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世利里🗝️🫧🖤
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#🐢超えて🐌超えて🦥投稿
アイリス🌙
3,255
アナスタージウスは、アーティの手を離そうとしなかった。
まるで、一度でも手を離せば、また目の前から消えてしまうとでも思っているかのように。
けれど、アーティはそんな兄の思いを知ってか知らずか、あっけなくその手を振りほどいた。
「……アーティ?」
アナスタージウスが呼び止めるよりも早く、アーティは身につけていた魔術具を解除した。
淡い光が身体を包み、隠されていた本来の姿が露わになる。
それまで別人のように装っていた少女は、間違いなく、彼が探し続けていた妹だった。
アナスタージウスが息を呑む。
ようやく見つけた。
ようやく、この腕の中に戻ってきた。
そう思った次の瞬間だった。
アーティはくるりと踵を返し、ハルトムートのいる方向へ走り出した。
「ハルトムート兄様!」
そして、かつて下町でベンノに向かって「働かせてください」と頭を下げた時と同じように、勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
あまりにも突然のことに、その場にいた者たちが一瞬、言葉を失った。
「私、勝手にいなくなってしまって……! 家から勘当されても仕方のないことをしました。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……!」
声が震えている。
顔を上げたアーティの目には、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいた。
けれど、ハルトムートにはわかっていた。
その瞳の奥に、もう一つの感情が隠されていることを。
――一緒に怒られてください。
――お願いですから、助けてください。
――私、一人では無理です。
幼い頃から、何度この目を見てきただろう。
何かをやらかしては、反省した顔で謝りに来る。自分が悪いとわかっているくせに、いざ叱られるとなれば、少しでも味方を得ようとこちらを見上げてくる。
そして、こちらが怒っていることを察すると、今度は本当に泣きそうな顔をするのだ。
ハルトムートは、深々とため息をついた。
「……アーティ」
「はい」
「こっちを向きなさい」
アーティが恐る恐る顔を上げた、その瞬間。
ハルトムートは彼女の両頬をつまんで、むに、と引っ張った。
「いひゃい……!」
「どれだけ心配したと思っている?」
普段の彼ならば、周囲の目を気にして、ここまで露骨に感情を表に出すことはない。
しかし、今は違った。
「お前がいなくなったと聞いた時、私がどれほど心配したか、少しでも考えたことがあるか?」
「……ありまふ」
「ないから、こんなことをしたんだろう!」
「ご、ごめんなひゃい……!」
「謝れば済むと思うな!」
ぴしゃりと言い放つ声が響いた。
アーティの肩がびくりと揺れる。
ハルトムートは頬を引っ張っていた手を離したが、その表情はまだ険しいままだった。
「お前は、自分が一人でいなくなっただけだと思っているのかもしれない。だが、お前がいなくなったことで、どれだけの人間が心配したと思っている?」
アーティは俯いた。
「私だけではない。お前と関わってきた者たちが、どれだけお前の身を案じたと思う。お前が今まで築いてきた関係を、少しでも思い出してみなさい」
「……はい」
「何かから逃げたくなることはあるだろう。誰にも会いたくない時もあるだろう。だが、だからといって、何も告げずに消えていい理由にはならない」
ハルトムートの声は厳しかった。
それでも、アーティにはわかった。
この人は、自分を見捨てようとしているのではない。
自分が間違ったことをしたから、間違ったと教えてくれているのだ。
たとえ今、嫌われたように感じたとしても。
たとえ涙が零れそうになったとしても。
それでも、自分が間違った方向へ進まないように、目を逸らさずに叱ってくれている。
アーティは唇を引き結んだ。
「……ごめんなさい、兄様」
今度の謝罪には、先ほどまでのような助けを求める響きはなかった。
心からの反省が込められていた。
ハルトムートはしばらく彼女を見つめた後、小さく息を吐いた。
「わかればいい。……いや、わかるだけでは駄目だな。次からは行動を改めなさい」
「はい」
「本当に?」
「……はい」
「私の目を見て答えなさい」
アーティは、涙の滲む目でハルトムートを見上げた。
「もう、勝手にいなくなったりしません」
「よろしい」
ようやく、ハルトムートの表情がわずかに和らいだ。
その瞬間、アーティの胸に温かなものが広がった。
怒られた。
しっかりと、兄に叱られた。
それなのに、不思議と安心していた。
アナスタージウスは、間違いなく自分の実の兄だ。
血が繋がっている。幼い頃の自分を知っている。自分を探し、取り戻そうとしてくれた、大切な家族だ。
けれど。
アーティにとって、ハルトムートもまた、兄なのだった。
血の繋がりがなくとも、共に過ごした時間がある。
失敗をすれば叱られ、無茶をすれば止められ、知らないことがあれば教えられた。
自分がどれほど面倒なことを引き起こしても、最後には手を差し伸べてくれる。
そんな人だった。
だからこそ、彼に叱られることが、こんなにもありがたい。
アーティが少しだけ安堵した顔を見せた、その時。
ハルトムートは、彼女の頭に手を置いた。
そして、ゆっくりと視線を移した。
向けられた先には、アナスタージウスがいた。
先ほどまで妹の姿を追い続けていた王子は、今や複雑な表情で二人を見つめている。
ようやく妹を見つけたという安堵。
自分の知らないところで妹が育ち、他の誰かを兄と慕っていることへの戸惑い。
そして、先ほど目の前で繰り広げられたやり取りに対する、言葉にしがたい感情。
それらが混ざり合っていた。
ハルトムートは、そんな王子を正面から見据えた。
「アナスタージウス王子」
「……何だ」
「私は、あまり張り合うような真似はしたくありません」
そう前置きしたハルトムートの声音は、礼儀正しく、落ち着いていた。
しかし、その目には一切の遠慮がなかった。
「ですが、兄としての座はお譲りするつもりはありません」
「……何?」
アナスタージウスの眉がぴくりと動いた。
アーティが目を丸くする。
「ハ、ハルトムート兄様……?」
しかし、ハルトムートは彼女に構わず続けた。
「王子様は、血の繋がった実の兄でいらっしゃる。そこに異論を唱えるつもりはございません。アーティにとって、あなたが大切な家族であることも理解しております」
一度、言葉を切る。
「ですが、アーティをここまで育ててきたのは誰だと思っていらっしゃるのですか?」
その言葉に、アナスタージウスの表情が変わった。
「……」
「確かに、私とアーティの間に血の繋がりはありません。ですが、血が繋がっていなければ兄にはなれないとでも?」
ハルトムートは静かに問いかけた。
「アーティが何か悪さをすれば、即座に叱る。間違った方向へ進もうとすれば、たとえ本人に嫌われようとも止める。貴族として必要な教養を身につけさせるために、どれだけ厳しいことを言ってきたか」
その口調には、わずかな誇りが滲んでいた。
「本人が望むことを何でも許すのが兄ではありません。本人が嫌がるとわかっていても、必要なことなら教える。失敗した時には責任の取り方を教え、逃げ出した時には、逃げた先で何をすべきかを考えさせる」
ハルトムートは、隣に立つアーティへ一瞬だけ視線を向けた。
彼女は困ったように眉を下げている。
それでも、その手は無意識のうちにハルトムートの袖をつまんでいた。
まるで、ここが自分の帰る場所だと確かめるように。
ハルトムートは再びアナスタージウスに向き直った。
「私は、そのようにしてアーティと向き合ってきました」
「……それは、兄として当然のことだろう」
アナスタージウスが低く答えた。
「ええ。私もそう思います」
ハルトムートは即座に頷いた。
「だからこそ申し上げているのです」
一歩も引かない。
「アーティの兄として生きたいのであれば、まず私を納得させてください」
その場の空気が、ぴんと張り詰めた。
王族に対して、これほど明確に自分の立場を主張する者は多くない。
ましてや、相手は妹を探し続けてきた実の兄である。
だが、ハルトムートには譲れないものがあった。
「アーティは、あなたの妹です。それは変わりません。ですが、同時に私の妹でもあります」
その言葉には、飾り立てた忠誠も、王族に気に入られようとする打算もなかった。
ただ、長い時間をかけて育んできた家族への思いがあった。
「私は、アーティを手放すつもりはありません」
アナスタージウスは、黙ってハルトムートを見つめた。
そして、彼の言葉を聞いていたアーティは、とうとう耐えきれなくなったようにハルトムートの袖をぎゅっと握った。
「……兄様」
「何ですか」
「私、ハルトムート兄様のことも、大好きです」
その場にいた者たちが、息を呑んだ。
アーティは顔を赤くしながらも、今度は目を逸らさなかった。
