくちゃいけねえからな。だから、もう警察を舐めるのは止めて、おとなしく警察を目指してくれ」
虎井は怒りの痰を吐いた。
「分かったよ」
虎井は渋々、池道に従ったのであった。
二十年後、虎井は公安に所属。
現公安委員長である金田 朋也とは同期であり、金田と呑みに行くのは一種の日課となっていた。
その日も、二人は約束通り行きつけのバー、Secretで呑んでいた。
Secretは、公安所属当初、金田が教えてくれたものである。マスターの口の堅さが売りで、公安内部の重要話をする時も、ここで事前確認を行っていた。
「話ってのは、竜崎との件か」
虎井はウイスキーを頼んでから、直球に聞いた。
「ああ」
金田も虎井と同じものをマスターに注文してから応えた。
「安心しろ。松原のとこに、お前の兄貴が居るのは分かってる。ただ竜崎を通じて、極道世界の情報網を広げようってだけの話だ」
「それで違法密輸の手助けをしてやるってか」
金田は正直に肯いた。
「なあ虎井、俺らはただの犬じゃねえんだ。公安にしか出来ないことがある。いざとなれば、竜崎でもどの組でも平等に潰す。それが目的じゃないか」
ウイスキーを一気する虎井に、階級が上であるはずの金田が、頭を下げる。
「頼む、虎井。お前も協力してくれ」
虎井は考えながら、煙草を手に取った。
「俺はあんたの言うことに従う。だがいざとなれば、俺はあんたでも容赦はしない」
いざと言う時──それは、金田の信念が捻くれた時のことだ。捻くれ者の芽は摘んでおくべきだと、今でも思っている。それを条件に、虎井は金田の計画を承諾した。
しかし、現実は最悪の方向へと進んでしまった。
公安含む警察は「マーリス」という仮組織名を名乗り、竜崎組の悪事に加担した。それは、ただ情報を集めるための条件ではなく、取り引きによる金銭に、金田の目が眩んだからだ。
金田は、捻くれ者の芽であったのだ。
「虎井、どういうことだ。マーリスの正体が警察じゃないかっていう噂が流れ込んで来てるぞ」
池道は怒鳴るように虎井へ尋ねた。
虎井は俯いたまま、声を低くして応えた。
「あんたの言う通り、マーリスの正体は警察組織だ。公安である金田が練った作戦に乗っかっちまった」
池道は舌打ちをくれた。
「だがどうする。今は明らかに竜崎から喧嘩を売られている。うちもこのまま黙っておくわけにはいかない。このままでは抗争になるんだ!」
抗争になり、もしも松原会長のもとに何かあったら──池道はおそらく自害する。そういう覚悟で動いてる人間だと、虎井は知っていた。
「俺も出来ることはやる。抗争になることは何としても避けなくちゃいけねえ。最悪、金田を──」
それしかないと、虎井も思っていた。だが、決意はなかなか出来なかった。少なからず金田は同期で、それなりに友としての情もある。
しかし、結果としてその情が事態を悪化させてしまった。
警察組織が肩を持つ竜崎組と、単独の松原会による大規模抗争の幕が開けてしまったのだ。
抗争勃発から三ヶ月。松原会は極限状態まで追いやられ、堅気でさえも巻き込むという凄惨な事態へまで発展してしまっていた。
金田の暴走を食い止めようと動いた虎井であったが、過去の癒着を知る金田によって、身柄は拘束されていた。
そんな中、竜崎と松原は、互いに決着をつける流れへと突き進んだ。
会長 松原は、自らの居場所をあえて明かし、襲撃をかけようと目論む竜崎組員たちを、若頭 池道と若衆が鉄砲玉となって返り討ちにしたのだ。
池道は、ダンビラを手に、雪の積もる街道で、ただひたすら竜崎組員を相手にしていた。
「何がなんでも、親父だけは守り抜く!その為に生き抜け!」
若衆も、銃を片手に怒声を上げた。
その瞬間、遠くから膨大な爆発音が聞こえてきた。
──親父にいる方からだ。
松原が身を置くアジトに、竜崎組員によってダイナマイトが放り込まれたのだ。
