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ゴォーン_……ゴォーン__。
朝を知らせる鐘の音が、私の耳の奥で鈍く響く。
朝と言っても、まだ早く、壁の隙間から見える景色はまだ仄暗い。
起き上がろうとしたところで、昨晩までは私の上にかけてあったはずの毛布がないことに気付いた。
お陰で、手足の先は凍っているように冷たい。
一瞬動揺して、すぐに合点がついた。
視線の先に見えるのは、多くの毛布を自身にかけている年長者達。
きっと、私のたった1枚だけだった毛布も、寝ている間に彼らに取られてしまったのだろう。
よく見ると、年少者のほとんどがそうで、寒そうに体を縮めこませている。
ふと、私の指先が隣で寝ていた同じ年少者の頬に触れた。
その頬は、とても冷たかった。
ここは、ベルソ村の孤児院。
本当はベルソ村のベルソ教会なのだけど、ほとんどの人はここを孤児院と呼んでいる。
かなり北に位置していて、年中を通してかなり寒いから、多分、辺境にあるんだと思う。
孤児院の人数は、老神父を含めて20人前後で、頻繁に孤児が引き取られたりするからはっきりとした数は定まっていない。
老神父は私たちに厳しい。
毎日、2回分の黒パンの端切れを私たちによこすだけで、機嫌が悪いとすぐに私たちに暴力をふるう。
私たち孤児を、まるで人と思っていない。
そのくせ、老神父が積極的に孤児を教会で保護するのは、私欲のためだろう。
暴力で支配できる子どもの私たちは、いい稼ぎになるから。
「……ごめんなさい」
私は死体の入った袋を引きずり、今はもう使われていない用水路の中に放り投げた。
用水路の中にはヘドロが沢山あって、あっという間に死体の入った袋は埋まっていってしまった。
その様子はとても呆気ない。
しかし同時に、いつかお前もこうなるんだよ、と言われているような気がして、思わず目を逸らした。
「……帰ろう」
そう思ってけど、私はふと何かを思い出してワンピースのポケットの中を探った。
入っているのは、朝に配給された黒パンだ。
本当はまだ朝餉の時間ではないけれど、どうせ取られてしまうかもしれないのだ。
今食べておこう。
朝餉の時間になって、年長者に何か言われても、殴られるだけで済む。
私は手のひらよりも一回り小さい、黒パンの端切れを口の中に頬張った。
とても固くて、塩っけが多いから喉が渇く。
後でこっそり井戸の水を飲んでおこう。
確か、井戸の水を汲むための予備の桶を隠していたのはノジーだったから___。
そこでハッとした。
私は用水路の中を横目で見る。
とっくに袋は沈んでいて、もう見る影もない。
ああ、そう。
そうだったね。
「ノジーはもう死んじゃったんだった」
その後は、予定通りに孤児院に戻って朝餉の時間を迎えた。
そして予定通りに年長者に食べ物を要求されて、激昂されて、顔以外を物凄く殴られた。
これがいつもの日常。
受け入れるしかない。
私は、散々殴られ蹴られまくった背中を押さえながら、教会が管理している畑へ向かう。
着くと、すでに何人かの年少者が畑仕事を始めていた。
育てている野菜は長細い芋のようなもので、勿論これらの野菜は私たちが食べるものではない。
町に売るためだ。
私たちはその為に、朝から晩まで働かされている。
私は農具を壁に置くと、冷たくなった手を頬にあてながら空を見上げた。
頬がほんのり温かくて気持ちがいい。
こんなところを老神父や年長者に見られでもしたら、殴られることは勿論、食事は当分無しになるだろう。
そうしたら、今度こそ本当に死んでしまう。
でも何故か、死の危険を感じながらも、私は農具を手にすることはなかった。
別に、特別疲れたわけでもないし、殴られるのが怖くないわけでもない。
ただ、期待してないだけ。
環境にも、老神父にも、孤児たちにも、これからのことにも。
もうどうなってもいい。
そう、期待していないはずなのに、私の腕は自然と農具へ伸びていた。
それからしばらくすると、夕餉が配られる時間となった。
いつものように、老神父から夕餉の黒パンを配給される。
その時、老神父が私の顔を覗き込んでいることに気付き、ビクンと肩が跳ねる。
しばらく見つめられたまま、私の顔をのぞき込んだ老神父だったが、やがてそのたるみきった口を震わせながら口を開いた。
「……中々良いね。後でわたしの部屋へ来なさい」
