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店に戻ると、鍵が開いていた。俺は眉をひそめ、大きく息をつくとそっと中をのぞき込んだ。薄闇に包まれた店内で、一つの影が静かに佇んでいる。
目を凝らすと……、それはドロシーだった。
彼女の姿に、俺は心臓を締め付けられるような息苦しさを覚えた。いつもの明るさが消え失せ、暗闇に溶け込むかのように静かに座っている。
何度か深呼吸をし、俺は明るい調子を装ってバーンとドアを開けた。
「あれ? ドロシーどうしたの? 今日はお店開けないよ」
ドロシーは俺の方をチラリと見上げ、静かにため息をつく――――。
「税金の書類とか……書かないといけないから……」
力なく立ち上がる彼女の動作は、どこか無理している感じだった。
「税金は急がなくていいよ。無理しないでね」
俺は優しく諭すように言ったが、ドロシーはうつむいたまま黙り込んでしまった。
重苦しい沈黙が部屋を満たす。俺は彼女に近づき、中腰になってその顔を覗き込んだ。
「何かあった?」
ドロシーはそっと俺の袖をつかんだ。その指先が微かに震えている。
「怖いの……」
つぶやくような、か細い声。
「え? 何が……怖い?」
「一人でいると、昨日のことがブワッて浮かぶの……」
ドロシーの目から、大粒の涙がポトリと落ちた。その瞬間、俺の胸に鋭い痛みが走る。
俺は思わず彼女を優しく抱きしめた。ふんわりと立ち上る甘く優しいドロシーの香りが、鼻腔をくすぐる。
「大丈夫、もう二度と怖い目になんて絶対遭わせないから」
俺はそう言って、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「うぇぇぇぇ……」
こらえてきた感情が堰を切ったように溢れ出す。俺は優しく彼女の背中をトントンと叩いた。
さらわれ、男たちに囲まれ、服を破られた恐怖。その絶望は、想像を絶するものだっただろう。簡単に忘れられるはずがない。
俺はドロシーが泣き止むまで、ずっとゆっくりと背中をさすり続けた。
「うっうっうっ……」
ドロシーの嗚咽が、静かに暗い店内に響く。その悲しみの波が、俺の胸に深く刻まれていく――――。
◇
嗚咽が少しずつ和らぎ始めた頃、俺はドロシーをそっとテーブルへと導いた。
「コーヒーでも入れよう」
俺は優しく微笑んで、ドロシーも涙を手のひらで拭いながらうなずいた。
店内に香ばしいコーヒーの香りが漂い始める。その香りが、緊張した空気を少しずつ和らげていく。
「ねぇ、今度海にでも行かない?」
俺は湯気の立つカップをドロシーに差し出しながら、明るい口調で提案した。
「海?」
ドロシーの瞳に、小さな好奇心の光が宿る。
「そうそう、南の海にでも行って、綺麗な魚たちとたわむれながら泳ごうよ」
俺は優しく微笑みかける。
「海……。私、行ったことないわ……。楽しいの?」
ドロシーの表情に、少しずつ明るさが戻ってくるのが分かった。
「そりゃぁ最高だよ! 真っ白な砂浜、青く透き通った海、真っ青な空、沢山のカラフルな熱帯魚、居るだけで癒されるよ」
俺は身振り手振りを交えながら、海の素晴らしさを熱心に説明した。その様子に、ドロシーの唇が僅かに緩む。
「ふぅん……」
ドロシーはコーヒーを一口すすり、立ち昇る湯気をぼんやりと見つめる。
「どうやって行くの?」
ドロシーが顔を上げ、興味深そうに尋ねる。
「それは任せて、ドロシーは水着だけ用意しておいて」
「水着? 何それ?」
ドロシーの首を傾げる仕草に、俺は我に返った。この世界に水着という概念がないことを忘れていたのだ。
「あ、濡れても構わない服装でってこと」
俺は慌てて言い直す。
「え、洗濯する時に濡らすんだから、みんな濡れても構わないわよ」
ドロシーの純粋な返答に、俺は思わず赤面してしまう。
「いや、そうじゃなくて……濡れると布って透けちゃうものがあるから……」
俺の言葉に、ドロシーの頬が瞬く間に朱く染まる。
「あっ!」
二人の間に、甘く柔らかな空気が流れる。
「ちょっと探しておいてね」
「う、うん……」
ドロシーはうつむきながら、照れ臭そうに答えた。その仕草に、俺は胸が温かくなるのを感じる。
窓の外では、夕暮れの街並みが茜色に染まり始めていた。俺たちの前には、新たな冒険への期待が広がっている。海への旅は、きっとドロシーの心の傷を癒すだろう。そして、俺自身にとっても、この世界の不思議を解き明かす大きなヒントになるかもしれない。
俺はコーヒーを口に運びながら、昔行った南の島の青い海を思い出していた。
51. プランクトンID
海への期待がドロシーの心を少し和ませたようで、奥の机で書類の整理を始めた。その姿を見て、俺は安堵の息をつく。
買ってきた拡大鏡を取り出し、俺は池の水の観察を始めることにした。窓辺の明るい場所に白い皿を置き、そこに池の水を一滴たらす。
さて、何が見えますでしょうか――――?
