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富来 えび
210
ーーーーーー
小田原城。
長きにわたる包囲の中、北条家では今後の方針を話し合っていた。
氏康は地図を見つめながら、重々しく口を開く。
「成田には大きな損害を与えた。 次は……
どこを…狙うべきか」
幻庵はしばし考えた後、静かに答えた。
「少し手強いが……長野業正にも仕掛ける他あるまい」
「それに、あの音が消えるだけでも少しは楽になるからのぉ……」
すると綱成が槍を担ぎ、いつもの調子で笑った。
「おう♪俺はいつでも行けるぞ!」
その時だった。
「ところで……若と小太郎殿は?」
元忠がふと尋ねる。
「そういえば……」
幻庵も眉をひそめた。
「あの夜から、姿を見ておらぬのぉ……」
そこへ――。
「あなた!」
瑞渓院が慌てた様子で駆け込んできた。
その後ろから梅も涙を浮かべながら続く。
「義父様……夫が……夫がいないのです……」
「いつものように起こしに行ったら、もぬけの殻で……」
「よくいる場所も探したのですが、どこにも……」
「あなた……、どこにいるの……泣」
梅の目から涙がこぼれ落ちる。
さらに氏政の兄弟たちも口々に訴えた。
「僕たちも探しましたが、見つかりません!」
「どこにも、いないんです……!」
「…………」
元忠の顔から血の気が引いた。
「なにっ……!」
そして、何かに気づいたように呟く。
「…………ま、まさか……!!」
氏康が立ち上がる。
「何だ!? 氏政がいないだと!?」
「兵たちよ!」
城内へ響き渡る声で命じる。
「城中を探せ!!! 隅々まで探し出すのだ!!!」
ーーーーーー
関東―???
その頃、氏政と小太郎は小田原から遠く離れた道を進んでいた。
氏政は歩きながら、申し訳なさそうに口を開く。
「……ごめんね、小太郎。 こんなことを頼んでしまって」
小太郎は前を見たまま、静かに答えた。
「やはり……戻りましょう、若!!」
「我々が弁明を送らなかったことも悪かったのです」
「今なら、まだ……」
「いや……」
氏政は静かに首を横に振った。
「これは……僕の手でケジメをつける」
「若……」
小太郎の声が震える。
「…………」
二人は黙ったまま、歩き続けた。
ーーーーーー
一方、小田原城。
「若ーーー! どこにおられる!?」
元忠が城内を走り回る。
「叱ったりしませんから! どうか、どうか…出てきてくだされ!」
(くっ……若……!!)
氏康も必死に探す。
「氏政!!」
「出てこぬか!! また書庫へ連れていくぞ!!」
「…………」
返事はない。
幻庵は菓子を手に持ったまま、必死に声を張る。
「氏政! ここに美味しい菓子があるぞ!」
「だから出てこんかーーー!」
梅も涙を拭いながら叫ぶ。
「あなた……! どこにいるのです……!」
瑞渓院はそんな梅の背中を擦る。
「お梅ちゃん……しっかりしなさい」
そして、涙を堪えながら呟いた。
「あの馬鹿……。お梅ちゃんを、泣かせるなんて……泣」
「兵たちよ! 氏政様を探せーーー!」
「氏政様ーーー!」
「どこですかーーー!」
城内に大勢の声が響き渡る。
しかし――。
氏政の姿は、どこにもなかった。
その頃、風魔の忍びの一人が異変に気づいていた。
「……兄貴がいない?」
周囲を見回す。
「まさか……」
忍びは城の外へ飛び出した。
ーーーーーー
しばらくして――。
「兄貴!」
先へ進む小太郎の姿を見つける。
「若を連れて……どちらへ?」
小太郎は振り返った。
「ちょうどいい。 お前からも説得してくれ」
「川越城へ連れていけと言って、頑なに小田原にはもう戻らぬと、聞いてくれんのだ」
「なんで……」
忍びの顔が青ざめる。
「若……、まさか……」
小太郎は苦しそうに目を伏せた。
「夜戦をする前から……、覚悟を決めておられたようだ」
「若……」
「帰りましょう」
小太郎は氏政へ向き直る。
「決して、怒ったりなどしませんから……」
風魔の忍びも続ける。
「そうですよ、若……」
「ねっ。 怒られないよう、俺たちで
何とか上手くやりますから」
「だから……戻りましょう?」
氏政は二人を見つめ――。
静かに首を横へ振った。
そして、そのまま歩き続ける。
「…………」
小太郎の目から涙がこぼれた。
「若……泣」
ーーーーーー
小田原城。
懸命に探し続けた者たちは、疲れ果てていた。
その中で、元忠だけは座り込んだまま静かに涙を流していた。
「くっ……若……、」
「何たることだ……、」
「きっと……おそらく、もう……。」
「なにっ!?」
氏康が振り返る。
「どういう事だ、元忠!」
元忠は震える声で答えた。
「某……一生の不覚でござる」
「あの夜から、若の様子がおかしいと気づいていたのに……」
「…………」
「おそらく、若は……」
「ご自分の命で、此度のケジメをつけようとなさっておられるのです」
