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「嬢ちゃん。あれもまた噂に名高い黒衣の野人だ」と言ったのは西方の行商人だ。
「黒衣の野人?」とユカリは聞き返す。
「ああ、名も無き騎士に負けず劣らず、北は鰭の岸辺の港町から南は辺海の諸島まで広く名の知れた人物さ。商人たちの交渉の合間に物語られる偉丈夫だよ」
野暮ったく縮れた長い銀の髪とは対照的に、深い穴を覗き込んだような黒衣を身にまとっている。しかし救済機構の僧衣のような襞を作れる余分な布はなく、薄いのか小さいのかその黒衣は野人の体に張り付いている。そのため、衣を身につけているにも関わらず、鍛え上げられた肉体の陰影が浮かび上がり、優れた造形を際立たせていた。
人ごみから現れた黒衣の野人が長大な棍棒を持っていることに気づく。節くれだった硬そうな樫の木の棒は、長年愛用しているのだろう鏡のように磨き上げられている。湿気た風にて裾をはためかせる野人のその姿は夏の真昼の影が立ち上がったような様相だ。
騎士と野人が向かい合う。身長差は大きいが、騎士の迫力も負けてはいないように見える。
「今日こそは返してもらう」と唸るように言ったのは野人だった。
また邪悪な竜を前にして、少しも臆さぬ英雄が幼い我が子に語りかけるような、勇ましさと慈しみが籠った声だ。
そして騎士は朗々と歌い上げるように言葉を返す。「何度でも言いましょうぞ。いかな宿命であれども、吾輩が恥じ入る行いを吾輩に強いることは出来ぬ。神々の中にさえ我がやましき行いを見出せる者はおるまい。貴君の言い分、吾輩には何のことやら分かりませんな」
「その盾、見紛うはずがないんだよ! さあ、私と戦え!」
銅鑼を打ち鳴らすような野人の怒号と共にその棍棒が振り上げられる。しかし騎士は風に吹かれた薄衣のように容易く身をかわしてみせた。
世の男たちの例にもれず、この街に集った男たちも喧嘩があると見るや仕事を放り出して見物にやってきた。粉ひき、鍛冶屋、宝石商までもが、仕事を置いて集まってくる。群衆に加わり、二階の窓辺から見下ろし、賭けを開き、遠巻きにしながらも人々は二人の決闘を囃し立てる。
聞いていなかった竪琴弾きの歌が丁度終わったようで、ユカリは礼を言って心付けを渡した。
ユカリは、注目を集める二人の方から目を離さず、竪琴弾きに尋ねる。「野人の方は何かご存知ですか?」
「ふうむ。野人?」と竪琴弾きは首をひねる。「名も無き騎士と幾度も決闘する彼女は不思議の帳の向こうに住む人々に比肩する理に深き魔法使いで、名高くも邪なるかの魔導書を求めて旅している、と聞き及んでいますが」
「彼女?」「魔法使い?」「魔導書?」
屋台の主人と西方の行商人とユカリが声をそろえた。
「良ければ歌いましょうか?」と竪琴弾きは少しばかり愛想めいた微笑みを浮かべ、竪琴を構えて言ったが、誰もうんとは言わなかった。竪琴弾きはあからさまな態度でため息をつく。
代わりに掻い摘んで噂を語る。「今では黒衣の野人とあだ名される彼女、名を子兎という魔法使い。いつの頃かパディアの師糸杉は魔導書探求へと旅立ちました。しかし多くの名高き英雄と同様に、長い旅路は実ることなく、師が率いる隊の全滅の報がパディアの元に届きました。単なる師弟以上の関係らしく、狂気に陥ったパディアは師匠を探しているのか、遺志を継いで魔導書を探しているのか、以来ミーチオン地方のあちこちで出没するそうです。そして、いつからかは知りませんが、どこかで出会った名も無き騎士と魔法使いパディアは何の因果か因縁か、決闘を繰り返しているそうな。どうやら魔法使いの方が騎士を追っているようですが」
とすると師ビゼの探し求めていた魔導書をあの騎士が所持しているが故の争いだろうか、とユカリは頭をひねる。
叫び争う野人、もとい魔法使いパディアをユカリはじっくりと見る。言われてみると女性に見えなくもないような気がしてきた。しかし魔法使いらしさは微塵も感じない。するとあの棍棒は魔法使いの定番の触媒であるところの杖、ということだろうか。
その杖で直接、思い切り騎士を打ちのめしている。しかし蹴飛ばされた小石のように転がっていく名も無き騎士を見るに、確かにパディアは何かしらの魔法を使っているようだ。たとえ神話の英雄のごとき肉体だとしても、実際には膂力だけで人間をああも軽々と吹き飛ばせはしないだろう。
決着がついたのかとユカリは思ったが名も無き騎士は何でもないかのように立ち上がり、磨き抜かれた剣を抜き、切っ先をパディアに向ける。
「未だ主君のために振るわれぬが、いずれ名高き剣ゆえに切り捨てられるも誉れとなろう。勲功無き戦では、いずこの神の微笑みを賜ることもなかろうが、吾輩とて戦地の他でこの身を埋めるわけにもいかぬ。いざ尋常に」
名も無き騎士は高らかに口上を述べたが、パディアの怒声に力負けし、野次馬の誰にも届いていなかった。
「魔導書探求の旅か」と西方の行商人が呆れたように言う。「商い先で呆れた数の冒険譚を聞いてきたもんだ。色んな国の勇士が色んな理由で魔導書を求めて旅に出る。道中で怪物を倒して、財宝を手に入れて、だが最後はいつも同じだ。かくして魔導書を得ることはできず、哀れ勇士の旅はここに幕を閉じる」
