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25
3月下旬。蛇腔総合病院。
「あら珍しい!先生おはようございます」
「ホッホッ、おはよう!!」
いつも通りの朝。いつも通りの時間。いつも通りの日常。いつも通り過ごす人達は違和感に気づかない。
この日、街からヒーローが消えた。
蛇腔市。この一つの街に全国のヒーローが集う。地方のヒーローも、教師だったヒーローも、ヒーロー科所属の生徒も緊張した面持ちでその時を今か今かと待ち構えていた。
何故こんなにも大勢のヒーローが集められたのか。それはとある筋からの情報で敵の居所を見つかったのである。公安からヒーロー達への命題は超常解放戦線一斉掃討。一つは山荘で敵軍隊隊長クラスが集まる定例会議の包囲、もう一つは脳無を作り出している疑いのある蛇腔総合病院の現理事長殼木球大の捕獲。この2つをメインにヒーロー達はそれぞれ役割を担う。プロと呼ばれるヒーローでさえ、大規模な招集と任務に緊張した面持ちで待ち構えている。ヒーローの卵は周りの空気に当てられて怖気ついていた。それほどまでに今回のヒーロー活動は難易度が高いことを理解せざるおえない。神野や保須の事件はまだ新しく、ヒーローにとってトラウマに等しい。もしかしたら今日死ぬかもしれない。そんなもしもの可能性が誰かの脳裏によぎった。
糸を張りつめた空気の中、爆豪は戦場になるかもしれない街を一望しながらポケットに入っている宝物を掴む。爆豪の受けた任務は住民の避難。最前線から遠ざけられてもヒーローを集結している今、どの立場にいようと危険が及ぶ。まだ死ねない。No. 1ヒーローになるまでは死ねない。決意を固めるようにぎゅ、と力強く宝物を握った。
「前線が動いた」
エンデヴァーのSK、バーニンが受信を受けて後方に聞こえるよう声を張り上げる。
「私たちも行くよ!!区画ごとに分かれて住民の避難!!いいね!!」
「「「はい!!!」」」
病院、アジト、避難誘導組がそれぞれ動き出す。
「この街は一帯対敵戦闘区域になる恐れがあります!!ご家庭や近隣に身動きの取れない方!または連絡が取れないという方がいましたらお教えください!!」
バーニンが住民に避難勧告を促す。各区域で配置されたヒーロー達が避難誘導を始めた。子どもが泣いてれば安心するように笑顔を向け。怪我させないように誘導し。老人ホームから動けない人がいれば個性でベットを浮かせて運び出す。誰一人、取り残されないよう目を光らせる。
「こっからは護送車だ。街から出ろ!」
「ありがとうねぇ。ふわチョコ饅頭あげるよ」
「口乾くわ!いーから行け!」
「ご厚意だよ。もらっときん」
「てめーはふわチョコ饅頭が気になるだけだろ!!」
「お年寄りにもああなのね」
笑顔で渡された饅頭をそのまま受け取ってしまい、渋い顔をした爆豪は蚊のなるような小さな声で礼を言ってから麗日にふわチョコ饅頭を押し付けた。こういうのは食べたい奴に食べてもらう方が饅頭としては有難いだろう。
A組も気を引き締めて避難誘導に務める。飯田はフルスロットルでキビキビと動き、甲田は個性を活かして動物を誘導。先輩である波動は浮遊で上空から人がいないかチェックしていた。
「慌てずに!走らないでくださいね!街の外の避難所で一時待機していただきます!」
「体調が悪い人がいたら遠慮なく……!」
「緑谷、どうした」
「サボってんじゃねーぞ!どういう了見だ!」
横断歩道を渡り切った轟が後方で立ち竦む緑谷に気づき声をかける。緑谷は2人の声を聞こえていないのか、冷や汗を流しながら病院の方を見た。爆豪もつられて同じ方向を見る。悪い予兆の知らせか、鳥達がざわめいて飛び立つ。刹那、病院が轟音と共に崩れ落ちた。
「病院が!!」
土埃を巻き上げながらものすごい勢いでナニかが迫る。
「何が起こっているの!?」
「市民の避難を!」
「全員走らせろ!!」
「エンデヴァー!おい!?エンデヴァー!?」
「皆逃げて!!」
「デクくん!?」
緑谷がナニかを止めに個性を使用する。だが土埃を晴らすだけで原因自体が止まらない。土埃が晴れたおかげで全貌が明らかになる。衝撃波だと思っていたソレは、建物と地面にひび割れて塵と化していた。轟が氷壁でひび割れを防止しようとするがそれすらも塵と化す。まさに見境のない攻撃。
「皆退けぇ!!」
これは何があっても無理だと判断したバーニンが叫ぶ。緑谷達は一斉にひび割れから離れ、まだ避難中の市民をそれぞれ救けだす。発車してない護送車を個性で動かした。
「病院何してんだ!誰か!応答しろ!エンデヴァー!!リューキュウ!!ミルコ!!クラスト!!誰でもいい!返事してくれ!!くそッ、どうして繋がらないんだ!」
バーニンが無線機にいくら呼びかけても無音しか返ってこない。最悪な未来が一瞬脳裏に掠める。
「頼む!応答してくれ!エンデヴァー!!リューキュウ!!誰か!!誰か!!状況を伝えろ!!」
どれだけの時が経ったのか。一瞬だったような、短い時間でも長く感じた崩壊が止んだ。安全な場所まで移動した緑谷達は崩壊した街を見て絶句する。神野事件より酷い瓦礫化した光景が目の前に広がっていた。
『全体通信!こちらエンデヴァー!!』
「エンデヴァー!?」
誰も応答していなかった無線機にエンデヴァーが通信に入る。
『病院跡地にて死柄木と交戦中!!地に触れずとも動ける者はすぐに包囲網を…』
一度通信が途切れる。だが少ししてからワンフォーオールという言葉が聞こえた。
「あ!?ワンフォー、何!?エンデヴァーのアシストに向かう!君たちは残るヒーローと避難を!!」
「バーニン待って!」
「警察の指示に従ってもっと遠くへ!!」
緑谷が応戦しに行こうとしたバーニングに待ったをかけたが、聞き入れてもらえず去っていく背をただ見つめるしかなかった。無線機から新たに、エンデヴァーが戦闘区域の拡大と街の外に避難命令するよう下される。
「急げ!!一分一秒を争うぞ!」
「ウソでしょ。ファンクマンが…そんな…!」
「悲しむのは後にしろ!!」
「アレが来る!!次来たら終わりだ!!早く、一刻も早く避難を」
ヒーロー達が避難誘導を忙しなく動く。次の崩壊が来たら全員救からない。市民を、ヒーローを見て決意を固めて走り出したの者をこの男も見ていた。
「ここで秘密言ったら、ヒーロー達は人員割いて学生てめぇ守ろうとしちまうもんなァ」
「かっちゃん!」
「ワンフォーオールの直後にこっちに向かってくるだけじゃ正味根拠は薄いけどな…!ヒーローっつーのは皆守ろうとするから最初ハナから一択即決だろ」
「街の人たちの安全を最優先…!」
「とにかくてめェは動くしかねぇ」
緑谷という生き物を、思考を理解した上でついてきた爆豪は並行しながらそう告げる。
「おい!どこ行くんだ!!」
「あっと!忘れ物!!忘れ物!!すぐ戻るから!!」
独断行動する2人に轟が止めようとしたが、緑谷が小学生の言い訳を使ってその場から離れた。個性を使ってまだ崩壊していないビル街を駆ける。
「デクです!!個別通信失礼します!死柄木は僕を狙ってる可能性があります!」
『何を言っている!?』
「人のいない方へ誘導出来るかも!!少し交信お願いします!!」
緑谷がエンデヴァーに通信かける様を黙って見届ける。少しした後エンデヴァーが進路変更したと通信に入った。
「来るってかっちゃん!!」
「聞いたわ!!てめェこそ聞いたんか!?化物になっちまってるってよあの死柄木カス!尚更ギリギリまで引き寄せンぞ!」
厄介な崩壊の個性に加えて超再生の個性持ちとは。実に厄介。だんだん化物になっちまってんなアイツ。避難区域からなるべく離れて距離をとった方がいい。距離を計算して方角を考えていると緑谷が急にハッとこっちを見た。
「かっちゃん何でついてきてくれたの!?」
額に青筋が浮かぶ。
「ブッ飛ばすぞ!!」
「そんな!」
この状況で何を今更なこと言ってやがる。前向けやクソが。
「あん状況でノータイムで事情納得して行ける奴なんざ俺だけだ!」
「あっ、ありがとう…!!!!」
「自惚れんな」
今気づきました顔でこっち見んな。前だけ見てろクソナード。
「来てくれただァ?てめェ主役にでもなったつもりかよ。俺ァあの死柄木カスに用があんだよ。オールマイトを終わらせちまった男として」
あの日のことは正直記憶がない。捕まって意識を失い、気づけば交戦のど真ん中。なんで俺を攫ったのか今でも理由は分からずじまい。確かなのはオールマイトを終わらせてしまった原因になったことだけ。
「OFAテメーは餌だ。あの日の雪辱を果たすンだよ俺がぁ!!完全勝利する!!絶好の機会なんだよ!!わかったらてめェも気ィ抜いて足引っ張んなよ!!」
「…うん!」
俺は俺のやり方で上り詰める。No. 1ヒーローを追い越して、憧れの背を追くために。
個性を使用して移動している最中、黄色と紫の光線が上空から放たれた。装着している無線機が音を立てて壊れる。俺だけでなくクソナードのやつも壊れたらしい。イカれたガラクタを耳から外してその辺りに捨てる。通信機が壊れた今、情報は入ってこない。情報一つで戦況が変わるというのに壊れたということは妨害が入ったということ。いつ死柄木が来るか分からない。緊張感が跳ね上がる。周囲を警戒していると紫の光線が走るのが見えた。途端、巻き上がる土埃と肌にビリビリした感覚が走る。この感覚は、刺すような空気はまさしく。
「頭の中に響くんだ。手に入れろって」
殺気
「ワンフォーオールを寄越せ緑谷出久」
「ボスらしくなってきたなぁカス野郎」
最初に比べて整形並みに変化したじゃねぇか。 構えていた両手から爆破を起こす。
BOOM!!
少しでもダメージを与えられたらいいが超再生の個性がある以上、どれだけダメージ与えても再生してしまう。一旦体制整えねぇとあまりにも近すぎる。そう思っていると体がクイっと引っ張られ、ものすごいスピードで元いた場所から離された。
爆豪と緑谷を掴んでその場から離れたのはスピードスターのグランノトリノ。
「グランノトリノ!!」
「ワンフォーオールと聞いて嫌な予感がしたよ。お前ら戦うつもりだったのか、アレと!?死柄木の崩壊は触れ合うもの全てを消す!降り注ぐ瓦礫に触れただけで死ぬ!お前ら2人だけでどうにかなる相手じゃねえ!」
「っでも!!」
「ヒーローはまだ、死んじゃいねェ!!アレは、残った全員で討つ!!」
死柄木にエンデヴァーとリューキュウが立ち向かっていくのが見えた。また見ているだけ。くそっ。俺はまた見ているだけか。
「ここいらでいいか」
「今、下に相澤先生が!!」
「ああ、死柄木の個性を封じとる」
「ジィさん!もっと離れた方がいいだろ!!」
「グランノトリノ、彼は…」
「爆豪。OFAヒミツの共有者じゃろ。俊典から聞いとる。ここいらが限度じゃ。奴の移動速度が想像以上に速い。追える者は限られる。通信が封じられた以上離れ過ぎは却って奴を自由にさせる。一旦留まらせ、人々から引き離し、イレイザーの視界に入れた…!既に充分な成果じゃ。俺はイレイザーの足になりに戻る」
「隠れてろ……って事ですか!?」
「奴はAFOオールフォーワンの個性を移植されたらしい。DJヒーローが言っとった」
「AFOオールフォーワンの個性を…」
「万が一、ワンフォーオールが奪われでもしたら…最悪を考えろ。なに、敵は一人!これを討てねば何の為のヒーロー飽和時代か!」
グラントリノが言ったその直後。瓦礫で建物がない更地に猛スピードで移動しているヒーロー達と土埃の中から現れた大勢の脳無の姿。
「なぜ」
「何で無事なんだ」
「研究施設は全て崩壊したはず…何故ここに脳無がおるんじゃ」
動揺を隠せない。脳無はただでさえ一体相手するのに手間取る。オールマイトが本気の拳で300発以上。エンデヴァーは満身創痍で倒した。その脳無が5体以上。
「いかん!二体イレイザーに向かいよる!!おまえらは隠れていろ!」
隠れる?なんでヒーローが隠れなきゃならねぇ。ひよって隠れるなんざヒーローじゃねぇよ。
イレイザーに死柄木が迫っていく。イレイザーの個性が死柄木を抑えているのは一目瞭然。ここでイレイザーが離脱すれば今後の打撃になる。冷静な思考が最悪な未来を導く。だがそれ以上に、その人を失いたくないと心が叫ぶ。ダメだ。先生を失うのはダメだ。
『お前がNo. 1ヒーローになれるのを楽しみにしている』
オビト以外で初めて俺を見てくれた、俺の夢を応援してくれた人。
BOOM!!