「アナスタージウス兄様も、大切です。でも、ハルトムート兄様も私のお兄様です。どちらか一人だけなんて、選べません」
ハルトムートは一瞬、言葉を失った。
そして。
「……アーティ」
「はい」
「今は、そういう話をしているのではありません」
「で、でも……」
「それとこれとは別です。お前が私を兄と慕っていることは知っています。だからこそ、先ほどの件については、あとで改めて話をします」
「えっ」
アーティの顔が、みるみるうちに青ざめた。
「ま、まだ怒っていらっしゃるんですか……?」
「当然でしょう」
「……」
助けを求めるようにアナスタージウスを見たアーティだったが、彼はすぐには口を開かなかった。
代わりに、ゆっくりとハルトムートへ歩み寄った。
「ハルトムート」
「はい、王子様」
「お前が妹を大切にしてきたことは、よくわかった」
その声には、先ほどまでの張り詰めた響きとは異なるものがあった。
「私が知らない妹を、お前は知っている。私が知らない時間を、お前は共に過ごしてきた。……そのことは、認めなければならないのだろうな」
アナスタージウスは、アーティを見た。
彼女はハルトムートの袖を握ったまま、こちらを窺っている。
幼い頃、自分の後ろをついて歩いていた妹。
そして、今、自分の知らない兄に叱られ、安心したような顔をしている妹。
その姿を見て、胸の奥がちくりと痛んだ。
自分が知らない間に、彼女には別の家族ができていた。
自分が知らない間に、彼女を叱り、守り、導いてくれる人がいた。
それは、喜ぶべきことなのだろう。
妹が一人ではなかったということなのだから。
けれど、それでも。
「……だが、私も兄だ」
アナスタージウスは、はっきりと告げた。
「お前に譲るつもりはない」
ハルトムートの口元が、わずかに上がった。
「奇遇ですね。私も同じ考えです」
「ならば、これから互いに理解を深める必要がありそうだな」
「ええ。アーティのためにも」
二人の視線が正面からぶつかった。
王族と上級貴族。
実の兄と、血の繋がらない兄。
立場も、育ってきた環境も、妹と過ごしてきた時間も違う。
それでも、二人の望みは一つだった。
アーティを守り、彼女が誤った道へ進まないようにすること。
そして、もう二度と、何も告げずに姿を消すようなことがないようにすること。
その共通点を見出したからこそ、二人は簡単には譲らなかった。
「……あの」
二人の間に流れる緊張感に耐えきれず、アーティがおずおずと口を挟んだ。
「私、もう逃げませんから……」
二人が同時に彼女を見た。
「本当に?」
アナスタージウスが尋ねる。
「本当にですか?」
ハルトムートも重ねる。
「……はい」
「何かあった時は?」
「ちゃんと相談します」
「誰に?」
「……お二人に」
アーティがそう答えると、ハルトムートはようやく満足そうに頷いた。
一方のアナスタージウスは、まだどこか不満げだった。
「ならば、私にも相談しなさい。兄なのだからな」
「はい、アナスタージウス兄様」
「それから、もう二度と勝手にいなくなるな」
「はい」
「約束だ」
「……約束します」
アーティは、二人の顔を交互に見た。
そして、ほんの少しだけ笑った。
自分がどれほど心配をかけたのか。
自分がどれほど多くの人に支えられていたのか。
今回のことで、ようやく理解できた気がした。
その一方で、ハルトムートはまだ彼女の袖をつまむ手に気づいていた。
「アーティ」
「はい?」
「いつまで私の袖を握っているのですか」
「……あ」
アーティは慌てて手を離した。
ハルトムートは小さく息を吐く。
「まったく。手のかかる妹ですね」
そう言いながらも、その手は自然な動きでアーティの頭を撫でていた。
アナスタージウスは、その様子をじっと見つめた後、静かに口を開いた。
「……ハルトムート」
「はい」
「私にも、あのように接することを許してもらえるだろうか」
ハルトムートは一瞬、目を瞬かせた。
それから、アーティを見下ろす。
彼女は驚いた顔で兄たちを見比べていた。
「それは、アーティ次第でしょう」
ハルトムートはそう答えた。
「妹の意思を尊重すること。それが、兄としての第一歩ではありませんか?」
アナスタージウスはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとアーティへ手を伸ばす。
「……アーティ。こちらへ来てくれるか?」
アーティはその手を見つめた。
そして、ハルトムートの顔を窺う。
ハルトムートは何も言わなかった。ただ、彼女が自分で決めるのを待っていた。
アーティは小さく息を吸い、アナスタージウスの手を取った。
「……はい、兄様」
その瞬間、アナスタージウスの表情が、ほんのわずかに崩れた。
失われた時間は戻らない。
それでも、これから積み重ねていく時間はある。
そして、その時間を共に歩むのは、彼一人ではないのだ。
ハルトムートという、もう一人の兄がいる。
アナスタージウスはその事実を受け入れ、妹の手をそっと握り返した。
もっとも。
「ただし、王子様」
ハルトムートが、すかさず釘を刺した。
「アーティが何か問題を起こした場合、叱る役目は私にもありますからね」
「……わかっている」
「本当に?」
「わかっていると言っているだろう!」
「それなら結構です」
「……お前は、なかなか遠慮のない男だな」
「アーティの兄ですので」
あまりにも堂々とした返答だった。
アーティは二人のやり取りを見つめ、とうとう小さく吹き出した。
その笑い声を聞いた瞬間、二人は同時に彼女へ視線を向けた。
「アーティ?」
「何がおかしい?」
「い、いえ……!」
アーティは慌てて首を振った。
けれど、口元には笑みが残っていた。
自分を叱ってくれる兄がいる。
自分を探してくれる兄がいる。
そして、どちらも自分を大切に思ってくれている。
それが、今のアーティには何よりも嬉しかった。
ただし、彼女はまだ知らない。
この後、ハルトムートから改めてたっぷりと説教を受けることになるのも、アナスタージウスが妹と過ごせなかった時間を取り戻すため、今後の予定を細かく確認し始めるのも、そう遠くない未来のことだということを。
そして、二人の兄がアーティをめぐって意見を交わすたびに、彼女がその間に挟まれて困り果てることになるのも。
それでも。
アーティは、もう一人ではなかった。
その場にいた者たちは、全員が事態の重大さを理解していた。
王族の失踪していた妹が見つかったこと。
その妹が、エーレンフェストでアーティとして暮らしていたこと。
そして何より、王族であるアナスタージウスと、彼女を妹として育ててきたハルトムートが、兄としての立場をめぐって真っ向から張り合ったこと。
どれ一つ取っても、軽々しく口にしてよい話ではない。
「今、この場で交わされた会話について、他言を禁じます」
アナスタージウスが王族としての威厳を取り戻した声で告げた。
「ここにいる者は、アーティの身元、王族との血縁関係、そして今後の処遇について、許可なく外部に漏らさぬように。これは王命に準ずるものと考えてください」
その言葉に、居合わせた者たちは一斉に頭を下げた。
さらにローゼマインが、静かながらも有無を言わせぬ口調で続けた。
「当然、エーレンフェストの領主一族への報告についても、勝手に判断してはなりません。アーティを守るためにも、情報を伝える相手と時期は慎重に決める必要があります」
フェルディナンドならば、ここで情報管理の甘さを指摘するだろう。
そう考えたローゼマインは、念を押すように周囲を見渡した。
「この件は、私とアナスタージウス王子の許可なく口外しないこと。よろしいですね?」
「承知いたしました」
一同が応じる。
ただ一人。
その場で頭を抱えていた男を除いては。
「…………勘弁してくれ」
ベンノだった。
三週間。
たった三週間だ。
彼が雇っていた、少々変わったところのある娘。
妙に頭が回り、妙なところで無茶をし、何かにつけて周囲を振り回す、あのアーティ。
その正体が王族の娘だった。
しかも、ただの王族ではない。王子が必死になって探し続けていた実の妹であり、王族に戻れば本人の望まぬ立場を押しつけられかねない存在だったのだ。
「俺は……俺は三週間、王族を働かせていたのか……?」
頭が痛い。
今までの言動を思い返す。
仕事が遅ければ注意した。
無茶をすれば叱った。
勝手な判断をすれば止めた。
そして、こちらの言うことを聞かずに行動した時には、容赦なく説教をした。
相手は王族だった。
「…………」
ベンノは、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先では、当のアーティがハルトムートとアナスタージウスの間に立っていた。
二人の兄に挟まれ、何やら居心地が悪そうにしている。
その姿を見て、ベンノのこめかみがぴくりと動いた。
「アーティ」
「……はい?」
「こっちへ来い」
「えっ」
「いいから来い」
有無を言わせぬ声音だった。
アーティは助けを求めるように兄たちを見た。
しかし。
ハルトムートは腕を組んだまま、当然だという顔をしている。
アナスタージウスもまた、止めるつもりはないらしい。
「……はい」
アーティはしょんぼりとベンノの前に立った。
次の瞬間。
ゴツン!
