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チリーの意識の中に、膨大な量の情報が流れ込んでくる。
支離滅裂なものが滅茶苦茶な状態でチリーの中に入ってくる。それは知らない異国の景色だったり、経験したことのない戦争の経験でもあった。知らない人間に関する情報が無理矢理中に入ってきて、収束せずに散っていく。まるで、無数の人間の記憶を同時に見ているかのようだった。
だが全ての記憶は、必ず最後は同じ場所に辿り着く。
霊薬エリクサーを生み出す魔法遺産(オーパーツ)、大釜の中だ。
これらの記憶が、全てエリクサーの素材にされた者達の記憶であることに、チリーは朦朧とする意識の中で気がついた。
最早チリーは、自分がどこにいるのかもわからなかった。
立っている感覚も倒れている感覚もない。ただ意識だけがあって、その中に無数の記憶が入り込んでくるだけだった。
もがこうにも、もがくための手足の感覚さえない。
もうとっくに死んでいるのかとも思えた。
だが、まだ思考を続けることが出来る。それが唯一、自身の死を否定する最後の希望だ。
まだだ。まだ終われない。
意識を塗りつぶすような、他人の記憶の波に抗って、チリーは自己を保ち続けた。
そうしている内に、全ての記憶が終点を迎える。
何もかもが大釜の中で溶かされ魔力だけが絞り出され、ごく僅かな液体へと変わっていく。
これがエリクサーの素材となった者の末路だ。
恐らく、どんな人間にも僅かに魔力はあるのだろう。それを絞り出し、余分なものを全て溶かす。それがエリクサーの生産工程だ。
その悍ましさの果てに、エリクシアンが存在する。
ゲルビア帝国でエリクシアンを生み出し続けるために、何千何万もの命が犠牲になったのだろう。その一部が、今チリーの中にある。
そしてチリーを、飲み込もうとしていた。
深く深く落ちていくような気がした。
上も下もわからないのに、なんとなく落ちるような感覚を抱く。気がつけば、何も無い暗黒だけが残った。
だがそれでも、諦めようとは思わなかった。
ここで全てを投げ出せば、三十年前と同じだ。
(俺はもう諦めねェ、投げ出さねェ!)
例えどんな状態になったとしても、もう投げ出すことだけはしない。
感覚はなかったが、それでも手を伸ばそうと試みた。
するとその手が、柔らかい何かに触れた。
その瞬間、感覚が一気に戻って来る。気がつけば視界の中に、薄汚れた小さな女の子が座り込んでいた。
ボロ布のような衣服を身にまとった彼女は、チリーを見つめながらすすり泣いていた。
「…………お前は」
言いかけて、チリーはなんとなく気がつく。
彼女は恐らく、エリクサーの素材になった少女だ。
少しずつ、チリーの中に既に入り込んでいた彼女の記憶が整理されていく。
どこかの国の、何の変哲もない村に住んでいた幼い少女。その人生は、ゲルビア帝国の侵略を受けたことで唐突に一変する。
捕虜としてとらえられ、研究所(ラボ)に連れ込まれ、無常にも彼女はエリクサーの素材へと変えられた。
こんな小さな子供の命まで、ゲルビア帝国は実験台に使っていたのだ。
「……ッ!」
あまりの悍ましさに、チリーは憤る。
こんな所業が許されて良いハズがない。
世界に死がありふれていたとしても、こんな度し難い死はあってはならない。
ニシルの言葉が本当なら、ゲルビア帝国の目的はテオスの使徒を倒すことだ。テオスの使徒の目的が世界の破滅なら、ゲルビア帝国の目的自体は間違っていないのだろう。
だが、こんなやり方は許せなかった。
例え大きな目的があったとしても、目の前の小さな命を踏み荒らして進む道が正しいとは決して思えない。
気がつけば、少女の周囲にたくさんの人々が座り込んでいた。
老人や子供、女性が多く、どの人物も捕虜にされ労働力としてみなされなかった者達だった。身体の不自由な者も少なくない。
彼ら全てが、エリクサーの犠牲者だった。
タスケテ。その言葉の意味がわかると同時に、もうどうにもならない事実に愕然とする。
彼らを救うことはもう出来ない。エリクサーの素材となり、チリーの身体の中に魔力として溶け込んだ彼らに、チリーはもう何も出来ない。
(なら、せめて……)
意を決して、チリーは彼ら全員に目を向ける。
「……俺に力を貸してくれ」
そう言ったチリーに、彼らは一斉に視線を集中させた。
「お前らを救ってやることは……俺には出来ねェ……。だが、お前らを連れて行くことは出来る」
「……どこへ?」
か細い声で、最初に見た少女が問う。
「お前らのような犠牲者のいない世界に」
赤き崩壊(レッドブレイクダウン)、エリクサー、賢者の石、テオスの使徒。世界に渦巻く不条理な力が、人の命を簡単に踏みにじる。チリーにはそれが許せない。
ならやることは変わらない。
あの日、あの時、ミラルと共に旅立った時の祈りのような贖罪の誓い。
賢者の石を破壊する。
それにまつわる、悍ましき因縁を全て破壊する。
もう二度と、誰もそんなものの犠牲にならないように。
「お前らをこんな風にした全てを、俺がぶっ壊す。そのために、お前らの力を貸してくれ……!」
彼らは、チリーの言葉に目を丸くしていた。
言葉はなく、互いに顔を見合わせてから、もう一度チリーを見つめる。
チリーは一度も目をそらさず、ただまっすぐに彼らを見ていた。