早く、早くと急かす気持ちで個性使って移動する。先生の元に駆けつけようとした俺を裏切るように緑谷が先に駆けつけた。
去っていく緑の背を見送る。なんともいえない敗北感を抱いていると横から衝撃が襲った。
「ぐっ!?」
タックルに近い衝撃によって進行方向から逸れる。巻かれた腕を取って振り払うと頭にブチッと鈍い痛みが走った。地面に足がついた瞬間に距離をとって構える。
「あァ、やっと会えたぁ…会いたかったよバクゴーくん」
「あ?」
粘着質を含んだ声、ドロドロとした目を向けられて背筋がゾワゾワする。
「5年と224日ぶりのバクゴーくんだぁ。ずっと、ずぅっと君に会いたかった。ぃぃ!いぃよぉ!最初に出会った7年前から綺麗で美しく気高い幼い君も素敵だったけど、今の君も綺麗で美しい!とってもいぃよぉ!」
気持ち悪いモブにサブイボが立つ。
「1回目は邪魔されて愛せなかったし、2回目はやっと相見えたと思ったらまた邪魔されて捕まっちゃうし。ほんっと散々だったよぉ。で、もぉ…君とこうして会えただけでもうれしぃなぁ。7年前から君に焦がれて焦がれて、愛したくてたまらなかったんだぁ」
「寒ぃこと言うんじゃねぇ。俺はテメーなんざ知らねぇよストーカー野郎」
「ほんとぉに?あんなに素敵な出会いをしたのに」
知らない。知らない。コイツと会ったことなんて記憶にないはずなのに額から冷や汗がでた。
「あはぁ♡その顔もかぁいくてだぁ〜い好き。ボクはね、君を手に入れるためにわざわざ敵連合に入ったんだよ。全部全部、キミに会いたいがための一途な行為さ。一途なボクは素敵だろ?」
「ぺちゃくちゃと喋りやがって。こちとらてめぇと話してる暇ねぇんだよ。そこをどけ!!」
地を蹴って敵に迫る。こんなクソモブに構ってる暇はない。一刻も早く援護に行かなきゃならねぇんだ。
敵に爆破をしようと右手を大きく振り上げる爆豪に、隙だらけの腹に白い足が蹴りを入れる。重い一撃。体がバウンドし、腹に手を当てて嗚咽く爆豪に敵が興奮気味に笑う。
「バクゴーくん!バクゴーくん!ボクね、キミを着飾らせてお人形としてそばにおきたいぐらいキミのこと大好きだ!愛してるよ!これは偽物だけどバクゴーくんだと思えば愛おしくなるね♡」
ぺたり、ぺたり。
突き出した足を下ろした薄っぺらい紙用紙が人の形に造形していく。
「ボクの個性は他人のDNAを用いて専用の人形に入れるとそっくりな人形に造れるんだ。他の奴らはドッペルゲンガーとか失礼なこと言うけどベビードールって呼んで欲しいよ。だってその人とボクと共同でつくった子どもなんだから」
ぺたり、ぺたり。
一枚一枚意志を持って、のっぺらしたマネキンに凹凸ができる。
「さっきバクゴーくんの髪をこの人形に植え付けたんだぁ。この子はキミとの愛の結晶♡でもボクはキミのことが欲しいから本物を手に入れるよ。内臓をとって腐らないように香を焚きながら蝋に流し込んで、朽ちることがない若い綺麗なままのキミを一生そばに置くよ。キミに似合う服を着せ替えたり、食事を共にして一緒に添い寝して、愛し合ったりしたいなぁ。今までの人生の中でここまで本気の恋をしたのはバクゴーくんだけ。ほんっとぉにキミだけを愛してる♡」
「気色悪りぃなマジで」
ぺたり、ぺたり。
人の形からさらに細部が加わる。短い短髪、和服に近い変わった服。横にいる敵よりも大きな白い人形に目を見開く。
「今度こそキミを手に入れてみせる」
黒、紫、肌色と彩られた。
「なんでっ…」
人形が閉じていた瞼を開く。温度を感じさせない黒い瞳。
「…………」
目の錯覚だと、夢だといってほしい。
青みがかった髪に襟口を広げた変わった服。黒く塗りつぶされた目に顔の右半分が潰れたような引き攣った皮膚。見間違えるはずがない。見間違うわけがない。目の前にいるのは紛れもなく俺の師、うちはオビト。
「???あれ、おかしいな。ちゃんとバクゴーくんの髪をとったはずなのに」
オビトの隣でモブが困惑の表情を見せる。そうだ。アイツが自慢げに言っていた。人のDNAをとって専用の人形に詰め込めばそっくりな人形ができると。なのに造られたのはオビトの姿。
「間違えた?まぁいいや。バクゴーくんのDNAとればいいだけだし」
ドクン、ドクン。
忙しなく鼓動が鳴る。一挙一足、オビトの姿から目が離せない。なんでアイツは気づかない。こんなにも重い空気が漂っているというのに。
「…………」
黒い瞳が静かに動く。黒の手袋をした手が敵の顔にかざしたと思えば。
グジャァッ
掌から黒い棒のようなものが敵の頭を貫いた。血潮が飛び、地面が所々赤く染まる。声を上げる暇もなく、疑問に浮かべる思考すら置き去りにした人間の顔を見た。目の光がどんより濁っていく様を見てしまった。
ベシャリ
オビトは貫いたモブを乱雑に放り投げる。赤、赤、広がる鮮やかな赤い色。風に運ばれた鉄の匂いに吐き気を催す。
「………?」
貫いた自分の掌を見つめてゆっくり首を傾げるオビト。頭の中で警報が鳴る。だめだ、逃げろと細胞が叫ぶ。引きそうになる足を鼓舞して顎を引く。掌を見ていた黒い瞳がゆっくりとこちらを見て赤く光った。
「……!!」
ダァン!!
ガードした腕が痺れ出す。ステップしてその場から動き出せばオビトも追従して攻撃してくる。何度もぶつかる肉体音。ひび割れる地面。生産される瓦礫。
「火遁・爆風乱舞」
「っ!」
BOOM!!
どぐろ状に巻く炎を爆破で暴発させて相殺。炎の中からオビトが現れて抗戦した。
あぁ、嫌だ。闘い方も術もオビトにそっくりで嫌になる。
ガッ!ガッ!ダァン!
「くっ!」
理想は敵を倒して死柄木と対峙すること。頭では分かってる。けど実行するにはあまりにも骨が折れる。何故なら俺の目の前にいるのは、闘っているのはうちはオビト。この人の背を追いかけて一度も倒したことがない。この強者を、化け物をどうやって倒せばいい。オビトを造った個性使用者はいない。考えられる要素はある程度のダメージを与えること。でもどうやって。このオビトにダメージを負わせられる?
「助太刀いたす!」
「おい、バカ!やめっ」
加勢しに来たヒーローが拳を振り上げる。しかし殴ろうとした拳はオビトの体をすり抜けて空振った。
「なっ!?」
「木遁・挿し木の術」
味方の体から複数の木が生えて小さな赤い雨が降る。赤い付着物をつけた枝がバキバキと成長していく様をスロー再生しているかのようにじっくり目に焼き付けてしまう。こっちの感情を置き去りにして、物言わぬヒーローの体をすり抜けたオビトが迫る。また重い肉体音が轟く。
オビトの赤い瞳に三つ刃の模様が浮かんでいた。
「お前はいつも肝心な時に足を引っ張る」
呑まれるような厳格な声に、はっと空気を吐き出す。交差した腕を弾いて距離をとった。
「俺を超えると宣ったその口は嘘偽りだったのか。いまだ俺を倒せないからこうなるんだ」
冷たい空気が頬を撫でる。冷めた目に無意識に足が後ろに一歩下がるとコツンと何かにぶつかる。チラリと後ろを覗くと無造作に転がされた夥しい数の死体。開いた無数の空虚の目がこちらを見ていた。
「ヒュッ」
「お前はヒーローになれやしない」
爆豪!と聞き覚えのある声が悲痛な叫びに変わった。鞭のようにしなやかな枝がそいつの体を貫いて串刺しにする。重い足を持ち上げて駆け出した。
「バクゴー!!」
赤く染まる。
「いやっ」
すり抜ける。
「がハ…!」
鮮やかな赤い花が咲く。
なんで、どうして。救けようと手を伸ばしてもすり抜けて赤く染まっていく。枝に貫かれたものは見せしめに掲げられてドロリとした液体が幕を張る。地面に転がされたものやバラバラになったものが足先に浸るほどの赤い池を作った。
「お前は言った。ヒーローとは敵を倒し、人々を救ける存在だと。ではお前が今していることはなんだ?敵を倒せず、膝を折ることしかできないお前は一体なんだ?」
手足の先端が氷のように冷たくなり、思考が散り散りになる。水の中にいるみたいに息が詰まった。
「綺麗事の世界で眩い存在は目を奪われる。だがこの世界はどうだ。自由を奪われ、抑制し、見せ物にする薄汚れた世界になんの価値はある?俺は言ったはずだ。例え情がある奴でも冷酷に切り捨てなければならないと。切り捨てなければいずれこうなるのだから」
空が、地面が赤黒い空間を作る。
オビトの言う通りだ。俺が弱いから、俺が戸惑ったから救けられなかった。
「お前に英雄ヒーローは向いていない」
「違う」
力強く、凛とした声で否定する。ぴちゃりと赤い水を跳ねて俯いていた顔をあげた。ひどい焦燥した顔だったが、鮮やかな赤い目は意志をなくしていなかった。
「オビトはそんなこと言わねぇ。オビトは俺の夢を否定しなかったし、応援してくれた。俺が誰よりもあんたのことを憧れてんだから分かんだよ」
No. 1ヒーローになることを馬鹿にしなかった。誰よりも強くなれるように鍛えてくれた。なにより人間不信のオビトは俺という存在を拒否しない。拒絶なんかしない。否定したりしない。それが目の前にいるオビトが偽物だと何よりも証明される。
「俺は自分の意見を曲げたりしねぇ。ヒーローになることがガキの頃からの夢だ。誰になんて言われようと変えるつもりはない」
例えこの世界が薄汚くても綺麗事にすんのがヒーローの役目。惑わして相手を貶めるやり口も、相手の心をへし折ることも、絶望させるように仕向けることも既に学んでいる。汚いことでも気負わず、前へ向いていけるようにしてくれたのは紛れもなくオビト、あんたがそうしてくれたんだ。
「俺は勝って救ける英雄ヒーローになる。分かったか偽物野郎!!」
パリン
地面からバキバキと樹木が迫り上がる。2人を何処にも行けさせぬように、逃げるのは許さぬと言わんばかりに2人を囲っていく大きな檻。
「火遁・豪火球の術」
地面を焦がし、焼き尽くそうとする小さな太陽が爆豪に迫る。棒立ちだった爆豪は難なく灼熱を避けた。火の球は木の壁に着火して熱を広げて燃え盛る。パチパチと火の粉が舞い上がり、周りの空気を熱した。
「はぁぁぁぁ」
重い息を吐きだす。熱によって酸素が奪わられ、周りの空気が乾きだす。同じように心も乾いていく。こんな状況でも脳裏に浮かぶのはオビトの言葉。
『戦いにルールなんてない。あるのはどちらかの死だけだ』
『遅い。無駄がある。体が追いついていない。無理に動かせば必ず体を痛める』
『見ろ、聞け、考えろ。お前にはそれぐらいできるだろ』
『攻撃の手を緩めるな。相手に時間を作らせるな。思考を動かし続けろ』
『相手の姿を一瞬たりとも目を離すな。無駄な感情を捨てろ。常に心を沈めろ』
何度も何度も言われてきた。誰にも負けない強さを教えてくれた。強者になるために鍛え続けてくれた。夢を馬鹿にせず応援してくれた。言われてきたことを実行して今まで守ってきた。けど一つだけ出来なかったことがある。
『俺を倒すなら殺す気でこい』
俯いていた顔をあげる。面前のオビトの形をした人形は怪我一つない済ました顔のまま静かに佇んでいた。
「………」
「………」
「………」
「………」
「……………わぁったよ」
尊敬する師よ。愛しき人よ。
「オビト」
俺は俺の道を行く。
夢を叶えに。誓いを果たすために。
「俺はもう、迷わない」
ヒーローじゃなく、あんたの弟子として。
「俺があんたを」
タイミングを見計らっていたかのように、対面にいるオビトも同じ対立の印を結ぶ。
「倒す!!」
肉体同士のぶつかる音が響いた。
26
金属音を鳴らして火花を散らす。肉体同士がぶつかる音が響く。お互いの姿だけを捉え、お互いを殺そうと殺意を向ける。
キンッ!
