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トロ
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あんり
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午後のスタジオは、珍しく少しだけ外向きの空気だった。
いつものリハ用の音源じゃなく、今日は簡単なコメント撮りが入っている。
カノンの出演映画がいよいよ公開前に入り、映画側とSTARGLOW側の宣伝導線を繋ぐために、メンバーコメントと短い掛け合い動画をいくつか押さえることになったのだ。
雛子が朝からバタバタしている時点で、今日はそういう日だと全員わかっていた。
「はい、立ち位置そこ」
「タイキ、ちょっと左」
「ルイ、その顔は色気強すぎ。もうちょい普通」
「普通がそれなんだろうけど、今日はちょっと抑えて」
「何だよそれ」
ルイが小さく返す。
「褒めてんのよ」
雛子は即答した。
床に貼られた印の上で、カノンは笑いながら首を回していた。
宣伝用の撮影とはいえ、今日はメンバーだけじゃない。
映画の現場から、共演者のひとりも合流することになっている。
その名前を聞いた時から、タイキはちょっと楽しそうだった。
「八崎くん来るんだっけ?」
「例の、相棒役の人」
「そう」
雛子が資料を見ながら頷く。
「コメント一本と、軽い掛け合い一本」
「現場の空気が良かったって向こうも言ってるから、素で回した方がいいの出ると思う」
「へぇ」
ゴイチが短く返す。
アダムは少し離れたところでその会話を聞きながら、無言でペットボトルのキャップを閉めた。
カノンは何でもない顔をしている。
でも“八崎”って名前が出た時だけ、ほんの少しだけ表情の筋肉が動くのをアダムは見ていた。
別に変な意味じゃない。
信頼している相手の名前を聞いた時の、緩み方だ。
「ま、今日は変なこと言うなよ」
ルイがカノンを見る。
「何で俺だけなんだよ」
「お前が一番、素で喋ると話が広がるから」
アダムが静かに言う。
「広げて何が悪い」
「収拾がつかなくなる」
「ひど」
タイキが笑う。
その時、スタジオの扉が開いた。
「おつかれさまでーす」
明るい声が先に入る。
細身の長身。
ラフなのに絵になる立ち姿。
軽く手を上げながら入ってくる姿は、現場慣れしてる人間のそれだった。
八崎尚。
カノンより少し年上。
178センチという数字以上に、立った時のバランスが綺麗で、動きに無駄がない。
「尚くん、こっち!」
雛子が手を上げる。
「お世話になってまーす」
八崎はにこっと笑ってから、まず雛子に軽く頭を下げた。
「今日よろしくお願いします」
「こちらこそ」
雛子も機嫌がいい。
「来てくれて助かるわ」
カノンが少し前に出る。
「おつかれ」
「おつかれ、主演」
八崎が軽く笑う。
「今日もちゃんと顔いいな」
「その言い方やめろって」
ふたりの空気は、もうちゃんと出来上がっていた。
無理のないやり取り。
軽口が自然に返る距離。
タイキが小さく「ほんと仲良いな」と呟くと、ルイは「現場の相棒だろ」と短く返した。
その輪の少し外側で、アダムは静かに八崎を見ていた。
第一印象は、思っていた通り。
感じがいい。
人に好かれる笑い方を知ってる。
誰にどの温度で話せば場が回るか、無意識に選んでる人間。
でも、ただ器用なだけじゃない。
そういう人間特有の“選んでる顔”があった。
雛子が次々紹介していく。
「タイキ、ルイ、ゴイチ、それから――」
最後に、アダムへ視線が向く。
「アダム」
アダムは一歩だけ前に出た。
「はじめまして」
短く、でもちゃんと相手を見る。
「アダムです」
八崎が目を向ける。
初対面の相手に向ける笑顔――のはずだったのに、その一瞬だけ、ほんの少し表情が止まった。
たぶん、目線の高さだ。
八崎が178。