やがて、少女がゆっくりと立ち上がる。
片足を引きずりながらチリーへ近づいて、そっと手を伸ばした。
チリーがそっとその手を握りしめると、少女は少しだけ笑って見せた。
「……お願い」
それだけ呟くと、少女は黒い世界に溶けるようにして消えていく。他の者達も、同様に消えていった。
「……」
その場に誰もいなくなり、チリーは一人佇む。
そして静かに歩き始めた。
どこへ向かえば良いのかわからなかったが、立ち止まっているわけにはいかなかった。
それからどれだけ歩いたのかはわからない。
歩いている内に、黒い世界の中にぼんやりと白い光が見えてきた。ただそれを目指して、チリーは歩を速める。
それが次第に駆け足になって、チリーは光に向かって走り始めた。
大切な人達の顔が思い浮かぶ。
旅に同行し、チリー達を支えてくれたラズリル。
共に戦い、背中を預けたレクス。
行くべき道を指し示してくれたサイダ。
チリーを信じて、エリクサーを託してくれたアルド。
他にもたくさんの人達がチリー達に力を貸してくれた。これまで出会った人達に支えられて、今がある。
もう何一つ手放したくない。
不条理な力で全てが失われてしまうなら、絶対に食い止めなければならない。
シュエットが、シアが、チリーを信じてくれている。
そして誰よりも大切なミラルが、チリーを待っている。
必死で走り抜けて、光に近づいていく。
しかし光に辿り着く直前、真っ赤な人影が立ちはだかった。
「テメエは……」
そこにいたのは、かつて自身を賢者の石だと名乗った存在だった。
ソレは口元を黒く三日月型に裂き、わざとらしく笑う。
「なんだよ、もう行くのか?」
「どけ、テメエにもう用はねェ」
「つれないこと言うなよ。せっかく、最後の挨拶にきてやったってのに」
賢者の石の力は、ノアによって奪われている。
恐らく目の前のソレは、チリーの中に残った僅かな残滓のようなものなのかも知れない。
「ようやく空っぽになれたのに、また余計なものを背負うのか。物好きなことだな」
もう一度背負い、力を得て、戦う。
それはきっと苦難の道だ。
だがそれ以外の選択肢を、チリーは放棄した。
「何がお前をそうさせる?」
ソレの問いかけに答えるまで、チリーは一秒も要さなかった。
「……俺はもう一度生きたい。ミラルと、みんなと……。あいつらと笑ってこの先を生きるために、過去も、不条理も、破滅の未来も、全部ぶち壊す」
なんの躊躇いもなく、まっすぐに言い切る。
そんなチリーを見て、ソレはもう一度笑った。
「なら良いことを教えてやるよ」
そう言って、ソレはチリーの肩に手をおく。
「お前の身体は、三十年間俺の力に毒され続けてきた……。その意味がわかるか?」
「……」
「お前の身体はどうあがいても、二度とただの人間には戻らない。そんな身体にエリクサーを流し込んで、ただのエリクシアンで終われると思うか?」
賢者の石の魔力は、チリーの中に三十年間留まっていた。それがチリーの身体にどんな影響を与えていたのか、チリー自身にもわからない。
「お前は怪物だよ。自我があろうがなかろうが、お前は必ず最後は人間に疎まれる。もしお前が世界を救っても、戦いが終わればただの怪物だ」
大き過ぎる力は、人々には恐怖として映る。
時代が移ろい、忘れ去られればそこに残るのはただの怪物なのかも知れない。
「けっ、くだらねえ捨て台詞なんざ興味ねえよ」
チリーはそう突っぱねて、ソレの手を振り払う。
「覚悟はとっくに出来てンだよ。邪魔だ……どけ!」
チリーの怒号に、ソレは笑みをこぼすと徐々に消えていく。
「ああ、最後まで見物出来ないのが残念だな……怪物の末路をよォ……」
チリーはソレに見向きもせず、まっすぐに光の中へ向かった。
「あばよ、器。一応土産を置いておくぜ……家賃代わりにな」
光の中に消えていくチリーの背中に言い残して、ソレはかき消えていった。
***
ノアの眷属が、高密度に圧縮された魔力を破壊のエネルギーとして放つ。
その膨大な力が、辺り一帯を飲み込もうとしている。これではまるで、小さな赤き崩壊だ。
かつて蹂躙されたこの地で、忌まわしき破壊が繰り返される。
その光景を、ノア・パラケルススは悠然と見つめていた。
しかし次の瞬間、眷属が放った魔力は突如発生した膨大なエネルギーと衝突し、対消滅した。
「……は?」
衝突時に発生した衝撃波が、砂埃を上げる。
一瞬塞がれた視界の向こうに、二本の足でしっかりと大地を踏みしめる人影が見える。
その姿に、ノアは生まれて初めて心底驚愕した。
砂埃が消える。
眷属の魔力を消滅させ、ミラルと、辺り一帯を守った一人の少年がその姿を現す。
その身体は、赤と黒の魔力に覆われていた。魔力は彼の身体にぴったりと張り付き、鎧というよりは被膜に近い。信じられない程高密度に編まれた魔力が、第二の皮膚のように彼の身体を覆っていた。
頭部を覆い隠す兜は、もうない。
砂塵の中で白い長髪が揺れ、透き通るような真紅の双眸がノアをとらえていた。
周囲には漏れ出した魔力が、黒い稲妻のように迸る。まるで帯電しているかのような音を伴いながら、彼はそこに立っていた。
「俺がテメエを止める……。ノア・パラケルスス!」
ルベル・C(チリー)・ガーネット。
絶望と喪失から再起した一人の少年が、今新たな力を携えて立ち上がる。