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#ルーナ
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夜は、いつも同じ顔をしている。高層マンションの窓から見える街は、光だけでできた別の世界みたいだった。
静かで、遠くて、そして自分たちとは関係のない世界。
その部屋の中だけが、やけに現実的だった。
「遅いね」
ソファの横から声がした。
相沢恒一、二十七歳。
長身で整った顔立ちの経営者。柔らかい声と、すべてを見透かすような穏やかな笑みを持つ男。
今はネクタイを緩めたまま、スマホも開かずに待っていた。
「……バイトだから仕方ねぇだろ」
玄関のドアが閉まる音と同時に、ぶっきらぼうな声が返る。
佐伯湊、十九歳。
痩せ型で、少しだけ猫背気味。
可愛い系の顔立ちは本人が一番気にしている部分で、指摘されるとすぐにムッとする。
コンカフェのバイト終わり。足取りは重い。
「仕方ない、ね」
相沢は小さくその言葉を繰り返して、ほんの少しだけ目を細めた。
この部屋には、いつの間にか出来上がった“当たり前”がいくつかある。
そのひとつが、「同じベッドで寝ること」だった。
最初は頑なに拒否された。
けれど今は、文句を言いながらも佐伯はそこに戻ってくる。
ベッドの中は静かだった。
照明は落とされ、都市の光だけが遮光カーテンの隙間から細く滲んでいる。
「今日も遅かったね」
相沢の声は、いつも通り鼓膜に優しく染みる。
「うるせぇ」
即答だった。
「うるさくはしてないよ」
「してんだよ、無意識に」
沈黙が落ちる。
少しだけ間が空いて、相沢が静かに続けた。
「コンカフェ、続けるの?」
「……ああ」
短い返事。
「なんで」
「金」
それだけだった。
佐伯は天井の闇を見つめたまま、胸の奥にあるものを吐き出すように言葉を重ねる。
「学費もあるし、生活費もいるし……お前に全部頼るのは嫌なんだよ」
その言葉に、室内の空気がわずかに緊張を帯びる。
相沢はしばらく黙っていた。
「君さ」
やっと届いた声は、いつもより少しだけ低い。
「僕に頼るの、そんなに嫌?」
「嫌っていうか……普通だろ」
「普通じゃないよ」
静かに、だが明確に否定される。
「僕は別に、対価を求めてるわけじゃない」
「そういう問題じゃねぇって」
佐伯は拒絶を示すように、布団をぐっと顎のあたりまで引き寄せた。
「対等でいたいだけだよ」
その言葉に、相沢は小さく、どこか切なげに笑った。
「対等って、何?」
「は?」
「同じくらい稼ぐこと? 同じくらい自由でいること?」
問いかけは優しいのに、逃げ道がどこにもない。
佐伯は言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。
「……少なくとも、守られてるだけは嫌だ」
それは、子供じみたプライドかもしれない。けれど、佐伯の本音だった。
相沢は少しだけ沈黙してから、暗闇の中でゆっくりと手を伸ばした。
長い指先が、佐伯の強張った頬に触れる。
「君はさ」
耳元で響く、酷く優しい声。
「守られてるって思ってるんだ」
その一言が、なぜか胸にひどく重くのしかかった。
距離が、あまりにも近い。
同じ布団の中、互いの肩が触れ合う距離。
相沢はそのまま、指先で佐伯の頬をなぞり、そっと熱を確かめるように耳の後ろへと滑らせた。
「僕はね」
「……なんだよ」
「守ってるつもり、あんまりないよ」
その言葉に、佐伯は暗闇の中で眉をひそめる。
「じゃあ何だよ」
相沢は少しだけ笑った。吐息が肌をかすめる。
「離れないようにしてるだけ」
一瞬、世界の動きが止まった気がした。
佐伯は言葉を失ったまま、隣を見る。
その視線の先で、相沢は変わらず穏やかに、けれど決して逃がさないという歪な光を瞳に宿して笑っていた。
「君がどこか行くの、嫌だから」
それは告白というより、抗いようのない事実の報告だった。
長い沈黙のあと、佐伯は小さく舌打ちをする。
「……ほんと、気持ち悪いこと言うな」
「そう?」
「そうだよ」
口では突き放しても、布団の中で距離は離れない。
むしろ、互いの体温に引かれるように、少しずつ、少しずつ近づいていく。
相沢の手が、ゆっくりと佐伯の細い背中に回った。
強くはない。ただ、逃げ出す隙間をすべて埋めるような確かさ。
「やめろって……」
拒絶の言葉は、自分でも驚くほど弱く、震えていた。
「やめてほしい?」
問いかけながら、相沢の指先が寝間着の裾から滑り込み、剥き出しの腰へと触れる。
冷えた指先が肌に触れた瞬間、佐伯の身体が小さく跳ねた。
だが、それ以上の返事はできなかった。
そのまま、唇が重なる。
最初は、ただ確かめ合うような軽い接触だった。
けれど、どちらも離れなかった。
何度も、互いの呼吸を奪い合うように深く重なっていく。
衣服の擦れる音が、静かな寝室に微かに響き始める。
抵抗はなかった。明確な拒絶も、もう持ち合わせていない。
ただ、すべてを溶かしていくような相沢の熱に、流されていく。
相沢の裏返された手のひらが、佐伯の胸元を、腹を、ゆっくりと愛おしむように撫で上げていく。
そのたびに、佐伯の口から熱い息が零れた。
「……っ、ん……」
言葉にならない声を、相沢はすべて唇で拾い上げていく。
絡まる指先。シーツを強く握りしめる佐伯の手を、相沢の大きな手が包み込み、指を割り込ませて恋人繋ぎに固定した。
重なる体温が、徐々に部屋の冷気を追い出していく。
肌と肌が密に触れ合うたび、佐伯の思考は白く染まっていった。
自分を縛り付けていたはずの「対等」だとか「プライド」だとか、そういうものはどうでもよくなるほど、相沢の容赦ない愛撫が身体の芯を焦がしていく。
夜が深まるにつれ、二人の呼吸は一段と荒くなり、重なり合う影はひとつになった。
シーツが大きく乱れ、肌を打つかすかな音が暗闇に溶けていく。
佐伯は、自分を抱きすくめる腕の強さに、彼が言った「離さない」という言葉の本当の意味を知る。
痛いほどの執着に身を委ねながら、佐伯はただ、相沢の背中に爪を立ててしがみつくことしかできなかった。
やがて、互いのすべてを吐き出し、受け入れ合うような深い余韻とともに、静寂が戻る。
布団の中の時間だけが、特別な熱を帯びたままゆっくりと冷めていく。
窓の外の街は変わらない輝きを放ったままで、けれど、部屋の中の空気は完全に書き換えられていた。
それ以上のことは、言葉にならないまま過ぎていった。
ただひとつだけ確かなのは、この夜を経て、二人の境界線が完全に崩れ去ったということだった。
朝。
遮光カーテンの隙間から、容赦のない白い光が差し込んでいた。
佐伯は目を覚まし、気怠い身体を少しだけ動かして、隣を見た。
肌に触れるシーツの感触と、節々の微かな痛みが、昨夜の出来事を鮮明に思い出させる。
相沢は、まだ隣で眠っていた。
髪を少し乱し、いつもよりずっと無防備で、穏やかな顔。
その寝顔を見つめながら、佐伯は痛む腰を押さえ、小さく息を吐いた。
「……ほんと、意味わかんねぇ」
誰に向けるでもない、掠れた呟き。
でも、昨日までとは明らかに違う、互いの体温が残る距離が、そこには確かに存在していた。