「だが現実に救済機構が魔導書をいくつか封印したっていうぜ」と屋台の主人。
「欲が人の目を眩ませ、信仰が人の目を開かせるのですよ」と竪琴弾き。
「馬鹿言っちゃあいけねえよ。欲望が人を聡くするんだ」と西方の行商人。
彼らの会話はパディアの張り上げる声にかき消されて、ユカリにはほとんど聞こえなかった。
野次馬で決闘者たちの姿が見えなくなったので、ユカリは不作法ながら椅子の上に立って呟く。
丁度、パディアの棍棒があわや野次馬を叩き潰すところだった。
「グリュエー。備えて」とユカリは囁く。
「何に?」とグリュエーはそよ吹く。
「パディアの方が見境なくなってきてる。誰かが怪我してしまう」
「ユカリはお人好しだね」
「あるいはお節介かな。どっちにしろ働くのはグリュエーだけど」
「お任せあれー」
その時、再びパディアが騎士を打ち据える。その全身甲冑が軽々と吹き飛び、野次馬の方へ突っ込んでいくのをグリュエーに止めさせた。結果的に騎士は二度吹き飛ばされたようなものだが、野次馬は無傷で済んだ。
ユカリの見る限り、パディアは完全に冷静さを欠いている。初めからそうだったような気もするが。
その後もパディアが叩き潰した屋台の破片、砕かれた石畳、具沢山の鍋や美味しそうな調味料の滴る串が誰にも当たらないようにグリュエーの風の力で防ぐ。
名も無き騎士は防戦一方だ。しかしどこか違和感がある。やる気はあるが、どうすればいいのか分からない初心者、あるいは風の吹くまま流される風見鶏のような振る舞いだ。剣の扱いも盾の扱いも身のこなしも一級品であるにもかかわらず、何かをしようという具体的な意思を感じられない。先ほど戦いに臨むと宣言したにもかかわらず。
ユカリは何かを決心した表情で椅子を降りると、群衆を掻き分けて、立会人のごとく二人の戦いを見守りつつ、野次馬に被害が及ばないよう警戒する。
何か見えない力で物を弾き飛ばしたり、叩き落としたりするユカリの様を見て、自分たちを守ってくれているのだと、野次馬たちは察した。何を勘違いしたのかユカリを応援する声まで聞こえてくる。ユカリが守ってくれるという安心感からか野次馬は観客となり、より一層無責任に決闘を煽り始めた。しかし少なくともパディアはそのような周りの様子など気にしてはいない。
竪琴弾きの話が本当ならばこれは魔導書を奪い合う争いだ。物語が全て事実だとすれば、それぞれに単なる勲以上の思い入れがある。騎士は王への忠義のため、パディアは師への愛のため。
ユカリは二人の戦いそのものよりも、その秘めた思いに身震いする。相手を殺してでも魔導書を奪おうという人間はこの二人だけではないだろう。おそらく今この世界で最も多くの魔導書を所持しているという状況に、自分の今立つ足場の危うさに、ユカリは心が縮み上がる。
とうとう名も無き騎士が建物の石壁に追いつめられた。左右は破壊された屋台や馬車の瓦礫に囲まれている。
パディアが雄叫びを上げ、棍棒もとい杖を掲げる。すると市場に溢れた瓦礫やがらくたが虫や蛇のように這うようにしてパディアの元へと集い、その体を這い上り、杖の先に集まってゆく。
よくよく聞くとただの叫び声ではないことにユカリは気づいた。ただ大声で呪文を唱えているのだった。
それは戦場に赴く兵士の鬨の声でもって、群れ集う全ての獣が恐れるという四つの文字で韻を踏み、夜闇の神が未だ許していない人間の最も古い過ちである間違った綴りを使って唱えられた祈りの言葉の対句だった。
巨大な石と木と青銅の塊を前にして、名も無き騎士は恐れることなく立ち向かわんと剣と盾を構える。
周囲の野次馬たちも決着を見守ろうと声を潜めるが、ユカリがそれを破る。
「みんな逃げて! もう守り切れない!」
一拍の沈黙とユカリへの注目の後、天敵が侵入した巣穴から逃げ出す鼠のように人々が我先にと市場から逃げ去る。各々に「逃げろ」「離れろ」と叫びながら。その声ばかりはパディア一人の叫びよりも遥かに巨大なうねりとなって市場をどよめかせた。
それでもなお我関せずとパディアは魔法を行使する。
「グリュエー」とユカリが言うと、指示を聞かずに、
「分かってる」とグリュエーが答えた。
投石機にも劣らぬ威力でパディアの作った塊が真っすぐに放たれ、着弾し、爆発するように弾ける。逆巻く風が飛び散るがらくたを受け止めて、ユカリの身を守る。
パディアもユカリもどちらも身をかわすことなく、飛び散った椅子や車輪の方が避けて、地面や壁、吊り天井に突き刺さっている。
しかし瓦礫の塊の放たれた場所に、騎士はいなかった。塊が着弾する直前、背を向けて逃げるのをユカリは見逃さなかった。パディアもそれを見逃すことはなかったらしく、獅子の如き咆哮と共に騎士を追いかける。
夢中で手に握っていた串に、まだ残っていた肉を齧って頬張るとユカリは二人を追いかけ、少しにやつく。
「そんなに美味しいの?」とグリュエーが言った。
「ううん」とユカリは首を横に振る。肉はもう冷めていた。「グリュエーの方がお人好しだなって思って」
「なにそれ」
パディアの呪文で作られた塊が放たれる直前、ユカリだけでなく騎士にもパディアにも、風の守りが渦巻いているのもユカリは見逃さなかった。