「……は……い?」
困惑で語尾が疑問形になる。
しまった、と思ったのだが、老神父の口角は上がっていた。
その日、夕餉の時間に年長者から食べ物を奪われることはなかった。
私を遠目に眺めながら、他の年少者から食料を奪っているその姿は、少し奇妙な気分だった。
夕餉が終わると、私は老神父に引っ張られながら部屋へと連れていかれた。
窓を見ると、とっくに夜になっていて、月明かりだけがこの孤児院を照らしている。
満月だ。
部屋の中に入ると、無駄に目立つ装飾が多く、実用的な物が少ない印象を受けた。
老神父が私が入ったのを確認すると、部屋の鍵を閉める。
「お前、名前は何だい?」
「ㇱ………ノ、ノジー」
「ノジー……そんなガキもいたねぇ……」
老神父はそう呟きながら私の髪を指先で撫で始めた。
その気持ち悪い手つきに、背筋がゾッとする。
「この青みがかった黒髪は母親譲りなのかな?」
「いい…え」
「ではこの深海色の瞳は?」
「それは……母と同……じ、で」
「そうか、そうか。実に愛らしい」
老神父は一通りの質問を終え、今度は私の体を触り始めた。
小さく悲鳴が漏れて、私は手で口を塞いだ。
老神父は私に何をしようとしているのか。
分からない。
__怖い。
ついに、私は老神父の腕を振り払おうとした。
これ以上、体を触り続けてほしくない、その一心で。
「いや……っ!」
「おっと、活きがいいなぁ」
突然、老神父が私を床に押し倒してその上に覆いかぶさってきた。
咄嗟に、老神父を目掛けて腕を振り回したが、逆に老神父が私の腕を掴み返した。
かなり強い力で、私みたいな小さな子どもでは振り払うことができない。
逆らうことが出来ない。
__私に、力が無いから?
「あぁ……」
その時、私は私の存在価値を始めて理解した。
殴られても、蹴られてもいい存在で、期待すらされないし、期待すらもしない存在。
期待をしないのは、きっと求めたものが手に入らなかった時が怖いから。
失うのが怖いから。
ずっとそう。
今までも、今も、これからも。
__違う。
そうじゃない。
期待はしていたんだ。
今、私がこうやって老神父に抵抗しようとしているのがその証拠。
いつ死んでもいいと思いながらも、死体に向かってごめんなさいと呟いたことも。
殴られないように農具に手を伸ばしたことも。
さっき自分の名前を問われたときに、咄嗟に嘘をついたことも。
全部そう。
本当は、私は私に期待しているんじゃない?
途端、私はフッと全身から力を抜いて、そのまま老神父に身を任せた。
「おや……?」
老神父はそんな私を不審がりながらも、私の体から手を離そうとしない。
でも、まだだ。
今じゃない。
老神父が私の服へと指をかける。
心臓が、飛び出しそうなくらい内側から胸をノックしている。
死にたくない、このまま終わりたくない、と。
悲鳴が出そうで、涙が出そうで、たまらない。
でも、期待しなければ始まらないって、今になって気付いてしまったの。
その瞬間から、私は私に全てを託すことが出来た。
私の人生を、私自身に任せられた。
すっかり疲れてしまったと思っていただけだった心臓が、再び動き出したのだ。
老神父が私の服を脱がせ始めた。
老神父の目線がズレ、頭の位置が下がり、腕を掴む拘束が緩む。
今だ。
私は油断しきった老神父の手のひらから腕を抜くと、ハゲ散らかした老神父の頭を押さえつけ、その耳に齧りついた。
「ぎゃあああぁ!! こんっのっ、ガキがぁぁあ!」
耳に齧りつかれた老神父が、力ずくで私を引き剥がし、壁に打ち付ける。
「か、は…っ」
私は床に手をつき、肩で息をしながら口の中に手を突っ込んだ。
そして、私の口の中から出てきたものを見て、老神父は戦慄した。
「わたしのっ、わたしの耳がぁっ! 耳がっ、お前えぇ!!」
老神父が半狂乱になりながら、食い千切られた箇所を掻きむしる。
その様子に恐怖は感じるものの、動揺はない。
私なら、出来る。
「耳ならここにあるよ?」
私はわざとらしく、食い千切った耳を見せびらかすと、老神父の方に放り投げた。
「耳ぃっ! わ”だじのみ”み”ぃぃい”い”!!」
老神父が、一目散に放り投げられた耳へ群がる。
私は机の上においてあった酒瓶を手に取ると、その老神父の頭へと思いっきり振り落とした。
パタッと老神父の動きが止み、辺りにガラス片と鮮血が舞う。