『決して目を逸らすな』
ドゴッ
『無駄なことをするな』
ガッ!
『感情を出すな。常に冷静に。頭を巡らせろ』
キイィンッ!
『欺ける技術を磨け』
繰り出される蹴りを止め、拳を振るうが受け止められ、刺そうとする黒い棒をクナイで弾く。片手に持つクナイを目に向かって飛ばしたが頬しか傷つけれない。
ガッッ!!
「かはっ…!」
カウンターに腹に重い蹴りを一発もらった衝撃に体が吹っ飛ばされて土埃が立つ。すぐさま起き上がり、眼前に来た黒い棒を躱してまた武器同士火花を散らした。
足を止めてしまえば、余所見をすれば一瞬でも殺される。相手をしているのは偽物でもうちはオビト。生半可な戦い方じゃ勝てない相手。
あぁくそッ、やっぱ強ぇ
悔しさと誇らしさを抱く。こんな状況なのにどうしてか、殺伐しているのに懐かしい感覚に襲われる。あの木漏れ日の場所で組み手をした時と似た感覚を。
『組み手をするぞ。ルールは覚えているな』
『馬鹿にすんな!一回すれば大抵覚えれるわ!』
『そうだったな』
開けた場所で少し離れた距離に対面するオビト。切り株にはトビとぐるぐるが勝負の行く末を見守る。お互い片手で印をつくった。
『殺す気でこい』
物騒な合図と同時に駆け出す。拳が飛べばそれを腕で受け止め、同じように拳を突き出すが捌かれる。足を掛けられたら飛んで躱し、拳が当たりそうになったら上半身を屈めて蹴りを繰り出す。体術が暫く続き、俺が痺れを切らしてポーチからクナイを取り出す。オビトも同じようにクナイを出して応戦。互いのクナイが交わると火花が散り、同じタイミングで後ろへ引く。それが幾度か続く。激しい攻防についてこれなくなった俺が体制を崩し、その隙をついてオビトが足蹴りをして転ばせた。転んだ直後首元に突きつけられるクナイ。
『お前の負けだ』
勝敗はいつも俺の負け。組み手が終われば和解の印を結んでいた。
キィィィンッ!!
けどもう、あの頃のように和解の印を結べない。夢のような時間は戻らない。満ち足りていた日常はなくなった。
『勝己』
あんたがいないこの世界で、いつもあんたを探して望んでしまう。いてほしかったと願ってしまう。一方通行の崇拝は身を滅ぼすことになるってことぐらい、モサ頭を見て学んでるというのに。それでも俺はこの先もずっとオビトだけを憧れ続ける。だから未練がましいことはよそう。たとえ親しい奴でも、憧れの人でも躊躇なく倒せなきゃ俺は前へ進めねぇ。ヒーロー俺が戦う理由は、ここにいるのは敵に勝つため。
弟子なら、師を超えてみせろ
攻防していた黒い棒をあえて受け入れる。一瞬の痛みと異物を受け入れたことによる圧迫感と不快感。引き抜かれないよう片手で黒い棒を出しているオビトの腕を掴む。空いている掌をオビトに向けて最大火力を放つ。
BOOOM!!!
オビトとて近距離で爆破は避けれない。俺にも反動が返ってくる。それでも構わない。倒せさえすれば。ポタリ、ポタリと水滴が落ちる。込み上げてくるものを口から吐き出せば鉄臭い匂いと共に液体が重力に従って地面に落ちた。
「………」
オビトの半身に風穴を開けた場所から真白の紙が塵紙となって風に運ばれていく。ハラハラ、パラパラと吹き飛ばされた箇所から徐々にオビトの体が散る。晴れているのに周りの温度が冷えていくような気がした。小刻みに揺れる手を誤魔化すためにオビトの腕を強く握りしめる。グジュリ、ネチャリ。体に突き刺さる棒が更に食い込み、生温い液体が衣類に染み込む。
「…ハ、ハッ……ハッ…ハ…!」
荒い息が上がる。瞳孔を開き、離してやるものかとオビトの腕をギチギチと握りしめる。
「………」
人形のオビトはじっと爆豪を見つめた。その時間は爆豪にとって、とても長く感じた。早く消えろと念じるほどに。オビトは掌に出していた棒をパキンとへし折り、腕を掴まされたまま前屈みにして爆豪との距離をつめる。
「!!!??」
近距離の最大火力で爆破した影響により左腕は酷い火傷状態。指の先まで感覚がなくぷらんと力なく揺れている。右手はオビトの腕を強く握りしめ何もさせないようにしていた。戦意を感じさせない、突然距離を詰めてきたことに対して困惑と混乱に陥った爆豪は過呼吸のように息がか細くなる。オビトの行動を見つめるしかできず、近づいてくる死に息を呑んでいるとコツンと額同士がぶつかる。視界に見慣れた漆黒の色。
「合格だ」
周囲の音が消える。この空間だけ切り取られたかのような感覚に陥った。
「さすがは俺の」
まって
「ぉび…」
焦燥に駆られて伸ばした手が空を切る。風にさらわれて造られた偽物のオビトは塵すら残さず消えた。視界に映るのは燃え盛る炎と憎たらしいぐらいの快晴の空。
「は、ぁ…あ……」
周囲の音が戻る。色が戻る。時間が動く。
「っ…ァ”、あ…ァ”ァ”」
小刻みに揺れる右手を動かして腹に刺さる棒に手を添えてなんとか引き抜く。カランと血のついた黒い棒が地面へ落下し、足元に水溜まりができた。
「っ、っっ……っ…っっ」
なんで。おさえろ。なんでだよ。おさえろ。おびと。なにもかんがえるな。いや。なにもかんじるな。なんで。あれは偽物だ。あ”ぁ”。タだ俺は。どうスれば。敵の個性で作り出された人形を倒しただケ。どうしテ。それだけだ。おびと。それでいいんダ。どうすレばよかった。早く。また。すぐ戦場へ行け。届かなかった。はやく。また俺を。手が。おいていくの。足が。おれは。早く。こんなの。動けよ。望んでなんカ。はやく。おびと。動け。おびと。はやく。ぁあ”ぁ”ぁあ”。
《カアア!!》
もぉ〜そんなボロボロになっちゃって
まだまだやることあるのに見てられないなぁ
『勝己が困っていたら、俺の代わりに助けてやってくれ』
ボクは面倒見いいからね
言われた通りちゃんと助けるよ
『ぐるぐる』
最後までボクのこと気づかないおバカさん
ボクのこと嫌いだったし仕方ないか
でもね、ボクは嫌いじゃなかったよ
地下生活もこの世界もオビトといれて楽しかった
本当はもっと楽しいことしたかったけど
オビトの大事な人間を死なせちゃ怒られちゃう
動かない左腕ぐらい今のボクでも大丈夫
少しの間ボクを使うといい
オビトの弟子なら出来るよね
《カアア!!》
白い烏が爆豪の元へ翔ける。
鳥だったものがバキバキと音を立てて形を変える。白い体に線が入り内側から外側へ広げ、ひたりひたりと爆豪の左腕を沿うように覆っていく。酷い火傷状態だった左腕が不気味なほど血が通っていない真っ白い腕へ。指先一つ動かせなかった左腕が不思議と動かせた。
「…………」
爆豪は燃え盛る炎の檻へ足を向け、爆破で穴を開けて死柄木と抗戦している激戦区へ駆け出す。誰もいなくなった炎の檻は音を立てて崩れ落ちた。
頭が今まで以上にクリアだ。視野も広く見える。なのに、ナノニ。胸に燻るこの感覚は、ナンだ。
GYAAAAA
立ちはだかる脳無に地を蹴って体を捻りながら頭をめいいっぱい蹴り上げる。グキリと嫌な音を立て変な方向に曲がった脳無を無視して走る。
はやく、ハヤク。
余計なことを考る前に。溢れてしまうその前に。
早ク、はヤく。
敵ヲ倒せ。
「テキサススマッシュ!!!」
空中で死柄木と緑谷が留まっているのを視界に入れる。何故。死柄木の個性が発動しないように。何故。イレイザーヘッドがいない。何故。だから黒鞭で浮かせて。何故。ワン・フォー・オールの複数の個性のうち、浮遊で浮いているんだ。このまま倒せれるか?無理だ。足やエアフォースで反動を殺しつつ複数個性を並行操作。死柄木を空に留める為に今まで習得したもん総動員してる。初撃で倒し切れなかった以上削り合いで消耗戦になっている。そんな状態の奴が再生持ちに粘れる訳がない。あと数分後に力奪られて粉々。なら、俺ノすベキことは。
地面で消耗しているエンデヴァーに話しかける。
「エンデヴァー」
「バクゴー!!貴様何しにっ!?」
「上昇する熱は俺が肩代わりする。轟はギリギリまでエンデヴァーを冷やし続けろ」
「バクゴー、何を…」
「黙っておレに捕まれ」
爆豪のピリピリした雰囲気に呑まれ、轟は言われた通りエンデヴァーを冷やす。エンデヴァーも爆豪のただならぬ雰囲気に言葉を失うが、戦場によそ見は厳禁と切り替え目線を上に向けた。轟だけはちらりと爆豪の様子を見る。所々にある火傷跡、お腹に開いてある穴から血が止まることなく流れ続け服に染み込んでいる。なにより目を引くのは包帯じゃない何かで覆っている白い左腕。顔は前髪に隠れ、陰でよく見えないが青白い色をしていた。何があったのか、誰と戦っていたのか皆目見当もつかない。いつかの仮免講習を思い出す。あの時と同じ変な空気を纏っている爆豪に轟は不安を抱く。
「俺の最高火力を以て…一撃で仕留めろという事か…任せろ」
「そんな…子供に…………」
「先生達を頼みます!」
轟の言葉にロックロックはとっくに緑谷をヒーローと認めた事を思い出し託す事に決めた。
「あぁ…任せろ!」
肩にエンデヴァーの腕を乗せ、轟に掴まれている爆豪は爆破で空を飛ぶ。
「黒鞭が伸びきったところを狙う!俺が出たら2人はすぐに離れろ!巻き込まれるぞ」
ボロボロで必死に死柄木を空に止める緑谷の姿。2ヶ月前、黒鞭の特訓した時の出来事が過ぎる。特訓する緑谷を横目にオールマイトと2人でワン・フォー・オールの話をした。純粋に信じる緑谷とは違い、観察力と思考を常に回す爆豪は気づいてしまった。ノートに書かれた継承者達の不明な点。爆豪の言葉に言い淀んで黙ったオールマイト。オールマイトは分かっていないことを断言できないと言った。
ワン・フォー・オール。個性を譲渡し、蓄え続けて次の継承者へ受け継ぐ。想いも、力も、その次に託して短い命を終わらせている。
『僕は頑張れって意味のデクだ!』
たとえワン・フォー・オールが呪われた力だったとしてもかつて憧れたヒーローの力。呪いなんかじゃない。それは、人を救う力だ。
「今だ!」
緑谷の黒鞭が伸び切ると、爆豪は合図と共にエンデヴァーを投げ飛ばす。飛び出して死柄木を羽交締めする。
「エンデヴァー…」
「離れろ!!」
「テメェ…!」
「プロミネンスバーン!!!!」
エンデヴァーの放つ熱を直に受けた死柄木がもがき苦しむ。灼熱に焼かれて立つ人間はいない。勝てる。そう思われた。
「あ”」
だが死柄木が呻き声を上げた次の瞬間、エンデヴァーの身体を黒い棘のようなものが貫く。
「エンデヴァー!!!」
「な…ぜ…死なん…!!」
刺されたエンデヴァーは大量の血を噴き出して落下していく。死柄木は丸焦げになってもまだ意識を保ったまま。
「弟を………」
そう呟いて緑谷の方へ棘を伸ばす。満身創痍で無防備な緑谷を赤い瞳が映す。爆豪の頭の中はクリアで、過去一冷静だった。思考して最善を尽くす彼には珍しく、そう、珍しく。頭の中は何もなく、ただ身体が勝手に動いていた。
ズシャッ‼︎
緑谷を押しのけ、黒い棘が爆豪の身体を貫く。貫かれる感触と血が吹き出す音。不快感はなく、不思議と痛みは感じない。むしろ心が凪のように静かだった。
死柄木はガタガタ震わせて何かを呟くと爆豪に貫いていた棘を引き抜く。爆豪は重力に従って下へと落ちる。
「かっちゃん!!」
落下中の爆豪を轟が足を掴んで落下死を防いだ。緑谷と死柄木の交戦が激しくなる。
「緑谷ァ!!!!」
あつい、アツい。目が燃えるようにアツイ。
瞼を開く。深く沈んだ赤い瞳が空を見上げた。
上空から地上へ。満身創痍の緑谷、爆豪、エンデヴァー。黒い棘を伸ばして起き上がる死柄木。そこへ応援に駆けつけたヒーロー達。
「蛆…が、無限に…湧く…………」
応戦しにきた波動達が死柄木と交戦する中、建物を破壊して来たギガントマキア。更なる絶望がもたらされる。
「降ロせ…メガネアーマー」
「気付いたか!!」
「オロセ」
「ダメだ君、内臓がやられて」
「ダまレ。オれはまだ、動いてる」
飯田を押し除ける。俺にはまだ前へ進む足がある。なんでも出来る手がある。体は残ってる。心臓はまだ止まっていない。俺はまだ、シんでない。
BOOM!!