松原を護衛する構成員の十人近くが死亡し、幸いにも生きながらえた松原は、構成員と共に脱出を試みた。が、外には大量の警察官によって包囲されていた。
「松原!確保だ!」
松原は諦め、大人しく警察によって捕らえられた。
「たった今、松原を確保したとの報告がありました」
金田の目の前で拘束されていた虎井の耳に、衝撃の事実が入ってくる。
──このままでは、池道の命が
「金田!こんなことをして許されると思ってんのか!」
見張っていた公安委員が、虎井に乗りかかって固定する。
「こんなこと?何、見かけは悪いが、全て上手くいってるじゃないか。この抗争だって、奴らが抵抗しなければ上手く手筈が回っていた。それでも口出しする気か」
「当たりめえだ!これ以上、松原に手出しはするな!でなければてめえの命の容赦はしない」
金田は嘲笑した。
「怖い怖い。そんなこと言って、お前は何もすることが出来てないじゃないか。大丈夫さ、全てが終わったら君は解放する。その時には、もう納得してると思うが」
虎井は歯を食いしばった。
──池道の身に何かあれば、確実にこいつを殺してみせる。
後方、アジトのある方からは、巨大な黒煙が舞い上がっていた。
「そんな…会長が」
ダンビラを持っていた斎藤が崩れ落ちた。
池道は、何も言葉を発さなかった。
──親父が、殺られた。
守りきれなかった自分の非力さに、苛まれる。
「…もう、俺たちの役目は終わった。松原会は、竜崎組に負けたんだ」
池道は、手にしていたダンビラを真っ二つに折った。散った先端部分を拾い上げ、その場にしゃがみ込む。
「カシラ、何を」
池道は唾を呑んで、怒声を上げた。
「俺はここで腹を斬る!親父を逝かせちまった償いだ!」
それを聞いた若衆は、ぶるっと肩を震わせた。その中の一人であった斎藤が、覚悟を決めて言葉を発する。
「それなら、俺も逝きます!一緒に償わせてください!」
「駄目だ!お前たちは死なせない。ここで死ぬのは俺一人だ!」
斎藤は、池道の圧に声が震えた。
「何故ですか」
「お前たちはまだ若い。まだ役目が残ってる。だが、俺はもう役目を失った。俺が死ぬ時は、親父が死ぬ時と決めていたんだ。だから、ここで俺一人死なせてくれ」
斎藤は、涙を浮かべた。他の若衆も、皆嗚咽を洩らして泣いている。
「分かりました…。俺たちはここで見届けます」
池道は黙ったまま肯いた。
「俺と親父の仇を取ってくれ。頼んだぞ」
池道は遠くの夕立を眺め、折れたダンビラを握り締めた。指と指の間から、血が滲む。池道は黙ったまま腹に突き刺した。
激痛に歯を食いしばる。刃を左腹から右腹に進め、ようやく自身にトドメを刺した。
死んだ池道は、そのままうつ伏せになった。
池道の最期を見届けた若衆たちは、変わらず涙を流していた。
虎井が池道の訃報を受けたのは、公安の拘束から解放されてからであった。
その頃、虎井は公安への報復をする恐れがあると見られ、公安を下ろされていた。その結果、虎井は警視庁本部の捜査四課に配属され、金田と接触することが困難となった。
一方、松原会は、会長 松原に懲役十年が言い渡され、若頭 池道が死んだことにより、竜崎組と手打ちが済んだ。とはいえ極限状態まで追い込まれた松原会だったが、松原が存命であったことや池道と一緒にいた若衆が数多く生き残っていたことから、自力で形成し直すことを決意した。
虎井は、池道の死から一ヶ月後、初めて池道の自害した地へ足を運んだ。
あの日、雪が積もっていたであろう道はすっかり雪解けし、各所に水溜まりも出来ていた。
虎井は、池道の血を吸った地に手を置いた。
「なあ池道、あんたの親父は死んでなんか無かったとよ」
底に溜まっていた憎悪が、沸々と煮えたぎってくる。
──松原が死んでいないことを知っていれば、今回の抗争がなければ、池道は死なずに済んだ。
「必ず、この腐った組織に終止符を打ってやる」
「松原会が竜崎組に報復…か」
係長の杉山は、虎井の言葉に頭を悩ませた。
