テラーノベル
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朝から、家の中が静かだった。
いつもなら、キッチンからカキの大声が聞こえ、マサカゲが予定表を確認し、アオノが機材の調整をしている。
しかし、その日は誰も大きな音を立てていなかった。
リビングのソファにはカキが横になり、ギターを抱えたまま眠っている。
マサカゲはテーブルに予定表を広げていたが、ペンを持ったまま動かない。
ミステーは窓辺に座り、庭の同じ場所を長いあいだ見つめていた。
アオノは全員の様子を順番に記録している。
「カキ、睡眠時間が不足している」
「ん……あと五分……」
「昨夜も同じ発言をした。実際には三時間しか眠っていない」
「五分がいっぱいあったんだよ……」
アオノはマサカゲに視線を移した。
「マサカゲ、予定表の更新が止まっている」
「分かってる。今、考えている」
「何を?」
「どの順番で休憩を入れれば、全員が効率よく休めるか」
「休憩の計画に、二十分以上使っている」
「計画なしに休むと、あとで予定が崩れる」
アオノはミステーを見る。
「ミステーは、同じ場所を二十七分見ている」
「庭が動くのを待っています」
「何か動く予定がある?」
「動かないものにも、動く前の時間があります」
アオノはタブレットに入力した。
《全員、精神的疲労の可能性》
メバルはキッチンに立ち、六人分の飲み物を作っていた。
しかし、自分のカップだけがまだ空だった。
アオノが声をかける。
「メバル、睡眠時間は?」
「五時間くらいかな」
「昨日の作業時間は?」
「覚えてない」
「食事量は?」
「あとで食べるよ」
アオノは全員のデータを並べた。
体温。
心拍数。
睡眠時間。
食事量。
練習時間。
機材の稼働時間。
数字は並んでいる。
しかし、数字を見ても、全員がなぜ疲れているのかは分からなかった。
「疲労の原因が特定できない」
メバルはカップを置いた。
「原因なら、たぶん分かってるよ」
「何?」
「みんな、休んでないから」
「睡眠時間は記録できている」
「寝ることと、休むことは違うよ」
アオノは黙った。
メバルは少し笑った。
「今日は防音室の練習、中止にしよう」
マサカゲが顔を上げる。
「中止?」
「うん。全員疲れてる」
「でも、撮影準備が――」
「午後に少しだけやればいい」
「予定を変更すると、完成が遅れる」
「遅れてもいいよ」
マサカゲは予定表に目を落とした。
「よくない」
「よくないと思ってるのは、予定表じゃなくてマサカゲでしょ」
マサカゲは返事をしなかった。
メバルは全員を見回す。
「疲れたから休む。それだけでいいんだよ」
カキがソファから顔だけ出した。
「休んでいいの?」
「いいよ」
「じゃあ、俺は寝る」
「ギターを抱えたまま?」
「これも休ませる」
「ギターは休んでるよ」
カキはギターを抱え直した。
「じゃあ俺も休む」
アオノは、タブレットに新しい項目を作った。
《休息:必要性を確認できないが、実施》
メバルが画面を見た。
「アオノ」
「何?」
「それも記録しなくていいんじゃない?」
「記録しないと、後で検証できない」
「そういうところだよ」
「どういうところ?」
メバルは少し考えた。
「休むことまで、正解かどうか調べようとするところ」
アオノは答えられなかった。
昼過ぎ。
全員がそれぞれの場所で休んでいた。
カキはソファで眠っている。
マサカゲは予定表を閉じ、庭の椅子に座っている。
ミステーは防音室の前に座り、音のない扉を眺めている。
アオノは機材の電源を切り、何も操作せずに椅子へ腰を下ろしていた。
K-Tだけが、廊下を歩いていた。
メバルはキッチンからその姿を見た。
「Kちゃん、どこへ行くの?」
「練習」
「今日は休み」
「問題ない」
「その言葉、今日は使わないで」
K-Tは足を止めた。
「必要だから」
「それも禁止」
K-Tはメバルを見た。
メバルは笑顔だったが、目は真剣だった。
「今日は、練習しなくてもいい日」
「予定にない」
「予定に入れたよ」