災害級の巨大に近づく。何かを言っている。音が聞き取りづらくて言語が聞き取れない。動きが遅く見えて、今ならなんでもできそうだ。
「邪マだ。大人しくしてろ砂利」
柘榴の瞳が巨眼を見つめた途端、がくんとギガントマキアが停止した。
「お前、なんだ」
ギガントマキアの頭上で憎悪愛を叫んだ荼毘が問いかける。動いているのが不思議なぐらい真っ赤に染まっている爆豪の薄黄色の前髪が上がる。赤い、赤い瞳。瞳孔の周りを囲む三つの勾玉が浮かんでいた。
「ヒーロー」
オビトと同じ赤い瞳が光る。
爆豪は荼毘をギガントマキアから引きずり落とし、地上戦へ持ち込ませる。他人の過去や血筋は価値によって弱みを握るが、爆豪は敵を倒すことしか頭にない。叩き込まれた戦闘スキルと勘、観察力で徐々に動きが良くなる。
高温の熱がなんだ。陥れる言葉がなんだ。無理だと、諦めろとダレが言った。まだ俺には足がある。まだ俺には手はある。動ける体がある。心臓が止まっていないなら1人でも多くヴィランを倒セ。
「赫灼熱拳プロミネンス…………」
火傷を恐れず炎の中を突っ込んでくる殺戮兵器に荼毘は大技を繰り出そうとした。しかしそれは突然ワイヤーが降って荼毘を拘束されたことによって中断される。
「遅れてすまない!!ベストジーニスト、今日より活動復帰する!!」
聞き覚えのある声に空を見上げる。陰をつくっていた瞳に微かに光を宿す。
じーにすと
『君の存在は私にとっては新鮮だったよ。この一週間とても有意義で、色々と考えさせられた』
ジーニスト
『私は君に世界そとを見せたいのだ』
まだ、消えてなかった
ワイヤーで拘束されてももがいて抜け出そうとする敵にジーニストは血管を浮かばせて必死に拘束する。追加された敵と更に応援に来たヒーロー。過激化する戦場に爆豪も加勢しに行こうとした。
「ゴほっ……ッ?」
口から大量に吐き出す血。ぼたぼたと地面に彩る赤に首を傾げる。アドレナリンで痛みを感じない爆豪は気づかない。身体はもうとっくに限界で悲鳴を上げていることに。
「…………」
赤、紅、緋。好きな人から褒められた一番好きな色。ぬちゃり、と腹に当てた白い左手に鮮やかな赤が映える。まだ、俺ハ生きている。俺の身体ダロ。イウコトをキけ。
「保タセロ」
バキバキバキバキ。
左腕を覆っていた白が腹へ移動する。オビトに貫かれた穴が、死柄木によって開いた複数の穴が覆っていく。小さな体では全てを覆えない。一番酷い箇所だけを覆った白に満足した爆豪は、動かない左腕をそのままに右手で爆破を出す。
BOOOM!!!
今まで以上に強い爆破を出して速く移動する。体幹がしっかりしている爆豪の体は傾くことなく目的の場所まで移動した。ジーニストと通形を襲おうとしていたニア・ハイエンド達を爆豪と飯田、波動が個性で蹴散らす。
「バクゴー君!?ちょっと目を離したら!!動いちゃダメだ、死ぬぞ!!」
「ネジレちゃん!大丈夫かよ」
「通形来たら平気。不思議!」
心配の言葉が飛び交う中、ジーニストは爆豪に話しかける。
「世界そとは見えたか?バクゴー」
前と変わらない真っ直ぐなヒーロー姿勢。心なしか息がしやすくなった。
『名は願い。己がどう在りたいか、在るべきか。君はまだ世界そとを見ようとしていない。2年になり、仮免を取得したらまたおいで。その時再び名を訊こう』
「それは仮だ。アンタに聞かせようと思ってた」
あんたと会えたら言おうと思ってた。誰よりも最初に、オビトより、親や先生より一番に聞いてほしかった。あの日から考えてたんだ。俺がヒーロー俺であるための名を。名は願いだとあんたは言った。どうなりたいのか、どうあるべきか。
俺はオビトみたいになりたかった。月のように冷たくて強い、大きな存在になりたかった。でも憧れの人からは俺は俺だと言った。同じ存在になる必要はないんだと。だから考えて、考えて、考えて、考えて。考えた末、月のような師とは反対に輝く存在になろうと決めた。師のようにその場で畏怖される存在じゃなくていい。俺はヒーローだ。夜に輝く月じゃなく何光年先の恒星を星と呼ぶような、小さくともどこにいても輝く星に。多くの目じゃなくていい。俺が師を見て目を奪われたように誰かの一番星ヒーローになれたなら。そうなれるよう願いを込めて。
「今日から俺はぁ、大・爆・殺・神ダイナマイトだ!!」
死柄木の声で起きたギガントマキアがベストジーニストの拘束を解かんと暴れ、ついにはベストジーニストのワイヤーを引きちぎった。瞬間エンデヴァーがギガントマキアの顎に激突する。
「〜〜〜!?力が…!」
「マキアぁ!!?」
ギガントマキアが急に倒れ、力を失ったのを見て通形が気づく。
「………!!!山荘からの連絡にあった…効果は無かったって報告だった…!!麻酔が効いてる!!!」
災害級のギガントマキアが倒れ、あと一息とベストジーニストは拘束の力を強める。まだニア・ハイエンドや荼毘達が残っている。肩で息をするほど消耗してる爆豪は熱を帯びる瞳を敵に映す。一歩踏み出すとぼたぼたと地面が赤に彩る。
「大・爆・殺・神ダイナマイトは下がるんだ!受け身も取れない体では相手にならん!」
ウルサイ。
一歩、二歩。歩みを早めて駆ける。体が欠落しても他のもんでカバーすればいい。心が折れても立ち直ればいい。感情は二の次。任務を達成することが最優先事項。敵を倒せさえすれば、体も心も後から癒える。
「一世一代ーーー!!脱出ショウの開演だ!!お代は結構!最後までごゆりと!!」
ガッ!