「いたっ!」
ベンノの拳骨が、アーティの頭に落ちた。
「ベ、ベンノさん!?」
「お前はなぜ何も相談しないんだ!」
怒声が響く。
「自分が王族だなんていう、とんでもない問題を! 自分一人で抱えられると思ったのか!?」
「だ、だって……」
アーティは頭を押さえながら、涙の滲んだ目でベンノを見上げた。
「……だって、王族にはなりたくなかったんだもん」
最後の方は、消え入りそうな声だった。
その顔は、叱られた子どもそのものだった。
ベンノは一瞬、言葉を詰まらせた。
王族になりたくなかった。
その気持ちは、わかる。
王族という立場が、どれほど自由を奪うものなのか。本人が望んでいなくても、血筋一つで人生を決められてしまうことがある。
アーティがそれを恐れたこと自体は、責められない。
だが。
「そんなことはわかってる!」
ベンノの声が再び響いた。
アーティの肩が跳ねる。
「お前が王族に戻りたくなかったことくらい、今の話を聞けばわかる! だからって、こんな極端な方法に出るのは違うだろう!」
「……うぅ」
「誰にも相談せずに姿を消して、身分を隠して、全部自分で何とかしようとする。お前はそれで、本当に何とかなると思っていたのか?」
「……思って、ました」
「馬鹿野郎!」
アーティがますます小さくなる。
ベンノは額に手を当てた。
「お前な……。自分がどういう立場にいるのか、少しは考えろ。いや、考えたからこそ、こんなことをしたんだろうが……!」
怒りたい。
だが、事情を知れば知るほど、単純に怒鳴りつけるだけでは済まない。
王族という立場から逃げたかった少女に、逃げるなと命じるのは簡単だ。
しかし、その先に待っているものを何も考えずに言えるほど、ベンノは無責任ではなかった。
それでも。
「だからといって、一人で抱え込むな」
今度の声は、先ほどよりも低かった。
「お前が困った時に相談できる相手は、本当に誰もいなかったのか?」
アーティは答えられなかった。
なぜなら、いたからだ。
ベンノがいた。
ハルトムートがいた。
そして今、アナスタージウスもいる。
それなのに、自分は誰にも相談しなかった。
「……ごめんなさい」
アーティは俯いた。
「次からは……」
「次からは、じゃない。今回のことをどうするか、今ここで考えろ」
ベンノの言葉に、アーティが顔を上げた。
「え?」
「箝口令が敷かれたから、これで全部解決だとでも思っているのか?」
「……違うんですか?」
「違うに決まってるだろうが!」
ベンノは再び頭を抱えた。
「王族の妹が見つかった。それも、エーレンフェストで身分を隠して暮らしていた。こんな話が、いつまでも完全に隠し通せると思うか?」
「……」
「それに、箝口令を敷いたところで、誰に何を伝えるかという問題は残る」
ベンノは、アナスタージウスへ視線を向けた。
「王子様。確認しておきたいんですが、今回の箝口令は、アウブ・エーレンフェストにも適用するということですか?」
アナスタージウスはすぐには答えなかった。
代わりにローゼマインが口を開く。
「現時点では、情報を不用意に広げないことを優先しています。アーティの身元が広く知られれば、本人の意思にかかわらず、王族としての立場に戻るよう求められる可能性がありますから」
「だろうな」
ベンノは苦々しく頷いた。
「だが、だからこそアウブには話すべきだ」
アーティが勢いよく顔を上げた。
「えっ!?」
「何を驚いてる」
「だ、だって……!」
「アウブ・エーレンフェストは、お前が暮らしている領地の領主だ。お前の身元が政治的な問題になる以上、領主が何も知らないままでは、いざという時に対応できないだろう」
ベンノの言うことは、もっともだった。
ローゼマインも、すぐには反論しなかった。
「もちろん、無制限に情報を広める必要はありません。必要な者だけに伝え、情報を管理することはできます」
「そういうことだ」
ベンノはアーティに向き直った。
「お前が王族だと露見したら、嫌でも王族に戻ることになるかもしれない。それを避けたいんだろう?」
「……はい」
「なら、なおさらだ。何も知らない人間に突然事実を突きつけられるより、事情を理解している味方に動いてもらった方がいい。違うか?」
「……」
「お前が王族に戻りたくないという意思を守るためにも、誰に何を伝えて、どう動くのかを考えなきゃならないんだ」
アーティは、むむむ、と難しい顔になった。
わかる。
ベンノの言っていることは、わかるのだ。
アウブに伝えなければならない理由も理解できる。
自分の身元が政治的な問題になる以上、領主に何も知らせないわけにはいかない。
しかし、アウブに知られれば、今度はエーレンフェスト全体を巻き込むことになるかもしれない。
自分のせいで、ローゼマインやフェルディナンドまで困ることになるのではないか。
考えれば考えるほど、頭が痛くなってきた。
「……でも、アウブに知られたら、私のせいで皆さんに迷惑が……」
「お前は馬鹿なのか?」
ベンノの声が、すっと冷えた。
「……え?」
「上級貴族と王族という、馬鹿みたいに強い兄貴たちが二人もいるんだぞ」
ハルトムートとアナスタージウスが、同時にベンノを見た。
「……馬鹿みたいに強い、とは?」
ハルトムートが尋ねる。
「褒め言葉です」
ベンノは即答した。
そして、何事もなかったかのようにアーティへ視線を戻す。
「その二人が、お前を守るために動こうとしている。ローゼマインもいる。領主に話を通す方法だって、ここにいる連中で考えられるだろう」
「……」
「それなのに、また一人で抱え込むつもりか?」
アーティは、はっとした。
また、一人で。
何もかも自分で解決しようとしていた。
王族に戻りたくない。
周囲に迷惑をかけたくない。
誰かの人生を巻き込みたくない。
その思いばかりが先に立って、自分の隣に誰がいるのかを、また忘れかけていた。
ベンノは、そんなアーティをじっと見つめた。
「お前が自分の人生を自分で決めたいと思うことは、間違っていない。だがな、自分の人生を決めることと、誰にも頼らずに全部背負うことは違うんだ」
アーティの目が揺れた。
「自分の望みを通したいなら、なおさら周りに相談しろ。誰に何を頼むべきか、どうすれば望みを守れるのか、一緒に考えろ。黙って消えることだけが、自分の人生を守る方法じゃない」
「……ベンノさん」
「わかったか?」
「……はい」
アーティは小さく頷いた。
しかし、その顔にはまだ迷いが残っていた。
アウブに報告する。
その必要性はわかった。
けれど、具体的にどう伝えるのか。どこまで話すのか。そして、自分が王族に戻らずに済む道が本当にあるのか。
自分一人では、もう判断できなかった。
アーティは、ゆっくりと振り返った。
そして。
ハルトムートを見上げる。
「……兄様」
ハルトムートは、腕を組んだまま彼女を見下ろした。
「何ですか?」
アーティは、次にアナスタージウスへ視線を向けた。
「……兄様」
「何だ?」
二人の兄が、揃ってこちらを見ている。
アーティは両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
そして、先ほどベンノに向かって頭を下げた時とは違い、今度は自分から助けを求めた。
「……助けてください」
その場が静まり返った。
「私、どうしたらいいのか、わからなくなってしまいました。王族には戻りたくないです。でも、皆さんに迷惑をかけるのも嫌で……。アウブにお話しするべきなのはわかりました。でも、どうやって話せばいいのか、何を伝えればいいのか……」
アーティの声が、少しずつ小さくなる。
「……一緒に考えてくれませんか?」
ハルトムートは、目を細めた。
そして、今度はため息ではなく、静かな笑みを浮かべた。
「最初からそう言いなさい」
「……はい」
「自分一人で解決できないとわかったのなら、助けを求めればいい。私はお前の兄ですからね」
「……兄様」
「ただし」
アーティの顔が、ぴしりと固まった。
「今回の件についての説教は、まだ終わっていません」
「……はい」
「それから、今後は何か大きな問題が起きた時、勝手に姿を消す前に相談すること。よろしいですね?」
「はい……」
今度は、アナスタージウスが一歩前へ出た。
「私も協力しよう。お前が王族に戻りたくないという意思については、きちんと聞いた。その意思を無視して話を進めるつもりはない」
アーティが顔を上げる。
「……本当ですか?」
「もちろんだ。ただし、王族として対応しなければならない問題がある以上、何もかもお前の望みどおりにできると約束することはできない」
アナスタージウスは、誠実に告げた。
「だが、少なくとも、お前の意思を聞かずに結論を出すことはしない。私もお前の兄なのだからな」
