――こんな夢を見た
仄暗い、空気の冷たさ。
寄り添い、身体を預け合った誰かの体温。
一歩、足を踏み出した瞬間のあの高揚。
夢はいつも傍にありながら、溶け落ちる夜のように脆い。
男は長い廊下を歩いていた。朝を迎えたばかりのこの世界で、魔法使いたちは今日もそれぞれの生活を営んでいる。
友人と笑い合う生徒、重そうな本を抱えて歩く教師。足元を銀色の狐がすり抜けたかと思えば、窓辺に置かれたアネモネが高らかに歌い始めた。
ここは**モーンガータ魔法学園**。
彼が暮らし、学ぶ、彼にとってただ一つの世界。
男の朝は、まず生徒会へ向かうところから始まる。
だが、今日は何を思ったのか、一つくらい寄り道をしても構わないだろうと考えた。
窓辺では、アネモネが相変わらず高らかに歌い続けている。
男が近づくと、それは揺らしていた体をぴたりと止め、その綺麗な花をこちらへと向けた。
「ようユキト! 今日も来やがったかァ!」
「まったく、こんなに歌ってちゃ喉が渇いて仕方ねェんだ。ほら、さっさと水をくれ!」
それを聞いた彼ーーユキトは、近くにあった如雨露を手に取り、水をアネモネへと注ぐ。
窓から差し込む光に水が反射し、きらきらと輝いた。
花弁についた水滴もまた、小さな宝石のようにきらめいている。
「あーーー、いい水だった! 感謝するよォ!」
「お前さんはあれかい、今日も生徒会に行くのかい?」
「ん、まあ一応……」
「おー! 頑張ってんなァ!!」
「あの会長もよお、いっつもキリキリしてっから、あんま無理させんなよ!」
「無理させるつもりはないよ。無理しようとしたら、俺が止めるだけだし」
ユキトは当然のようにそう言った。
「おー、そうしてくれや」
アネモネはケラケラと笑う。
「……そろそろ行かないと。また明日来るね」
「おう! 元気に頑張ってこいよォ!」
アネモネはそう言って、顔の無い顔で笑うと、また歌い始めた。
◇
ユキトは早歩きしながら生徒会室へ向かう。
その途中、背後を通り過ぎていった生徒たちの嘲るような声が耳に届いた。
「見て、ふふ、一人でお花と話してる。やっぱり寂しいのよ」
「仕方ないよ、生徒会しか友達がいないんだもの」
ユキトは何も気にする様子を見せず、ただ静かに歩みを進める。
窓から差し込む光が床を照らし、その上を魔法使いや魔女の影が通り過ぎていく。
進んで、進んで、突き当たり。
そこに、大きな扉が一つ。
扉に掛けられた看板には、丁寧な文字で「生徒会」と記されている。
ユキトはその重い扉を開けた。
◇
まず視界に入るのは、整然と並べられた机や本棚。
どれもが寸分の狂いもなく、きっちりと並べられている。
そして、部屋の一番奥。大きな机の前に立つ、一人の魔法使い。
一つに結ばれた青い髪に、きっちりと着こなされた制服。
随分と見慣れたその人は、この生徒会の会長である**カレル**だった。
カレルはユキトが入ってきたことに気づくと、青い瞳を向ける。
「おはよう、ユキト」
「今日は特に急ぎの仕事もない。他の生徒会メンバーは全員出払っているけれど、授業に向かっただけだ」
「誰かが浮遊魔法を自分にかけて降りられなくなったとか、混ぜちゃいけない魔法薬を混ぜ合わせて爆風で校舎を半壊させただのといった事件もない」
「というか、爆風事件はもう起こらなくていい」
「だから、お前も今日は好きに過ごせ。何かあれば、すぐに頼る」
ユキトはふと疑問を口にする。
「カレルは今日何するんだ?」
「今日は戦闘魔法の実技テストがあるから、それに出席してくる」
「その後は薬学と基礎魔法の訓練……それくらいだな」
「いつもどおり、なにか事件があればそちらを優先するよ」
「……忙しいだろ」
「今日は暇なくらいだ。いつもはまあ、……忙しいな」
「それでも、生徒会の仲間もいるし、ユキトもいる。困ってはいないよ」
「……そういえば最近、変な夢を見るんだ。なんつーか、誰かと一緒にいる夢? とか」
「……まあ、ありふれた夢なんじゃないのか?」
「気にするほどのことでもない」
「……そうか」
ユキトがそう呟くと、カレルはふと思い出したように言い放つ。
「ああ、そうだ、ユキト」
「校長から伝言だ。このあと、校長室へ来い、と」
「最近は一向に校長室から出てこないが、一体ユキトに何の用なんだか……」
「困ったことがあったら、すぐに僕を頼りなさい」
「それじゃあ、また」
カレルに別れを告げ、ユキトは校長室へと向かう。
◇
校長室は、中庭をぐるりと囲うように建つ三階建ての校舎の最上階にある。
ただでさえ天井が高い学校なのだから、三階にまで昇って窓の外を見れば、美しい青空と高くそびえる時計塔が目に入る。
あの時計塔は、この魔法学園で最も高い建物だ。
いつもは封鎖されており、ユキトも入ったことはない。
顔見知りではあるが、友愛とは程遠い魔法使いたちの横を通り抜け、一つの扉の前へと辿り着く。
生徒会室のものに比べれば幾分か小さいが、蔦や花の模様が施された洒落た扉。
ユキトがドアノブに手をかけようとした、その瞬間。
扉の向こうから、高らかな声が響く。
「入ってきたまえ」
ユキトは扉を開き、校長室へと足を踏み入れた。
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