Mr.コンプレスの頭を蹴り上げる爆豪。バケモンかよ、とMr.コンプレスは内心で呟く。動いているのが不思議なぐらい血まみれ。だが瞳は真っ直ぐ、感情を顔に出さないその姿は凛々しかった。
通形と爆豪は死柄木とスピナーを確保しようと近づく。Mr.コンプレスの個性で圧縮された荼毘達はスピナーのマフラーの中に隠れており、スピナーは死柄木のポケットに入っていた焼け焦げてボロボロの手を死柄木の顔に被せた。刹那、死柄木を中心に広範囲の電波を放つ。衝撃波で爆豪達は吹き飛んだ。
「弔は本当に…良い仲間を持った……心とは力だ。彼の心が原点を強く抱けば抱く程、共生する僕の意識も強くなる。憎しみを絶やすな弔」
弔の身体を借りたオールフォーワンが立ち上がる。するとニア・ハイエンド達はオールフォーワンの方へ走り出す。
「脳無達の向かう場所に連合が集まってる。荼毘もいるはずだ………!!絶対に逃がすな!!」
衝撃波をもろに喰らい、地面にバウンドした爆豪は立ち上がろうと体を起こす。だが体は思うように動かず地面にペシャリと這いつくばった。
「??…?………?」
なんで、どうしてと幼い子どものように疑問を浮かべる。そうこうしているうちに敵が逃げてしまう。ならばせめてもと右手でポーチを漁り、札付きのクナイを取り出して最後の力を振り絞ってニア・ハイエンドがいる方向へ投擲した。
「ハッ…ハッ、ハッ…」
目が霞む。音も聞き取りづらい。体が急に重くなり、瞼が段々と下がる。意識を失う直前、聞き覚えのない声が頭の中で響いた。
バイバイ、とっても楽しかったよ
知らないはずなのに、聞いたことがないはずなのに。また失ってしまったんだと理解して意識を手放した。
27
ぴちょん
「…ん」
水の音が聞こえて意識を浮上させる。ぼんやりと視界に映るのは赤い光。段々と視界がクリアになる。輪郭を描いて見えたのは巨大なトビの姿。巴模様がある赤い瞳が見下ろす。
ぴちょん
光がない暗闇に澄み切った水面。どうやら水面に寝そべっているらしい。俺とトビしかいない空間は静寂に包まれていた。その静けさが、この空間が、オビトが住んでいたあの家みたいでひどく居心地が良い。なんでこんなとこにいるのか。此処はなんなのか。そんなの気に障らないほど体が微睡んでいた。
ぴちょん
大きくなっているトビを寝そべったまま見上げる。お互い無言のまま見つめ合っていると、大きな赤い瞳から水分を含んでいくのが見えた。
ばしゃん ばしゃん
ふちに沿って大きな雫が溢れ落ちた。水面に跳ねて小さな波が発生する。揺れる波を肌で受けながら次々と雫が落ちていく。
ばしゃん ばしゃん
一向に止まないソレに手を伸ばす。
「トビ」
自分の声なのかと疑うほど覇気のない掠れた声。
「トビ」
巨大なトビがゆっくりと身を屈みだす。10本もある尾が爆豪を閉じ込めるように囲う。近くなった顔を掌で受け止め、寄ってきたトビに目を閉じる。低い体温に身を寄せた。
「俺もさみしいよ、トビ…」
《ギィィ》
ぴちゃん、と水面が跳ねる。どちらの音だったのかそんなのどうでもいい。ただこの寒さを凌ぎればなんだってよかった。
「…なんで、こんなことに…なっちまったんだろうなぁ」
オビトがいなくても頑張れた。トビとぐるぐるがいたから頑張れた。けどまたいなくなった。今度は俺の手で。俺のせいで消えた。なんで同じ過ちを繰り返しちまうんだ。失いたくなかったのに。
「いなくならないでほしかった」
ヒーローになるまで、なった以降もいてほしかった。もっと一緒にいたかった。
「生きてほしかった」
死んでほしくなかった。最初から生きていなかったなんて気づきたくなかった。
「殺したくなかった」
たとえ偽物でも憧れの存在を、尊敬する師を手にかけたくなかった。
「いてほしかった」
夢をまだ見ていたかった。木漏れ日の場所でオビト達と過ごす純粋な夢を。
女々しいと、いつまでもいじけんなって言うだろう。ないものはない。現実は非道だと知っている。解ってんだ。こんなことしても意味ないってことぐらい。解ってる。このままじゃダメだってことを。
《ギィ》
トビの声が腹の奥から響く。瞼を開くと大きな赤い瞳が醜い俺の姿を映しだす。酷いことをした。俺もお前も置いていかれた側なのに。同じ気持ちなのに小さな部屋に閉じ込めた。
「俺を嗤うか?トビ」
No. 1ヒーローになる夢を掲げながら敵を倒せい体たらく。あまつさえ偽物の師を手にかけて現実逃避。ぐるぐるは俺のせいで消えてしまった。
「難儀だな。お前も、俺も」
残された。残されてしまった。2人ぼっちだ。
「なぁトビ。お前だけはいなくなんなよ。もう部屋にいろなんて言わねぇ。邪魔すんなって言わねぇから、これからは俺のそばに…ずっと、死ぬまで俺のそばにいろ」
《ギィ》
もう幻は見ない。
俺にはやるべきことがある。叶えたい夢がある。立ち止まっているわけにはいかない。決めただろ、ヒーローになることを。決めたはずだろ、歩み続けるって。
『お前には多くの苦しみがあるだろう。だが…それでも変わることなくまっすぐ、自分の信念を貫き通せ』
解ってる。大丈夫だオビト。
全て受け入れる。オビトのことも過去のことも、今のこともこれからのことも全部。どれだけ辛くても、悲しくても、前を向くって決めたんだ。
『ちゃんと見てる』
オビト、見ていてくれ。あんたに恥じない弟子として誰よりも強ぇヒーローに、誇れる最高のヒーローになってやる。
「幸せな夢を見せてくれてありがとな。俺は大丈夫。だから現実に戻してくれ」
《ギィィイ》
「俺にはお前がいる。なんも不安なことはねぇよ。一緒に行くぞ、トビ」
チリン
瞼を開く。最初に目にしたのは白い天井。一定のリズムで刻む電子音。心なしか息苦しい。
ここは、どこだ
「おはよう勝己」
目尻を赤くした母親が髪を撫でる。
「随分とお寝坊さんだったわね」
4月上旬。生死を彷徨い、眠り続けた爆豪が病室で目を覚ます。赤い瞳には三つの巴模様が浮かんでいた。
ちりん
爆豪の手の中で握らされていた鈴の音が鈍く鳴る。
27
ひどく残酷で、甘美な幻を見た。秘密主義の強い師と、師を慕う滑稽な弟子の泡沫の夢だ。
師と過ごした時間は鮮明に思い出せる。師と話した内容はまだ覚えてる。師が教えてくれたことは決して忘れはしない。師が消えてから1年も経っていない。経っていないはずなのに、どうしてか。
『 』
師が俺をどんなふうに呼んでいたか思い出せないでいる。たった三文字。されど三文字。思い出せないのが辛くて、とても苦しくて、胸が痛くなる。
「おびと…」
これは、自分の罪だ。
俺は恵まれた人間だ。
「勝己くん賞獲ったの?1位じゃないか!すごいねぇ」
「ドラムやりたい?別にいいけどやるなら徹底的によ」
「あら可愛い。お母様に似て美人さんね」
「勝己やっぱスゲェな!!」
「強個性だからきっとヒーローになれるわ」
恵まれた環境。恵まれた容姿。恵まれた能力。恵まれた個性。賞賛されて嫌な思いする奴はいない。俺は凄いんだと本気で思った。周りを比較して自分は強者だと思い上がったガキ。実に愚かな人間だった。
「思い上がるなよクソガキ。俺程度傷一つつけられない砂利が英雄を気取るな」
オールマイトとは正反対の月のような人。冷たくて恐ろしい強者に出会って人生が丸ごと変わった。俺なんかまだまだ弱っちい弱小の人間だと何度も思わされたことか。オビトみたいに強くなりたくて血反吐を吐きながら鍛えた。オビトみたいになりたくて真似するようになった。オビトみたいにカッコいい大人になりたくて仕草を観察したこともあった。うちはオビトという名前以外何も知らない。過去も、何をしているのかも、プライベートのことも一切知らない。それでも構わない。気にしないようにした。気難しいオビトのそばで一緒の時間を共有できている。それだけの奇跡に満足した。多くは望まない。ただオビトがいてくれる。それだけでよかったんだ。
「お前、幾つになる?」
「12」
「12か。ならば組み手を中心に忍具の扱いを教えよう」
「忍具?」
「俺が使う武器のことだ」
春は歳をとるごとにやることが増えてやる気に満ちていた。柔軟と体力作りから個性なしの組み手、忍具の使い方から個性ありの鍛錬に変わっていった。年齢制限かけられて必要以上のことを許してもらえなかった分、徹底的に扱かれたおかげで体の扱い方に違和感もなければ無意識に出来ることが増えた。
「今日から1ヶ月よろしく」
「また来やがったなクソガキ」
「嬉しいだろ?」
「生意気な口を閉じろ砂利が」
夏になれば夏休みを利用してオビトの家に泊まった。鍛錬や勉学の時間が増えるのは当然のこと。ただ酷く頭痛する激しい雨の日や外に出るなと言われた日は外に出るのはもちろん、窓に近づくことさえも禁止にされていた。オビトが言うならそれに従った。そうすればオビトはいつもよりほんの少し優しくなるから。
「あったまったか?」
「おう。今日から暫く菊湯?」
「そうだな」
秋になると何故か湯船に菊を入れて、使い終わったら乾かして菊枕になる。毎年どこから菊を仕入れてるんだか不思議でしょうがない。一度風呂に菊を入れるのはなんでだと調べてみたが厄除けするためらしい。厄除けなんて必要ないのにな。
「さみぃなぐるぐる、トビ」
《クゥア》
《ギィイ》
「それ暑くないのか」
「んや、あんまし変わんねぇ」
「…火鉢追加するか」
冬は現代暖房機がないオビトの家でぐるぐるとトビをカイロ代わりにして囲炉裏を囲んで暖まり、特別な料理を食べた。今年も色々あったなと振り返って満足する。
「オビト」
「なんだ?」
「誕生日おめでとう」
気難しくて気高いオビトにプレゼント渡せば微かに笑みを浮かべてくれる。表情は変わらない。ただ雰囲気だけ笑ってくれたと感じとる。
その笑みを見るたび胸がいっぱいになった。
幸福な日常。満ちた時間。色褪せない記憶。どこを切り取っても、どこから取り出しても大切な思い出。オビトは優しいんだ。どれだけ冷たく遇らわれても結局許してくれる。俺を見てくれた。俺の夢を応援してくれた。時には叱って褒める時は褒めてくれる。正当な評価をしてくれる人。
「オビトはなんでそんなに強ぇんだ?なんか秘訣でもあんのかよ」
「秘訣ではないが、そうだな…夢を見たくて強くなった」
「夢?ヒーローか?」
「さぁ…どうだったか。お前は何故ヒーローになりたがる」
「そりゃ1番カッコいいから」
「そうか。もしお前がヒーローになったとして、どんなヒーローになりたい?」
「どんな?」
「お前が大人になり夢を叶えたとして、その時お前はどんなヒーローになっているんだろうな」
そう言ったオビトの顔はどこか諦観していて、これ以上踏み込めやしないと悟って追求するのをやめた。オビトの言葉は意味ありげに呟くからいつも翻弄される。ヒーローになるのがガキの頃からの夢。最初に憧れたヒーローが1番強かったから俺も同じになりたかった。それが俺の原点。夢を叶えたらなんて想像つきそうなのに思いつきもしなかった。将来の夢、夢を叶えた自分の姿に妄想なんかしない。理想にとどめず現実で自分が行動に移さなきゃ意味がない。
何もしないで理想通りになるなんて世の中そんな甘くない。ヒーローになるのは当然で決定事項。夢を叶えるために強くなろうとしてる最中。オビトの言葉通りに想像してみる。俺がヒーローになったら、俺はどんなヒーローになっているんだろうか。何年か先の未来。俺のヒーロー理想像は決して変わらない。1番強いヒーロー。理想のヒーローになるならきっとオビトみたいなヒーローになるに違いない。オビトが救けてくれたあの姿に憧れを抱いたんだ。
ずっと見てきた。ずっと憧れ続けた。オビトの背を追いかけ続けた。これから先何があっても俺の気持ちは何も変わらない。決して揺らいだりしない。
「約束だ」
“約束”をしたんだ。約束は絶対に守るって。
「俺を恨め」
“誓った”んだ。何があっても裏切らないと。
初めて出会った運命の日、強さに目を惹かれて追いかけた。初めて名を知った快晴の日、何度も頭の中で復唱して必死に覚えようとした。初めて名前を呼ばれた豪雨の日、とても嬉しかったんだ。
