テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
レイチェルが放った快活な声が
店内に残る不穏を払うように響いたその刹那
カウンターの奥から
それを見守っていた時也の眼差しが
ふと細められる。
「さすが、レイチェルさんですね⋯⋯
お客様がまだ納得しやすい理由を
考えてくださって──」
穏やかな声でそう言いかけた時
彼の表情が僅かに陰った。
「⋯⋯おや?」
彼は着物の袖口から
白地に薄桃色の縁取りのハンカチを取り出し
そっとレイチェルの顔に当てた。
その布地に、じんわりと紅が滲む。
レイチェルはきょとんとした顔で
それを見る。
目を瞬かせた次の瞬間
自分の鼻の下に指を当て──
ようやくそれが〝自分の血〟だと気付いた。
「⋯⋯え?」
その声は、あまりにも呆けた響きだった。
だが、言葉の最後を言い切る前に
彼女の身体がガクンと震える。
「ッ、く⋯⋯ぅ、っは⋯⋯っ!」
喉の奥から、咳込むような音が漏れる。
痰を切るような濁った呼吸が続き
レイチェルはそのまま膝を折った。
「レイチェル──っ!!」
怒声のような叫びが響いたかと思うと
カウンターの横から飛び出したソーレンが
時也を強引に押し退けるようにして前に出た
すでに彼の腕は
倒れかけたレイチェルの背中を支えている。
彼女の身体は信じられないほど軽く
だが、熱い。
額を額に近づければ
肌が焼けるほどの発熱が伝わってきた。
「お姉さま!?
ソーレンさん、早くお部屋へ!!」
アビゲイルが叫びながら、入口を開け放つ。
彼女の瞳には動揺と焦りが見え
しかし指先は震えもせず
ドアノブを強く掴んでいた。
ソーレンは無言のまま
レイチェルを姫抱きの姿勢で抱き上げた。
そのまま踵を返し
長い脚で躊躇なく
居住区への通路へと向かう。
彼の足音が
居住スペースの階段を
駆け上がる音へと変わる。
──残された時也は
手の中の血のついたハンカチを
握り締めながら
鋭く視線を巡らせた。
騒然としつつも
客たちの表情には恐怖や警戒心こそあれ
鼻血を出した者や咳き込む者の姿は見えない
誰もが、ただ
〝スタッフが倒れた事に驚いているだけ〟の
表情だった。
(⋯⋯先程の虫の影響ではない。
もし、あの虫が媒介なら──
他にも発症者がいるはずだ)
だが、誰一人として倒れることはない。
むしろ、虫を見た客のほとんどが
既に〝演出〟だと思い込み
興奮気味に話をしている。
──つまり。
(レイチェルさんは
別の要因によって⋯⋯?)
時也の顔に、珍しく曇りが差していた。
それは〝読めない未来〟に対する
僅かな恐れでもあった。
⸻
──その声は
誰にも届かないはずの内なる囁きだった。
(あ⋯⋯あの、スタッフさん⋯⋯
きっと⋯⋯ま、また⋯⋯
わた、私の⋯⋯所為、だわ⋯⋯)
だが──
時也の耳に、それは確かに届いた。
音ではなく〝感情の振動〟として。
心の波紋が空間に触れたような
かすかな震えが
彼の読心術の感覚に触れる。
──私の所為
そのひと言が
時也の脳裏に微かに木霊したと同時に
彼はホールを見渡した。
騒がしさの中に
何か異質な気配が混じっている。
目を凝らし、音を削ぎ落とし──
彼の意識が、空間全体を撫でるように走った
その刹那。
視界の端を〝白い影〟が駆け抜けた。
「──ティアナさん!?」
その愛らしい白猫の姿を
客たちは一様に目で追った。
柔らかく光を反射する長毛
ふわりと広がる尻尾、軽やかな足取り。
店内を滑るように駆け抜けていくその姿は
まるで絹で編まれた幻だった。
しかし──
ここは喫茶店。
飲食物が並ぶこの空間に
彼女が自ら出てくることなど
これまで一度もなかった。
ましてやティアナが
アリアの傍を離れること自体が極めて稀だ。
それが何故、今──
「ちょ、ティアナさん!」
時也は一歩を踏み出した。
滑るようにカウンターを回り込み
急ぎティアナを追いかける。
木製の床を爪が打つ軽やかな音。
それに導かれるように進んだ先
店の隅の壁際──
そこで
彼はティアナを抱き上げながら気付いた。
ほんのりと漂う甘い匂い。
