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【2007年2月28日(水)】
今、私は“大切なモノ”を探すためにアメリカへ来ている。
きっと、生まれて初めての女ひとり旅だ。
英語は、中学生の頃からわりと得意だった――そう思う。
飛行機を降りてから続く、この止まらない胸の高鳴り。
それが何を意味するのか――きっとこのニューヨークの街が教えてくれる。
腕時計を見ると、時刻はすでに17時を回っていた。
空はうっすらと藍色に染まり始め、夜の帳が静かに降りてくる。
入国手続きを終え、空港を出てタクシーを拾う。
行き先は、ニューヨーク中心部のホテル。
窓の外に流れていく景色は、どれもこれもが新鮮だった。
日本では見かけない奇抜な形のビル群。
映画の中でしか見たことのないような街並み。
巨大な橋を渡ると、そこから見えるのは宝石を散りばめたような美しい夜景だった。
だけど――不思議な既視感があった。
どこかで見たことがある気がする。
テレビ? 雑誌?
いや、何かが違う。
思い出せそうで、思い出せない……。
ホテルに着いたのは、空港を出てから1時間ほど経った頃だった。
チェックインを済ませ、渡されたルームキーを見て驚いた。
部屋番号は――11階の18号室。
“1118”――どこかで見覚えのある数字。
偶然? それとも、何かの意味……?
エレベーターで部屋へ向かうと、大きなベッドに、窓から見える夜景。
想像以上に広くて快適な空間に、思わずひと息ついた。
少し休んだあと、私はバッグに地図とメモを詰め、再び外へ出た。
通りを行き交うのは、当たり前のように外国人ばかり。
異国の街の空気に、胸がすこしざわつく。
震える指先で、ポケットの中のメモを取り出す。
それは――私の“大切なモノ”があるという場所の住所だった。
そのメモをくれたのは、日本にいる先輩だった。
「なぜ、先輩がこの場所を知っていたのだろう?」
歩きながら、ふとそんな疑問が胸をよぎる。
けれどその答えを探す前に、私は見事に道に迷ってしまった。
――そういえば、友達にも言われた。
「アンタって昔から方向音痴だよね」って。
あきらめずに近くを歩いていた現地の人に英語で声をかけると、「ちょうど同じ方向だから」とホテルまで付き添ってくれた。
イメージと違う――アメリカは、思っていたよりもずっと親切な国だった。
心の緊張が少しほどけると、どっと疲れが押し寄せてきた。
その晩は、シャワーを浴びるとすぐにベッドに潜り込み、静かにまぶたを閉じた。
【2007年3月1日(木)】
昨日とは打って変わって、今日は少し肌寒い。
迷わずコートを羽織って外へ出た。
手には、目的地の住所が書かれた1枚のメモ。
思い切って、通りすがりの現地のおばさんに声をかけてみると、彼女は親切に対応してくれた。
目印を交えながら、地図に大体の位置を描いて説明してくれるその丁寧さに、胸がじんわりと温かくなる。
感動と感謝を胸に再び歩き出すと、あることに気がついた。
この街には、アメリカ人のほかに中国人の姿も多く見られる。
特にマンハッタンでは中国系の住人も多いのだろう。
少し早口でまくし立てるその話し方に、どこか威圧感を感じてしまい、正直、苦手だと思ってしまった。
しばらく歩くと、彼女に教わった目印のひとつ――大きな広告看板に辿り着く。
その角を左に曲がり、まっすぐに進めば、目的地はすぐそこだ。
そのときだった。
頬に冷たいものがふわりと落ちてきた。
“雪”――。
思わず空を見上げる。
数分前まで晴れていたはずの空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
傘など持っていない。
足元の舗道も、少しずつ白く染まりはじめている。
目の前にあった、小さな雑貨屋らしき建物の軒下に避難する。
大きな屋根ではないけれど、雨宿りならぬ雪宿りにはなりそうだ。
ついていない。
そう思いながらも、ふと目の前の店に視線を移す。
その店は、古びた木材でできていて、外壁には白いペンキが塗られている。
だがところどころ剥げ落ちていて、時間の流れを感じさせた。
決して綺麗とは言えないけれど、どこか温もりのある佇まいだった。
木の香りが微かに鼻をくすぐる。
それは、不思議と心を落ち着かせる香りだった。
入口のドアには「Close」の札がかかっていて、横にはガラス張りのショーケース。
中には可愛らしいイラストや服、小物、色とりどりのメイク道具が並べられていた。
ショーケース越しに、店内を覗くこともできる。
さほど広くはなさそうだが、どこかアトリエのような雰囲気を漂わせていた。
見惚れていると、ふいにドアが開き、店内からスレンダーな白人のおばあさんが現れた。
年の頃は60代くらいだろうか。
「中へ入らない?」
やわらかく微笑みながら、そう声をかけてくる。
その声に、不思議と躊躇はなかった。
体が自然に動いていた。
まるで、導かれるように。
店内に足を踏み入れると、木の香りに包まれた静かな空間が広がっていた。
すぐに、おばあさんがタオルを手渡しながら優しく声をかけてくる。
「ホットコーヒーでいい?」
「いえ……結構です」
そう答えると、彼女は小さくため息をついた。
「日本人は本当に遠慮がちなのね。ここはアメリカ、ニューヨークよ。遠慮なんて必要ないの」
その言葉に思わず笑みがこぼれる。
「それじゃあ、遠慮なくいただきます」
私の言葉ににっこりと笑って、おばあさんは店の奥へと姿を消した。
しばらくの間、私は店内をゆっくりと見て回った。
部屋の隅に、大きな段ボール箱が無造作に置かれている。
中には、誰かが作った造花がぎっしり詰められていた。
色とりどりだが、どこか素朴で、子供が遊び感覚で作ったような、そんな雑さがあった。
ネリネの花……?