アダムが180。
大きく差はない。
でも、近くで向き合うと“思ってたより近い”と感じる距離。
「八崎尚です」
八崎が手を差し出す。
「どうも」
アダムがそれを握る。
手のひらが触れる。
短い握手。
でも、その短い接触の間だけ、八崎はアダムの目を少し長く見た。
アダムは目を逸らさない。
柔らかいわけじゃない。
でも圧でもない。
ただ、静かに見てくる目。
「……よろしく」
八崎が少しだけ笑って、手を離した。
それだけだった。
でも、なぜかその場の何人かは無意識に“今、ちょっと空気変わった?”と思った。
うまく言葉にはできない程度の、ごく小さな揺れ。
⸻
コメント撮りは順調に進んだ。
カノンと八崎の掛け合いは、やっぱり自然だった。
現場で積み上げた空気がそのまま画面に出る。
「映画の現場でのカノンはどうでしたか?」
というスタッフの質問に、八崎はすぐ答える。
「いや、真面目」
「でも、真面目ってだけじゃなくて、ちゃんと悩む人だった」
「だから、現場で一個何か掴むと一気に変わるんですよ」
「それ見るの、結構面白かったです」
「なんだそれ」
カノンが笑う。
「褒めてんの」
八崎も笑う。
「主演として頼もしかったって話」
カノンの表情が少しだけ照れる。
その流れを拾って、周りも軽く笑う。
その空気を、アダムは端から見ていた。
八崎はやっぱり上手い。
話す順番。
相手の立て方。
褒める時の温度。
全部がちゃんと整っている。
でも、整っているからこそ、時々ほんの少しだけ“素の方”が見える瞬間もある。
カノンが噛みそうになった時に、さりげなく一言足して流れを戻す時。
スタッフが微妙に迷った時に、重くしないように笑いを入れる時。
そういう気遣いの密度が高い。
撮影が一区切りして、休憩が入る。
八崎はスタッフに軽く会釈しながら水を受け取り、少し離れた自販機の方へ歩いた。
冷たいペットボトルを首に当てて、「生き返る〜」なんて小さく呟く。
その横へ、足音もなくアダムが来た。
「冷えてます?」
八崎が振り向く。
「ん?」
一拍。
「あぁ、これ?」
ペットボトルを軽く持ち上げる。
「いい感じ」
アダムは頷くだけ。
沈黙。
普通ならここで終わるはずの距離だった。
でも八崎の方が、先に少し笑った。
「何」
「俺になんか用?」
「別に」
アダムは静かだ。
「ただ、現場でカノンが助かってた理由、わかった気がしたんで」
八崎の眉が少し上がる。
「へぇ」
「どのへんで?」
「笑う位置、ちゃんと選んでる」
その言葉に、八崎の表情が一瞬だけ止まった。
「初対面でそれ言う?」
「言いました」
あまりに真顔で返されて、八崎は思わず声を出して笑う。
「すごいな、お前」
「そこ見るんだ」
アダムはペットボトルのラベルを指でなぞりながら、淡々と続ける。
「人に好かれるの、慣れてる人の顔してました」
「……それ、褒めてる?」
「半分」
「半分かぁ」
八崎は笑ってる。
でも、その笑い方はさっきまでの誰にでも向けるやつと少し違った。
面白がっている。
それと同時に、ちゃんと興味を持った顔。
「じゃあ残り半分は?」
アダムは少しだけ考えるように目を伏せた。
「疲れそうだなって」
また、空気が少しだけ変わる。
八崎は今度こそ完全に黙った。
その沈黙は長くない。
でも、短すぎもしない。
風みたいに、軽くやり過ごすこともできたはずなのに、八崎はしなかった。
代わりに、口元だけで笑う。
「……お前、静かなのに結構刺すね」
「よく言われます」
「納得」
八崎はそこで、ペットボトルを持ち替える。
それから、少しだけアダムに身体を向けた。
「カノン、どう?」
「グループだと」
アダムは一瞬だけ目を細めた。
質問の角度を測るように。
「うるさいです」
八崎が笑う。
「それはわかる」
「でも」
アダムは少しだけ間を置く。
「ちゃんと空気見てます」
「無理してる時ほど、逆に喋るけど」
「……あー」