アーティの瞳に、再び涙が浮かんだ。
今度の涙は、叱られた時のものとは違っていた。
「……ありがとうございます、兄様」
アナスタージウスは、そっと彼女の頭に手を置いた。
その様子を見ていたハルトムートが、静かに口を開く。
「では、まずは情報の整理から始めましょう。アーティの身元を知っている者、知る必要がある者、そして現時点では知らせるべきではない者。それぞれを明確にする必要があります」
「そうだな」
アナスタージウスも頷いた。
「アウブ・エーレンフェストへの報告については、ローゼマインとも相談した上で決めよう。王族としての立場と、アーティ本人の意思。その両方を踏まえて進める」
「承知いたしました」
ハルトムートが答える。
その時、ベンノが腕を組んだまま、最後に一言付け加えた。
「それからアーティ」
「……はい」
「次に何かあった時は、まず相談しろ。俺でもいい。ローゼマインでもいい。ハルトムートでも、アナスタージウス王子でもいい」
アーティは、じっとベンノを見つめた。
「……ベンノさんにも、相談していいんですか?」
「当たり前だろうが!」
思わず声が大きくなる。
「三週間とはいえ、お前は俺のところで働いていたんだぞ。今さら他人みたいな顔をするな!」
「……はい!」
アーティは、ようやく笑った。
その笑顔を見て、ベンノはまた頭を抱えた。
「……まったく。とんでもない娘を雇っちまった」
「ベンノさん、私、ちゃんと反省してます……」
「反省しているなら、次は同じことをするな!」
「はい!」
「返事だけは一人前だな!」
「……うぅ」
再びしょんぼりするアーティを見て、ハルトムートは小さく息を吐いた。
「ベンノ殿。アーティのことは、私からも改めて叱っておきます」
「頼みます。俺一人じゃ手に負えません」
「お任せください」
「ちょ、ちょっと待ってください! ハルトムート兄様、さっきも叱られましたよね!?」
「ええ。ですが、問題を起こしたことと、相談しなかったことは別の問題です」
「そんな……!」
アーティは、助けを求めてアナスタージウスを振り返った。
「アナスタージウス兄様……!」
「……すまない、アーティ。今回ばかりは、私もハルトムートに賛成だ」
「そんなぁ……!」
「当然だろう」
二人の兄の声が重なった。
アーティはとうとう、両手で顔を覆った。
けれど、その指の隙間から覗く瞳には、ほんの少しだけ安堵が浮かんでいた。
もう、一人で考えなくていい。
もう、一人で決めなくていい。
自分の望みを守るために、誰かの手を借りてもいいのだ。
そのことを、ようやく理解し始めていた。
そしてベンノは、そんなアーティの姿を見ながら、心の底から思った。
――頼むから、次は何かをしでかす前に相談してくれ。
王族だろうが、上級貴族だろうが、そんなことは関係ない。
三週間雇った娘が、自分の手に負えないほどの問題を抱えていた。
それだけでも十分すぎるほど頭が痛いのに。
どうやらこれからは、王族の兄と上級貴族の兄、さらにはローゼマインまで巻き込んで、アーティの人生相談に付き合うことになりそうだった。
エーレンフェスト城にて――明かされるアーティの正体
アーティの身元を知る者たちの間で、ある程度の情報整理が終わった頃。
ローゼマインは、オルドナンツを取り出した。
「アウブ・エーレンフェストに、アーティが見つかったことをご報告いたします」
そう告げると、魔術具に向かって必要な情報だけを伝える。
アーティが発見されたこと。
アナスタージウス王子が同行していること。
そして、エーレンフェストの領主一族に直接伝えなければならない重大な事情があること。
詳しい内容は伏せた。
これから話す内容は、あまりにも重大すぎる。オルドナンツで簡単に伝えてよい話ではなかった。
報告を終えると、一行はすぐさま城へ向かった。
ローゼマイン、ハルトムート、アナスタージウス、そしてアーティ。
四人とも、道中で余計な言葉を交わすことはなかった。
アーティは何度か口を開きかけては、結局何も言わずに俯いた。
そんな妹の様子を、ハルトムートは横目で見ていた。
「アーティ」
「……何?」
「今さら逃げようなんて考えるなよ」
「か、考えてないよ!」
「ならいい」
「……うぅ」
即座に返され、アーティは頬を膨らませた。
その様子を見ていたアナスタージウスが、わずかに眉を上げる。
「お前たちは、いつもそのようなやり取りをしているのか?」
「そうですが?」
ハルトムートは平然と答えた。
「アーティは放っておくと、すぐに一人で抱え込もうとしますから。こうして釘を刺しておく必要があるんです」
「……兄様、私、もう反省したもん」
「反省したことと、今後同じことをしないことは別だろ」
「うっ……」
アーティが黙り込む。
アナスタージウスはその様子を見て、何とも言えない顔になった。
自分の知らないところで、妹はこんなふうに叱られ、育てられてきたのだ。
それが少し寂しくもあり、同時にありがたくもあった。
「アーティ」
今度はアナスタージウスが声をかけた。
「城に着いたら、私もいる。何かあれば、私にも話せ」
「……うん。ありがとう、アナスタージウス兄様」
アーティは小さく微笑んだ。
その笑顔を見届けてから、ハルトムートは前を向いた。
今度こそ、妹を一人で問題に立ち向かわせるつもりはなかった。
1.待ち構えていた領主一族
城に到着すると、一行はすぐに案内された。
そこには、すでに三人の人物が待ち構えていた。
アウブ・エーレンフェスト、ジルヴェスター。
その隣には、カルステッド。
そしてフェルディナンド。
三人とも、アーティの姿を認めた瞬間、それぞれ異なる反応を見せた。
ジルヴェスターは、ひとまず安堵したようだった。
見つかったのならばよい。まずはそれが一番だ。
しかし、隣にアナスタージウスがいることに気づくと、その表情が一変した。
カルステッドは、アーティを見つめたまま黙っていた。
以前から知っている少女だ。ハルトムートの妹として、エーレンフェストの貴族として接してきた。
それなのに、今はどのような態度で接するべきなのか、判断がつかなかった。
フェルディナンドに至っては、アーティとアナスタージウスを交互に見て、すでに何かを察したような険しい顔をしている。
そして、当のアーティはというと。
「……」
三人の視線を受け、ローゼマインの背後に半歩隠れていた。
「アーティ」
ハルトムートが低い声で呼ぶ。
「隠れるな」
「隠れてないよ……」
「半分隠れてるだろ」
「……気のせいだよ」
「そうか。では、こちらへ来い」
「はい……」
渋々、ローゼマインの隣へ出てくる。
ジルヴェスターは、その様子を見て眉間を押さえた。
普段ならば、ここでアーティの態度を注意するところだ。
だが、今は違う。
王族が同行している。
しかも、ローゼマインから重大な報告があると連絡を受けていた。
下手に口を挟むわけにはいかなかった。
その時、ローゼマインが一歩前へ出た。
「アウブ・エーレンフェスト。お話ししなければならない重大なことがございます」
ジルヴェスターは、ローゼマインの真剣な表情を見て、すぐに頷いた。
「わかった。場所を移そう」
そして、側仕えたちを下がらせ、限られた者だけで話ができる部屋へと向かった。
2.限られた者だけの話し合い
部屋に集まったのは、七人。
ジルヴェスター、フェルディナンド、カルステッド、アナスタージウス、ローゼマイン、ハルトムート、そしてアーティだった。
側仕えも騎士もいない。
扉が閉ざされると、室内には張り詰めた沈黙が落ちた。
ジルヴェスターは席に着くなり、腕を組んだ。
「さて。アーティが見つかったことはわかった。だが、王子まで一緒に来ているとなると、ただの迷子が見つかったという話ではなさそうだな」
「迷子ではありません」
アーティが小さく訂正する。
「……そこは今、重要ではない」
フェルディナンドが即座に切り捨てた。
「はい……」
アーティは口を閉じた。
ジルヴェスターは額を押さえたくなるのを堪えながら、改めて少女を見た。
「アーティ。お前から説明してもらおう。何があった?」
その言葉に、アーティはゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでの頼りない様子が、わずかに消える。
これから話すことは、自分自身の過去だ。
誰にも知られずに生きてきた時間。
ずっと胸の奥にしまっていた記憶。
アーティは一度深呼吸をした。
「……はい。まず、アウブもご存じのとおり、私はハルトムートの実の妹ではありません」
「ああ。それは承知している」
「私は、魔力量が非常に多かったため、権力争いの邪魔になるという理由で誘拐されました」