「 」
俺の憧れ。俺の英雄ヒーロー。
忘れない。忘れたくない。あんたとの思い出を忘れるぐらいなら、いっそ傷ついた心ごと____
がじり
鈍い痛みを感じて重たい瞼を持ち上げる。視界に映ったのはまん丸いトビの姿。
がじり
トビの鋭い歯が指に突き刺さる。だが全然痛くない。今までそんなことなかったのに何故かトビに噛まれることが増えた。害はないから好きにさせている。すぅ、息を吸い込むと木の香りが鼻に抜けていく。微睡んでいた頭が徐々に冴え渡る。あぁ、そうだ。俺は此処にいたんだった。体が横になっても3人ぐらい入りそうな広い切り株に外との境界線を遮断するよう囲んだ太い枝。枝の隙間に微かな太陽光差し込んでいるがトビに頼めば天井は吹き抜けになる作りとなっている秘密基地。昔、俺が秘密基地ありそうだとふざけて言った時トビが樹木で作ってくれた。1人になりたい時、オビトに内緒で何かしたい時此処に来たんだ。もう、何年も来ていなかったけど。
「……」
身体が重い。無気力に脱力したような、眠りの中を揺蕩っているようで。現実と夢が区別つかないくらい世界から俺を切り離されている感覚。オビトがいなくなった時。偽のオビトを倒した時。もうこの世にいないと実感してしまった時。胸が苦しくて息が上手く吸えなくなった。今も深い水の中で沈んでいくみたいに苦しくて、痛くて、どうすればいいか分からなくなる。思考が曖昧になろうとした瞬間がじり、とまた指に歯を突き立てられた。
「いてぇよ…トビ……」
痛くなんかない。トビは俺に危ないことはしない。オビトがそうトビに言い聞かせていたから。
「いてェな」
いたい、いたい。苦しくて仕方ない。何も考えたくない。でも前へ進むためにこの地にやって来た。思い出の地に、心を置いてきたこの地に。忘れようとしたものを取り戻せたらもう一度歩み出す。俺が変わり果ててもお前は一緒にいてくれるだろ?トビ。
《ギィ》
静寂に包まれた空間で、力無く横たえている爆豪にトビはマイペースに戯れる。掌に顔を擦り付けては時折指に噛み、ゆらりと揺れる尾を絡ませる。ぼんやりした赤い瞳がトビの姿を映す。ずっと反応が乏しい爆豪の傍を離れずご機嫌に揺れていた尾が突如ピンッと張る。警戒顕に喉を鳴らすトビの異変に気付き、爆豪は緩慢に身を起こした。ザッ、ザッと砂利を踏む足音。徐々に大きくなる足音がついに止まる。入口に佇む見知った人影に爆豪は馬鹿にするように、蔑むように嘲笑った。
「これは、これは……此処に来るなんざ、どういったご用件で?」
28
深い霧に視界不良になりながら足場の悪い山道を慎重に登る。立入禁止区域の理由を改めて知る。数年前に突如濃い霧が発生した原因不明のこの山は、来た者は運が良ければ方向感覚を失って着た道を戻るか運が悪ければ行方不明になる。誰も原因解明できず危険なことから立入禁止区域となった。曰く付きとなったこの山を唯一出入りできるのは爆豪のみ。前に来た時と全然違う。あの時はたまたま霧が晴れていたからか、爆豪が一緒だったからか。引き返せと言わんばかりの濃い霧が行手を阻み、正しい道から足を踏み外せば罠の餌食。まるで宝を遠ざけるダンジョン。行先分からぬ山道に慎重に足を進めると風に吹かれてひらりと木の葉が舞う。ひゅるり、ひらり。こっちだと誘われるように木の葉の後をついて行く。
爆豪勝己。初めて目にしたのは入試の実技試験の映像。個性頼りにしない優れた身体能力。最善を選ぶ思考力。周囲を把握する観察力。ヒーロー家庭じゃなく一般家庭育ち。16歳にしてはそこらの若手ヒーローよりヒーローらしかった。だが実際に会ってみると世間を舐めた典型的なクソガキ。己が強いと自負し他を見下す。自尊心が高い厄介な子ども。こういうプライド高い奴の相手するのは実に面倒。実際に問題児として扱われた。手の掛かる生徒。違いないが別の意味で手の掛かる生徒だった。彼と話をして、彼を知れば知るほどそうではないと知る。己が強いと自負してもまだ弱いと謙遜し、更なる高みを目指す低姿勢。己の力に自惚れず努力を怠らない向上心。努力を決してひけらかさないストイックさ。まだ16だというのに大人に近しかった。そんな奴だったから大丈夫だと思っていた自分をぶん殴りたい。あの日、神野事件以降弱さを表した姿を見て俺は自分を恥じた。
爆豪は達観していて大人に近しいことがある。だがそれは己を隠すと言うこと。大人とは色々なことを知って、諦めて、我慢して周りに合わせる存在。取り繕って言えば世界を知った、悪く言えば抑制されたのが大人。それを爆豪がしている。俺達大人が我慢させている。
『ヒーローとして、雄英教師として信用してねぇ。信用できねぇ。何故だか分かるか?』
『あんたは知らねぇだろ、あの場にいたヒーローの発言。失望するぐらいひでぇ言葉だった』
ヒーローを目指しているのにヒーロー嫌い。信じた人間以外信用しない人間不信。ヘドロ事件をリアタイじゃないが俺も見ていた。非常に不愉快ではらわたが煮えくり返りそうな酷い映像。敵に捕らえられた一般人の子どもを救出しないどころか我慢しろと言う始末。あまつさえ不利な個性だからと周りに任せる不甲斐ないヒーロー共。それを傍観する野次馬達。爆豪が失望するのは当たり前だ。人間不信になるのも頷ける。たった16の子どもが感情を抑制し、口をつぐんで我慢させた。
本心を言わせなきゃいけなかった。安心できる場所にしなきゃいけなかった。俺達大人が、ヒーローが思わせなきゃいけなかった。
『なぁ先生。先生は…俺がNo. 1ヒーローになれるまで、見てくれる…………?』
雪の降るクリスマスの日。電話越しに聞こえた言葉は紛れもなく爆豪の本心。厳重に鍵をかけられた心。俺に出来ることなんか限られる。赤の他人で、たまたま担任だっただけのオッサン。それでも彼と関わってしまったから。彼を知ってしまったから。臆病を隠して強がっている自分の生徒を夢を叶うその日まで見てやりたい。自己満足でも生徒の成長を見届けたいんだ。
罠にかからず木の葉に導かれるままついて行くと突如霧が晴れた。
「これは」
そこに広がるのはSFの世界。底が見えるほど透き通った湖。湖のど真ん中にぽつりと佇む大樹。太い根が湖に浸けているのが遠目でも分かる。空気が澄んでいて心なしか肌寒い。春先だから当たり前だが。今にも風が吹いて葉や水面を揺らぎそうなのに無音で何も聞こえないのが不気味さを醸し出す。
さて、どうしたものか。湖の淵まで近づくと浅く浸かった大樹まで続く一本道があった。靴は確実に濡れるが泳ぐよりマシだ。ちゃぷり、と湖に足をつけて歩む。不思議な感覚だ。この湖も、目の前の大樹も、この山は生きている感じがしない。この前はどんなだった?山なんて興味なかったから景色なんざ覚えてない。でもこんな静かな所だったか。ダンジョンと例えたがある意味正解だな。視界不良になるほどの濃い霧に正しい道じゃなけりゃ命を失いかねない危険な罠。立入禁止区域になるほど守りたかった宝。
『師匠の墓参り』
宝とはお師匠か、爆豪自身か。ほんと謎めいてんねお前は。
大樹の元に辿り着いて水から陸地に上がる。濡れた靴の中が独特の感触で気持ち悪い。土の部分が少ないぐらい彼方此方に伸びている根っこ。こっちも足場が随分悪い。樹木の一部空洞となっている所へ向かう。近づくと獣の呻き声のような声が聞こえた。ビンゴだ。ぽっかり空いた空洞の先にお目当ての人物が足を組んでこちらを見ていた。
「これは、これは……此処に来るなんざ、どういったご用件で?」
薄暗い空間で赤い瞳が輝く。
樹木の中は空洞で薄暗い。不思議なことにどういう現象か、中は光に反射された水面が広がっている。周囲に守られてたどり着いた宝物庫。その宝は静かに、値踏みするようにやって来た者を一見する。
「お前を連れ戻しに」
相澤の言葉にトビが尾を大きく広げて威嚇する。唸り声を上げるトビに爆豪は小さな体を撫でて落ち着かせた。
「校長から聞いてねぇのか?」
「聞いた上で此処に来た」
「それはまたご苦労なこって」
視線をトビに向けたまま鼻を鳴らす。
蛇腔事件で爆豪は意識不明の重体となった。集中治療室に入るほど死地を何度も彷徨っていたこともあって面会謝絶。誰も爆豪の見舞いには行けなかった。短くも長い眠りから目覚めた爆豪の怪我は優秀な医師達が後遺症なく完治。経過は良好。しかし外見だけ完治しても傷を負っていた。精神的ストレス。鬱病を患っていた。大きな事件だ。病む者もいる。だがあの爆豪が鬱病になるなんて誰が思う。ヒーロー復帰するには難しいほど大きなストレスだと医師から告げられていた。しかし爆豪は拒否した。親の意見も、その日に見舞いに来ていた根津校長の意見を跳ね除けてヒーローに復帰すると断言。「3日だけ時間をくれ」と根津校長に言った。「それまでケリをつけて学校に戻る」と約束を取り付けて。
今日でその3日目。今日が終われば雄英に戻るのに相澤が来た。根津校長との約束を知ってなお連れ戻しに来たと言うではないか。これを馬鹿と言わずに何という。
「ヒーロー活動はいいのか?あんたの個性なら引っ張りだこだろうに」
「今日は休みだ。急な仕事入らないよう電源切ってある」
「あのガキはどうした?まだあんたのお守りが必要だろ」
「壊理ちゃんは俺がいなくても頑張ってる。それに俺より保護者面してる奴らが多いんでな。大助かりだ」
「そこまでして俺を連れ戻したいか?あんたほど合理的な人間がこんな面倒なことするとは思えねぇ。まさかとは思うが影響されたのか?緑谷に」
合理的主義の相澤が戻ると約束されているにも関わらず連れ戻すと言った。相澤を知る人間なら決まっている事なら守り通す男だと知っている。3日空けて学校に来るなら放っておいていいと判断する男。非合理的なことはしないと爆豪は確信している。ならば非合理的な行動する理由は緑谷に関係していると睨む。
緑谷出久。4月に入って学校から姿を消して行方をくらませた。だが雄英に戻ったと風の噂で聞いた。その様子を知らないし見てはいない。緑谷が行方をくらませた事情をなんとなく察せれる。どういった経由で雄英に戻ったのか知らないし興味ない。このご時世反発や暴動あってもおかしくない。それでも戻れた。雄英に残れた。何故か。その理由を、その光景を見た教師なら知っている。見たから、此処に来たんだろう。違うか?と首を傾げた。
「影響されたさ。それはもう」
「だろうな。こんな所まで来ちまうぐらいに」
「お前も一緒がいいと俺が判断したからな」
「は?」
「お前らが、A組が。一緒に居させたいと、緑谷が帰ってきた時に思ったんだ」
今でもその情景が脳裏に浮かぶ。1人で傷ついた友達に、守りたいんだと戦った仲間達。春先の冷たい雨の日に、肩を抱き寄せてホッとした自分の生徒達に気づけば校長の所へ向かっていた。爆豪も一緒にいるべきだと。
爆豪は強い。己の力で突き進むタイプだ。1人で耐え忍び、弱音を吐かない。緑谷とまた違った厄介なタイプ。言葉を吐いたら汲み取れる。行動に移せば状況が分かる。けれどどれもしない。何もしない。気づかさせてくれない。時間が進むごとに自己完結して昇華するのが爆豪の厄介な性質。
「明日戻るのに?」
「あぁ」
「あんたが非合理に走るぐらい?」
「非合理じゃない。優先事項だ」
「俺はまだ、傷心中なんだが?」
「奇遇だな。俺もだ」
「あんたも冗談言えんだな」
本当のことなのに何故冗談だと捉えるのか。俺が超人だと思われてるのが侵害だ。超人なのはオールマイトさんだけだ。
「雄英あそこはまだ、息苦しい」
「お前の帰る場所だぞ」
「帰る場所、帰る場所か……実感ねぇな。此処の方がまだ帰る場所だって言える」
「何もないこの山をか?」
爆豪は悲しそうに目を伏せた。
他人からしたら確かに何もないただの山。けど爆豪にとっては思い入れのある大切な山だ。
「此処は俺の居場所だ。安息の地だ。此処にいれば息がしやすい。俺が俺でいられる。雄英が駄目なんかじゃない。ただ俺が欠けているだけ。補強する為に此処にいる」