メバルはテーブルの上に置かれたマサカゲの予定表を指差した。
いつの間にか、午後の欄にメバルが書き加えている。
《休む》
K-Tは予定表を見る。
「誰が決めた」
「私」
「全員の許可は?」
「取ってない」
「勝手だな」
「うん。今日は勝手にする」
K-Tはしばらく予定表を見ていた。
そして、防音室へ向かうのをやめた。
「分かった」
メバルはほっとした。
「ありがとう」
「礼はいらない」
「でも、ありがとう」
K-Tは何も返さず、自分の部屋へ戻っていった。
メバルはその背中を見送った。
一人になったキッチンで、ようやく自分のカップに飲み物を注ぐ。
その手が少し震えていた。
メバルはカップを両手で包んだ。
自分も、思っていたより疲れていた。
午後三時。
マサカゲが倉庫から衣装ケースを運び出した。
「撮影用の衣装を確認する」
「今日やるの?」
メバルが尋ねる。
「最低限だけ。練習を中止した分、準備を進める必要がある」
「無理しないでね」
「無理はしていない」
カキがソファから起き上がる。
「それ、今日何回目?」
「何が?」
「無理してないってやつ」
マサカゲは返事をしなかった。
衣装ケースを開ける。
撮影で使う衣服が、種類ごとに分けられていた。
ジャケット。
シャツ。
パンツ。
スカート。
装飾品。
メバルが中を確認していると、一組の衣装が足りないことに気づいた。
「この上下、片方しかない」
「どれ?」
マサカゲが確認する。
「上着はあるけど、下がない。別のケースかな」
カキが衣装を持ち上げた。
「これ、メバルちゃんの衣装だろ?」
「うん。撮影用に用意してたもの」
淡い色のトップスと、同じ素材のボトムス。
肩と脚が比較的出るデザインで、照明が当たると輪郭がはっきり見える。
マサカゲが倉庫内を探し始める。
「下の衣装がないと、撮影の構成を変更する必要がある」
「探せばいいんじゃない?」
カキが棚の奥を覗く。
メバルも別の箱を開けた。
そのとき、K-Tが廊下から戻ってきた。
「何をしている」
「衣装を探してるの」
メバルが答えた。
「撮影用の上下が一組足りなくて」
K-Tは衣装を見た。
「これを使えばいい」
「でも、それはメバルちゃんの衣装だぞ」
カキが言った。
メバルはK-Tを見る。
「Kちゃん、本当にこれ着るの?」
「撮影に必要なら着る」
「肩も出るし、動いたら脚も見えるよ」
「動きやすいか確認する」
K-Tは衣装を手に取った。
生地を指で確認し、縫い目を見る。
「問題ない」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
カキが言葉を濁す。
K-Tは衣装を持ったまま、倉庫の奥にある簡易更衣スペースへ向かった。
メバルが後ろから声をかける。
「サイズ、大丈夫かな?」
「着てみる」
「無理なら、別の衣装を探そう」
「必要ない」
カーテンが閉じる。
しばらくして、K-Tが出てきた。
女性用として用意されたトップスとボトムス。
肩と脚が見えるデザインだが、K-Tは気にする様子がない。
まず腕を上げる。
次に身体をひねる。
歩幅を変え、しゃがみ、軽く片足を引く。
衣装の縫い目や可動域だけを確認している。
メバルは黙って見ていた。
「どう?」
K-Tが尋ねる。
「動きやすそう」
「問題ない」
「そう……」
K-Tは鏡の前に立った。
短い時間だった。
正面。
横。
背中。
肩の線。
腰の位置。
衣装が身体の線をどう見せるかを確認しているように見える。
メバルは、その視線の細かな動きを見逃さなかった。
K-Tは衣装が似合うかどうかを見ているのではない。
どこまで見えるか。
どの角度なら、何が分かってしまうのか。
そんなことを確かめているようだった。
「Kちゃん」
「何だ」
「上着、持ってくる?」
「必要ない」
「撮影の待ち時間だけでも、羽織っておいたほうがいいよ」
「動ければいい」
K-Tは鏡から離れた。
その声はいつも通りだった。
メバルは、それ以上聞かなかった。
「じゃあ、撮影はこの衣装でいこう」