八崎が小さく頷く。
「わかるわ、それ」
その“わかる”が、今度は本当に素だった。
仕事用の相槌じゃない。
ちゃんと自分の中に一致する感覚を見つけた時の顔。
アダムはその一瞬を見て、少しだけ思う。
この人は、軽いんじゃない。
軽く見せるのがうまいだけだ。
そして八崎の方も、たぶん同じことを考えていた。
アダムは無口な人じゃない。
必要なことだけ言う人だ。
しかも、見えてるものをそのまま口にする。
それが嫌な感じじゃないのは、変に踏み込みすぎないからだろう。
でも、今の二言三言で、自分が思っていたよりずっと見られてることがわかった。
「アダム」
八崎が名前を呼ぶ。
「はい」
「お前、面白いな」
アダムは少しだけ首を傾げる。
「そうですか」
「そう」
八崎は笑う。
「静かなのに、人の心の中に普通に入ってくる感じ」
「入ってないです」
「いや、入ってる」
そのやり取りの空気だけが、少しだけ他と違っていた。
離れて見れば、ただ話してるだけ。
でも近くにいると、妙に目が逸らせない。
その頃、スタジオの反対側ではタイキが小声でカノンに言っていた。
「なんか、アダムと八崎くんの組み合わせ面白いね」
カノンがそっちを見る。
「ほんとだ」
ルイも少しだけ視線を向ける。
「アダムが自分から話しかけてる時点で珍しいな」
ゴイチは何も言わない。
ただ、静かにその二人を見ていた。
無理に盛り上げてる感じもない。
でも、変な空気でもない。
むしろ、お互いに相手の“ちゃんと見てる方”が出ている空気だった。
「アダムってさ」
タイキが小さく言う。
「たまに、急に距離縮めるよね」
「相手がちゃんと受け止めるってわかってる時だけな」
ルイが返す。
その評は、だいぶ当たっていた。
⸻
休憩が終わる頃、八崎はスタジオを出る準備をしていた。
「じゃ、俺そろそろ戻るわ」
「今日はありがと」
雛子とスタッフに挨拶し、カノンに軽く手を上げる。
「また番宣被ったらよろしく、主演」
「その呼び方やめろって」
笑いながら返すカノン。
最後に、八崎の目がアダムを探した。
少し離れた壁際。
アダムはいつもの静かな顔で、でもちゃんとこっちを見ている。
八崎が一歩だけそっちへ寄る。
「アダム」
「はい」
「今度、もうちょい喋ろうよ」
その誘い方は軽かった。
でも、軽いだけじゃない。
アダムは一瞬だけ目を細める。
「必要なら」
八崎が笑った。
「それ、遠回しにOK?」
「半分」
「また半分か」
「残り半分は、”尚さん”次第です」
八崎の目が少しだけ開く。
初めて、名前で呼ばれた。
しかも、そんなふうに返されると思っていなかった。
「……へぇ」
小さく漏れる。
それから、ほんの少しだけ口元を上げた。
「じゃあ、次はもうちょい頑張るわ」
「どうぞ」
短いやり取り。
でも、そこにだけちゃんと続きを感じる温度があった。
八崎は最後に一度だけ手を上げて、スタジオを出ていく。
扉が閉まる。
少し遅れて、タイキがぼそっと言った。
「……なんかあった?」
アダムはペットボトルのキャップを閉める。
「別に」
「別にじゃない顔してるけど」
アダムはそれには答えず、静かに視線を扉の方へ戻した。
向こう側にはもういない。
でも、さっき交わした数分の会話だけが妙に残っている。
一方、スタジオを出た八崎も、廊下を歩きながら少しだけ笑っていた。
「静かなのに、ああいうタイプか」
誰に言うでもなく呟く。
軽い会話だったはずなのに、
思っていたよりずっと、印象に残った。
この時はまだ、どちらもそれを“何かの始まり”なんて呼ばない。
でも、初対面のあとに残る違和感としては、十分すぎた。
後になって思い返せば、たぶんこの日だった。
八崎尚が、アダムという静かな男を、少しだけ気にし始めたのは。
ある日の午後。
スタジオの廊下。
カノンは雛子に捕まって、少し離れたミーティングルームへ連れて行かれていた。
映画関連の追加コメントだの、雑誌掲載だの、また何か仕事の話らしい。
