“婚約破棄はお受け出来ません、ここも出て行きません”
フェリシアの強き覚悟の言葉にエルバートは両目を見開く。
その直後、パシャッ!
机に置かれていたグラスのワインをエルバートの母の手によって掛けられた。
(あ、ご主人さまに仕立てて貰ったドレスが汚れて……)
「私になんて物言いなの!? 身分をわきまえなさい!」
「エルバートのご婚約はこちらで進めますからその心づもりで」
エルバートの母は椅子から立ち上がり、居間の扉からスタスタと出て行く。
「奥様! お待ち下さいませ!」
「ステラ様、玄関までお送り致します!」
エルバートの母の執事とラズールの声が廊下から続けて聞こえ、
やがて静かになるとエルバートはフェリシアを見るなり、息を吐く。
(ご主人さま、確実に怒っていらっしゃるわ。謝らなくては)
フェリシアは椅子から立ち上がり、腰に少し痛みを感じながらも床に跪く。
「ご主人さま、せっかく仕立てて頂いたドレスを汚してしまい申し訳ありません」
「お母さまに対しても、あのようなおこがましい発言をしてしまい、大変申し訳ありません」
「ですが、ご主人さまからの婚約破棄ならば仕方ありません」
「ご命令に承従(しょうじゅう)し、今すぐここから出て行きます」
エルバートは椅子に座ったまま、フェリシアを見据える。
「ならば、命じる」
(ああ、ついに婚約破棄されてしまう――――)
「婚約破棄はしない、ずっとここにいろ」
エルバートの命令の言葉に驚いて、声も出ない。
「聞こえなかったか?」
エルバートは椅子から立ち上がり、跪くフェリシアの前にしゃがむ。
「私がフェリシアにここで共に暮らして欲しいんだが?」
フェリシアが号泣すると、エルバートはフェリシアを抱き締める。
「ご主人さまっ、ワインが付いて……」
「問題ない」
「それより、お前を心配もせず、怒った態度をしてすまなかった。不甲斐無さ過ぎて自身に怒っていたんだ」
エルバートはフェリシアを少し離す。
そしてエルバートは顎を両手で優しく掴み、フェリシアの顔を見上げさせると、
美しい銀の長髪がはらりと数本フェリシアの顔にかかる。
「フェリシア、この件は一筋縄ではいかないが、私が必ず片を付ける」
* * *
エルバートはそう言ってくれたものの、
宮殿からの帰りが日々、遅くなっていき、
晩ご飯を外で食べて来る日もあったりして、
晩ご飯すらも一緒には食べられず、会話は減り、いつしか、季節は初夏になっていた。
ここのところ、ディアムには朝エルバートをお見送りをする際に、執務が立て込んでいるだけですから、と励まされ、
クォーツには、部屋の花瓶に飾って下さい、と綺麗な花をプレゼントされたり、
ラズールには、夕ご飯を作った後、一息入れては如何ですか? と紅茶を入れてもらったり、
リリーシャには今日も玄関でエルバートを一緒に待ってもらっている。
「フェリシア様、今日こそは、エルバート様に怒っていいですからね」
「お、怒るだなんて、そんな……」
「もう、フェリシア様は優しすぎます」
「ここ、2週間、ずっと寝不足なんですから今日もエルバート様のお帰りが遅かったら先に寝てしまっていいですからね」
「私が代わりに起きていますので」
「リリーシャさん、ありがとうございます」
あれからアマリリス嬢とのご婚約はどうなったのか気になるけれど、
きっと、執務が立て込んでいて忙しいだけだと信じたい。
そう、思った時だった。
ガチャッ、と扉が開き、息を切らした軍服姿のエルバートが駆け入ってくる。
「エルバート様、どうなされたのですか!?」
「はあ、フェリシア、今日も待っていたのか」
「待たなくていいといつも言っているのに」
確かに会話が減っている中で、エルバートはその言葉だけは常に口にしていた。
きっと自分のことを気遣ってそう言い続けてくれたのだろう。
なのに、胸がきゅっと痛む。
「エルバート様、それはあんまりです。フェリシア様が毎日どんな想いでお待ちになられていたか分かりますか!?」
「リリーシャさん、良いですから」
「それより、一体何があったのですか?」
「母上から宮殿に通達があり、私の生家であるブラン伯爵邸が魔に襲われ、現在、父上が庭で抗戦中とのことで助けて欲しいと頼まれた」
フェリシアは両目を見開く。
(ご主人さまの両親の家が魔に!?)