緊張と期待が入り混じる心を抑えながら、俺は拡大鏡をのぞき込んだ。
「いる……」
俺の目の前に、驚くべき光景が広がった。そこには無数のプランクトンが、まるで宇宙の星々のように蠢いていた。棘のある球体、小舟のような形状、筏に似た姿――多種多様な形のプランクトンが、それぞれの個性を主張するかのようにピョコピョコと動き回っている。
一滴の水滴が、まるで小さな宇宙のように感じられた。
乳酸菌の存在を知った今、これらのプランクトンの存在は想定内だった。しかし、実際に目にすると、その生命力に圧倒される。この世界がリアルな世界である可能性が、さらに高まった気がした。
「こんな複雑な生態系をMMORPGでシミュレートし続けるなんて……」
俺は呟いた。そんなことは技術的にも、コスト的にも非現実的だ。
拡大鏡から目を離さず、俺はプランクトンたちの動きを見守り続けた。特に、ピョンピョンと活発に動き回るミジンコの姿に、心が和むのを感じる。その愛らしい動きに、思わず微笑みがこぼれた。
「ユータ、何してるの?」
ドロシーの声に、俺は我に返った。彼女は好奇心に満ちた表情で、俺の傍らに立っていた。
「ああ、ちょっとした観察さ。ほら、見てみる?」
俺は拡大鏡をドロシーに差し出す。彼女は恐る恐る覗き込んだ――――。
「きゃぁ!」
驚いて顔を上げるドロシー。その表情には驚きと興奮が入り混じっていた。
「なによこれー! 動いてる!」
「池の水だよ。拡大鏡で見ると、中にはいろんな小さな生き物がいるんだ」
俺は得意げに説明する。ドロシーが生き生きとの驚く顔を見て少しホッとした。
「え? 池ってこんなのだらけなの……? 気持ち悪いような、でも面白いような……」
そう言いながら、ドロシーは恐る恐る拡大鏡を再度のぞく。今度は少し落ち着いた様子で、じっくりと観察を始めた。
「なんだか不思議な世界ね……。まるで別の惑星を覗いているみたい」
「ピョンピョンしてるの、ミジンコっていうんだけど、可愛くない? 水の中を泳ぐウサギみたいだろ?」
俺は調子に乗って説明を続ける。異世界で話す科学の知識、それはなんだかとてもチートな気分だった。
「うーん、私はこのトゲトゲした丸い方が可愛いと思うわ。何だかカッコいいかも。まるで小さな武将みたい。何て名前なの?」
ドロシーは目を輝かせながら拡大鏡をのぞき込んでいる。その姿を見ていると、俺まで幸せな気分になってくる。
「え? 名前……? 何だったかなぁ……、ちょっと見せて」
俺は拡大鏡をのぞき込み、不思議な幾何学模様の丸いプランクトンを眺めた。
中学の授業でやった記憶があるんだが、もう思い出せない。『なんとかモ』だったような気がするが……。俺は無意識に鑑定スキルを起動させていた。
開く青い鑑定ウインドウ――――。
クンショウモ レア度:★
淡水に棲む緑藻の一種
ID:319747291022(5月9日13:43 34’55”)
俺は表示内容を見て唖然とした。なぜ、こんな微細なプランクトンまでデータ管理されているのだろう。ウィンドウに表示されている詳細項目を見ると、誕生日時まで詳細に書いてあり、生まれた時からちゃんと個別管理がされてあるようだった。
「そんな……、バカな……」
急いで他のプランクトンも鑑定してみる。
ミカヅキモ レア度:★
淡水に棲む接合藻の仲間
ID:319779231950(5月3日03:19 42’05”)