ジルヴェスターの表情が変わった。
カルステッドも、黙ってアーティを見つめる。
「誘拐された後、私は魔力を暴走させて逃げました。そして、逃げた先が神殿だったのです」
アーティは淡々と続けた。
「私はまだ洗礼式を受けていませんでした。そのため、神殿では他の孤児と同じように扱われました」
その先を口にする前に、アーティは一瞬だけ視線を落とした。
「魔力は、取れるだけ取られました。魔力が枯渇して動けなくなっても、食事を十分に与えられず……死の淵をさまよっていた時期があります」
誰も口を開かなかった。
ジルヴェスターの顔から、血の気が引いていく。
カルステッドは拳を握り締めた。
フェルディナンドは目を細め、ローゼマインは唇を結んだ。
ハルトムートは、アーティを見つめていた。
この話を知っているのは、ずっとアーティ本人だけだった。
彼女が神殿で何を経験したのか。
どのような思いで生き延びてきたのか。
ハルトムートは、断片的に聞いていたことはあっても、すべてを知っていたわけではない。
そして、今この場で語られる内容は、想像していたものよりもはるかに重かった。
アーティは、誰の顔も見ずに話を続けた。
「洗礼式で私の魔力量を知った神殿長は、私を貴族に売りつけるつもりだったのだと思います。そのために、青色巫女として必要な礼儀作法を叩き込まれました」
「……神殿長が?」
ジルヴェスターの声は低かった。
「はい。神殿長が亡くなった後、私は改めて洗礼式を受け、ハルトムートの妹として貴族の身分を得ました。それ以降は、上級貴族の娘として生きています」
そこでアーティは、ようやく顔を上げた。
「洗礼式前の私が、神殿でどのように生きていたのか。その話を知っているのは、私だけでした」
沈黙。
あまりにも重い話だった。
この場にいる者たちは、神殿で孤児がどのように扱われていたか、ある程度は理解している。
ローゼマイン自身も、神殿の実態を知っていた。
だからこそ、アーティの言葉の意味がわかった。
幼い子どもが、魔力を搾り取られ、食事も満足に与えられず、生き延びていた。
しかも、それを誰にも知られずに。
「……そうか」
ジルヴェスターは、ようやくそれだけを口にした。
普段の彼なら、何かしらの冗談を交えて場の空気を和らげることもある。
しかし、今はそんな言葉が一つも出てこなかった。
カルステッドも、アーティに何と声をかければよいのかわからない様子だった。
彼女が神殿で苦しんでいたことは、今となっては想像するしかない。
それでも、想像するだけで胸が悪くなるほどの話だった。
フェルディナンドは静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……話を続けろ」
その声は厳しかったが、アーティを責める響きはなかった。
アーティは頷いた。
「はい。先ほども申し上げたとおり、私は魔力量が原因で誘拐されました。つまり、私の血縁者は、権力争いに関わるほどの立場にいる者だったということです」
ジルヴェスターが顔を上げた。
嫌な予感がした。
あまりにも嫌な予感だった。
アーティは、まるで今日の天気でも伝えるような口調で告げた。
「その血縁者が、まさか王族だったとは思いませんでしたけれど」
「…………は?」
ジルヴェスターが固まった。
カルステッドが息を呑む。
フェルディナンドの目が見開かれた。
ローゼマインは思わず額を押さえた。
ハルトムートは、どこか諦めたような顔をしていた。
そして、アナスタージウスは静かに腕を組んだ。
アーティは続けた。
「私は王族の血を引いています。アナスタージウス王子は、私の実の兄です」
一瞬。
本当に、一瞬だった。
次の瞬間、ジルヴェスターが勢いよく立ち上がった。
「はあああああ!?」
部屋が震えるほどの声だった。
「待て! 待て待て待て! 今、何と言った!?」
「アナスタージウス王子が、私の実の兄です」
「そこじゃない! いや、そこも問題だが! 王族だと!?」
「はい」
「はい、じゃないだろうが!!」
ジルヴェスターは頭を抱えた。
「お前は……お前は……! いや、待て。そもそも、なぜ今まで誰も知らなかった!?」
「私しか知らなかったので」
「そういう問題じゃない!」
「……ごめんなさい」
「謝れば済む話でもない!」
ジルヴェスターの叫びに、アーティは肩をすくめた。
ハルトムートが、すかさず口を挟む。
「アウブ。アーティは今回の件について、すでに十分反省しています。今は、今後の対応を考えるべきかと」
「お前もだ、ハルトムート!」
「はい?」
「お前はこの娘を妹として育ててきたのだろう!? それなのに、こんな重大な話を知らなかったのか!?」
「はい。知りませんでした」
「堂々と言うな!」
「アーティが話さなかったのですから、知りようがありません」
「それはそうだが……!」
ジルヴェスターは言葉に詰まった。
そして、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……もういい。続けろ。これ以上何が出てくるのか、先に聞いておきたい」
アーティは、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、アウブ」
「礼を言われるようなことではない!」
3.王族には戻りたくない
一通り説明を終えたアーティは、背筋を伸ばした。
ここからが、本当に伝えたかったことだった。
「私は、王族にはなりたくありません」
その言葉は、先ほどまでの説明よりもはっきりとしていた。
「私は、ハルトムートの妹として、エーレンフェストの上級貴族として生きていきたいのです」
ジルヴェスターは、頭を抱えたまま黙り込んだ。
アーティは続けた。
「私の身元を知っている者には、すでに箝口令が敷かれています。ですが、それだけでは不十分だと思いました。だから、アウブにも事情をお話しし、お願いしたかったのです」
そして、深く頭を下げた。
「どうか、私がこれまでどおりハルトムートの妹として生きられるよう、力を貸していただけませんか?」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、フェルディナンドが冷静な声で答えた。
「無理だな」
アーティの肩が、ぴくりと揺れた。
「……フェルディナンド様」
「王族とは、本人がなりたい、なりたくないと簡単に選べる立場ではない。血縁が判明し、王族としての扱いが必要となれば、個人の希望だけで覆せる問題ではないのだ」
正論だった。
あまりにも正論だった。
「王族の血を引く者が、他領の上級貴族として暮らしていた。その事実が明らかになれば、王族だけでなく、各領地の勢力関係にも影響する可能性がある。お前が望まないからという理由だけで、何事もなかったことにはできない」
アーティは俯いた。
「……そう、ですよね」
わかっていた。
最初から、わかっていたのだ。
自分の望みだけで解決できる問題ではない。
だからこそ、相談するのが怖かった。
誰かに相談して、無理だと言われることが怖かった。
王族として生きるしかないと、はっきり告げられることが怖かった。
アーティは唇を噛み、俯いたまま小さく言った。
「……ごめんなさい」
涙が滲んでいた。
「私、ただ……今の生活を失いたくなかっただけなんです」
その声を聞いて、ハルトムートの表情がわずかに険しくなった。
彼は妹の隣に立ったまま、何も言わなかった。
今ここで慰めることは簡単だ。
だが、アーティが直面している問題は、慰めるだけで解決できるものではない。
だからこそ、今は彼女の代わりに判断するのではなく、彼女が望みを伝えられるように支えるべきだった。
その時。
「フェルディナンド」
アナスタージウスが口を開いた。
「……何でしょうか、王子」
「私から命じる」
その声音が変わった。
それまで妹の兄として話していた青年が、王族としての威厳を纏う。
アナスタージウスは、フェルディナンドをまっすぐに見据えた。
「私の妹が王女として扱われることのないよう、可能な限り善処しろ」
部屋の空気が凍りついた。
ジルヴェスターが、ゆっくりと顔を上げる。
カルステッドも目を見開いた。
ローゼマインは、思わずアナスタージウスを見た。
そしてフェルディナンドは、表情を変えないまま尋ねた。
「……王子。それは、どのような意図でのご命令でしょうか」
「言葉どおりだ」
アナスタージウスは淡々と答えた。
「理由はそうだな。王位争いにおいて、余計な火種を増やしたくないということにでもしておけ」
「……」