その間、ゴイチはカノンの飲みかけのペットボトルを何となく手に取って、邪魔にならない場所へどかしていた。
その様子を、たまたま通りがかった八崎が見つける。
「うわ」
軽い声が落ちる。
ゴイチが顔を上げると、壁に肩を預けた八崎が、妙に楽しそうな顔でこちらを見ていた。
「何」
ゴイチが短く返す。
八崎は顎を少し上げて、ゴイチの手元を指す。
「いや、自然すぎてびっくりした」
「今の、完全にカノンの世話焼く人の動きだったけど」
ゴイチはペットボトルを置く。
「邪魔だっただけ」
「へぇ」
八崎はにやっとする。
「じゃあ、あいつの上着を無意識に畳んでたのも?」
「この前、床に置いてた台本拾って“折れたら面倒だろ”ってファイルに入れてたのも?」
ゴイチの眉がわずかに寄る。
「……見てたのかよ…」
「見えるんだよ」
八崎は肩をすくめる。
「俺、役者だから」
その言い方がちょっと腹立つ。
ゴイチは何でもない顔のまま、壁にもたれた。
「で」
「それ言いに来たのか」
「半分」
八崎は笑う。
「もう半分は、確認」
「何の」
八崎は少しだけ身を乗り出す。
「相棒さん」
「今、どの立場?」
ゴイチが黙る。
八崎は面白そうに続ける。
「相棒?」
「保護者?」
「彼氏?」
「それとも全部?」
「うるせぇな」
即答だった。
でも否定が雑すぎる。
八崎はそこで、声を立てずに笑った。
「いいねぇ」
「その“うるせぇ”の時点でだいぶ答え出てる」
ゴイチは視線を逸らさないまま言う。
「お前、ほんと余計なこと言うな」
「余計じゃないって」
八崎はけろっとしている。
「むしろ感謝してほしいくらいだよ」
「俺、あいつの恋愛相談、ちゃんと聞いてやったし」
その一言に、ゴイチの目が少しだけ細くなる。
八崎はそれを見逃さない。
「お」
「今の顔、いいね」
「ちょっと嫉妬した?」
「してねぇよ」
「へぇ」
八崎はあっさり返す。
「じゃあ、“相談”って言った瞬間に空気変わったのは気のせいか」
ゴイチは小さく息を吐く。
「……お前さ」
「ん?」
「カノンに変なこと吹き込むなよ」
八崎が目を丸くする。
「変なことって何」
「俺、割とまっとうなことしか言ってないけど」
「それが一番面倒なんだよ」
「褒め言葉?」
「違う」
八崎は少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ」
「安心していいよ」
ゴイチの眉が動く。
「何を」
八崎はふっと笑った。
「カノン、お前のことになるとだいぶわかりやすいから」
「見てて飽きない」
ゴイチが無言になる。
その沈黙に、八崎はだいぶ満足した顔で頷く。
「うん」
「やっぱ面白いな、あんた」
「何が」
「カノン絡むと、急に言葉少なくなるとこ」
ゴイチは壁から背を離す。
「帰れよ」
「まだ仕事」
「じゃあ戻れ」
「はいはい」
八崎は軽く手を上げて、そのまま通り過ぎかける。
でも、二歩進んだところでふと止まり、振り返った。
「ゴイチ」
「何だよ」
八崎は少しだけ笑って、でも目はちゃんと見て言った。
「大事にしてるの、ちゃんと見えるよ」
その一言だけ落として、今度こそ歩いていく。
ゴイチはすぐには動かなかった。
廊下の先で、ちょうどミーティングルームのドアが開いて、カノンが雛子に何か言われながら出てくるのが見える。
「あーもう、だからそれは別に……」
とかなんとか言いながら、ちょっと困った顔。
その顔を見た瞬間、ゴイチは小さく息を吐いた。
「……見えるようにしてるつもり、ねぇんだけどな」
誰にも聞こえない声でそう落としてから、何でもない顔でカノンの方へ歩いていった。
午後のスタジオ。
雛子との打ち合わせを終えたカノンは、資料を片手に少しだけ疲れた顔でミーティングルームから出てきた。
「だから、それは別に煽らなくてよくない?」
「事実を並べてるだけよ」
「その並べ方が煽りなんだって……」