私は散らばったガラス片を掴むと、老神父の首に突き刺した。
グリグリと、執拗に突き刺す。
「は…っ、はぁ……っ」
出来た。
私に、老神父を殺すことが。
私の人生を、私に託すことが。
生きる権利を得ることが。
夢みたい。
ふわふわと、視界の端から中心まで妄想みたいで、でも違うと分かる。
打ち付けられた背中は痛いし、ガラス片を握った手からは血が滲むし、心臓がバクバクで今にも飛び出してきそう。
それが、これが夢でも妄想でもないと教えてくれる。
目の前には、血で真っ赤になり死んでしまった老神父が倒れている。
かなり騒いでしまった。
もしかしたら、誰かが覗きに来るかもしれない。
その時にこの老神父の姿を見たら、私は犯罪者として殺されるだろう。
いくら、正当防衛だったからって、今まで酷い扱いを受けてきたんだって言っても、きっと耳を貸してくれない。
「……離れよう、ここから」
私は老神父の部屋の中にある棚を漁り、何か使えそうなものを探す。
ある棚の引き出しを開けると、中には沢山の衣服が入っていた。
全て小さい子ども用の服で、上質ではないものの、かなり丈夫だ。
きっと、ここに来た孤児たちが最初に着ていたものか、それとも他の子どもの物か。
どちらでもいい。
私は自分のサイズにあった衣服を二着選び、一着はその場で着て、もう一着は壁にかけられていたカバンの中に詰めた。
衣服程ではないが、靴も何足かあって、その中でも丈夫そうでサイズに合う革製の靴を一足履いた。
後は、机の上に置いてあった硬貨袋に、中身の入っていない革水筒、食糧棚に置かれてあった保存食を持てるだけ持つ。
最後に壁にかけられてあった、実に上質そうな見た目だけのナイフを取ると、私は老神父に向かって火の灯った蝋燭を落とした。
あっという間に蝋燭の火が老神父を覆い被せ、オレンジ色に燃えだす。
私は窓から外に出ると、孤児が寝ている納屋へと走り、思いっきり叫んだ。
「火事よ、逃げて!」
私の声に反応した数人が、困惑しながら外に出て、悲鳴を上げ始める。
その声に反応して、半覚醒だった孤児たちも立ち上がり、外へ逃げ出し始めた。
私はそれを確認すると、村のはずれに向かった。
一応、村人に見られないように、人目につかないところを進み続け、着いた頃には、空は少し明るくなっていた。
ゴォーン_……ゴォーン__。
私はその音を聞いて、ふと空を見上げる。
そこからは、美しい朝日がこちらを覗いていた。
もうそんな時間になっていたんだ。
私は眩しすぎる朝日を腕で隠す。
しかし、私のような細い腕では、ほとんどの日光を防ぐことは出来ていない。
いつもは仄暗いと思っていたのに、こんなに明るかっただなんて。
「……行こう」
村人が火事に気付き騒ぎになってしまう前に、この村を出なければ。
「その前に……」
ふと、思い出したかのようにそう呟くと、私は村から少し離れた川へと向かった。
着くと、そこには小さな川があった。
私は川の前に膝をつき、朝日を真正面に浴びる方角を向きながら水面に映る自分の顔を覗き込む。
川は荒れてなく透き通っていて、まるで鏡のように私の姿をそこに映し出した。
まず目につくのは、この長い青みがかった黒髪。
伸び切ってくすんでしまった青みがかった黒髪が視界の大部分を覆い、深い青の瞳はすっかり長い前髪に隠れてしまっている。
私が少し前髪を掻き分けると、視界が広がり、水面に映る自分が鮮明に見えた。
「長すぎるよりは、短いほうがいいよね」
迷いもなく、私はその長すぎる後ろ髪をナイフで切
り落とした。
前髪も見えやすい程度に切り落とす。
水面に映る髪の短くなった自分は、まるで別人のように思えた。
これでは、女ではなくて男に見える。
「男……」
しかし、所詮そう見えるだけで本質は何も変わっていない。
それなのに、心が軽くなったのは、きっと私が弱いからだ。
弱いから、強者の皮を被って強くなった気でいることが出来る。
……でも、もし私がこの世界で強くなることができたならどうだろう?
誰よりも強くなって、誰かに怯えず生き抜くことが出来るようになったら、今感じているこの気持ちも、いずれ本当になるのだとしたら。
その為には、私は私を偽らなければならない。
「私は、強くなってこの世界を生き抜いてやる」
ナイフを鞘に収めると、私はこの忌々しい土地から逃げ出した。
南の方へ、町を目指して。
強くなるために、生き抜くために。