「王族の血を引く者が新たに王女として迎えられれば、王位継承をめぐる問題が複雑になる可能性がある。そう説明すれば、少なくとも私の立場から反対する理由は成立するだろう」
それは、王族としての権限を使った命令だった。
単なる兄の願いではない。
アナスタージウスは、妹を守るために、自らの立場を利用することを選んだのだ。
「もちろん、王族全体の判断を私一人で決められるわけではない。だが、私が反対の立場を取ることには意味があるはずだ」
彼は、俯いているアーティを見た。
「私は、妹が望まない立場を押しつけられることを望んでいない」
アーティが顔を上げた。
「……アナスタージウス兄様」
「お前が自分の人生を守りたいと思うのなら、私も兄としてできることをする」
アナスタージウスは再びフェルディナンドに視線を戻した。
「理解したか?」
フェルディナンドは、しばらく沈黙した。
王族からの命令だ。
しかも、その内容は政治的な立場からの反対を明確にするというもの。
これを無視することはできない。
「……承知いたしました、王子」
フェルディナンドは深く一礼した。
「可能な限り、アーティが王族として扱われずに済む方法を検討いたします。ただし、必ず実現できるとお約束することはできません」
「それでいい」
アナスタージウスは頷いた。
「最初から、何もかも思いどおりにできるとは考えていない」
それから、彼はアーティへ向き直った。
「だから、もう一人で抱え込むな。今度は私にも相談しろ」
アーティは、涙を拭いながら頷いた。
「……はい」
4.頭を抱えるアウブ・エーレンフェスト
一方、その場で一連のやり取りを聞いていたジルヴェスターは。
「…………」
完全に頭を抱えていた。
王族の妹。
しかも、上級貴族の娘として育てられてきた少女。
さらに、その少女を王族として扱わないように、王子本人から命じられた。
いったい、どうしろというのだ。
「……フェルディナンド」
「何だ」
「俺は今、夢を見ているのか?」
「残念ながら現実だ」
「そうか……」
ジルヴェスターは深々とため息をついた。
「俺はただ、アーティが見つかったと聞いて安心したかっただけなんだが……」
「私も同じだ」
フェルディナンドは即答した。
「だが、現実はお前の期待どおりにはならなかったようだな」
「他人事みたいに言うな!」
「他人事ではないからこそ、頭が痛いのだ」
フェルディナンドは額に手を当てた。
「王族の血縁が判明した以上、今後の対応は慎重に進めなければならない。情報が漏れれば、王族だけでなく、他領も動く可能性がある」
「わかっている……」
「ならば、感情的になるな。まずは誰が何を知っているのかを整理し、アナスタージウス王子の意向を踏まえた上で、必要な対応を決める」
「……わかっていると言っているだろう」
ジルヴェスターは、ぐったりと椅子にもたれた。
そして、ゆっくりとアーティを見た。
「アーティ」
「はい、アウブ」
「お前は……どうしてこう、次から次へと……」
「……ごめんなさい」
「いや、今は謝らなくていい。いや、よくはないんだが……!」
ジルヴェスターは再び頭を抱えた。
カルステッドが、そんな主を見て苦笑する。
「アウブ。少なくとも、アーティが見つかったことは喜ぶべきことです」
「それはわかっている!」
「では、まずはそこから考えましょう」
カルステッドはアーティへ視線を向けた。
「アーティ。お前がこれまで、どれほど苦しい思いをしてきたのか、今の話で少しは理解できたつもりだ」
アーティは、驚いたように顔を上げた。
「……カルステッド様」
「お前が今の生活を守りたいと思うことは、よくわかった。だからこそ、これからは一人で判断せず、我々にも相談してほしい」
「……はい」
カルステッドは頷いた。
「お前はエーレンフェストで暮らしてきた。ハルトムートの妹として、我々の知るアーティとしてな。その事実は、今さら簡単に消えるものではない」
その言葉に、アーティの目が再び潤んだ。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。これからどうするか、皆で考えなければならないのだからな」
ジルヴェスターは、ようやく顔を上げた。
「そうだ。アーティ、お前が今の生活を続けたいという希望は理解した。アナスタージウス王子も、そのために協力してくださるとおっしゃっている」
「……はい」
「ならば、エーレンフェストとしても、できる限りのことはしよう」
アーティは息を呑んだ。
「本当ですか……?」
「ただし!」
ジルヴェスターが勢いよく身を乗り出した。
「もう二度と、何も言わずに勝手にいなくなるな!」
「は、はい!」
「お前の身元がどれほど重大な問題になるか、今回で十分わかっただろう! 一人で解決しようとするな! 困ったら相談しろ!」
「……はい」
「返事だけではなく、約束だぞ!」
「約束します!」
ジルヴェスターは、しばらくアーティを見つめていた。
それから、ようやく肩の力を抜いた。
「……まったく。心臓に悪い娘だ」
「……ごめんなさい」
「だから、今は謝らなくていいと言っているだろう!」
思わず声を荒らげたジルヴェスターに、ローゼマインが小さく笑った。
それにつられるように、カルステッドの表情も和らぐ。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
しかし、フェルディナンドだけは、まだ難しい顔をしていた。
「……安心するのはまだ早い」
その一言で、再び全員の視線が集まった。
「アナスタージウス王子の命令によって、アーティが王族として扱われないように動くことにはなった。だが、王族の血縁という事実そのものが消えるわけではない」
フェルディナンドは、アーティを見つめた。
「お前が望む生活を守るためには、これから先、いくつもの問題を解決しなければならないだろう」
アーティは、静かに頷いた。
「……はい」
「そして、そのためにはお前自身の協力も必要だ。何かを隠したり、勝手に行動したりすることは許さない。わかったな?」
「……はい、フェルディナンド様」
「よろしい」
フェルディナンドは椅子に座り直した。
ジルヴェスターは再び額を押さえ、カルステッドは今後の対応を考え始める。
ローゼマインは、アーティの隣でそっと手を握った。
ハルトムートは、その様子を見て小さく息を吐いた。
「アーティ」
「……何、兄様?」
「これから大変になるぞ」
「……うん」
「だから、もう一人で抱え込むな。何かあったら、私にも相談しろ」
アーティは、少しだけ笑った。
「うん。約束する」
ハルトムートは満足そうに頷いた。
その向かい側では、アナスタージウスが静かに妹を見守っていた。
王族としての立場を守るために。
そして、妹が望む人生を守るために。
彼はこれから、兄として、王族として、できる限りのことをするつもりだった。
一方、ジルヴェスターはというと。
「……フェルディナンド」
「何だ」
「これ、俺の仕事が増えただけじゃないか?」
「今さら気づいたのか」
「お前な……!」
部屋の中に、ジルヴェスターの悲鳴にも似た声が響いた。
アーティは思わず、ローゼマインの手を握り直した。
そして、小さく呟いた。
「……私、やっぱり、とんでもないことをしちゃったんだね」
ハルトムートは、即座に答えた。
「今さらだろ」
「……兄様!」
「事実だ」
「ひどい……!」
そのやり取りに、ローゼマインがとうとう吹き出した。
アナスタージウスも、口元をわずかに緩める。
ジルヴェスターは頭を抱えたままだったが、先ほどよりも少しだけ表情が和らいでいた。
問題は山積みだ。
これから先、何が起こるのかもわからない。
それでも、アーティはもう一人ではなかった。
自分の望みを守るために、共に考えてくれる人たちがいる。
そして今度こそ、彼女はその人たちの手を取ることを選んだのだった。
エーレンフェスト城・執務室
――知られてはならない罪
「……頭が痛い」
ジルヴェスターは、執務机に両肘をつき、両手で顔を覆っていた。
「王族の血を引く娘が、上級貴族の養女として暮らしていた。しかも、その娘は王族に戻りたくないと望んでいる。さらに、アナスタージウス王子からは、その娘を王女として扱わないよう善処せよと命じられた。……フェルディナンド、私は一体どうすればいい?」
「私に聞くな。私も頭を抱えている」
フェルディナンドは、珍しく即答した。
彼の前には、今後想定される問題がいくつも並んでいる。
王族への報告。
アーティの身分の保護。
他領への情報漏洩の防止。
そして、アナスタージウスの命令をどこまで政治的に実現できるか。
どれも簡単に片づけられる問題ではない。
「そもそも、アーティの血縁をどこまで調べる必要があるのか。王族側が調査を始めれば、隠し通すこと自体が難しくなる可能性もある」