イカダモ レア度:★
淡水に棲む緑藻の一種
ID:319792462974(5月1日18:31 41’23”)
全て、鑑定できてしまった――――。
これはつまり、膨大に生息している無数のプランクトンも一つ一つシステム側が管理しているということだ。
「どうしたの? ユータ。何が見えるの?」
ドロシーの声に我に返る。俺は動揺を隠しながら、なんとか笑顔を作った。
「あ、ごめん。ちょっと考え事をしてた。それよりドロシー、他にも面白いのがいるから見てみようか」
そう言って、俺は話題を逸らす。
見えている微生物全てにコードが振られているだなんて、とても説明できない。
しかし、これはこの世界の真実の一端を表す恐るべき事実なのだ。この世界の仕組みは、俺が想像していた以上にはるかに複雑で緻密なものなのかもしれない。
一滴の池の水の中に数百匹もいるのだ。池にいるプランクトンの総数なんて何兆個いるかわからない。海まで含めたらもはや天文学的な膨大な尋常じゃない数に達するだろう。でも、その全てをシステムは管理していて、俺に個別のデータを提供してくれている。
ありえない――――。
俺は頭を抱えながら、窓際の椅子に腰を下ろした。夕暮れ時の空が、オレンジ色から群青色へと変わっていく。その美しい光景さえも、今の俺には不気味に感じられた。
52. Welcome to Underground
きっと乳酸菌を鑑定しても一つ一つ鑑定結果が出てしまうのだろう。一体この世界はどうなってるんだ……?
ここまで管理できているということは、この世界はむしろ全部コンピューターによって作られた世界だと考えた方が妥当だ。そもそも魔法で空を飛べたり、レベルアップでとんでもない力が出る時点で、システムがデータ管理だけに留まらないことは明白なのだ。
俺は『複雑すぎる世界は管理しきれない。だから、この世界は仮想現実空間ではない』と考えていたが、どうもそんなことはないらしい。誰も見てない池の中のプランクトンも、一つ一つ厳密にシミュレートできるコンピューターシステムがあるのだ。
一体どれだけのコンピューターを作ったらこんなことができるのか? こんな途方もないシステムを、誰が何のために……?
俺は背筋に水を浴びたようにゾッとし、冷や汗がタラりと流れた。部屋の温度が急に下がったような錯覚すら覚える。
『Welcome to Underground(ようこそ地下世界へ)』
誰かが耳元でささやいている――――。
俺はこの世界の重大な秘密にたどり着いてしまった。
その瞬間、今まで当たり前だと思っていた全てのことが疑わしく思えてくる。空を飛ぶ鳥たちは本当に自由意志で飛んでいるのか? 風に揺れる木々は、プログラムされた動きをしているだけなのではないか? そして、自分自身さえも……!?
俺はよろよろとテーブルの所へと戻り、冷めたコーヒーをゴクゴクと飲んだ。苦い味が舌に広がる。それでも、この味は確かに「リアル」だ。少なくとも、俺にはそう感じられる。
「ユータ……、どうしたの?」
真っ青な顔をした俺を見て、ドロシーが心配そうに声をかけてくる。彼女の瞳に浮かぶ不安な表情が、妙にリアルで心に刺さった。
『でも、彼女もコンピューターによる合成像なのだ』
脳内で誰かがささやく。
ドロシーは……本当に『存在』してるのだろうか――――?