ぶつぶつ言いながら廊下に出たところで、ちょうど向こうから八崎が戻ってくる。
「あ、おつかれ」
「おつかれ」
カノンは軽く手を上げた。
「まだいたんだ」
「これから別件」
八崎は笑う。
「尚くん、売れっ子なんで」
「自分で言うなよ」
そんな軽口を交わしていると、廊下の奥から足音が近づいてくる。
カノンが何気なくそちらを見るより早く、八崎の目が楽しそうに細まった。
「あ」
その顔に、カノンは一瞬だけ嫌な予感がした。
「なに」
「いや」
八崎は口元を押さえるでもなく、そのままにやっとする。
「来た」
「は?」
次の瞬間、八崎がカノンの肩を軽く叩きながら、わざとらしく少し大きめの声を出した。
「カノン〜」
「相棒さん来たよ」
「っは!?」
カノンの身体がびくっと跳ねる。
廊下の向こうから歩いてきていたゴイチが、その一言でぴたりと視線を上げた。
数歩先で止まる。
「……誰が」
低い声。
八崎はまったく悪びれず、にこっと笑う。
「え、相棒さん」
「やめろ」
カノンが即座に小声で刺す。
「お前、今それはやめろ」
「なんで?」
八崎は本気で不思議そうな顔をする。
「だって相棒じゃん」
「そういう問題じゃねぇんだって!」
ゴイチはそんなカノンを一瞥してから、八崎へ視線を戻した。
「お前、わざとだろ」
「もちろん」
八崎は即答する。
「面白そうだったから」
「最悪だな」
「褒め言葉?」
「違う」
カノンはもう耳まで赤い。
資料を持ったまま、どう立てばいいかわからなくなっている。
八崎はその様子を見て、さらに楽しそうに続けた。
「いやでもさ、いいよね」
「相棒さんって呼ばれて、ちゃんと反応するの」
「反応してねぇよ」
「してたしてた」
八崎は軽く頷く。
「今、“誰が”って返した時点でだいぶしてる」
ゴイチが小さく息を吐く。
「カノン」
「……な、なに」
「お前の交友関係、ちょっと考えろ」
「俺のせいじゃねぇだろ!」
「いや、半分はお前のせい」
八崎が横から口を挟む。
「俺にこんなに遊ばれるの、たぶんカノンの反応がいいからだし」
「うるさい!」
その返しに、八崎は声を出して笑った。
ちょうどその時、廊下の角からタイキが顔を出す。
「あれ、なにしてんの?」
少し遅れてルイとアダムも来る。
状況を見たタイキが、すぐに空気を察したみたいに笑う。
「うわ、またなんかやってる」
ルイは八崎とゴイチを見比べて、口元だけで笑った。
「廊下で遊ぶなよ」
アダムは静かにひとこと。
「カノンの顔がもう答え」
「アダムまで言うな!」
カノンが本気で抗議する。
八崎はそこで、まるでトドメみたいにカノンの肩へ軽く手を置いた。
「大丈夫だって」
「相棒さん、ちゃんと迎えに来るタイプだから」
「迎えに来てねぇよ」
ゴイチが低く返す。
でも、その声が妙に落ち着いていて、余計にたちが悪い。
タイキがその一言に目を丸くする。
「え、今の否定、なんか逆にそれっぽくない?」
「わかる」
ルイが即座に乗る。
「否定の仕方がもう身内なんだよ」
カノンはもう顔を覆いたくなっていた。
「……もうやだ……」
八崎はそんなカノンを見て満足そうに頷くと、ゴイチへ視線を向けた。
「相棒さん」
「その呼び方やめろ」
「じゃあ何」
「彼氏さん?」
「やめろ!!」
今度はカノンが本気で止めに入った。
ゴイチは一瞬だけ黙ってから、八崎を見て言う。
「お前、ほんと余計なことしか言わねぇな」
八崎は肩をすくめる。
「いやいや」
「ちゃんと場を和ませてる」
「荒らしてるの間違いだろ」
アダムが静かに言う。
「ほら」
タイキが笑う。
「アダムにも言われてる」
八崎はちっとも気にした様子がない。
そのまま、にやっとしながらカノンに顔を寄せる。
「よかったな」
小声。
「相棒さん、今日もちゃんと来たじゃん」
「うるっせぇ……!」
小声で返すカノンの耳は、まだ真っ赤だ。
そのやり取りを見ていたゴイチが、ふっと小さく息を吐く。
