死のうと思っていた。
今年の正月、よそから一反の着物をもらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。
これは夏に着る着物であろう。
夏までは、 生きていようと思った。
─太宰治
風が強い。
少し身体がぐらついた。
窓枠に乗せた両足を置きなおす。
改めて下を見ると、遠くに枯色をした校庭の一部が見えた。
この学校に対して初めてプラスの感情を持った点が、失敗が有り得ない高さに4組の教室があったことだ。
溜息を吐く。
瓦石に等しい1年4ヶ月間だった。
映像を見返すように鮮明に、これまでの記憶を思い起こす。
性善説も2:6:2の法則もカウンセラーの「大丈夫」という業務文句もぜんぶ嘘だと分かって、縋りたい言葉にすら裏切られた。
だからもう終わることにした。
これは見せしめだ。
8月31日
4階にあるこの2年4組の教室。”現場”になるであろうゴール地点は校庭。校庭のまわりには民家。
そして明日は夏休み明け、登校日。
最高の条件が揃っている。
23:58
教卓の真上に掛けられた時計を見やると、今にも子の刻を指そうとしていた。
そろそろかな、と思う。
目を閉じ、窓枠についた四肢の力を抜いていく。
「待って」
私の身体は、まだ窓枠にあった。
目を開け振り返ると、名前の知らない、セミロングの髪をした小柄な女子生徒が背後から抱き着いていた。
一瞬思考が停止したが、ああ、見つかったのか、と思う。
彼女は息を切らし、驚きと焦りの入り混じった顔をして大きな瞳で私を捉えていた。
「…だれ?」
「えっと、あの……
これ、
…着てみてくれませんか」
私の問いかけには答えず、自分で止めに来たくせに彼女は酷く狼狽していたが 、ついにそう言って両手を突き出した。
その手には1着のワンピースがあった。
暗い教室の中で、眩しい程の白が目に飛び込んだ。
私は訝しむよりも先に、綺麗だ、と思う。
這いつくばって頭から掛けられた腐った牛乳よりも、下品な笑い声をあげながらスマホを向ける彼女らの目元のハイライトよりも、見て見ぬふりを通していた担任のシャツよりも、酔った母親に投げつけられた灰皿よりも。
なによりも、純粋な白をしていたからだ。
「これ、わたしが作ったんです
廊下から見かけて、キレイな人だなあって、
このワンピース…すごく似合いそうだなあって…
それで見てたら、…飛んで行っちゃいそうだったから…」
まだ何も言わないのに、彼女はまるで言い訳をするようにそう話した。
私は苦笑した。飛んで行っちゃいそう、か。
落ちようとしてたんだよ、とは言わないでいた。
「だから…これ、
あなたに着てみてほしいんです
飛んで行っちゃう前に」
私はまだ、宙と隣合わせの窓の中にいた。
吹き込む風が制服のスカートを揺らす。
彼女は懇願するように、けれど真剣な顔つきでそう言った。
「わかった」
そう答えて窓から下りると、彼女は緊張が解けたようにほっと息をついてへたり込んだ。
私がその場でセーラー服からワンピースに着替えるのを、彼女は床に座り込んだまま見ていた。
身体中に散らばった無数の打撲痕や煙草の火傷、太腿と手首に赤黒い縞模様をつくる切創を露わにしても、ただ黙っていた。
彼女の白いワンピースはベールを掛けたように私の創痕を淡く覆い隠し、これまでの辛酸までもを優しく包み込むようだった。
月明かりのくぐる窓を背にして立つ。
通りすがった夜風が髪を揺らした。
暫くの寂静が漂っていた。
「やっぱり、綺麗です
まるで白鳥さんみたい」
「白鳥は自ら地に落ちたりしないわ」
「わたしには飛び立とうとしているように見えたんです」
「カラスの方が性に合ってるかもね」
「…わたしはあなたの名前も過去も知らない
だけど、あなたの艶やかな黒髪も
凛と通る声も
赤の映える白い肌も
わたしはすごく奇麗で、素敵だと思います
だから飛んで行かないで、
…ここにいてくれませんか」
彼女はやはり真剣な顔でこちらを見上げていた。
私は受け流そうと取り澄ました顔をつくってみせたが、気付けば視界が濡れ、 涙が溢れていた。
溢れてとまらなかった。
ああ、
ずっとその言葉が欲しかったのだ。
「ありのままの私が好きだ」って、
誰でも良いから、嘘でも良いから。
ただそう言って欲しかった。
私という存在を許して欲しかった。
窓の下で座り込み、嗚咽を零す私に彼女は優しい声で言った。
「花見月でのあなたの姿も、 見てみたいです」
─春までは、
ㅤ 生きていようと思った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!