その危ない認識に、俺は首をブンブンと振って全力で否定した。
ドロシーはドロシー。魂の入ったれっきとした人間である。俺は慌てて考え直す。
俺は両手で髪の毛をかきあげ、大きく息を吐いて言った。
「大丈夫だよ、ドロシー。俺は正常……正常だ。大丈夫、大丈夫……」
俺は必死に冷静に答えしようとしたが、どうもうまくいかない。
ドロシーは心配そうに眉をひそめた。
俺はパンパンと自分の頬を軽く叩いて、何とか正気を保とうとする。
「ごめん、ちょっと疲れてるみたいだ」
俺は無理やり笑顔を作って答えた。
しかし、心の中では大きな疑問が渦巻いてしまっている。この世界の真実、そして自分の存在意義。それらを知ってしまった今、俺はどう生きていけばいいのだろうか。
ふぅ……。
おれは大きくため息をつくと窓を開けた。
美しい群青色の空に宵の明星が輝いている――――。
俺はゆっくりと深呼吸をし、キュッと口を結んだ。
真実は追い求めねばならない。
俺は明星の輝きを見つめながらこの世界の真実を、どこまでも追求しようと思った。たとえそれが、自分の存在そのものを否定することになったとしても――――。
◇
その晩、俺はノートを開き、今分かっていることをつらつらと書き並べながら頭を悩ませていた。
トントントンと俺は鉛筆でノートを叩く。
この世界がコンピューターによって作られた世界だとしたら――――。
この仮説を確認する方法をいろいろな角度から考えてみる。
しかし、なかなかいい方法が思い浮かばない。
俺は窓から夜空を見上げた。無数の星々が瞬いている。それらの一つ一つも、全てシミュレーションの像なのだろうか?
そもそも、もし本当にこの世界がコンピューターで創られているとしたら、一体どんなコンピューターなのだろうか?
この広大な世界を全部シミュレーションしようと思ったら相当規模はデカくないとならないはずだ。それこそコンピューターでできた惑星くらいの狂ったような規模でない限り実現不可能だろう――――。
「馬鹿な……ははっ!」
俺は思わず笑ってしまう。そんな荒唐無稽な発想、SFでも聞いたことがない。
そもそも電力はどうなっているのだろう? 演算性能自体はコンピューターの数を増やせばどんどん増えるが、電力は有限なはずだ。だとしたらここに解明のキーがあるかもしれない。俺はエネルギーの面からコンピューターシステムの規模の予想をしてみようと思いついた。
一番デカいエネルギー源は太陽だ。実用性を考えれば、巨大な核融合炉である太陽を超えるエネルギー源はない。恒星は究極のエネルギー源なのだ。
地球で太陽光発電パネルを使う時、畳くらいのサイズでで二百ワットの電力が取れていた。これは俺の使ってたパソコン一台分に相当する。この太陽光発電パネルで太陽をぐるっと覆った時、どの位の電力になるだろうか?
太陽から地球の距離は光速で約八分、光速は秒間地球七周だから……。俺は紙に計算式を殴り書いていった。計算なんて久しぶりだ。指先に鉛筆の感触を感じながら、懐かしさと共に高揚感が込み上げてくる。
53. 導き出される矛盾
しばらくカリカリと鉛筆の音が部屋に響いた。
大体、3×10の23乗個のパソコンが動かせるくらいらしい。だが、数字がデカすぎて訳が分からない。3億台のパソコンを1億セット用意して、それをさらに1千万倍……。もう頭がついて行かない。
だがまぁ、MAXこのくらいの計算力が出せることは分かった。
で、この世界をシミュレーションしようと思ったら、例えば分子を一台のパソコンで一万個担当すると仮定すると、3×10の27乗個の分子をシミュレートできる計算になる。
これってどの位の分子数に相当するのだろう……? 俺は首を傾げる。
続いて人体の分子数を適当に推定してみると……、2×10の27乗らしい。なんと、太陽丸まる一個の電力を使ってできるシミュレーションは人体一個半だった――――。
俺は計算結果を見て、愕然とした。
つまり、この世界をコンピューターでシミュレーションするなんて無理なことが分かった。究極に頑張って莫大なコンピューターシステム作っても人体一個半程度のシミュレーションしかできないのだ。この広大な世界全部をシミュレーションするなんて絶対に無理という結果になってしまった。
もちろん、パソコンじゃなくて、もっと効率のいいコンピューターは作れるだろう。でもパソコンの一万倍効率を上げても一万五千人分くらいしかシミュレーションできない。全人口、街や大地や、動植物、この広大な世界のシミュレーションには程遠いのだ。
俺は手のひらを眺めた。微細なしわがあり、その下には青や赤の血管たちが見える……。生々しいほどにリアルだ。
拡大鏡で拡大してみると、指紋が巨大なうねのようにして走り、汗腺からは汗が湧き出している。こんな精密な構造が全部コンピューターによってシミュレーションされているらしいが……、本当に?