それから、カノンの持っていた資料の束をひょいと片手で取った。
「行くぞ」
「……は?」
「雛子に呼ばれてたんだろ」
「ついでに持つ」
「いや、それ俺の――」
「相棒さん、優し〜」
八崎がすかさず言う。
カノンが「だからその呼び方!」と振り返る間に、ゴイチは何でもない顔で先に歩き始めていた。
数歩進んだところで、振り返りもせずに言う。
「カノン」
「……っ」
その一言だけで、カノンは反射的に足が動く。
「ほら」
タイキが小声で笑う。
「完全に来たよ、相棒さん」
ルイも肩を揺らす。
「いや、あれはもうだいぶ先だろ」
アダムだけが、少し静かに八崎へ言った。
「遊びすぎ」
八崎は楽しそうにゴイチとカノンの背中を見送る。
「でも、いいもん見れたじゃん」
その背中の先で、カノンはゴイチに小声で何か文句を言いながら、それでもちゃんと隣に並んで歩いていた。
ゴイチは資料を持ったまま、何でもない顔。
でもその歩幅だけが、最初からカノンに合わせて少しゆっくりだった。
八崎はその様子に、満足そうに目を細める。
「やっぱいいなぁ」
「相棒さん」
「まだ言うんだ」
タイキが笑う。
「言うよ」
八崎はにこっとした。
「だって、あの反応込みで完成してるし」
廊下には、しばらく笑いが残っていた。
ゴイチの後ろを追いかけるみたいに、カノンは早足で並んだ。
手には何もない。
資料はもう全部、ゴイチが持っている。
その横顔は相変わらず何でもない顔で、歩幅だけがちゃんとカノンに合っていた。
数歩、無言。
それからカノンが小さく唸る。
「……お前」
「ん?」
「否定しろよ……」
ゴイチが前を見たまま返す。
「何を」
「何をじゃねぇだろ」
カノンは顔を赤くしたまま小声で言う。
「相棒さんとか、彼氏とか、ああいうの!」
「せめて一回くらい、違うって言えよ!」
ゴイチはそこでようやく横目でカノンを見た。
「言ったらお前、安心すんのか」
「そりゃ……」
カノンは一瞬詰まる。
「いや、安心っていうか……」
「その……恥ずいだろ、普通に」
「ふーん」
「ふーんじゃねぇよ!」
ゴイチの口元が少しだけ緩む。
「別に、間違ってねぇしな」
カノンの足が止まりかける。
「……は?」
ゴイチは歩きながら、ほんとに何でもない声で続けた。
「相棒だろ」
一拍。
「今はそれ以上でもあるけど」
「っ……!」
カノンの耳が一気に熱を持つ。
「お、お前なぁ……!」
「そういうの、廊下で言うな!」
「誰も聞いてねぇよ」
「聞こえたら終わるんだよ、こっちは!」
ゴイチが肩を揺らす。
「終わんねぇだろ」
「お前が騒がなきゃ」
「騒ぐだろ!」
カノンは半歩近づいて、声を潜めたまま噛みつく。
「毎回毎回、平然と爆弾落としやがって……」
ゴイチがそこでふっと息を吐く。
「カノン」
「何だよ」
「顔」
一拍。
「まだ真っ赤」
カノンは反射的に自分の頬を押さえた。
「うるさい!」
「ほんとのことだろ」
「だからそういうのが!」
言い終わる前に、ゴイチの手が伸びる。
カノンの前髪に軽く触れて、額のあたりを整えるみたいにひと撫で。
それだけなのに、カノンの身体がぴくっと揺れた。
「なっ……」
「乱れてた」
「絶対いまの必要なかっただろ!」
「必要だった」
ゴイチは即答する。
「見てらんなかったから」
「何が!?」
「顔」
「最悪!」
カノンが思わず顔を覆う。
ゴイチはその横で、まだ資料を抱えたまま落ち着いている。
でも、よく見ると耳だけ少し赤い。
それを見つけた瞬間、カノンの目が細くなる。
「……お前もじゃん」
「何が」
「耳」
カノンは小さく指を向ける。
「赤い」
ゴイチが一瞬だけ黙る。
その沈黙に、カノンの口元が少しだけ上がる。
「へぇ」
今度はカノンの番だった。
「余裕ある顔して、ちゃんと効いてんじゃん」
ゴイチは数秒そのまま歩いて、それから低く返した。
「お前がいちいちかわいい反応するからだろ」
カノンがぴたりと止まる。