「人間はどこか欠けている生き物だ。完璧な人間なんていない」
「完璧になろうとしてねぇ。理解しなくていい。今は俺を取り戻す最中なんだ。黙っていろ」
言葉にしたくなくなったのか、疲れたのか黙り込んだ爆豪にがじりと指を噛まれる。ゆっくり瞬いた。
「…言いすぎた」
「いや。俺じゃ力にならねぇか?」
「力にはなってる。けどこれは俺の問題だ。あんたは関係ねぇよ」
俺が弱いせいだ。弱々しく吐いた言葉に相澤は口を開こうとしたが遮るように続ける。
「緑谷も、俺も。自分で選んで進んだ道だ。誰になんと言われようが正しいと信じて進んでる。間違っていようが別にいいんだ。答えの先を知るのは自分だけ。間違っても、正しくても、初めて選んだものが今の自分を作ってる。誰もが初めてを選んで明日を迎えてんだ。あんたらが気にすることなんざ何もねぇよ。何もねぇんだ」
緑谷が雄英から出て行ったのは爆豪がまだ眠っていた時期。緑谷がどのようにして帰ってきたのか知らないはずなのに知ったように語る。大人のようだと思うのはきっと経験談に基づいて話すから。たった16。まだ16なのに。どうしてこうも俺を驚かす。
「それでも俺は、お前の担任だからな。どれだけ目をかけてやってもいい立場にいる」
「教師は平等にしねぇと文句言われるぞ」
「何を今更。教師なんか常に文句言われる立場だ。今更文句の一つや二つ増えた所で変わられねぇよ」
「そりゃそうか」
「お前を雄英に連れ戻したいのは俺の我儘。お前からしたら傍迷惑な偽善行為だろうが、1人にさせたくねぇんだよ。傷ついて、救けを呼べないガキを守りたいんだよ俺は」
お人好し。お節介。
どこぞのジーパン野郎の顔が目に浮かぶ。ヒーローってのはどうしてこうも傲慢なのか。
「それはあんたのエゴか」
「いいや?ただの欲張りだよ。それがヒーローってもんだろ」
パチリと瞬いてからハハ、と声を上げる。
「あぁ、そうだ。それがヒーローだった」
ヒーローは欲張りだと誰かが言った。
多くの人を救けたい。多くの敵を倒したい。平和のために、人のために、金のために。理由は様々だが確かに欲張りなのがヒーローの本質。合理的主義の先生でもヒーローなんだと今更ながら理解する。
「何て言われようと、抵抗されても問答無用で連行するからな」
「横暴だぞ。融通聞かせろよクソセンコー」
「門限までな」
「こっからどれぐらい距離あると思ってんだ。傷心中だって言ってんのに」
「回復に専念すればいい。俺は勝手に此処に居座るから気にすんな」
「気にするわ」
憑き物が落ちたような様子にひとまず安心だと肩を落とす。入り口の縁に肩を置いて、意志を曲げるつもりねぇと態度で示す相澤にため息吐いて好きにさせた。
「お前は欲がないのか?」
「何だ藪から棒に」
「いや、強さ以外に聞いたことないなと思っただけだ」
爆豪はクラスの中で飛び抜けた実力の持ち主。No. 1ヒーローになる夢を掲げ、誰よりも強さを求めている。強さ以外に望む言葉を発していないのが気にかかった。青春真っ只上なら欲張ってなんぼ。峰田はやり過ぎだが欲望に忠実だ。爆豪とつるむ上鳴達も喧しく騒いでる。なのに爆豪は静かだ。己の力で掴み取る。欲しいものは自分で何とかする。そういう奴だ。
「欲しいものは自分の手で掴むからいらん」
「だろうな。お前はそういう奴だ。俺としては欲張っていいと思うがな。ヒーロー欲がなさすぎる」
「欲張りをヒーロー欲って言うな。あんたにだけは言われたくねぇわ生活力皆無野郎」
そんなことないだろ。言い返したいが山田辺りから文句言われたことを思い出して黙る。
「俺は欲張ってるつもりだ。ただ簡単に言葉にすると中途半端でうっすい願いになる。そんな欲なんざ望み薄だろ。心から望んでることは言葉にしてんだよ俺は」
赤い瞳をまっすぐ相澤に向ける。
「俺を見てくれるんだろ?せんせ」
純粋に、幼く笑うその笑みに完敗だと心の中で両手を上げる。もう彼にこれ以上かける言葉は必要ない。
「見てるさ。お前がNo. 1ヒーローになるその日まで」
「ならよし」
強いな、お前は。眩しいぐらいに。
「欲がないってんなら俺の我儘、聞いてくれよ」
突然のことに一瞬理解できなかった。お前の口から我儘なんて似合わねぇなと失礼なことを考える。いいぞ、と言うと爆豪にこっち来いと手招きされる。線引きされた境界線を跨いで空洞の中へ入った。
「ここ、座ってくれ」
手で叩かれた場所に胡座をかいて座れば、ゴロンと爆豪が横になる。
「動くなよ」
ごそごそ調整していい位置見つけたのか動きが止まる。触れるようで触れられないギリギリの距離。爆豪のそばにいた不気味な生き物は爆豪の胸に収まっている。少しの沈黙。これが我儘?内心首を傾げてしまう。
「いいのかこれで」
「いいに決まってんだろ」
我儘というから無理難題なものかと思えば、案外拍子抜けで面食ってしまう。そんな相澤に爆豪はクツクツと笑った。
「あんたの時間をもらって、あんたを独り占めしてんだ。あいつらが慕う先生を、頼りにされてる引っ張りだこのヒーローを独占してる。これ以上の贅沢はねぇよ」
幸せそうに、満足げに笑う爆豪に眉を下げる。なんていじらしく、哀しい奴だろうか。こんなことに贅沢だと思ってほしくない。そんな哀しいこと言わないでほしい。普段は破天荒なくせに。いや、これが本来の姿。本性を見せず、傷ついた心を悟らせまいとした爆豪の弱い内側。
今の爆豪を例えるならば花。外見が美しく咲いて散ってもなおそれもまた芸術だと捉えるような。それと同時に花が散るのを儚げだと捉えるような。今の爆豪はまさに目を離した途端いつの間にか消えてしまいそうな印象を抱く。これでいいんだと、全てを悟って諦めてしまった大人に近すぎた子ども。
「爆豪」
だから、構いたくなる。優しくて哀しいこいつから目が離せない。
「お前はもっと欲張りになるべきだ。こんなちっぽけな贅沢で満足するな。今、この場にいるのはお前と俺だけ。迷惑と考えるな。お前がしてほしいこと、やってもらいたいことがあるならなんでも言え。俺が叶えてやる」
戸惑うように、困惑気味に見上げると相澤が壊理に向ける表情をしていた。見てはいけないものを見てしまった。慌てて視線を下に向ける。忙しない爆豪に相澤はその時を待った。このまま何もなければそれでよし。何かアクションがあればそれもよし。1人で解決してしまう自分の生徒に少しでも頼ってもらうために、人との温もりを知ってもらうために此処に来た。傷心中なら尚更知ってもらいたい。急かすことなどせず、その時を待った。
「………」
「………」
静寂が包み込む。せせらぎに癒され、壁に映る水面の光にしばらく魅入られていると、ふと自分の腕が持ち上げられたことによって現実に戻る。自分よりも幾分か小さな、それでも太く厚い努力した手が重なる。そのことに目が見開いた。人間不信で潔癖の気がある爆豪が直に触れた。服の袖を摘まれた時でさえ驚いたのに直に触れられたのは初めてだ。驚きに満ちた相澤を気にせず動いている手はぽすんと淡い薄黄色の髪に置かれた。重ねられた手が離れる。
「……言葉なんていらなかった。ただ、そばにいてくれるだけでよかったんだ…」
髪に隠れて表情は見れない。けれど相澤の目には泣いているように見えた。
「でも、欲を言えば……ずっと、ずっと前から…あの人に…」
ズボンの裾をきゅっと小さく摘まれる。
「こうしてもらいたかった」
爆豪のその声に、健気な欲に漏れそうになる声をグッと下唇を噛む。無意識にさらりと髪を優しく撫でた。
「あったかい」
ゆっくり動かす暖かな温度に、爆豪は満足げに瞼を閉じた。
「あったけぇなぁ」
29
【罪】とは、道徳・法律などの社会規範に反する行為。よくない結果に対する責任。宗教上の教義に背く行為。無慈悲なさま。残酷なさま。
哲学においての罪とは、人間が自己の存在の場の秩序やその緊張関係を破ること。 法や道徳に対する違反行為も罪と呼ばれるが本来的に宗教的観念であり、たとえば孔子やソクラテス、あるいはモーセの教えも単なる人間生存の規範ではなく常に天や神との緊張関係において成立している。罪の重さについては法律に定められており、分かりやすいのは日本の地獄において明記された罪だろう。殺生・窃盗・妄語・飲酒・邪淫・強姦・邪見。これが地獄によって分けられ、それぞれの罪にあった地獄に堕ちる。
洗礼潔白な完璧人間なんかこの世にいない。一度嘘をつけば罪になるもの。大小差はあれど人は誰しも罪を犯し、罪を抱えて生きている。その罪を快楽化してど変態になるか、反省して前を向くか、一生罪悪感を抱えるか、綺麗さっぱり忘れるかだ。
罪を抱えると酷く吐き気がする。吐き出せない蟠りが胸の奥でぐるぐると描き混ざる感覚。手足が冷えて空間が歪んでいく。どうしようもない現実に足元が崩れていく絶望感。どうすればいいのかと相談する相手はおらず、かといって相手がいたとして分かったような口ぶりで宥められると侮辱されたと錯覚し余計惨めな気持ちになる。そんな自分がめんどくさくて己を責め立てるんだ。言葉に出そうにも傷つく言葉しか出てこない。全てを飲み込んで何でもないと突き通し、これは自分の罪だと刻みつけて忘れるもんかと更に傷付ける。自分の気持ちに納得するにはとても長い時間が必要で、何でもない振りしてやり過ごす。燻って嘆いて、悔やんで憤った先。唐突にスコンと何かが落ちるんだ。区切りをつける音が。そしたらもう大丈夫だと何故か納得して罪を抱えながら前へ進む。
相手のせいにするのは至極簡単で、己の心を守る為に言い訳できる手段。それでもしないのは自分が弱いんだと、己のせいだと責める心当たりがあるから。
お前もそうなんだろ?なぁ、青山
何処で間違えたのか。答えるとしたら僕が無個性で生まれた時だろうとハッキリ言える。僕という異物のせいで優しいパパンとママンが狂い出した。皆と違う僕を気に病んで、色々大変な思いをして僕を普通にしてくれた。
幸せになるように。
皆と同じになれるように。
両親からの優しい願い。僕を想っての愛。僕はそんな優しいパパンとママンが好きだった。大好きだから、どんな悪意に晒されようと2人を守ると決意した。
同調圧力から始まったヒーローの夢は本当の夢になり、憧れの雄英へ入学した。内通者だってことを隠してヒーローを目指す。けど皆と接していくうちに徐々に呼吸が苦しくなっていった。A組の皆は優しい人達ばかり。仲間だと、友達だと言ってくれる。違う。違うんだよ。僕は皆が思うような人間じゃない。涙なんか流す権利がないのに泣きたくなるぐらい優しくて、眩しいクラスメイトに罪悪感を募らせる。偽りの笑顔の仮面を貼り付けて、踊り子のように演技しなきゃ皆とまともに向き合えない。演劇を繰り返す僕自身に絶望した。いつになったら偽りの世界が終わるのだろう。いつになれば解放されるのか。こんなふざけた演劇を早く終わらせたい。そんな望みを抱いても叶わないと知りながら、今日も演じて絶望する。
ずっと見て見ぬふりをして過ごしてた。嘘の世界でいつかくるであろうその日に怯えて、偽り続けた先で何が待ち受けるのか。分かりたくなかったのかもしれない。優しい皆に拒絶されるのが怖かったんだ。もし個性が最初から備わっていたなら。もし友達を助ける理由を作らなかったら。もし初めから助けを求めていたのなら。そんな淡い幻想に魅入っても現実と違うことに絶望して更に深く心が沈む。
私たちを助けて…!!優雅…!!」
いつからだろう。大好きなパパンとママンの優しさが苦しいと思い始めたのは。
「何考えて教室にいたの!!?寮で!!皆と暮らしていたの!?ねぇ青山くん!!!」
いつからだろう。皆と対等でいたいと思い始めたのは。
「もう…やめよう…!!こんなの…もう、やめよう…!!」
僕も、やめたいよ…緑谷くん
皆を危険に晒したどうしようもないクズは、とうとう内通者だってことを知られてしまった。皆の言葉が痛くてまともに顔を見合わせられない。許さなくていい。嫌われたって仕方ない。彼等から報復される覚悟はあったのに、皆はどこまでもヒーローだった。