「はい、確かにエスから仕入れました。俺としても、折角立て直せた松原会を崩壊することは防ぎたいんです」
「それで、拳銃を持ちたいと…。本当に、お前に止められるのか」
「確実に」
虎井は即答した。
杉山は、納得行かぬ顔で肯いた。
「まあ分かった。拳銃貸出の件は、上に報告しておく。何もしでかすなよ」
「感謝します」
その後、虎井は無事拳銃を借り入れることに成功し、ニューナンブM60を手にした。
松原会の報復の件は、勿論嘘である。いざこざはあったが、きっちり松原会と談話した後決定した。
公安から下ろされた今、金田と接触することは困難だ。下手に近づけば、監察に勘づかれる。が、虎井には一つ考えがあった。
──Secretで討つ。
金田と接触の図れる、唯一の手段だ。
虎井も知るバーであるとはいえ、金田は常連の一人だ。そう簡単に通うのを止めるのは考えにくい。
それに、Secretで決行するにはまだ利点がある。それは、Secretの位置が人気の少ない裏路地であることだ。虎井の犯行が大勢に知られる可能性は低い。監察の目が届くこともないと考えられる。
もう、金田に情などない。二度と同じ過ちを繰り返してたまるか。
松原と面会した際、松原会を利用する条件として、松原会を守り抜くことが挙げられた。その目的を配慮しても、やはり金田は潰さなくてはいけない。
それから毎日、日が暮れてからSecretのある裏路地で待機した。
時が来たのは、一ヶ月後。
日に代わって月が出たばかりの頃に、金田は現れた。
金田は一人だ。これほどまでに好都合なことは無い。
金田はSecretに向かって、ゆっくりと、裏路地を歩み進んだ。
虎井は、自分の前を金田が通過した頃、金田の背後から姿を現した。
「おい」
金田は、肩を震わせて振り返った。
虎井は既に銃口を胸に向けている。
金田は何か言葉を発しようと、口を開いた。が、声を出す余裕は無かった。
──パァン
銃声は、計三発鳴り響いた。
金田は、虎井の前に血を噴いて斃れた。
その様子は、実に無様だった。
二メートル先のSecretから、マスターが顔を出す。騒ぎを聞きつけ、こちらの様子を伺ったようだった。
虎井は血しぶきを浴びた状態で、マスターに顔を合わせた。
「それだけですか」
暫し沈黙を放つ虎井から、犬山はそう察した。
「ああ、俺が知ることはな」
犬山は、まだ聞き足りない表情を浮かべた。
重大な情報は得られた。マーリスの正体が警察組織であったことには、衝撃が隠せない。
だが、犬山が知りたいことはまだある。あの覆面男の正体、そして、水井の死の真相だ。
「このまま終わるわけにはいきません。その先を話してください」
犬山は虎井に対して語気を強めて言った。
「ああ、そうだな。だが、その前にお前に渡しておきたかったんだ」
「渡す?」
虎井は懐に手を突っ込んで取り出した。
取り出した代物が、テーブルに置かれる。
ニューナンブM60。虎井が強奪したとされる拳銃だ。まだ、虎井が手にしているとは思わなかったが、よく考えれば、以前ここで懲らしめられた時に手にしていたのは、確かにこれだった。
「金田を殺してから、すぐさま公安と警察から俺に疑いを掛けられた。だが、俺はマスターにマーリスの真相を明かしていたんだ。だから、俺をやればマーリスの情報が漏洩させると、奴らに脅した。何せ、俺がここで易々と捕まっては、松原会を守ることが出来ないからな。それで、拳銃も俺が手にしているままだ」
流石の犬山も困惑した。
「その拳銃を、俺に託すと」
なぜ虎井が持っておかないのか、様々な疑問が浮かんだ。だが、その疑問は虎井にとっても分かりきったことだった。
「思うことはあるだろうが、先にこれを渡してから、話をさせてくれ」
金田殺害から、実質、マーリスは虎井一人の統制下にあると言えた。