不意にその名が頭に浮かぶ。
誰が、どんな想いでこれを作ったのだろうか――。
ふと視線を上げると、壁には1枚の大きな絵が飾られていた。
ショーケースに並んでいた絵よりもずっと大きく、強い存在感を放っている。
誰かに……似ている。
けれど、誰だろう?
記憶の引き出しを探るが、明確な答えには辿り着けなかった。
机の上には、見慣れない形のメイク道具がいくつも並んでいる。
どれも日本では見かけたことのないものばかり。
どこか映画の中の楽屋を覗いているような、不思議な感覚に包まれた。
その横にあるコルクボードには、いくつもの写真が無造作に貼られている。
その中の1枚――
私は、吸い寄せられるように視線を奪われた。
それは、可愛らしいメイクを施された少女の写真だった。
彼女の顔には、今にも声を上げて笑い出しそうなほどの“笑顔”が咲いていた。
見ているこちらまで幸せな気持ちになるような、心からの笑顔――。
「ここへ来る人は皆、その写真に惹きつけられるの」
そう声をかけてきたのは、コーヒーを手に戻ってきたおばあさんだった。
彼女も写真を見つめながら、優しい目をしている。
その気持ちはよくわかる。
あの笑顔には、言葉では表せない強い魅力があった。
「自己紹介がまだだったわね。私はメイソン」
「そうでした。私はハナです。……コーヒー、いただきます」
「ええ。――このコーヒー、あの子も大好きでね」
「あの子……?」
一瞬、彼女の声が沈んだ。
「いえ……何でもないの」
その言葉に、私はそれ以上追及するのをやめた。
目の前にあるコーヒーの湯気が、そっと空気の重さをやわらげてくれたように感じる。
「ねえ、あの写真……魅力的でしょう?」
メイソンが改めて視線を写真に向ける。
「はい。なんだか、惹き込まれるような気がしました」
「実はね、あの少女――彼女は顔にひどい火傷を負っていたの」
声のトーンが少しだけ下がった。
「その傷は、消えることのない、深くて大きなものでね。でも、あるメイクアップアーティストが彼女の顔にメイクを施して、あの撮影をしたのよ」
「すごい……」
思わず息を呑んだ。
写真の中の彼女は、透き通るような白い肌をしている。
火傷の跡など、微塵も感じさせない。
「でも、それが――あの人の最後の作品になるかもしれないわね……」
最後?
どういう意味なのか、尋ねたい。
けれど、なぜか口にしてはいけない気がして、そのまま黙った。
窓の外に目をやったメイソンが、ぽつりとつぶやく。
「それにしても……すごい雪。まるで、空が泣いているみたいね」
その横顔には、どこか儚い悲しさが宿っていた。
“雪”――。
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
まるで、何か遠い記憶を呼び覚まされたかのようだった。
その時、メイソンがふと問いかけてきた。
「ところで、あなたは何のためにニューヨークへ来たの?」
しばし言葉を探し、それでも迷いなく私は答える。
「“大切なモノ”を探しに来ました」
メイソンは穏やかに頷いた。
その眼差しに促されるように、今度は私が問いを返す。
「私からも、一つ聞いてもいいですか?」
「ええ」
「この街には中国人も多いのに……どうして私が日本人だと分かったのですか?」
その質問に、メイソンは一瞬驚いたように目を見開き、そして少しだけ口ごもる。
「なっ……なんとなくよ」
ごまかすようなその言い方に、思わず微笑みそうになる。
でも、なぜだろう。
その“なんとなく”の裏側に、何かもっと深い意味があるような気がしてならなかった――。