鑑定の結果から導き出される結論はそうだが、そんなコンピューターは作れない。一体この世界はどうなっているのだろうか?
俺は頭を抱え、深くため息をついた。窓の外では、月が雲間から顔を覗かせている。
この世界の真実は、俺の想像を遥かに超えているのかもしれない……。
俺はギリッと奥歯を鳴らした。
少なくとも今の俺には世界の真実が見えてこない。数式と数字が踊る紙面を俺はパン! と叩いた。
「はっ! そうじゃないとな。女神様、上等じゃないか!」
俺は月に向かってこぶしを突き上げた。分からないからこそ面白い。俺は机に向かい直すと、ノートをめくって新しいページを出した。
「よし、もう一度最初からだ! この世界の仕組みを、絶対に解き明かしてみせる」
決意を新たにして、俺は別の想定で再び計算を始めた。外では、夜が更けていく。しかし、俺の探求心は燃え盛っていた。
◇
世界の解明が一向に進まず、行き詰っていた時、金属カプセルの素材が届いた――――。
鐘とフタになる鉄板と、シール材のゴム、それからのぞき窓になるガラス、それぞれ寸法通りに穴もあけてもらっている。裏の空き地で、朝の柔らかな光が金属の表面を艶やかに照らしていた。
これからこれを使って宇宙へ行くのだ――――。
俺は大きく深呼吸をした。朝の冷たい空気が肺に染み渡る。
この世界が仮想現実空間であるならば、俺が宇宙へ行くのは開発者の想定外なはずだ。想定外なことをやることがバグをひき起こし、この世界を理解するキーになるのだ。そう、これは単なる冒険ではない。真実を追求する探訪なのだ。
俺はアバドンを呼び出した。彼には爆破事件から再生した後、勇者の所在を追ってもらっている。
朝の風が吹き、木々がざわめく中、アバドンの姿が空に現れた。
「やぁ、アバドン、調子はどう?」
俺は手をあげて挨拶する。彼の姿を見て、なぜか少しホッとした。
「旦那様、申し訳ないんですが、勇者はまだ見つかりません」
降り立ったアバドンの声には、歯痒さが混じっていた。
「うーん、どこ行っちゃったのかなぁ?」
「あの大爆発は公式には原因不明となってますが、勇者の関係者が起こしたものだということはバレていてですね、どうもほとぼりが冷めるまで姿をくらますつもりのようなんです」
勇者が見つからないというのは想定外だった。アバドンは魔人だ、王宮に忍び込むことなど簡単だし、変装だってできる。だから簡単に見つかると思っていたのだが……。
「ボコボコにして、二度と悪さできないようにしてやるつもりだったのになぁ……」
俺はこぶしを握り、ギリッと奥歯を鳴らした。
「きっとどこかの女の所にしけ込んでるんでしょう。残念ながら……、女の家までは調査は難しいです」
アバドンは申し訳なさそうに首を傾げる。
「分かった。ありがとう。引き続きよろしく!」
「わかりやした!」
「で、今日はちょっと手伝ってもらいたいことがあってね」
俺は転がっている教会の鐘を指さした。朝日に照らされた鐘が、鈍く輝きを放っている。
54. オール・グリーン
「旦那様、これ……何ですか?」
怪訝そうなアバドン。
「宇宙船だよ」
俺はにこやかに返した。
「宇宙船!?」
目を丸くするアバドン。その驚いた表情が、俺の胸を高鳴らせる。この世界では宇宙はまだ未開拓なのだ。バグを見つけられる予感がビンビンしてくる。
「そう、これで宇宙に行ってくるよ」
「宇宙!? 宇宙って空のずっと上の……宇宙……ですか?」
アバドンは空を指さして首をひねる。その仕草が、どこか子供っぽくて愛おしい。
「お前は行ったことあるか?」
「ないですよ! 空も高くなると寒いし苦しいし……、そもそも行ったって何もないんですから」
「何もないかどうかは、行ってみないとわからんだろ」