「……今、何て?」
ゴイチも足を止めて振り返る。
「聞こえたろ」
「聞こえたけど、聞き間違いかと思った!」
「聞き間違いじゃねぇよ」
「お前、今日ほんとどうした!?」
ゴイチは少しだけ笑って、持っていた資料を片手にまとめ直した。
「昨日からずっとこんなんだろ」
「知ってるけど!」
カノンは頭を抱えそうになる。
「わかってるけど、逐一強ぇんだよ!」
ゴイチはそのまま一歩近づいた。
廊下の端。
人が来たらすぐ離れられる距離。
でも、今は誰もいない。
「じゃあ、慣れろ」
低い声。
カノンの喉が上下する。
「……無理」
「早いな」
「無理なもんは無理」
「じゃあ、ゆっくり慣れろ」
その言い方が妙にやさしくて、カノンは何も言い返せなくなる。
数秒の沈黙。
そのあと、カノンが小さくぼやいた。
「……お前、ほんとずるい」
「またそれか」
「だってそうだろ」
カノンは視線を逸らしたまま言う。
「俺ばっかり毎回、慌ててる感じになるじゃん」
ゴイチは少しだけ目を細める。
「そう見えてんなら」
一拍。
「俺の勝ちだな」
カノンが勢いよく顔を上げる。
「お前ぇ……!」
その瞬間、ゴイチが少しだけ身を屈めて、カノンの耳元近くに顔を寄せた。
「でも」
低く、静かに。
「昨日の夜から、俺もだいぶ余裕ねぇよ」
カノンの呼吸が止まる。
耳に残る声が近すぎて、もう何も返せない。
ゴイチはすぐ離れた。
何でもなかったみたいに。
「ほら、着いたぞ」
目の前にはミーティングルームの扉。
カノンはその場に数秒立ち尽くす。
「……今の反則」
「今日はそれ何回目だよ」
「全部お前のせいだって!」
ゴイチが小さく笑う。
それから、資料をカノンの胸元へ返すみたいに差し出した。
でもカノンが受け取る前に、ぽん、とまた頭を一回だけ撫でる。
「終わったら帰るぞ」
「……っ」
「今度は誰にも見られねぇようにしてやる」
カノンの顔が一気に熱を持つ。
「お前、ほんと……!」
その続きは、ゴイチがもう扉を開けていたせいで言えなかった。
部屋の中から雛子の声が飛ぶ。
「遅い!なに廊下でいちゃついてんの!」
「してねぇよ!!」
カノンが即座に返すと、後ろでゴイチが小さく笑った。
その笑い声がまた腹立つのに、嬉しいのも悔しくて、カノンは資料で顔を半分隠したまま部屋へ入っていった。
打ち上げでもスタジオでもない、ひとりの帰り道だった。
夜の街はもう落ち着いていて、通り沿いの店もいくつか灯りを落としている。
八崎は片手をポケットに突っ込んだまま、ゆっくり歩いていた。
さっきまでの現場の空気が、まだ少し身体に残っている。
「……っふ」
思い出した瞬間、肩が揺れた。
ゴイチとカノン。
あの二人の顔を思い出すだけで、じわじわくる。
「相棒さん来たよ」
あれは、だいぶ良かった。
言った瞬間のカノンの顔。
耳まで真っ赤になって、でも否定しきれない感じ。
それに対してゴイチが、ちゃんと低い声で「誰が」って返すくせに、全然引いてない感じ。
「いやぁ……」
八崎は小さく笑う。
「いいもん見たな」
信号待ちで立ち止まりながら、ふっと空を見上げる。
ああいうのは、この業界にいると逆に珍しい。
距離感の詰め方とか、空気の隠し方とか、みんなそれなりに上手くなる。
でも、あの二人はまだちょっと不器用で、そのくせちゃんと深い。
だから見てて飽きない。
「カノン、わかりやすすぎ」
「ゴイチ、無自覚っぽいくせに一番タチ悪いし」
声に出して言うと、また笑えてくる。
カノンがあんなに顔に出るタイプなのも面白いし、
ゴイチが平然とした顔で全部持っていくのも面白い。
でも、それ以上に好きなのは、あの二人の間にある“長さ”だった。
急に燃えた恋じゃない。
ずっと隣にいたからこそ変わってしまった距離。
あれは、見てる側からするとかなり美味しい。
「相棒って、一番危ないやつ」
自分がカノンに言った言葉を思い出して、八崎は小さく口元を上げた。
ほんと、その通りだった。