「だが、何も調べなければ、いざという時に対応できん」
「わかっている。だからこそ、どこまで調べるかを慎重に決める必要があると言っているのだ」
「わかっているなら、もう少し何とかならんのか!」
「お前は私を何だと思っている?」
「こういう時に何とかする男だ!」
「無茶を言うな」
二人の会話は、すでに何度目かわからない堂々巡りに陥っていた。
その少し離れた場所では、アーティがハルトムートの隣に座っている。
彼女は先ほどから、兄の袖をつまんでは離し、つまんでは離しを繰り返していた。
「……兄様」
「何だ?」
「私、ここにいていいのかな」
「今さら何を言っている。お前の話をしているんだから、当然いるだろ」
「でも、アウブとフェルディナンド様がすごく大変そうで……」
「お前のせいだからな」
「うっ……」
「ただし、だからといってお前一人で解決しようとするな。今度はちゃんと周りに頼れ」
「……うん」
ハルトムートは、アーティの頭を軽く撫でた。
その様子を見ていたローゼマインは、これまでの話を頭の中で整理していた。
アーティが神殿に逃げ込んだこと。
洗礼式前の孤児として扱われ、魔力を限界まで奪われたこと。
食事すら満足に与えられず、命の危険にさらされていたこと。
そして、その後、前神殿長によって青色巫女としての礼儀作法を叩き込まれたこと。
ローゼマインは、ふと顔を上げた。
「……あれ?」
誰に向けたわけでもない、小さな声だった。
しかし、話し合いをしていたジルヴェスターが顔を上げる。
「どうした、ローゼマイン?」
「いえ。今のお話を整理していたのですが……」
ローゼマインは、何気ない調子で続けた。
「先ほどの話によると、前神殿長は、領主の養女である私に手を出したことが大きな罪となり、処刑されましたよね?」
「そうだな」
ジルヴェスターが答える。
ローゼマインは、そこで一度アーティを見た。
「ですが、アーティが神殿で受けていた扱いを考えると……前神殿長には、もう一つ、とても重大な罪があったことになりますよね?」
フェルディナンドの手が止まった。
「……続けろ」
「アーティは、王族の血を引く子どもだった。しかも、洗礼式前の幼い時期に魔力を枯渇させるほど奪われ、食事も十分に与えられず、命を落としかねない状態に置かれていた」
ローゼマインは、あくまでも事実を確認するように言った。
「つまり、前神殿長は、結果的に王族の血を引く子どもに対して、その命を危険にさらすほどの虐待を行っていたことになりますよね?」
――ピシリ。
その場の空気が凍りついた。
ジルヴェスターの顔から、表情が消えた。
フェルディナンドはゆっくりと目を閉じた。
カルステッドが息を呑む。
ハルトムートは、隣に座るアーティへ視線を向けた。
そしてアナスタージウスは、何も言わずにローゼマインを見つめていた。
誰もが、同じ結論にたどり着いていた。
気づかなければよかった真実に、気づいてしまった。
ローゼマインは、少し遅れて周囲の反応に気づいた。
「……あの。私、何かおかしなことを言いましたか?」
「いや」
フェルディナンドが、ひどく静かな声で答えた。
「お前は何もおかしなことは言っていない」
「そうですか?」
「問題は、お前の指摘が正しい可能性が高いことだ」
ジルヴェスターが、ゆっくりと顔を覆った。
「……やめてくれ」
「アウブ?」
「頼むから、これ以上、問題を増やさないでくれ……」
「増やしているのはローゼマインではなく、過去に起きた事実だ」
「わかっている! わかっているが、そういう問題ではない!」
ジルヴェスターは、勢いよく顔を上げた。
「前神殿長は、領主一族だぞ!」
その言葉が、部屋に響いた。
そうなのだ。
前神殿長は、ただの神殿長ではない。
エーレンフェストの領主一族に連なる人物だった。
その人物が、王族の血を引く子どもを神殿で虐待していた。
しかも、本人が王族の子どもだと知らなかったとしても、実際に行われたことの重大さは変わらない。
もし王族側がこの事実を知ったら、どうなるのか。
アーティが王族の血を引いていたこと。
彼女が誘拐され、神殿へ逃げ込み、洗礼式前の孤児として扱われていたこと。
そして、前神殿長が彼女を魔力の供給源のように扱い、命を危険にさらしていたこと。
それらが一つにつながれば、エーレンフェストに対する王族の不信感は避けられない。
さらに、前神殿長が領主一族の人間だったという事実が、問題をいっそう深刻にする。
「……フェルディナンド」
ジルヴェスターの声がかすれた。
「仮に、この事実が王族に知られたら?」
「知られた場合の影響を、今ここで軽く見積もることはできない」
フェルディナンドは、慎重に言葉を選んだ。
「王族が、エーレンフェストの領主一族に対して重大な疑念を抱く可能性はある。前神殿長個人の罪として処理されるか、それとも領地全体の管理責任として問われるかは、王族側の判断にもよるだろう」
「つまり……」
「最悪の場合、領地の立場そのものが危うくなる」
ジルヴェスターは、再び頭を抱えた。
「……終わった」
「まだ終わっていない」
「だが、終わりかねんだろう!」
「だからこそ、今後の対応を慎重に考える必要があると言っている」
フェルディナンドは机の上で指を組んだ。
「まず、今回の件について、現時点で王族側がどこまで把握しているのかを確認する必要がある。アナスタージウス王子は、アーティが神殿で受けた扱いについて、どこまで理解している?」
「今、本人の口から聞いた内容がすべてだ」
アナスタージウスは、淡々と答えた。
「私も、アーティが神殿にいたことすら知らなかった。前神殿長がどのような人物だったのかについても、今の話を聞いて初めて理解した」
「……そうか」
フェルディナンドは、わずかに安堵したように息を吐いた。
少なくとも、今この場で話を整理する余地はある。
しかし、それは決して安心できる状況を意味しなかった。
「アーティ」
フェルディナンドが呼びかけた。
「お前は、神殿で受けた扱いについて、他に何か知っていることはあるか?」
アーティは、少し考えてから首を横に振った。
「……いいえ。私が話したことが、知っているすべてです。前神殿長が、私の血縁について知っていたのかどうかもわかりません」
「そうか」
「でも……」
アーティは、膝の上で両手を握りしめた。
「私が王族だと知らなかったとしても、あの時のことがなかったことになるわけではないですよね」
誰も、すぐには答えられなかった。
アーティは続けた。
「私は、あの時、本当に死ぬかと思いました。でも、前神殿長が私を王族だと知っていたのかどうかはわかりません。だから、私のことを理由に、エーレンフェストの皆さんが責められるのは……」
「アーティ」
ハルトムートが、彼女の言葉を遮った。
「お前が気にすることじゃない」
「でも、兄様……」
「お前が受けた扱いが悪かったことと、それをどう処理するかは別の話だ。お前が自分の過去を隠すために、すべてを背負う必要はない」
ハルトムートは、まっすぐに妹を見つめた。
「それに、今ここにいる全員が、お前を守るためにどうするかを考えている。お前一人で、皆の責任まで引き受けようとするな」
アーティは、唇を引き結んだ。
「……うん」
そのやり取りを見ていたアナスタージウスは、静かに口を開いた。
「私も、同じ考えだ」
全員の視線が集まる。
「アーティが王族の血を引くと知った以上、私には兄として彼女を守る責任がある。だが、それは彼女に、自分が受けた被害まで背負わせるという意味ではない」
アナスタージウスの目が、鋭くなる。
「前神殿長が何をしたのか。そして、その責任を誰が負うべきなのか。それは事実に基づいて判断されるべきだ。アーティが王族であることを隠すために、彼女が受けた扱いまでなかったことにするつもりはない」
ジルヴェスターは、苦い顔をした。
「王子。それは理解しております。しかし、事実が公になった場合、エーレンフェストがどのような立場に置かれるかも考えなければなりません」
「わかっている」
アナスタージウスは頷いた。
「だからこそ、現時点では情報を限定し、慎重に扱う必要がある。私も、妹の身元をむやみに公表するつもりはない」
「……ありがとうございます」
ジルヴェスターは、深く息を吐いた。
しかし、彼の表情は晴れなかった。
前神殿長が処刑された理由は、すでに存在する。
領主の養女であるローゼマインに対して行った行為。
それだけでも、処刑に至る重大な罪だった。
そこに、王族の血を引く幼い子どもへの虐待という事実が加わる。
前神殿長がすでに処刑されているからといって、過去の出来事が消えるわけではない。
