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彼女はいつものように俺の手首に手錠をかけ終わると、羽毛でふかふかしすぎる枕の影から、その本を取り出した。
「ギリシア神話?」
彼女は少し馬鹿にするように眉を潜めた。
「どうしたの?これ」
俺は視線を本棚に向けた。
「見つけた」
「……………」
彼女は信じられないというように首を弱く振った。
「もしかして、ギリシャ神話はきら―――」
「ええ、嫌いよ」
言い終わる前に彼女は言い放った。
「昔、祖母が寝る前に読んで聞かせてくれたんだけど……不気味で怖くて、大嫌いだったわ」
「不気味で怖い……?」
「そうよ。全知全能の最高神ゼウスは、人類に火を与えたプロメテウスを生きながらにして内臓を大鷲に食べさせたし」
「―――なんだそれ……」
「トロイア戦争でギリシャ勢を率いた英雄のアガメムノン王は、妻のクリュタイメストラとその愛人のアイギストスに、10年ぶりに戦場から帰って疲れた体を風呂で流しているその時を狙われ、暗殺されてしまうし」
「―――愛人?」
「そう。ギリシャ神話なんて、不倫と復讐の話ばかりよ」
彼女は鼻で笑った。
「中でも愚かなのは、パリスね」
「―――パリス?」
「ええ。トロイア王の子、アレクサンドロスとして生まれた彼は、占い師に災厄の種になると言われ、イーデー山に捨てられるの。
もちろん赤ん坊の時の記憶など残っているわけもなく、彼は羊飼いに拾われて、パリスという名前をもらって生きたの」
記憶がなく偽りの名前をもらって――――。
まるで俺みたいだ。名前はないけれど。
漠然とそう思った。
「その後、王の子であることが明らかになったパリスは、王宮に迎えられ、ゼウスに、神々の女王ヘラと、知恵と戦いの女神アテナ、愛と美と豊穣の女神アフロディテの3人のうち、一番美しい女神を選べと言われたの」
「………へえ。詳しいな……」
俺が感心して言うと、
「何百回と聞かされたもの」
彼女は心底嫌そうにフンと鼻を鳴らした。
「ヘラは、“アシアの君主の座“を。
アテナは“戦いにおける勝利“を。
そしてアフロディテは“この世で最も美しい女”を、
それぞれ賄賂としてパリスに約束した」
彼女はそこまで言うと、俺の上に跨り、ふわっと赤髪を俺の腹筋に落とした。
「彼は誰を選んだと思う?」
俺は片方の眉を上げながら笑った。
「彼は知らないが、俺ならアフロディテを選ぶ」
言いながら顎を上げると、彼女はその頬を両手で包み込み、自分の真っ赤な唇を合わせた。
下唇を嘗め、軽く吸う。
「……あ」
色を含んだ声を出しながら彼女の舌が俺の突き出したそれを絡み合う。
それだけで俺の下半身はジーンズを突き破るほどに硬くなる。
顎を少し引いて唇を離す。
「………?」
彼女の大きな瞳が、俺の右目と左目を往復する。
「―――この世界で最も美しい女性を、もらうことにしよう」
「……馬鹿」
彼女の満足そうな微笑を見てからもう一度顎を突き出すと、彼女は深く舌を挿し込んできた。
「んん……」
彼女のスカートの中。
肌触りの良い絹のショーツが、俺の腹筋の凹凸に擦られる。
まだ触れてもいないのにヌルヌルと十分に濡れているのがわかる。
「………んぅッ!」
たまらなく切なくなり、足に力を入れて軽く腰を突き出すと、彼女は自分の股間を、俺の股間に合わせた。
ボクサーパンツ。ジーンズ。ショーツ越しの挿入。
もちろん入るわけない。
それでも俺はゆっくり腰を動かし始めた。
「アフロディテを選んだパリスは……その後、どうなったか知ってる?」
彼女も俺の動きに合わせながら、息を上がらせて言った。
「わからない。まだ……読み始めたばかりなんだ……」
俺も息なのか言葉なのかわからない声を発しながら答える。
「彼女が約束通り紹介した絶世の美女、ヘレネ―は、実はスパルタ王の奥さんだったの」
「……それはそれは……」
「夫が怒って、王族を巻き込んだトロイア戦争を招くのよ?それが、”パリスの審判”」
―――パリスの審判……。
「パリスはね、ゼウスの妻であるヘラの言うことを聞いていればよかったのよ。そうすれば、死ぬこともなかった」
「―――女王の?」
「そう」
彼女はジーンズのチャックを緩め、飛び出す様に出た俺のものを掴むと、嬉しそうに自分の濡れそぼつ自分のショーツをずらした。
「ヘラはね、夫を愛し抜く、嫉妬の女王でもあるの」
彼女は意味深に微笑むと、
「ねえ、パリス?……ヘラを裏切らないでね?」
自分の熱いその中へ俺のものを誘った。
◇◇◇◇◇
ガチャン……カチャ……キキ……キイ……
自分の両手首に繋がれた手錠が、鉄製のベッド柵に打たれ擦れて、硬く悲鳴のような音を立てる。
「……は……ん……ああッ……ア……」
自分の上で響く控えめな声と、目の前で揺れる白く形の良い乳房だけが、この行為が甘美に満ちていて、官能的で、自分が望んでそうしていることであると、思いこませてくれる。
美しい女の、艶やな長い赤毛が、汗で湿った自分の鎖骨にかかる。
「―――愛してるわ、パリス」
偽りの名前を聞いて、下半身に力を入れる。
「俺もだよ。ヘラ……」
偽りの名前ができただけなのに、
今までよりもこの行為が気持ちよく感じる。
俺は誰なのか。
彼女は誰なのか。
俺は何をしたのか。
彼女はなぜ俺を閉じ込めているのか。
何一つとして明らかになっていない。
それどころか疑惑は濃くなるばかりだ。
ただーーー
パリスはヘラとセックスをしている。
それだけは、確かだった。
◆◆◆◆◆
色熱と、倦怠と、諦念が漂う部屋の中で、俺はいつまでも仰向けでベッドに寝転がっていた。
少女が食事を運んでくる。
いつもの動作で盆と水差しとグラスが置かれる。
少女は振り返った。
「どうぞ。お召し上がりください」
「―――?」
俺は目を見開いた。
少女が言葉を発したのは、あの日以来だ。
少女は目を合わせるのを避けるように俯くと、小さく会釈をして、部屋を出ていった。
「……………」
俺はよたよたと立ち上がった。
目に入ったのは、水差しとグラスの間に不自然に置かれた白い紙製のコースターだった。
ちらりとカメラを見上げる。
水差しが大きいため、視覚になって見えないようだ。
何気ない顔をしてそれを覗き込む。
俺は、コースターに黒色のインクで走り書きされた文字を目で追った。