松原との約束通り、虎井は松原が出所するまで松原会を守り抜くことに成功。これで平和は取り戻される──その筈だった。
事態が急変したのは、今から三年前。
マーリス内に突如として、例の覆面男が現れた。組織からは、通称 Vとして呼ばれている。
Vの正体は、虎井にも暴くことが出来なかった。これまでのマーリス、公安内部の構成員に該当する人物が、一人も見当たらないのだ。
問題はそれからだった。
Vは、突如として虎井を歌舞伎交番に左遷。Vがどれほどの権力を持ち合わせているのかは分からないが、虎井を邪魔者扱いしていることからも、何か企んでいるに違いないと察した。が、目的は掴めない。松原会を潰そうとしているのか。なぜ正体を隠しているのか。不明なことが余りにも多すぎた。
そして、個人的なことに過ぎなかったが、虎井は一年後、筋萎縮性側索硬化症という難病を診断された。いずれ死に至る難病だ。
このままでは自分の役目が果たせなくなる。その為、虎井はすぐさま自分の役目を他人に託す必要があった。
そこで現れたのが──水井だった。
虎井は竜崎組を通し、犬山と水井がマーリスを追っていることを知った。犬山は当時、新人であったことも配慮し、虎井は水井を選別した。
虎井は水井に接触し、ありのままの真実を伝えた。が、それが水井には荷が重すぎた。
水井は、自分の属する警察組織が悪徳組織であることを知って、絶望に陥った。それに付け加え、水井は自分がマーリスの真実を知っていることを、警察組織に悟られてしまったのだ。その結果、水井は何者かに睡眠薬を呑まされ、竜崎組とマーリスが解き放った森崎によって殺害されてしまった。
「これには、俺の悪手もあった。もっとマシに託していれば…いや、そもそも最初からお前に託していれば、結果は変わっていたかもしれない。だから、水井を殺したのは、俺だ」
虎井から真相を聞かされ、気づけば、犬山は拳銃を手に取っていた。
──こいつが、水井を殺した。
銃口は、虎井の頭を睨んでいる。犬山は震える手で撃鉄を起こした。
殺意は、身体中に行き渡っている。だが、トリガーに掛けた指を引けない。
二年前と同じだ。竜崎に拳銃を向けたあの時と。脳内で、一つの疑問が引っかかっている。
──このまま殺して、何になるのか。
俺の敵はあくまでマーリス。とはいえ、こいつが居なければ、水井が死ななかったのも事実。
憎い、憎い、この手で殺してやりたい。
色んな感情が混ざり合い、手の震えは更に増していた。
「どうした。撃たないのか」
犬山はハッとした。虎井は何一つ抵抗していない。拳銃を差し出したのも虎井だった。
──まさか
犬山は手にしていた拳銃を、ゆっくりと下ろした。
「俺を、試したんですか」
虎井は黙り込んだ。
「ここで殺されても仕方がないとは思っていた。全てが託せたのであればな。だが、君の覚悟を試したのも一つだ」
気づけば、犬山は冷静になれていた。手にしていた拳銃をテーブルに置き、撃つつもりは無いことを示して見せた。
「あんたは、弾じゃなくとも病が殺してくれる」
虎井は表情一つ変えず肯いた。
「今装填されている弾は三発。上手く行けば、松原の連中が渡してくれるだろう」
「松原会に?」
天敵の一つとも言える松原会と協力──普通に考えれば困難に違いない。だが、黒島も言っていた通りだ。共通の敵が居るならば、それを機に手を結ぶしかないのだと。
「虎井さんの思いは分かりました」
犬山は、テーブルに置いていた拳銃を、再度手に取った。
「俺に、全てを託してください」
「これにします」
犬山は指を差してそう言った。指の先にあるのは、中古のSR400、中型クラシックバイクだ。
犬山は、以前の愛車が廃車になってしまったことから、今度はまたもやバイクを購入する事に決めていた。その際に一目惚れしていたのがこのSR400だ。ブラックの底光りするボディと、洗練されたシンプルなデザインに惹かれてしまった。