むしろ、今になって明らかになった事実は、エーレンフェストの管理責任を問う材料になりかねなかった。
「……ローゼマイン」
ジルヴェスターが、疲れ切った声で呼んだ。
「はい、アウブ」
「お前は、どうしてそういうことに気づいてしまうんだ……」
「えっ。だって、話を聞いていれば自然と……」
「自然と気づくな!」
「そんなことを言われましても……」
ローゼマインが困った顔をする。
フェルディナンドは、額を押さえたまま言った。
「ジルヴェスター。ローゼマインに責任はない。気づくべき事実に気づいただけだ」
「それはわかっている! わかっているが、今は気づかないままでいたかったんだ!」
「気づかなかったことにしても、問題が消えるわけではない」
「お前は少し黙っていろ!」
「断る」
二人のやり取りに、カルステッドが深くため息をついた。
そして、アーティを見つめた。
「アーティ。お前が王族の血を引いていることは、今後も慎重に扱わなければならない。だが、今回の件をお前一人の問題として片づけるつもりもない」
「……カルステッド様」
「お前はエーレンフェストで暮らしてきた。ハルトムートの妹として、我々の知る貴族として。その事実は変わらない。だからこそ、今後のことは皆で考える」
アーティは、静かに頷いた。
「……はい」
ローゼマインは、ようやく自分の言葉が引き起こした問題の大きさを理解したようだった。
「……私、余計なことを言ってしまったでしょうか」
「いや」
フェルディナンドが答えた。
「お前の指摘は必要だった。むしろ、今の段階で気づけたことは幸いだ」
「そう、ですか……」
「ただし、今後は気づいたことを口にする前に、それがどのような意味を持つのか、少し考える癖をつけろ」
「……はい」
ローゼマインは、しょんぼりと肩を落とした。
その隣で、アーティがそっと彼女の袖をつまむ。
「ローゼマイン、ありがとう」
「え?」
「私のこと、ちゃんと考えてくれたんでしょう?」
ローゼマインは、少し驚いた顔をした。
アーティは、静かに微笑んだ。
「私、自分のことばかり考えていたから。前神殿長のことも、エーレンフェストのことも、ちゃんと考えられていなかったと思う」
「アーティ……」
「だから、気づいてくれてありがとう」
ローゼマインは、しばらくアーティを見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……はい。でも、アーティのことも、きちんと守らなければなりません。そこは忘れないでくださいね」
「うん」
その光景を見ていたジルヴェスターは、もう一度、深々と頭を抱えた。
「……フェルディナンド」
「何だ」
「俺たちは、これからどうなるんだ?」
フェルディナンドは、しばらく考えた後、静かに答えた。
「少なくとも、今すぐ結論を出すべきではない」
「……そうか」
「まずは、情報を限定する。アナスタージウス王子の意向を確認する。王族側への報告についても、必要な範囲と時期を慎重に決める。そして、アーティの身元が不必要に広がらないよう、対策を講じる」
「……うむ」
「それから、前神殿長の件については、当時の記録を確認する必要がある。何が記録され、何が記録されていないのか。どこまで事実として確認できるのか。それを整理しなければ、今後の判断もできない」
ジルヴェスターは、ようやく姿勢を正した。
「わかった。すぐに取りかかろう」
その声には、まだ疲労が残っていた。
しかし、領主としての顔が戻りつつあった。
アーティは、ハルトムートの隣で静かに座っていた。
自分が王族の血を引いていること。
神殿で受けた扱い。
そして、その事実がエーレンフェスト全体を巻き込む可能性があること。
今まで、自分の問題だと思っていたものが、実は多くの人間の運命に関わる問題だった。
それが、ようやく実感として胸に落ちてきた。
「……兄様」
「何だ?」
「私、ここにいてもいいのかな」
ハルトムートは、すぐに答えた。
「当たり前だろ」
「でも、私がいることで、エーレンフェストが……」
「アーティ」
ハルトムートは、妹の頭に手を置いた。
「お前がいることと、前神殿長が何をしたかは別の話だ。お前が自分の存在を責める必要はない」
アーティは、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
ハルトムートは、いつものように少しだけ厳しい声で付け加えた。
「だから、勝手にいなくなるなよ。今度こそ、ちゃんと相談しろ」
「……はい」
「よし」
その様子を見ていたアナスタージウスは、静かに目を伏せた。
妹が守りたいものは、王族としての地位でも、名誉でもない。
今まで築いてきた暮らしと、家族との関係だった。
そして、その暮らしを守ろうとすればするほど、王族の血筋という事実が大きな問題になってしまう。
アナスタージウスは、その矛盾を痛いほど理解していた。
だからこそ、簡単に諦めるわけにはいかなかった。
一方、ジルヴェスターは再びフェルディナンドへ顔を向けた。
「……なあ、フェルディナンド」
「今度は何だ」
「前神殿長が、王族の血を引く子どもを虐待していたという事実が明らかになった場合……本当に、エーレンフェストは危ういのか?」
フェルディナンドは、すぐには答えなかった。
そして、慎重に言葉を選んだ。
「その可能性は否定できない。だが、現時点でエーレンフェストが確実に処罰されると断言することもできない。前神殿長個人の罪として扱われるのか、領地の管理責任が問われるのか。それは、事実関係と王族側の判断による」
「……そうか」
「だからこそ、今は不用意に情報を広げず、事実を整理する必要がある」
ジルヴェスターは、深く息を吐いた。
「わかった。そうしよう」
その決断に、フェルディナンドも頷いた。
誰も、楽観的な結論を出すことはできなかった。
しかし、一つだけ確かなことがあった。
この事実を軽々しく外へ漏らしてはならない。
アーティの身元が公になれば、彼女の人生は大きく変わる。
そして、前神殿長の罪が王族の問題として再び取り上げられれば、エーレンフェストそのものが政治的な危機に直面する可能性がある。
ジルヴェスターは、最後にもう一度、アーティを見た。
「……アーティ」
「はい、アウブ」
「お前の望みは理解した。できる限り、今の生活を守れるように動こう」
アーティは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、これからは何も隠さずに相談しろ。お前の身元に関わることは、もうお前一人で決められる問題ではない」
「……はい」
「そして、我々も、お前の意思を無視して物事を進めないようにする」
その言葉に、アーティの目が揺れた。
「……ありがとうございます、アウブ」
ジルヴェスターは、疲れた顔で頷いた。
「……本当に、頭が痛い」
「同感だ」
フェルディナンドが即座に答える。
「お前は少しは労わるということを知らんのか!」
「事実を述べただけだ」
ローゼマインが小さく笑い、カルステッドも苦笑した。
緊張が完全に消えたわけではない。
問題が解決したわけでもない。
それでも、この場にいる者たちは、ようやく同じ方向を向き始めていた。
アーティを守ること。
エーレンフェストを守ること。
そして、過去に起きた事実から目を背けず、それをどう扱うべきかを慎重に考えること。
そのすべてを両立させるために、彼らは動き始めた。
ただし、ジルヴェスターはまだ知らない。
この先、アーティに関わる問題が一つ解決するたびに、別の問題が顔を出す可能性が高いことを。
そして、そのたびにフェルディナンドと二人で頭を抱えることになるのだということを。
「……フェルディナンド」
「今度こそ何だ」
「今日はもう、執務を終わりにしてもいいか?」
「駄目だ」
「即答するな!」
その声が部屋に響き、アーティはハルトムートの隣で、ほんの少しだけ笑った。
コメント
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うわあ……この第7話、すごく重くてでも温かい話でしたね……。 アーティがようやく「助けてください」って言えた瞬間、胸が熱くなった。ベンノの拳骨とか、ハルトムートの説教とか、全部愛情から来てるのが伝わってきて、泣きそうになりました。二人の兄が譲らないのも、アーティをそれだけ大切に思ってるからで、読んでてじんわり嬉しかったです。王族の血筋と今の生活の板挟みで苦しむアーティの心情が丁寧に描かれていて、引き込まれました。ローゼマインの気づきで問題がさらに深くなるのも怖いけど、続きが本当に気になります。