マサカゲが予定表に書き込む。
「午後五時から、庭で衣装撮影。防音室は使わない」
カキが手を挙げた。
「俺、撮影係やる!」
「カメラを落とさないなら」
「落とさない!」
「前に一度落とした」
「一度だけ!」
ミステーがK-Tの衣装を見つめる。
「布が、K-Tのことをまだ知らないようです」
カキが振り返る。
「服が人を知らないって何?」
「着ている人の秘密が、布に移っていません」
K-Tの視線が一瞬だけミステーへ向いた。
ミステーは気づいているのか、気づいていないのか分からない顔で、衣装ケースを閉じた。
夕方。
庭に簡易撮影セットが組まれた。
白い布を背景に張り、照明を二台設置する。
カキがカメラを構え、マサカゲが構図を確認する。
アオノは照明の角度を調整している。
メバルはK-Tの衣装の裾を確認した。
「立ったときは大丈夫。でも、走る動きは少し気をつけて」
「動きを試す」
K-Tが数歩進む。
急に方向を変える。
腕を伸ばす。
ドラムスティックを持つ動きを想定し、肩を大きく回す。
衣装はずれなかった。
「問題ない」
メバルは上着を手に持ったまま、K-Tの肩を見た。
「撮影中、寒かったら言ってね」
「寒くない」
「今はね」
「問題ない」
「だから、その言葉は禁止だって」
K-Tは黙った。
カキがカメラ越しに笑う。
「メバルちゃん、K-Tの保護者みたいだな」
「カキ、撮影に集中して」
「集中してるって!」
マサカゲが指示を出す。
「K-T、正面。少し左。顔はそのまま」
K-Tが指示通りに動く。
衣装の色と肌に当たる照明が、背景の白と重なった。
カキがシャッターを切る。
「おお……」
「何?」
メバルが尋ねる。
「なんか、いつもと違って見える」
K-Tはカメラを見た。
「違う?」
「服が違うから」
「衣装が違うだけ」
「そうだけどさ」
カキは再びシャッターを切った。
K-Tの立ち姿は、普段よりも身体の線がはっきりしている。
しかし、姿勢や視線はいつも通りだった。
視線はカメラではなく、カメラの配置と照明の方向を見ている。
「K-T、もう少し笑える?」
カキが言った。
「笑わない」
「撮影なんだから、少しだけ」
「必要ない」
「メバルちゃん、どう思う?」
「無理に笑わなくていいよ」
メバルはすぐに答えた。
「Kちゃんは、そのままでいい」
K-Tはメバルを見た。
ほんの一瞬、視線が柔らかくなった。
しかし、それはすぐに消えた。
「次は演奏の場面」
マサカゲが言った。
庭に小型のドラムセットを置く。
K-Tは衣装のままドラムの前に座った。
メバルはアコースティックギターを持つ。
当初の撮影では、衣装の動きだけを撮る予定だった。
しかし、カキがファインダーを覗きながら言った。
「これ、音も入れたほうがよくない?」
「予定にない」
マサカゲが答える。
「でも、演奏しているほうがK-Tらしいだろ」
K-Tはドラムスティックを持った。
「やる」
メバルが振り返る。
「Kちゃん、喉は大丈夫?」
「問題ない」
「それは禁止」
「歌う」
メバルは少し困った顔をした。
「じゃあ、無理しない範囲で」
K-Tがドラムを叩き始める。
強くはない。
衣装がずれないように動きを調整しながら、それでもリズムは正確だった。
メバルがギターを鳴らす。
短いコードが、庭に広がる。
K-Tが歌い始めた。
高音中心の旋律。
普段の話し声からは想像できないほど、透明な声だった。
メバルは少し遅れて、下の音域からハモる。
K-Tの声が細く上へ伸び、メバルの声がその下を柔らかく支える。
二本の線が、別々の方向から空へ向かっていく。
アオノが音量を確認した。
「音の重なりがきれい」
マサカゲは予定表を持ったまま、演奏を見ている。
ミステーは庭の隅で目を閉じていた。
カキはカメラを構えているが、シャッターを押すのを忘れている。
メバルの声が一段上がる。
K-Tがその音を受け、さらに高く伸ばす。
K-Tの声は鋭い。
メバルの声は温かい。
互いに違うからこそ、重なった部分に新しい音が生まれる。
曲として完成されたものではない。