「君はまだ、ヒーローになれるんだから!!」
緑谷くんはクズでどうしようもない僕をまだヒーローになれると言ってくれた。僕と同じ元無個性。対等でいたかった。本当の友達になりたかった。僕も君のような輝くヒーローに成りたかった。止まることを知らない涙が溢れ出す。変だな。僕ってこんな泣き虫じゃないはずなのに。雄英に来てから、A組にいてからずっと変だ。上手く取り繕えないや。
警察の人に口を塞ぐ拘束具をつけられる。これで最後かもしれないな、なんて歪む視界で爆豪くんが初めて僕の名を呼んだ。聞き間違いかもしれない。驚きのあまり固まってしまう。在学中に今まで僕と関わる気配がなかった彼が、接近して名を呼ぶのが今日で初めてのことだった。
「本当は知ってたんだ」
普段声を荒げる彼が静かに諭すように告げた。主語がない言葉に理解できなくて頭が真っ白になる。知っていた?何を、知って?混乱する僕を置いて爆豪くんは続ける。
「USJの襲撃で、雄英に内通者がいることは分かっていた。入学して間もない1年の時間割で、しかもオールマイト限定でだ。敵がペラペラ吐いてくれたから目的もいらん情報も喋ってくれたからな。あん時の位置どり、目撃情報、得られた情報でクロと判断したのはテメェと透明女だけが怪しかった。教師も警戒してたが合宿でほぼテメェがクロだって確信した」
A組の中でトップクラスの優秀で才に恵まれた彼が羨ましかった。AFOが爆豪くんは優秀だと、死柄木が仲間に欲してたことも知っていたつもりなのに。そんな序盤から僕を目につけていたなんて思いもしなかった。じゃあ初めっから、USJの時から既に疑いの目をかけられていた?ヒュッと息がか細くなる。
「今まで隠してたのは泳がす為と、処分決めんのは然るべき機関あるから何もしなかった。ある程度の情報集まったら、テメェが内通者だってことを仮免の時に校長に報告した。どうするかは任せてあった。あいつには借りがあるからな」
何も言えぬ口だから耳を傾けるしかない。一生分の涙を流して罪が大きくのしかかる。クラスメイト達が彼を非難する言葉が、両親のくぐもった声は羽音にしか聞こえない。彼には僕を責め立てる権利がある。彼がどんな思いでいたのか所詮赤の他人である僕には分からない。同一人物じゃないから心の痛みは知るよしもない。
ただ憎んでいることは客観的に見ても明らか。僕を恨んでいい。責め立ててもいい。殴ってくれても構わない。君にはその権利を持ち合わせているんだから。なのに彼は、僕に更に近づいて顎に手をかける。
「嘘の世界で生きんのは幸せだったか?なぁ、青山」
下向きにしていた顔を持ち上げられた。綺麗な赤い瞳が情けない僕を映す。紅蓮の赤、ルビーの輝き。意志の強い彼に合った瞳の色。
嘘、嘘の世界。与えられた個性で初めっから個性持ちのように振る舞うこと。辛そうな家族を平穏で幸せな家庭に。ヒーローになる夢を見て仲間達と切磋琢磨してヒーローを目指す。幸せだったさ。クズな敵僕を隠して、弱虫で臆病な過去僕を隠して。真綿の嘘優しさに浸る嘘の世界は幸せだったとも。
「苦しかったろ。押しつぶされる現実と夢の辛さに。目を逸らしたかっただろ。罪の大きさに気づきたくなくて。痛くても辛くても嘘の世界で生きる道しかなかったんだ」
両親の怯える姿が脳裏に浮かぶ。AFOの恐ろしい声が耳につく。皆と過ごした日々が色鮮やかで幸福であるほど心に亀裂が入った。苦しかった。目を逸らしたかったさ。皆といると痛くて叫びそうになる。でも僕には守るべき家族がいる。幸せを願ってくれた愛する家族の為に皆を生贄として差し出した。本当はそんなことしたくなかった。でも従わないとどうなるか分かっていたから内通者を続けた。嘘つきな僕は、最低な僕は嘘の世界でしか生きられない。
「望みを飲み込んで、些細な願いを大事にして。周りに馬鹿にされるようなちっぽけな幸せが生きる理由だったんだろ?大切だから、大事だから余計手放したくねぇよな」
そうだとも。僕はただ、パパンとママンが幸せに笑ってくれるだけでよかったんだ。2人が僕を愛するように僕も家族が大好きさ。だからね、多くの我儘は言わない。これ以上何もいらない。僕は家族にとって自慢になれるような存在になりたいと強く望んで、苦しくても生きてこられた。ここまで生きれたんだよ。
「否定しねぇし責めたてやしねぇよ。テメェが選んだ道だ。抱える罪も、痛みもテメェにしか分かんねぇ。俺もその世界で生きた人間だかんな」
そんなわけない。僕と君とじゃ全然違う。だって君は強く、才に愛された人間じゃないか。優秀で、個性に恵まれて、容姿も優れて実力も認められている。そんな君が僕と同じ嘘の世界に生きているなんて信じられない。優しさで作られた世界で同じように生きてきたなら、どうしてそんなに輝いていられるの。
「綺麗事は言わねぇ。御託並べられんのは大っ嫌いだ。お前はもう自分の罪を自覚してっから、俺から言えんのはたった一つだけ」
「夢を諦めんな。罪を背負って輝くヒーローになれ」
目元に添えられた指が乱雑に拭われる。背を向けて歩き出す彼に更に目頭が熱くなった。あまりにも眩しすぎて、焦がれそうになる光に目を閉じる。敵わない。君は嘘の世界でも強くあろうとしていたんだね。もっと早く君と出会えていたら、僕達は友達になれていたのかな。ありもしない淡い幻想を黒で塗りつぶし、ごめんねと内心で呟いた。
その世界は残酷なほど優しく、溺れるぐらいの愛で溢れていた。
『 』
いつもより掠れた声で。
いつもより感情が乗った声で。
『 』
どんなふうに呼ばれていたかもう思い出せそうにないけれど、俺の名を呼ぶあんたに神の啓示のように逆らわず頷いてしまう。
『何も聞かなくていい。何も知らなくていい。何も見なくていい。お前はただ、自分の夢に向かって進み続けろ』
憧れの人。尊敬する師匠。道標である先導者。命の恩人。あんたの言葉は絶対で、裏切りたくなくて守り続けてきた。あんたといる為の約束だったから。
『お前の罪は俺が背負う』
その優しさに、隠された嘘に溺れて真実を知ることなく去ってしまった残酷な優しい人。
『約束だ』
俺が俺でいる為の。あんたがいない悲しきこの世界で。あんたが吐いた優しい嘘に今日も生き続ける。
珍しくのどかな日に誰かが言った。
「爆豪の本気知りたい」
それを聞いたクラスの約9割が死ぬぞと内心で呟く。既に何人かが口に出して爆豪によって爆破された。最初の対人戦で敵らしい敵を演じきり、体育祭で骨を折ったり脅したりとエグいやり方を平気でする自他共に認める実力者。加えて高い戦闘能力とセンス。爆豪の相手していた者や近くで見てきた者達は骨身に染みている。だが爆豪の本気を見て見たいのも事実。実際爆豪が一生懸命にやりました!という場面を見たことがない。何故なら手先が器用でなんでもそつなくこなす才能マン。爆豪と戦いたい有志者を集って放課後グラウンド借りようぜと一部騒ぐ生徒に、せっかくならと相澤は授業に取り入れることにした。林間合宿で爆豪が師匠とやっていたという鈴取り演習。やり方も聞いていたため理にかなっていると判断し、翌日のヒーロー基礎学にて多対一の鈴取り演習が行われた。
「なんか別の意味でドキドキすんな」
「命日にならないことを祈るしかあるまい」
「アーメン」
「既に何人かお通やモードだね。気持ちは分かるけど」
「ヒーローたるもの。諦めたらいけませんわ!」
グラウンド・βにて戦闘服を身に付けているA組は少し緊張した面持ちで待ち構える。ソワソワする生徒らに相澤は演習の説明をする。
「今回のヒーロー基礎学は爆豪の実力が知りたいとのことで鈴取り演習だ」
「鈴取り演習?」
「制限時間30分以内にどんな手を使ってでも俺から鈴を奪えばいい。たったそれだけの簡単なゲームだわ」
相澤が説明しようとした内容を皆より遅くに到着した爆豪が遮る。遅刻だぞ!と飯田が指摘しようとした口を閉じた。何故なら爆豪の格好はいつもと違っていたからだ。
「何その格好!?」
「イメチェン!!?」
赤い雲をあしらった黒い外套。足の指だけが出てるブーツ。背中に鎖で繋いだ大きな団扇。マスクしていた顔は何も付けておらず素顔なまま。今までとは違う爆豪の姿に思わず騒いでしまう。そんなクラスメイトの声を無視して爆豪は相澤の隣に並ぶ。胸元に長い紐で通された1つの鈴が揺れる。
「鈴取るだけなら簡単じゃん」
「ただし鈴は1個だけ。俺から鈴を奪ったそいつだけ合格にする」
「はぁ!!?なんだソレ!!!」
「勝ち抜きかよ!?」
「それだけじゃねぇ。奪えたら豪華賞品付きだ」
「豪華賞品付き?」
「もしてめぇらの中で俺から鈴を奪えたら一ヶ月分の食券とランチラッシュにリクエストできる特典」
「「「おぉ!!!」」」
「だが残り18名または全員失格の場合、相澤先生よりありがたい宿題だ」
「「「お、oh……」」」
「1人しか合格できないの納得するラインナップ」
「ぜってぇ勝つ!!」
「負けてらんないね!」
「うん」
「それともう一つ」
首元にぶら下げる鈴を指で鳴らし、感情を削ぎ落とした光のない目が見下ろす。
「殺す気でかかってこないと死ぬのは貴様らの方だと忠告しといてやる」
ゾワ、と背筋が凍るような悪寒がA組全体に走る。今までいろんな敵と対峙してきたのに比にならないぐらい恐怖を襲う。本気で立ち向かわないと殺されるのは自分なんだと錯覚させられた。
「制限時間来たら放送頼む」
「分かった」
「俺を殺す気で来い。では……始め!」
合図と同時に各々行動に移した。
秘密基地で横になる。今日はトビとぐるぐるはいない。俺一人だけ。
ざぁぁぁぁ
カーテン並みに降る雨が身動きを封じられる。いたい、いたい。頭が割れるように痛い。雨は嫌いだ。何もできなくなる。冷えていく体を抱いて目を閉じる。やだ、やだ。はやく、かえらねぇと。
ぴちょん
水が跳ねる。湿った匂いに混じる潮の匂い。
「おやおや、こんな所にいては風邪を引きますよ」
潮の匂いに惹かれて瞼を開く。赤雲の黒い外套を着た鮫っぽい男が入り口のそばに立っていた。頭が痛くてぼーっと男を見る。
「寒そうですね。火が起こせるものをお持ちしましょうか?」
「うみ…」
「ん?」
「あんたから、うみのにおいがする」
「クク…あの人に言われなかったのですか?見知らぬものに声をかけてはならないと。そう言われたでしょうに」
うん、ぅん…?そう、そう言われた。
ないしょ。あの人には、ないしょ。
「えぇ、えぇ…内緒にしましょう。あの人が怒ると怖いですからねぇ」
そう。こわいからないしょ。
なぁ、おれはうみにきたんか?しおのにおいがする。
「いいえ?でも大丈夫ですよ。もう時期雨は止みます。それまでお眠りなさい」
そう、だな。あめのひはねなきゃ。
ねむるまえにあんたの名前、おしえてくれよ。
「名は一種の呪い。そうやすやす教えてはなりませんよ。そうですね…では私のことは曙とお呼びください」
あけぼの
ふしぎだ。あの人と同じ感覚。そばにいると息がしやすい。大丈夫だって思えてくる。
「ではお休みなさい。あの人の大事なお宝さん」
ぴちょん
水の跳ねる音に瞼を開く。秘密基地の木の匂いに混じる嫌いな湿った匂いと潮の匂い。
「おやおや、まだ起きるには早いですよ」
あけぼの?
あけぼのがいるってことは、いまはあめ?
「霧雨ですよ。一眠りすればそのうち止みますよ」
そっか
なら、いい……
「まったく、あの人に似てタチが悪い。まぁ、それも美しき師弟関係ってやつですかねぇ?」
霧雨に混じる紛い物。綺麗な器を求めてやって来る。
あの人に知られてはならない極秘任務。最後までお供にできなかった部下からの、せめてもの償い。貴方が仮初の名を付けなくたって私は貴方だから付き従ったのに。本当に馬鹿なお人だ。死してな忠誠心は消えていないと知らしめよう。貴方の守りたいものを、今度は私が陰ながらお供させて頂きます。いいでしょ?ねぇ、オビトさん。
「この子はあの人の大事な宝。指一本触れさせはしません」
さぁ、鮫肌。食事の時間ですよ