「そして、フェリシア、命懸けで私の家を守ったお前にも来て欲しいとのことだ」
「え、なぜそれを……?」
「帰る際に玄関でラズールから聞いたそうだ」
「正直、お前には家にいて欲しい。危ない目に合わせたくはない」
「だが、私が必ず守ってみせる。だから共に付いて来てくれるか?」
フェリシアは自分の胸に手を当て、強い眼差しをエルバートに向ける。
「はい、お供させて頂きます」
* * *
その後、エルバートがリリーシャにクォーツとラズールを呼びに行かせ、
全員に留守の間、ブラン公爵邸を守るように頼み、皆が承諾すると、
フェリシアはエルバートと玄関から外に出て、ディアムが御者を務める馬車に乗り、エルバートの生家、ブラン伯爵邸に向けて馬車が動き始める。
(どうか、おふたりとも無事でいて)
フェリシアはそう馬車の中で強く願い続け、森を抜けて並木道を走り――、
しばらくして緩い坂を昇った先にあるブラン伯爵邸の大きな門の前で馬車が停車した。
エルバートが差し出した手に自分の手を添え、馬車を降りる。
そしてディアムが施錠されていない門を開け、エルバートと共に敷地に足を踏み入れ、ディアムの追う足音を背に感じながら駆け足で庭まで行くとなぜか誰もいなかった。
「ご主人さま……」
フェリシアが不安気に呼びかけ、エルバートは顎を掴む。
「宮殿の通達では庭で抗戦中とのことだが、おかしいな……父上の気配はおろか、魔の気配すら全く感じない」
エルバートはハッと両目を見開き、顎を掴む手を下ろす。
「もしや、すでに伯爵邸の中に入られたか……?」
「フェリシア、ディアム、行くぞ」
「はい」
フェリシアとディアムは同時に答え、エルバートに付いてブラン伯爵邸の玄関まで駆けて行く。
(ここがご主人さまがお育ちになられた家……)
初めて見るブラン伯爵邸は、ブラン公爵邸と引けを取らず大きく、圧倒された。
「エルバート・ブランだ。只今、帰省した」
エルバートがそう声を上げると、中から扉が開き、エルバートの母が駆け出て来た。
「エルバート、よく帰って来てくれたわね」
「フェリシアさん、ディアムもさあ、早くお入りになって」
エルバートの母の言う通り、玄関からエルバートに続いてフェリシア達も中に入る。
自分はもしかしたら入れてもらえないんじゃないかと思っていたけれど、入れてもらえて良かった。
「母上、父上は何処だ?」
エルバートが問いかけると、エルバートの母はすぐさま口を開く。
「広間よ、扉の前に私の執事がいるわ」
「承知した」
エルバートはそう言って駆け出し、フェリシアとディアムも後を追いかけ、
エルバートを筆頭に玄関の螺旋のような階段を駆け上がっていく。
そして廊下も駆けていくと、
エルバートの母の執事が広間の扉前で待つ姿が見えた。
「エルバート様、こちらでございます」
「危ないから下がっていろ」
「かしこまりました」
エルバートの母の執事が下がり、エルバートは広間の扉をバンッと勢いよく開ける。
すると煌びやかな広間のソファーに華やかな女性が座っていた。
その女性はエルバートの母から以前見せてもらった新聞のご令嬢に似ており、フェリシアは息を呑む。
「アマリリス嬢、なぜここに?」
エルバートがそう問いかけ、
もしかして、と心の中で一瞬思い浮かべたアマリリスの名が確信へと変わり、