「…………!」
「おそらく……もう川越城へ……。」
幻庵が目を見開く。
「…………!!」
瑞渓院も唇を震わせた。
「あの……馬鹿息子……。」
「うう……」
梅は涙を流しながら、夫の名を呼ぶ。
「あなた……」
「どうして……連れて行ってくださらなかったのですか……」
「お供したのに……」
「私が……方円叔母上に、執り成すこともできたのですよ……。」
「あなた……!」
氏康は顔を伏せた。
「…………」
「何たることだ……」
「すまぬ……」
「お方……、梅殿……、すまぬ……」
そして、震える声で続ける。
「父上……」
「某は……、父上のような立派な父になることができませんでした……。」
ーーーーーー
関東・川越城。
その頃――。
氏政は長尾景虎の前へ連れてこられていた。
景虎は静かに氏政を見つめる。
「……北条氏政殿であるな」
「要件は何かな」
氏政はまっすぐに景虎を見返した。
「……分かってるんじゃないの」
「今回の元凶は、僕だ……」
「…………」
「だから……」
一度息を飲む。
「僕の命と引き換えに……」
「征伐は、もう止めてほしい」
政景が静かに尋ねる。
「……親御さんには?」
すると小太郎が一歩前へ出た。
「何も言ってはおりません」
「止められていたでしょうから」
そして深く頭を下げる。
「……某からも、お頼み申す」
「足りぬのなら……俺の首も取ってもらっていい」
「若の覚悟を……どうか…、」
「…………くっ……」
小太郎の目から涙が落ちる。
景虎はしばらく二人を見つめていた。
そして――。
「……分かった」
「お主の命と引き換えに……征伐は終わらせよう」
「御館様……!」
政景が驚く。
景虎は静かに続けた。
「愚かな返書を送ったことは、決して 褒められたものではない」
「しかも…!返書に関しての弁明すら、ついに来なかった」
「だが……」
「その覚悟だけは……父を超えた」
氏政は静かに目を閉じる。
「…………」
景虎は小太郎へ視線を移した。
「そして……小太郎」
「お主の首もいただく」
「共をする者がいた方が……よかろう」
「…………!」
政景が息を呑む。
「何と…………。」
小太郎は静かに頭を下げた。
「……ありがたき幸せ」
その言葉を聞いた氏政が、僅かに小太郎を見る。
「…………」
憲政も静かに目を閉じた。
「北条の小童よ……」
「お主の覚悟を、決してこの憲政は忘れぬだろう…。」
景虎は、静かに二人を見つめた。
「……約束は必ず守るゆえ、安心されよ」
「一人の武士として、総大将として……な」
そして、僅かに目を伏せる。
「お主らの覚悟を汚さぬためにも……」
「某の手で、介錯をさせていただこう」
「では……氏政殿。小太郎……」
ーーーーー
数日後。
小田原城へ、一通の書状が届けられた。
そこには――。
『北条氏康殿』
『貴殿の嫡男は過ちを認め、己の命をもって罪を清算した』
『そして風魔小太郎は、その共をした』
『二人の覚悟と、交わした約束をもって……』
『これにて征伐は終わらせるといたす』
『征伐によって失われた命が、安らかに眠れることを祈る。』
その署名には――。
長尾当主 長尾景虎。
関東管領 上杉憲政。
武田正蛇甲斐守護方円。
長野業正。
成田長泰。
里見義堯。
佐竹義重。
連合の名が並んでいた。
「…………」
氏康は書状を握り締める。
「くっ……」
「氏政……」
「……あの……」
声が震える。
「くっ……、あの親不孝者が……!!!」
瑞渓院は静かに涙を流した。
「ううう……」
梅も泣き崩れる。
「あなた……」
「…………」
幻庵は俯いたまま、震える声を漏らす。
「何たることだ……」
元忠も涙を拭うことができなかった。
「若……」
「若が苦しんでおられたことに……、気づいていたのに……」
「申し訳ございません……。」
綱成も拳を握り締める。
「小太郎の奴まで……」
「勝手に、先に逝きやがって……!」
そして――。
「…………」
氏康が震える手で懐へ手を伸ばした。
小刀を取り出す。
「……わしのせいじゃ」
「わしが……関東管領を追い出して……」
「弁明もしなかったから……」
「ならば……わしも……!!」
綱成が慌てて腕を掴む。
元忠も必死に駆け寄った。
「おやめ下さい、殿!!!」
「殿まで、いなくなるおつもりですか……!」
「…………」
氏康の手から小刀が落ちる。
誰も言葉を発することができなかった。
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甲斐国――岩殿城
方円のもとへ、伝令兵が駆け込んできた。
「申し上げます! 川越城にて、北条氏政が、 征伐を止めるよう己の命と引き換えに
申し出たとのこと! 景虎様も、その要求をお受けになったようです!」
「……まさか。あの氏政が……!!」
方円は、驚きを隠せぬ様子で呟いた。
その隣で、出浦昌相が静かに口を開く。