それは、いつかどこかで感じたもの──
(⋯⋯この、香りは⋯⋯)
視線が上がった先、そこにいたのは──
深く椅子を壁際まで引き下げ
身体を小さく畳んで座っている
ひとりの少女。
煤竹色の長い髪が
まるで重力に引かれるように垂れ下がり
背を覆っていた。
肩をすくめ
震える指先を膝に添えたその姿は
まるで世界の端に取り残された
遺児のようだった。
時也と目が合った瞬間
少女はびくりと肩を跳ねさせた。
その時だった。
ティアナが「にゃっ!」と短く鳴いた。
白く小さな身体が腕の中で跳ね
するりと滑り出る。
そして──
少女の周囲に
水面が揺れるような光の波が立ち昇った。
結界──
それはまるで
春の小川に差し込む陽光のように柔らかく
けれど確かに空間を隔てる〝術〟だった。
「こら⋯⋯ティアナさん⋯⋯
お客様が驚かれてしまってますよ?」
時也は小声で嗜めたが
ティアナは無言のまま
結界の中の少女を見つめ続けていた。
その視線に、敵意も、警戒もない。
あるのは、ただひとつの〝保護〟──
それだけのように感じた。
結界の中の少女は、戸惑いながらも
その柔らかな光に触れた指を
少しだけ動かした。
水に触れたような
淡い波紋が空間に広がる。
怯えと、わずかな安堵が交錯するその横顔に
時也の眉が静かに動いた。
「わぁ⋯⋯何、あれ?綺麗ねぇ」
どこかから、客のひとりがそう呟いた。
その声に引かれ
周囲の視線が少女の席に集中していく。
(こ、これは⋯⋯まずいですね)
猫が結界を展開するという異常性。
これを〝現実〟として受け入れられる客など
いるはずもない。
けれど今──
レイチェルも、ソーレンも、ここにはいない
ならば──
この場を繋ぐのは
店主としての〝自分〟の役割だ。
時也は、ゆっくりと深呼吸した。
そして。
「皆様⋯⋯只今、スタッフの急病により
提供が遅れていまして申し訳ございません。
ささやかではございますが
美しいひと時を、どうかお楽しみください」
そう語った彼の指が
着物の内側から一枚の扇子を引き出す。
薄桃色の骨と
墨染めの地に描かれた桜の花弁。
その扇を、ふわりと開いた瞬間──
店内の空気が、まるで音を立てて変わった。
どこからともなく舞い上がった桜の花弁が
柔らかな風と共に店中を踊り始める。
客の目が、思わずその幻想に奪われた。
時也の動きに合わせて
花弁たちは宙を泳ぐように舞い、群れ
輪になって回る。
彼がくるりと扇子を返すと
花弁の輪が浮かび上がり──
そこに、ティアナがふわりと飛び込んだ。
淡紅の渦の中をくぐる白猫。
それはまるで、桃源郷の精霊のようだった。
客たちの目は
誰もが無言のまま見入っていた。
窓越しに順番待ちをしていた人々すら
思わず拍手を送っている。
最後の一振り。
パチン──と
音を立てて扇子が閉じられた瞬間
花弁たちは一斉に空気へと消え去る。
舞の終わりと共に、時也は一礼した。
ティアナをそっと抱きかかえ
その姿はまさに
一枚の絵画のように静謐だった。
──そして、沸き起こる拍手。
「皆様、ご来店いただきまして
誠にありがとうございました。
こちらの都合で、早めの閉店となることを
どうかお許しくださいませ。
また、いつでも喫茶桜一同
皆様のご来店を心よりお待ちしております」
その声は、丁寧で、温かく、柔らかく──
だが確かに
ひとつの幕を閉じる響きでもあった。
時也が外で待つ列にも詫びを入れていると
やがて店内の客たちは
笑顔と共に伝票に手を伸ばす。
時也は席ををゆっくりと巡り
ひとりひとりに礼を述べ
会計を済ませていった。
誰もいなくなった静寂のホール。
先程までの華やぎが嘘のように
空間には余韻だけが漂っている。
時也は、ふぅ、とひとつ大きく息を吐いた。
「さて⋯⋯どうしたものでしょうか」
その視線の先。
店の隅
まだティアナの結界に
閉じ込められたままの少女。
彼女の周囲だけ
まるで時が止まったかのように静かだった。
揺らめく淡光の結界のもとへ──
時也は、ゆっくりと歩を進めていった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!