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第二章 放課後の放送室
チャイムの音が、夕暮れの校舎にゆっくりと溶けていった。
窓の外では、西日が傾き始めている。
オレンジ色の光が廊下の床に長く伸び、静かな影をつくっていた。
一日の終わりの空気には、独特の匂いがあった。
黒板の粉、体育館から流れてくる汗の匂い、廊下に漂うワックスの香り。
そのどれもが「学校」という場所の記憶の断片だった。
彩音は教室の隅でカバンを閉じながら、ふと耳をすませた。
どこか遠くの教室から、吹奏楽部のトランペットの音が聞こえる。
少し音が外れているのに、不思議と胸が締めつけられた。
初めての高校生活の一週間は、目まぐるしく過ぎていった。
新しい教室、新しい顔、新しい空気。
自分の居場所を探すように、毎日が少しだけ緊張の連続だった。
友達は、まだ“クラスメイト”という距離のまま。
話しかけられれば笑うけれど、何を話せばいいのかはわからない。
それでも誰もが明るく見えて、彩音だけが立ち止まっている気がした。
「……放送部、か」
掲示板に貼られた部活動一覧の中で、目が止まったのはその文字だった。
放送部。
思っていたより、ささやかな存在感。
他の部活のような派手さはない。
でも、どうしてか心が少しざわめいた。
声。
風。
あの日のバスの中で浮かんだ言葉が、胸の奥で再び揺れた。
「田嶋さん、帰らないの?」
ふいに声をかけられた。
顔を上げると、クラスメイトの夏希が立っていた。
明るい茶色の髪をひとつにまとめていて、制服のリボンが少し曲がっている。
笑うと、頬にえくぼができるタイプだ。
「あ、うん……ちょっと掲示見てた」
「部活? 決めた?」
「まだ……」
夏希は少し考えてから、ふっと笑った。
「放送部、見に行ってみる?」
「え?」
「私、見学行こうと思ってたんだ。中学の時、放送委員やってたから、なんとなく気になって」
その言葉に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
放送部――。
偶然なのか、運命なのか。
彩音は小さくうなずいた。
「……行ってみる」
夏希の顔がぱっと明るくなる。
「よし、じゃあ行こっ」
二人は並んで廊下を歩き出した。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。
教室を抜けると、外の空気が少しひんやりしていた。
放送室は、校舎の三階、音楽室の隣にある。
廊下の突き当たりに、小さなプレートがかかっていた。
【放送室】――その文字の黒が、少しだけ色褪せている。
ドアの向こうからは、微かな音が漏れていた。
カセットデッキの巻き戻し音、マイクを叩く音、そして笑い声。
「入っていいのかな?」
「大丈夫でしょ、見学だし」
夏希が軽くノックしてドアを開けた。
そこには、三人の先輩がいた。
中央の机には、マイク、ミキサー、小さなスピーカー。
窓から入る光が、機材の銀色のつまみを照らしていた。
その光景が、なぜかとても神聖に見えた。
「こんにちはー、新入生?」
声をかけてきたのは、短髪の女子。
明るく、よく通る声だった。
「うん、放送部、見学してみたくて」
夏希が答えると、先輩がにこりと笑った。
「ようこそ。あ、私は三年の日野。よろしくね」
もう一人の先輩がマイクを手にしていた。
「今、ちょうど放送テストやってたとこなんだ。ちょっとやってみる?」
「えっ……私たちが?」
夏希が目を丸くする。
「うん。軽くでいいよ。名前とか、好きなこととか」
彩音の喉が少し乾いた。
声を出すなんて、思ってもいなかった。
でも、マイクの前に立つと、世界が少し静かになる気がした。
透明なアクリルの前で、自分の姿がぼんやりと映る。
マイクの先には、何もない空間。
でもその向こうに、“誰かがいるかもしれない”という想像だけで、心臓が高鳴った。
「えっと……田嶋彩音です。えっと……」
声が少し震えた。
その瞬間、スピーカーから同じ声が返ってくる。
自分の声なのに、どこか違う人のようだった。
「……風が、気持ちいい季節になりましたね」
気づけば、そう口にしていた。
理由もなく、ただ自然に言葉が出てきた。
放送室の中の空気が、一瞬止まる。
先輩が目を見開いて、そして小さく笑った。
「……いい声だね」
スピーカーから流れる自分の声が、ゆっくりと耳に溶けていく。
風の音と混じり合って、まるで校舎の外まで届いていくような錯覚。
そのとき、彩音は初めて思った。
――声って、風みたいだ。
見えないけれど、誰かの心を通り抜けていく。
届くかどうかはわからないけれど、確かに存在している。
夏希が横で小さく拍手した。
「すごい……! なんか、ラジオみたい」
彩音は頬を赤くして笑った。
その笑顔を見て、日野先輩が言った。
「入部、待ってるね」
放送室を出たとき、校舎の外はすっかり夕焼けに染まっていた。
風が少し冷たく、髪を揺らした。
その風の中に、自分の声がまだ漂っているような気がした。
「ねぇ、彩音」
隣を歩く夏希が言う。
「一緒に、入ろっか。放送部」
「……うん」
夕陽が二人の横顔を照らしていた。
放送室の窓の奥では、まだスピーカーの赤いランプが光っていた。
その灯りが、遠くから見てもわかるくらい、静かに揺れていた。