俺の声には、冒険への期待が込められていた。
「いやまぁそうですけど……」
「俺が中入ったら、このボルトにナットで締めて欲しいんだよね」
「その位ならお安い御用ですが……こんなので本当に大丈夫なんですか?」
アバドンは教会の鐘をこぶしでカンカンと叩き、不思議そうな顔をする。
「まぁ、行ってみたらわかるよ」
日ごろあまり気にしていないが、地上では指先ほどの面積に数kgの大気圧がかかっている。つまり、このまま宇宙へ行くと、それが無くなって逆に鐘には内側から十トンほどの力がかかってしまう。ちゃんとその辺を考えないと爆発して終わりだ。でも、これだけ分厚い金属なら耐えてくれるにちがいない。
水の中に潜れる魔道具の指輪も買ってあるので、これで酸欠にもならずに済みそうだ。
こういうチートアイテムの存在自体が、この世界は仮想現実空間である一つの証拠とも言える気がするのだが、どうやって実現しているかが全く分からない。
俺は青く輝く指輪を弄りながら、この前代未聞の挑戦に口をキュッと結んだ。
だが、この冒険がこの世界の真実の一旦を見せてくれるはずだという根拠のない確信が、俺の背中を押す。
「さぁ、行くぞ!」
俺は鐘をズン! と横倒しにし、中に断熱材代わりのふとんを敷き詰める。
乗り込んだら鉄板で蓋をしてもらう。身動きするのも大変な狭い空間に身を委ねる感覚に、一瞬躊躇を覚えたが、今さら中止などありえない。すぐに覚悟を決めた。
「じゃぁボルトで締めてくれ」
「わかりやした!」
アバドンは丁寧に五十か所ほどをボルトで締めていく。ギリギリと響くその音が、俺の心臓の鼓動と重なっていった。
俺は宇宙に思いをはせる――――。
生まれて初めての宇宙旅行、いったい何があるのだろうか? この星は地球に似ているが、実は星じゃないかもしれない。何しろ仮想現実空間らしいので地上はただの円盤で、世界の果ては滝になっているのかもしれない……。そんな想像をすると、背筋に寒気が走る。
それとも……、女神様が出てきて『ダメよ! 帰りなさい!』とか、怒られちゃったりして。俺は美奈先輩似の女神を思い出しながらクスッと笑った。
カンカンと鐘が叩かれ、その音に現実に引き戻される。
「旦那様、OKです!」
締め終わったようだ。出発準備完了である。俺は深呼吸をして、心を落ち着かせた――――。
「ありがとう! それでは宇宙観光へ出発いたしまーす!」
俺は自分に言い聞かせるように叫ぶ。
鐘全体に隠ぺい魔法をかけた後、自分のステータス画面を出して指さし確認をした。
「MPヨシッ! HPヨシッ! エンジン、パイロット、オール・グリーン! 飛行魔法発動!」
鐘がボウっと黄金色の光に包まれていく。その神々しい輝きが、これから始まる冒険を祝福してくれているかのようだ。
俺はまっすぐ上に飛び立つよう徐々に魔力を注入していく。体内を流れる魔力が、鐘全体に広がっていくのを感じた。
「お気をつけて~!」
鐘の横に付けた小さなガラス窓の向こうで、アバドンが大きく手を振っている。
1トンの重さを超える大きな鐘はゆるゆると浮き上がり、徐々に加速ながら上昇していく。
見る間にどんどん小さくなっていくアバドン。
きっと外から見たらシュールな現代アートのように違いない。録画してYoutubeに上げたらきっと人気出るだろうな……、と馬鹿なことを考え、鼻で笑った。そんな他愛もない思考が、緊張を和らげてくれる。
のぞき窓の向こうの風景がゆっくりと流れていく。俺は徐々に魔力を上げていった……。
石造りの建物の屋根がどんどん遠ざかり、街全体の風景となり、それもどんどん遠ざかり、やがて一面の麦畑の風景となっていく。俺があくせく暮らしていた世界がまるで箱庭のように小さくなっていった。その光景に、感慨深いものを感じる。