本物のアマリリス嬢なのだと理解した。
「テオお父様に呼ばれましたの」
アマリリス嬢が答えると、エルバートの母の執事が口を開く。
「旦那様、エルバート様がご帰省なされました」
広間は静寂に包まれ、コツ、コツ、と重い足音が響き渡る。
マントを靡かせ、貴族服を着た凛々しき男性、
エルバートの父であるテオ・ブランが中に入って来た。
髪は長くないものの、エルバートと同じく、美しい銀色の髪をし、顔もエルバートによく似ている。
「エルバート、やっと帰省したか」
「父上、これは一体どういうことだ?」
「私を騙したのか」
エルバートは冷ややかな強い気を放つ。
しかし、エルバートの父は動じない。
「こうでもしないと、お前、帰省しないだろう?」
「同じ伯爵の身分だった時はここで共に暮らしていたが、戦闘での活躍が認められ、公爵の位をもらい、家を出て屋敷を構えたきり一度も帰省しなかったお前が悪いのだ、反省しろ」
「ご主人さま」
フェリシアが声をかけると、エルバートは冷静になる。
そして何食わぬ顔をして中に入って来たエルバートの母を一瞬、睨む。
「虚言だと分かった以上、すぐにでもこの場を離れたいところだが」
「ここまでして私を帰省させた誠の目的はフェリシアだったのだな」
(え、わたし……?)
「エルバート、さすがは察しが良いな」
「フェリシアさんに一度会いたく、お前に連れてこさせたのもあるが、1番はお前の花嫁候補を、この家の当主である、テオ・ブランが正式に決める為だ」
エルバートの父の目的を知ったフェリシアは驚き、固まる。
「母上の時も思ってはいたが、仮にも、私の婚約者をさん呼ばわりとは、何ごとか! フェリシア嬢と呼べ」
「立場をわきまえよ」
「しかし、まあ、良い。正式に花嫁候補となったらフェリシア嬢と呼ぼう」
「それからこれだけは言わせて頂く」
「側近に見張らせていたが、ここ2週間、アマリリス嬢に宮殿まで足を運ばせ、花畑等色々なところに行かせ、夕食も共に取らせたにも関わらず、アマリリス嬢になびかず態度を変えなかったお前を見かねて今回呼んだのだ。感謝せよ」
フェリシアはエルバートをちらりと見る。
(ご主人さま、アマリリス嬢とお会いしていたの…………?)
「よって、これよりフェリシアさんにはアマリリス嬢とダンス、食事マナー、料理作りの3点をして頂き」
「より優れた方を正式なエルバートの花嫁候補とする」
――ああ、エルバートの父に従う以外の道はないのだ。
「……フェリシア、アマリリス嬢とのことを父上の側近の管理下の元とはいえ、お前に気を遣わせたくなくてこれまで黙っていた。すまなかった」
「……そして、今も巻き込んですまない」
エルバートは周りに聞こえないよう、小声で謝る。
エルバートは自分の知らないところでずっと抗っていた。
そして、自分も実は腰が完治したここ2週間、エルバートの母にマナーのことを言われ、
クォーツにダンスの特訓、ラズールに食事マナー、リリーシャに料理作りを教わっていた。
けれど、幼い頃から教育を受けてきたアマリリス嬢に敵うとはとても思えない。それでも。
「……いえ、大丈夫です」
フェリシアも小声で返し、見えないようにエルバートの袖をぎゅっと掴む。
「……ご主人さま、わたしは決して、貴方の傍らにいることを諦めません」
そう宣言し、
エルバートの花嫁候補選びが幕を開けた。