「命と引き換えに、終戦を……。あの書状を送ってしまったことに関して、彼なりのケジメをつけたのでしょうな」
「……少し残念だわ」
方円は、ふっと息を吐いた。
「北条は、この機会にしっかりと叩き潰しておきたかったのだけれど……」
そして、静かに続ける。
「まあ、こちらも少なからず犠牲が出たことだし、我らも引き上げるとしましょうか」
「そろそろ、また政務に戻り、民を救わなくてはね」
ーーーーーー
それから数日後――
総大将を務めた長尾景虎のもとへ、北条氏康から一通の書状が届いていた。
そこには、詫びの言葉が綴られていた。
関東管領・上杉憲政様、ならびに関東諸国の皆々様へ
此度のこと、こちらにも事情があったとは申せども、上杉憲政様を関東より追い出し、
さらには関東諸国へ兵を向けたこと、
この北条氏康、深くお詫び申し上げる。
また、我が嫡男・氏政が送ったとされる返書に対し、某が弁明をいたさなかったことについても、ここに記す。
いかなる文面をもって返書を送ったのか、その仔細が分からぬままでは、如何なる弁明も成し難く、返書を送ることができずにいた。
されど、そのことが此度の事態を招いた一因であることに変わりはない。
よって、これまで皆様より奪いし領地は、
すべてお返しいたす。
そのうえで、一つのみ願いがある。
我が愛しき嫡男、北条氏政。
そして、我が忠臣、風魔小太郎。
二人の亡骸を、どうかこちらへお返しいただきたい。
此度の戦にて失われた命に、深く哀悼の意を表す。
この北条氏康、当主として、此度の責を重く受け止め、ここに詫びを申し上げる。
北条当主 北条氏康
ーーーーーー
関東――川越城
長尾景虎のもとへ、各国の者たちが再び集められていた。
「皆様、再びお集まりいただき、申し訳ない」
景虎が、静かに頭を下げる。
「……終戦の後に、弁明を兼ねた書状が届くとはな」
長尾政景が、書状へ目を落としながら呟いた。
すると、長野業正が顔を上げる。
「されど、領地は返ってくる。憲政様、
これでようございましたな!」
「皆、ありがとう」
上杉憲政は、嬉しそうに笑った。
「この憲政、此度の恩は決して忘れぬ。
ほほほ」
方円が、景虎へ尋ねる。
「それで……二人の亡骸は、返すのですか?」
「返してやれば、よいのではないでしょうかな」
里見義堯が、静かに答えた。
「死んでしまえば、皆、仏ですからな」
「そうですな」
佐竹義重も頷く。
「もうこちらへ攻めてこないことも、条件に加えていただければ、某も異存はございませぬ」
「分かり申した」
景虎は、皆の顔を見渡した。
「では、再び返書を送るといたしましょう」
「ええ、私も異存ありませんわ」
方円も頷く。
成田長泰も、静かに口を開いた。
「某も、異存ございませぬ」
(ちっ……景虎殿と一緒にいるのはやはり
苦痛だ。 早く帰りたいわ)
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相模――小田原城
「二人の亡骸は、返してもらえるとの返書が届きました」
氏康が、静かに皆へ告げた。
幻庵は、しばし黙った後、重々しく口を開く。
「だが、……ほぼ、相模一国となってしまったな」
「跡継ぎも……、失った」
「若……!」
元忠は、声を震わせた。
「……若……申し訳…、ございませぬ…泣」
その目から、涙がこぼれ落ちる。
「元忠……、泣くな!」
綱成が、涙を堪えながら元忠の肩へ手を置く。
「安らかに眠れるよう……、しっかりと、
我らの手で弔おう。二人を…泣」
ーーーーーー
そうして――。
甲斐、関東、越後を巻き起こした。
正義の戦は――終わった。
大いなる犠牲をもって。
長き戦の果てに、関東には再び平穏が戻ろうとしていた。
ーーーーーー
そして――。
それを、空の上から見ている二人の姿があった。
小太郎は呆れたようにため息をつく。
「やれやれ……若」
「まったく、とんだ親不孝者ですな」
氏政は苦笑する。
「小太郎は……、ついてこなくて良かったんだよ」
「僕一人で……」
「……何を仰います」
小太郎は静かに笑う。
「言ったでしょう」
「一人には、もうしない」
「絶対に、お傍から離れないと」
氏政はしばらく黙っていた。
そして――。
「……そうだったね」
二人は並んで、下界を見つめる。
そこには――。
長き戦を終え、少しずつ平穏を取り戻していく 関東の姿があった。
二人はその景色を静かに眺めていた。
――完――
コメント
1件
ああ…読んだ直後、しばらく動けなかったよ…。 氏政の覚悟、小太郎が“一人にはしない”って言葉を守って最後まで共にいたこと…もう本当に尊くて、胸が締め付けられた。 “親不孝者”って笑い合える二人に救われたけど、でもやっぱり泣ける…。 最後の平穏な景色、空の上から見守る二人。 この結末、ちゃんと受け止めたいと思う。琴寧さんの想い、すごく響きました。