決められた歌詞もない。
それでも、誰も演奏を止めなかった。
K-Tがドラムで一度、強くリズムを変える。
メバルがそれに合わせる。
ギターのコードが一つだけ残り、K-Tの高音がその上に伸びる。
声が消えたあとも、余韻が庭に残った。
演奏が終わる。
カキがようやくシャッターを切った。
「今の、曲にできるんじゃない?」
アオノが録音データを確認する。
「構造は不完全だが、素材として使える」
「タイトルは?」
カキが尋ねる。
マサカゲが予定表を閉じた。
「即興だから、まだ決めなくてもいいんじゃないか?」
ミステーが言った。
「音が休める場所を探していました」
メバルは、演奏の最後に残ったコードを思い出していた。
K-Tの高音が消えたあと、ギターの音だけが少し残った。
音が止まるのではなく、置かれる場所。
メバルは静かに言った。
「『余白のなかで』はどうかな」
アオノが入力する。
《楽曲名:余白のなかで》
K-Tは衣装の袖を確認した。
「長い」
「曲名としては普通だよ」
「覚えにくい」
「じゃあ、覚えなくてもいいよ。歌えば分かるから」
K-Tはメバルを見る。
「分かる?」
「うん。たぶん」
メバルは笑った。
その夜。
衣装を脱いだK-Tは、いつもの服に戻っていた。
女性用の上下衣装は、丁寧に畳まれ、衣装ケースへ戻されている。
メバルがケースを閉じようとしたとき、K-Tの手が止めた。
「次も使う」
「撮影で?」
「必要なら」
「うん。分かった」
K-Tは衣装を一度だけ見た。
昼間、鏡の前で確認していたのと同じように、肩や腰の線を目で追う。
メバルは何も言わなかった。
やがて、K-Tはケースから手を離した。
リビングでは、アオノが録音データを整理していた。
《残響の輪郭》
《余白のなかで》
二つの曲が並んでいる。
アオノは「余白のなかで」の波形を再生した。
メバルの声。
K-Tの高音。
最後に残る、短い沈黙。
その沈黙を、アオノは削除しなかった。
「無音部分は不要ではないの?」
ミステーが隣から尋ねた。
アオノは波形を見たまま答えた。
「演奏が終わったあとに、音が残っている」
「それは音ではありません」
「でも、記録する価値がある」
ミステーは頷いた。
「休符にも、居場所があります」
防音室の外では、メバルがK-Tに声をかけていた。
「Kちゃん、今日はちゃんと休めた?」
「休んだ」
「本当に?」
「防音室に入らなかった」
「それだけ?」
K-Tは少し考えた。
「歌った」
「それは休んだことになるのかな」
「メバルが歌えと言った」
「私、そんなこと言ってないよ」
K-Tは答えなかった。
メバルは小さく笑った。
「でも、今日はいつもより少し楽そう」
「そうか」
「うん」
二人の間に、短い沈黙が生まれた。
K-Tは先に歩き出す。
メバルはその後ろをついていった。
防音室の中では、昼間の即興演奏の最後の音が、まだスピーカーの内部に残っていた。
メバルの柔らかな声。
K-Tの高く透明な声。
そして、二人の声が消えたあとに残る、静かな余白。
その余白のなかで、音はまだ眠らずにいた。
94
K-Takasaka
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コメント
1件
第4話、読み終えました…。 なんか、すごくじんわりきました。みんな疲れてるのに「休むこと」すら計画とか記録の対象にしてしまう感じ、痛いほど伝わってきた。アオノが「休息:必要性を確認できないが、実施」って書くところとか、逆に胸が詰まる。 K-Tが女性用の衣装を着て、鏡の前で「どこまで見えるか」「何が分かってしまうか」を確かめてる場面、すごく気になりました。あの視線の動き、何かを隠してるのか、それとも自分を知ろうとしてるのか…。 最後の即興演奏、「余白のなかで」。音が消えたあとに残る静けさをちゃんと作品にしてるところが、K-Takasakaさんらしいなって思います。休むこと、余白を持つことの大切さを、そっと教えてくれるような回でした。続き、待ってます🤍