如月倫子の事件から程なくして、湊は退院した。絶食後に口にした、多摩さんの味噌汁の上澄みが、身体の隅々まで染み込む美味さだったと、湊は涙した。「健康第一、仕事ばかりじゃ駄目よ」「分かったよ」そう笑いあっていた矢先の出来事だった。
「湊さん、速達ですよ」
多摩さんから手渡された封筒は、入院した中央病院からの書面だった。
「あれ」
「どうしたの?」
「検査の予定が早くなってる」
「なんで?」
「分かんない」
大腸内視鏡検査の予約は半月先だった。
「1月10日だって」
「私も着いて行って良い?」
「冷えるから駄目!家でじっとしていて!」
「はぁい」
診察室に呼ばれた湊は、その雰囲気に気圧された。
ピッピッピッ
規則的に響く機械音。白い逆光の中、白髪で銀縁眼鏡の医師がモニターを湊へと向けた。マウスがゆっくりと弧を描き、黒い画面に骨格、内蔵、筋肉、脂肪が、輪切りにされてゆく。そこに、白い影がポツポツと映っていた。
「綾野湊さん」
医師は、手元のカルテに目を落とした。
「はい」
「違和感を感じたのはいつ頃からですか」
「昨年の4月頃です」
「食欲が落ち始めたのはいつですか」
「6月の終わり頃です」
湊は、菜月と賢治の離婚で気を揉んでいたからだと、思っていた。
「胃が傷み出したのは」
「8月のお盆、です」
それは、会社立て直しの激務による、ストレスでの胃痛だと思っていた。
「背中や腰の痛みはありましたか」
「10月になってからです」
「それで昨年末に下血された」
「はい」
医師は淡々と問診を続けた。
「ご家族やご親戚でこのような方はいらっしゃいましたか」
「父が、父が・・・それで」
膝の上で握られた湊の拳の中はじっとりと汗ばんだ。
「綾野さん」
「はい」
「所見としては悪性の腫瘍」
「はい」
湊の胸は鷲掴みにされた。
「進行具合はステージ3、腹腔内への浸潤が見られます」
「は、はい」
「胃癌と診断されました」
絶望が渦を巻き、周囲の音が消えた。
赤松の雪吊りからバサバサと湿った雪が落ちる。座敷は悲壮な空気に包まれていた。震える菜月の手には2人の名前が印字された新しい戸籍謄本、ゆき は着物の袖で口元を覆い、多摩さんは声を押し殺しながら茶の間へと踵を返した。
「父さん、ごめん」
郷士は座敷テーブルに身を乗り出した。
「間違いないのか!」
「間違いない」
「悪性だと医者は言ったのか、本当か!」
「胃癌のステージ3だって」
「治らないのか、手術は出来ないのか!」
郷士の顔色は青ざめていた。
「もう拡がっている」
「どれだけ生きられるんだ」
「5年か、10年か、わからない」
菜月は、湊の背中を握り拳で叩いた。
「どうしてもっと早くに病院に行かなかったの!」
「ただの胃炎だと思っていたんだ」
湊の両肩を掴み、前後に振った。
「湊!如何して!」
ゆき がその腕を引き剥がすと胸に抱き締めた。
「菜月さん、湊のパパも胃癌だったの」
「ーーーーーー!」
「分かっていたのに」
ゆき の目は後悔に苛まれていた。
「そんな事分かっていたのに!」
「母さん」
「遺伝するかもしれないとわかっていて。どうしてもっと早くに検査を!」
「母さんのせいじゃないよ」
沈黙の中、湊が口を開いた。
「抗がん剤治療は最低限にしたい。僕は綾野の家に居たい」
「入院はしないの」
「自然に任せたい」
湊の頬に涙が伝った。
「ごめんね、菜月」
カコーン
菜月と湊は、鹿威しに耳を傾けた。
「菜月」
「なぁに」
菜月は湊の手を握り、指を絡めて互いの血潮を感じた。
「温かいね」
「温かいね」
静かな夜。
「ねぇ湊、春になったら旅行に行こう」
「何処が良いの」
「富山城の桜並木が見たいな」
「良いね、僕も大学のキャンパスに行ってみたい」
「湊の借りていたアパートもあるかな」
「探してみよう」
「うん」
2人は来たる季節に思いを馳せた。
「夏になったらどこに行く?」
「そうだなぁ、キャンプが良いな」
「小さい頃、みんなで行ったね」
「大きな魚が釣れたよ」
「えぇ、そんなに大きかった?」
「小さかった?」
「小さかった」
天井を見上げる菜月の目尻に涙がうっすらと浮かぶ。
「秋はどうしようかなぁ」
「え、湊、忘れたの!」
「なんだっけ」
菜月はやや膨らみを感じる下腹に湊の手のひらを導いた。
「あ」
「そうよ、赤ちゃんが生まれるんだから大変よ」
「そうだった」
「男の子かな、女の子かな」
「男の子だよ」
湊は優しく微笑んだ。
「なぁに、予言?」
「男の子、これからもずっと菜月を守ってくれるよ」
「そう」
「そうだよ」
菜月の頬に涙が溢れた。
「冬はね」
二人は儚い未来を語り合った。
カコーン
そして、結婚式は家族だけで執り行った。
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