「セルも付いてないし不便なとこもあるでしょうが、魅力の溢れる名バイクです。思う存分走らせてやってください」
愛想のある店員に軽く返事をし、そのままバイクを購入した。
犬山は早速SRに跨り、道を走らせた。
向かった先は──幸福亭だった。
店は、開店前だが灯りが着いている。直接ケリをつけるならば、うってつけの時間だろう。
犬山は空き切った駐車場にSRを停め、幸福亭の扉を潜った。
中は、人気を感じさせられないほど物静かで、知香の姿もどこにも無かった。
犬山は、カウンターから厨房を覗き込んだ。
「ありゃりゃ、来ていたのかい」
犬山の耳に聞き馴染みのある声が聞こえてくる。
「鈴木さん」
鈴木は一人で、料理の前準備をしていた。厨房の中を見渡しても、やはり、知香の姿は無かった。
「すみません、早くからお邪魔して。知香は来てませんか」
「ああ、知香なら今日、司法試験を受けに行ったそうでな。無理にバイト出なくていいって言ったんだが、いつもより遅れてでも来るそうだ」
鈴木をにっこりと微笑み、犬山の顔を見つめた。
「君と同じで、会いたいからなのかもな」
犬山は表情一つ変えなかった。口角も一ミリたりとも上げず、無愛想な表情と言えるだろう。
知香が居ないのであれば今度、と思ったが、気が変わった。何も直接話すなんて必要はない。
「メモ用紙とペン、ありませんか」
鈴木は一瞬戸惑ったが、丁度厨房に置かれていたものを手渡した。
犬山は鈴木から受け取った紙に、淡々と、知香への言葉を書き連ねた。
「鈴木さん、これ、知香に渡しておいてもらってもいいですか」
そう言って、犬山は書き終えたメモ用紙を一枚切り取り、鈴木に渡した。
鈴木はその紙に書かれた内容を見て、開いた口が塞がらなくなった。
「本当に、これでいいのか」
犬山は深く肯いた。
「これでいいんです。関係を絶つことが、知香の為にもなりますから」
何も答えない鈴木に対し、犬山は付け加えた。
「それだと、しばらくはここへ来れなくなりそうですね。水井との思い出の場所なので、少し物寂しいですが」
鈴木も軽く肯いた。
「いつでも待っているよ。刑事としての責務、しっかりと果たしてくれよな」
今の自分が刑事に相応しいか──と一瞬戸惑ったが、それ以上は特に考えなかった。
鈴木は準備の為、厨房へ戻った。
犬山は店を出る間際、いつも座っていたカウンター席に、新品の煙草一箱を置いていった。
──さようなら、知香。
犬山は知香の連絡先を削除し、SRに跨った。
「これからは独りでもやってやるさ」
自分一人の復讐の為にマーリスを潰す訳では無い。俺の正義の為に、マーリスを潰してやる。
「犬山 健次に、全てを託した。お前の役割は、全てが終わってからだ」
通話越しに、若い男が応える。
『本当に、いいんですか』
「ああ。面倒を掛けることになるが、そうしなければ、その先の組織が歪むことになる」
『分かりました』
男は承諾し、通話を切った。
虎井は、誰も居ない路地裏を歩いた。
もうやり残したことは無い。松原会も、きっと上手くやってくれる。
虎井は煙草を取り出して火をつけた。
「虎井」
後方から、男の声が聞こえた。が、虎井は少しも動じなかった。
「来ると思っていた」
男は覆面を身につけている。手には、拳銃が握られていた。
銃口に睨まれても尚、虎井は微動だにせず、抵抗すらしなかった。
──パァン
銃口から、火が噴いた。
虎井は胸から血を噴き、その場に斃れた。
地面に堕ちた一本の煙草は、じりじりと音を立てて燃え続けていた。
刑事の覚醒 [完]
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愛読していただきありがとうございました。 『狂犬の刑事 ノベライズ版』も残す所あと一作ですが、諸事情で公開するのはまだまだ先になりそうです。少しづつでも執筆していきますので、公開した際には目を通して頂けるとありがたいです。