長く一緒にいて、気心知れてて、支え方も喧嘩の仕方も知ってる。
そういう相手が恋に変わると、いちばん深い。
信号が青になる。
八崎はまた歩き出した。
夜風が少し気持ちいい。
酔いは完全には抜けていないけど、頭は妙に冴えていた。
「……にしても」
ぽつりと声が落ちる。
今夜、ひとつだけ。
ゴイチとカノンとは別に、やけに印象に残っている顔がある。
アダム。
八崎は歩きながら、少しだけ眉を寄せた。
最初は本当に、カノンのグループの静かなメンバーって認識だった。
無口で、俯瞰で、ちょっと距離のある人。
でも実際に喋ってみると、全然違った。
静かなのに、ちゃんと見てる。
しかも見てるだけじゃなくて、見えたものをそのまま置いてくる。
「笑う位置、ちゃんと選んでる」
「人に好かれるの、慣れてる人の顔してました」
「疲れそうだなって」
あれを初対面で言うか、普通。
「……刺すなぁ」
八崎は思わず小さく笑った。
でも、不快じゃなかった。
むしろその逆で、妙に残った。
人のことを見抜いてくるやつは、今までだっていた。
でも、大体はそれを武器みたいに使うか、わざと悟らせるかのどっちかだった。
アダムは違う。
ただ見えてるから言った、みたいな顔で言う。
そのくせ、必要以上に踏み込まない。
「必要なら」
「半分」
「残り半分は、尚さん次第です」
そこまで思い出して、八崎の足が少しだけゆるむ。
“尚さん”。
あの呼び方も、なんかずるかった。
距離を縮めるような甘さはない。
でも他人行儀すぎもしない。
ちゃんと線を引いたまま、こっちにボールを投げてくる感じ。
「尚さん次第、ねぇ……」
口の中で転がしてみる。
あれはたぶん、ただの社交辞令でもない。
でも、わかりやすい誘いでもない。
八崎はそういう曖昧さに慣れているはずだった。
なのに、アダムのそれだけは妙に引っかかった。
なぜだろう、と考える。
顔が好みとか、そういう単純な話でもなくはない。
背が高くて、静かな目をしてて、言葉が少ないくせに一個一個の解像度が高い。
そういう見た目と空気は、普通に印象には残る。
でも、たぶんそれだけじゃない。
アダムは、八崎の“人に見せてる顔”じゃなくて、
その奥の“ちょっと疲れてる方”を最初から見てきた。
それが、少し効いている。
「……やだな」
八崎はひとりで呟く。
やだな、と思う。
こういうのは、ちょっと危ない。
ゴイチとカノンを見て笑ってたくせに、
自分の方にもそういう気配が来るのは、なんか話が違う。
でも、笑いながら思う。
「いや、でも」
「面白いかもな」
足元に落ちる街灯の光を見ながら、八崎は小さく息を吐いた。
アダムは多分、簡単には来ない。
軽口ひとつで転がる相手じゃない。
こっちが距離を詰めても、ちゃんと半歩残す。
でも、その半歩の奥で、見てる。
そういう相手は、久しぶりだった。
八崎は横断歩道を渡りながら、ふっと口元を上げる。
「静かなのに、ああいうタイプか」
誰に言うでもない独り言。
帰り道はもう半分以上過ぎている。
でも、今夜の印象は全然薄れなかった。
ゴイチとカノンの顔を思い出すと笑える。
そのあと、アダムの目を思い出すと少しだけ黙る。
その順番が、妙にしっくりきてしまうのが困る。
家の近くまで来たところで、八崎は最後に一度だけ空を見上げた。
“……次、もうちょい喋ろうよ”
自分で言った言葉を思い出す。
そして、あの静かな返事も。
“必要なら”
八崎は小さく笑った。
「必要にしてやろうかな」
夜風の中へそう落として、また歩き出す。
まだ名前のつかない引っかかり。
でも、初対面の余韻としては十分すぎるくらいだった。
コメント
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心待ちにしてました✨2話分も更新して下さって嬉しいです🥰 ここからアダムの物語も始まっていくのですね…!楽しみにしています🎶